Masuk丸山浩(まるやま ひろし)の足が不自由になったのは、私たちの結婚式の3ヶ月前のことだった。 手術は失敗し、医者に「一生、立ち直れないだろう」と告げられた。 私、木村真由(きむら まゆ)はウェディングドレスの予約をキャンセルし、仕事も辞めた。両親がくれた金も、すべて浩の治療費につぎ込んだ。 花嫁になるはずが、介護をする人になった。 そんな毎日が、3年も続いた。 浩がイライラして物を投げつければ、私は床にひざまずいて拾った。 夜中、足の痛みで眠れない彼が「お前のせいで俺がこんな体になった」と罵った。 私は何も言い返さず、感覚なんてないはずの浩の足を、朝になるまでマッサージし続けた。 夜勤明けに体がクタクタになって帰宅しても、ドアの音で浩を起こすのが怖くて、よく廊下の壁にもたれて眠ることがあった。 病院へ検査結果を受け取りに行く日までは、私はそう信じていた。二人の生活を支えているのは私なんだと。 その日、廊下の角を曲がろうとした時、大きな窓の前に、浩が立っているのが見えた。 電話をしながら、笑っていた。 「もうちょい待ってくれよ。真由にもう少し罪滅ぼしをさせてさ。それが済んだら、俺の足も『治る』から」 電話の向こうから浩の友達の声がした。「えげつないな。咲希(さき)さんだって待てるだろ」 浩は、ふん、と鼻で笑った。 「咲希は俺が子供の頃から守ってきた幼なじみだ。本当なら海外のステージでピアノを弾いていたはずなのに!当時、真由が咲希に嫉妬してブレーキに手をつけなければ、咲希の手は不自由にならず、俺も咲希を守るために3年間もこんな状態にはならなかった。 咲希が真由を許すまでに3年もかかったんだぞ。こんなもんで済まされるわけがない。真由のお嬢様っぽいプライドを粉々に砕いてやるのが、咲希への償いだ」 私は検査結果の封筒を胸に抱え、その場に立ち尽くした。 その封筒に書かれているのは、私の名前。 そして私が脳腫瘍だと診断されたのは、もう3ヶ月も前のことだった。
Lihat lebih banyak3ヶ月後。髪も生えてきた。ふわふわした短い髪で、なんだかすっきりして元気に見える。ベッドから降りて歩けるようになった。最初は一歩進むたびに、ふくらはぎがぷるぷる震えたけど。暁は、まるで壊れやすいお人形を守っているみたいに、つかず離れずの距離で私の後ろをついてきてくれた。右目の視力も、奇跡みたいにほとんど戻った。遠くを見るとまだ少しぼやけるけど、目の前の鮮やかな世界をはっきり見るには十分だった。その日の午後、驚くほどいい天気だった。私は病院のテラスガーデンで、ひなたぼっこをしていた。足にはやわらかいウールのブランケットをかけて。暁がホットココアをふたつ持ってきてくれた。そして、私のテーブルに、わざわざ国内から取り寄せた週刊誌をぽいっと置いた。「本当に見ないの?気分がすかっとする記事だよ」。暁はそう言って眉を上げた。私はそれにさっと目を通した。一面の社会面トップニュースはこうだった。【鋭い若手実業家、交通事故で高位頸髄損傷を負う。婚約者は詐欺容疑で精神科病院に送致。膨大な財産は全額寄付】ぼやけた写真が一枚、添えられていた。汚れたベッドに横たわる、痩せこけて薄汚い男。その虚ろな目は、ただ天井を見つめている。記事によると、彼は介護士を雇うお金もなく、毎日自分の排泄物にまみれて横になっているらしい。周りの人たちも、気味悪がって誰も近づかないそうだ。精神もおかしくなって、毎日なにもない空間に向かって、亡くなった人の名前を叫んでいるという。私はその写真を、長くじっと見つめた。薬を持ってくるのが30分遅れただけで激怒し、カーペットを汚しただけで土下座をさせた、あの浩。そいつが今、糞尿まみれで、死ぬよりつらい毎日を送っている。「どんな気分?」暁が私に尋ねる。「すっきりした?」私は雑誌をそばのゴミ箱にぽいと捨てて、静かに首を横に振った。「なんとも思わない」本当に、もうなんとも感じなかった。復讐した快感も、激昂したようなスッキリ感もなかった。もちろん、ほんの少しの同情や憐れみもなかった。まるで、まったく関係ない誰かの、悲惨な晩年を見ているみたいだった。数々の罪を犯した人間が、当然の報いを受けただけ。ただ、それを見ているだけ。浩がどうなろうと、もう私の心は少しも揺れなかった。狂っても
1ヶ月後、浩は一番安いリハビリ病院に移された。持っていたお金をすべて寄付してしまったから、介護士を雇うことなんてできなかった。病室は、鼻をつくアンモニア臭で満ちていた。浩はベッドに横たわっていた。下半身の感覚はまったくなく、シーツまで汚してしまうほど排泄物にまみれていた。たまに看護師が鼻をつまんで薬を替えに来るけど、その目には隠そうともしない嫌悪が浮かんでいた。悠斗が、果物の籠を持って見舞いに来た。でもドアを開けたとたん、そのひどい臭いに思わず一歩うしろへ下がってしまった。髪はぼさぼさで、髭も伸び放題。汚物にまみれた男がベッドにいる。あれが、かつて自信に満ちあふれていた浩だなんて、信じられなかった。「浩……」悠斗はベッドから2メートルも離れた場所に立ったまま、近づこうともしなかった。「なんでこんなことに……自分を追い詰めても、真由さんはもう戻ってこないんだぞ」浩のうつろな目が少し動いた。でも、悠斗の言葉が聞こえていないみたいだった。浩は突然、乾いてひび割れた唇を歪めて不気味に笑うと、誰もいない病室の隅にむかって手招きした。「真由、そこで床を拭かなくていいよ。冷たいから。俺の足、本当に動かなくなっちゃったんだ。立てないんだよ。俺のこと、放っておかないって言ったよね?そのお椀を置いて、こっちに来て抱きしめてくれないかな?南区の、あのお菓子を買ってあげるから……」悠斗は、全身に鳥肌が立った。排泄物にまみれた浩を見て、もう耐えられなかった。息が詰まるほどの気味悪さと哀れさに、果物の籠を床に置くと、逃げるように部屋を出ていった。「狂ってる……完全に狂っちまってる……」ドアが、ばたんと力まかせに閉められた。病室にはまた、浩がひとりきりになった。自分の排泄物の中で横たわり、ひどい臭いを放っていた。でも、まるでお菓子をねだって、やっと買ってもらえた子供みたいだった。注射の跡だらけの手を、何もない空間へ必死に伸ばしている。そして、濁った目から涙がこぼれ落ちた。「真由……すごく痛いんだ……おうちに連れて帰ってよ……」答える人は、誰もいなかった。そして浩は、この悪臭漂うベッドの上で、一生かかっても償いきれない罪を背負っていく。長生きして、死ぬよりもつらい日々を送るのだ。……むっ
浩は、狂ってしまった。あらゆる人脈を使い、全県をしらみつぶしに探した。半月ほどたったころ、警察から一本の電話がかかってきた。通報があったのは、郊外の家賃激安の地下室。隣人がひどい悪臭に気づいたからだ。浩が駆けつけたとき、規制線の周りは鼻をつまんだ野次馬でいっぱいだった。暗くてジメジメした、ろくな寝具もない部屋に、ひどく腐敗した遺体が横たわっていた。髪は抜け落ち、ガリガリに痩せこけていた。でも、着ているのは浩が何度もバカにした、あの古いセーターだった。検視官が遺体の硬直した指をこじ開けると、中から錆びついたコインが一つ、固く握られていた。それは19の年、浩が病院の廊下で、温かいミルクを奢ってくれたときのお釣りだった。「真由、もう辛い日々は終わりだ。このコインがお前の新しい人生の始まりだよ」と浩は言った。私はそれをお守りのように、死ぬまでずっと手放さなかったのだ。浩はそのコインを見つめても、泣かなかった。ただ、「かはっ」と音を立てて大量の血を吐き、死臭の漂う部屋に、そのまま卒倒してしまった。目を覚ました浩は、完全に正気を失っていた。彼は私の葬式も出さず、包丁を手に、たった一人で咲希の隠れ家に乗り込んだ。咲希は、海外へ逃げようとしていたのだ。咲希は、金庫から盗んだ金塊を数えているところだった。殺気を放ち、目を真っ赤にした浩の姿を見て、悲鳴をあげて逃げようとした。浩は咲希をいとも簡単に捕まえ、ゴキブリの這う床に押さえつけた。そして、よく手入れされた彼女の右手に、刃をぴたりと当てた。「障害者のふりをするのがお好きだったよな?真由のせいで、片腕をなくしたんだったか?」浩の声は、地獄から響いてくるように冷たかった。次の瞬間、刃は振り下ろされた。咲希の絶叫が響き、飛び散った血が浩の顔を濡らした。「望み通りにしてやったぞ。これでお前は本物の障害者だ。自分じゃ何もできない、役立たずのな」浩は、包丁をカランと床に投げ捨てた。咲希は、なくなった自分の手首を見て、完全にパニックになってしまった。悲鳴をあげながら暴れまわり、駆けつけた警察に精神科病院へと連行された。正常に戻ることは、二度となかった。警察署から保釈された後、浩はあることを行った。自分の持っている株、預金、高級車のすべてを、私が住ん
浩はまるで狂犬みたいに、どしゃ降りの雨の中、一晩じゅう私を探し回った。病院へ、私の実家へ、そして昔働いていた職場へも行った。だが、周りから変人扱いの視線を浴びるばかりで、何も見つからなかった。夜が明け始めたころ、浩はふらつきながら、邸宅のドアを押し開けた。中に入ると、リビングで必死に荷造りをしている咲希が目に飛び込んできた。床の上は、ひどく散らかっていた。咲希はあのときの服のまま金庫の前にしゃがみ込み、すごい速さで暗証番号を打ち込んでいた。カチャリと音がして、金庫が開いた。咲希は手際よく、中の金塊や高級時計、それに私の実家不動産登記簿まで、巨大なスーツケースにごっそり詰め込んでいく。その動きはなめらかで素早く、欲に駆られた熱狂さえ感じさせた。浩は、咲希の右手を食い入るように見つめた。医者に「神経が死んでいる」と診断され、この3年、水の入ったコップさえ持てなかった手。昨日も痛いと泣いていた、あの右手だ。「その手……」浩の声は、人のものとは思えないほどかすれていた。咲希はびくっと震え、持っていた金塊をガチャンと床に落とした。はっと振り返ると、そこには血走った目をした浩がいた。咲希はとっさに、何ともない右手を背中に隠した。顔を真っ青にさせながら後ずさり、しどろもどろに口を開いた。「浩……聞いて。急に、手に力が入るようになっただけなの……」浩は何も言わず、ただ死人でも見るような冷たくて絶望的な目で、咲希をじっと見つめていた。咲希は、人相も変わった浩の狂ったような姿を見て、瞳の奥の動揺がだんだん収まっていった。そして、ふと気づく。どうせ嘘はばれたし、お金ももうすぐ手に入る。それならいっそ、開き直ってしまおうと。咲希はすっと立ち上がり、手のほこりを払うと、さっきまでの怯えた顔は、あざけるような冷たい笑みに変わった。「何よ、その目は?そうよ、私の手はとっくに治ってた。あの事故は私の自作自演。車のブレーキラインだって自分で切断したの。あなたが真由さんと結婚するのが嫌だっただけ。それが何か?」浩は信じられないという顔で咲希を見つめ、ぶるぶると小刻みに体を震わせた。「お前……何を言ってるんだ?」「あのとき、あなたが防犯カメラを少しでも調べていれば。私を別の病院に連れていけば。私の嘘な