だが夕月は集中して涼のボタンと格闘していた。ハンドソープで滑るボタンは確かに扱いづらい。冬真の被害妄想じみた言葉など、無視するつもりだった。涼は首を傾げ、軽蔑の眼差しを冬真に向けた。「僕の彼女が服を脱がせてくれて何が悪い?時代錯誤も甚だしいね。そんな化石みたいな価値観で生きてて疲れないのかい?」最後の言葉に込められた皮肉が、空気を切り裂いた。冬真の瞳孔が一瞬で縮む。全身を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが走る。「お前、自分の言葉の意味が分かってるのか?」苦笑いを浮かべながら、「離婚してどれだけ経ったと思ってる?」夕月は冬真など眼中にもない。「ふぅん?離婚したのに、あなたのために独り身でいろっていうわけ?笑わせないでよ」涼の手を汚さないよう、自分でシャツを脱がせていく。その体は完璧な均整を保っていた。過剰な筋肉ではなく、しなやかな肉付きが美しい。胸板から腹部にかけての曲線は生まれながらの造形美で、後天的なトレーニングでは到底得られないものだった。夕月は思わず息を呑んだ。男性の魅力が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。彼女の頬の薔薇色に気付いた涼は、低く響く声で囁いた。「僕と橘さん、どっちが綺麗?」確実に冬真に聞こえる声で投げかけられた質問に、冬真の呼吸が止まる。夕月は笑みを浮かべた。「あなたよ」さらに追い打ちをかけるように続ける。「肌は透き通るように白くて、筋肉のライン、それに腰の感じも……たまらないわ」涼の腰は確かに美しかったが、その褒め方には何か色めいた響きが混ざっていた。「ん……」涼は唇を舐めながら、自分で罠を仕掛けたことに気付く。血の気が上り、耳まで真っ赤に染まっていく。冬真は内臓を掻き回されるような苦痛を覚えた。ふと目にした鏡の中の自己は、充血した目と殺気立った表情で、まるで別人のようだった。今の自分は一体、何という姿をしているのか。「夕月!彼と付き合うのは、私を苛立たせるためか?」冬真は軽蔑的な笑みを浮かべた。「似合わないぞ。桐嶋のやつ、すぐにお前を捨てるはずだ」両手をポケットに突っ込み、夕月の表情が暗く曇るのを待った。夕月はようやく彼を見た。「橘社長、人の恋愛に首を突っ込むのが趣味になったの?暇そうね。でも、元奥さんの願いはただ一つ。目の前からさっさと消えてく
瑛優が夕月の反対側に駆け寄り、回し蹴りを繰り出そうとした瞬間。「夕月ちゃん……」聞き慣れた声に、瑛優は蹴りを寸止めした。「おばあちゃん?どうしてここに?」瑛優は首を傾げた。夕月は驚きの目で心音の姿を見つめた。真冬だというのに、心音は薄手の白いシルクのワンピース一枚。素足は寒さで真っ赤に染まっていた。夕月には、なぜ母がこんな姿でいるのか理解できなかった。「お母さん、靴は?」心音の頬は真っ赤で、髪は乱れ、瞳には涙が溜まっていた。「うっ……うっ……」拳を握りしめ、涙を拭う。「雅子さんが戻ってきたって聞いて、すぐ盛樹さんに電話したの。でも出てくれなくて……空港まで追いかけたら、盛樹さんと雅子さんが……うぅぅっ……胸が張り裂けそう!」これまで心音は盛樹に大切にされてきた。夕月でさえ、二人は仲の良い夫婦だと思っていた。今日の重役会議での盛樹の様子、出迎えに行った後、午後は会社に姿を見せていなかったことを思い出す。夕月にとって、新任副社長としては盛樹が会社にいない方が都合が良かった。「お母さん、どうするの?あの人と離婚するの?」夕月は尋ねた。夕月はあの男を父と呼ぶのも吐き気がした。大粒の涙を浮かべた心音は甘えた声で叫んだ。「夕月ちゃん、なんてひどいこと言うの!あなたは不幸な結婚生活を送ったからって、みんなにも同じように離婚して、誰からも愛されない女になれって言うの?」夕月は容赦なく母に白眼を向けた。心音とは分かり合えないのだ。心音は盛樹が引き取った孤児で、年の差は十歳。中学を卒業してからは学校に行っていない。初めてそのことを聞いた時、夕月は衝撃を受けた。でも心音は「私、頭が悪くて成績も良くなかったの。盛樹さんが大切に育ててくれて、何不自由なく暮らせたわ」と言うばかりだった。「じゃあ、私のところに来た理由は?」夕月は問いかけた。心音は荒れた唇を尖らせ、真っ赤な指で夕月の服の裾をつかんだ。「夕月ちゃん、なんとかして!あなたは私の娘なのよ!娘なら母のために、パパの心を取り戻すべきでしょう?それが娘の務めよ!よそから来た女狐に、パパを奪われるのを黙って見てるなんて……」「でも、おばあちゃん。ママは私に前のパパの気を引くようなこと、一度も頼まなかったよ」瑛優が口を挟んだ。「もう!おばあちゃん
それに、男の罪悪感なんて、何の価値もないわ」「夕月ちゃんったら」心音は頬を膨らませた。「更年期なのね。誰にも愛されてないから、そんな意地悪な言葉を吐くのよ」夕月は即座に携帯をしまった。もう北斗に電話する気も失せた。「瑛優、上がりましょう」「ママ!」幼い男の子の声が響き、夕月の心臓が一瞬激しく跳ねた後、どっと沈んだ。振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。瑛優が振り返り、驚きの声を上げた。「悠斗!?」車椅子に座る悠斗の体は、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。首にはネックカラー、頭には毛糸の帽子。普段なら、おしゃれな髪型が崩れるからと帽子を嫌がる悠斗だったのに。今は髪の毛が剃られ、頭に傷があるため、帽子を被らざるを得なかった。血の気のない真っ白な顔に、青ざめた唇。まるで壊れた人形のようだった。「奥様」佐藤さんが悠斗の車椅子を押しながら、落ち着かない様子で夕月に声をかけた。「悠斗くん、病院は?大丈夫なの?どこか痛くない?」子供同士の諍いや張り合いなんて、瑛優にとっては浮かんでは消える雲のようなもの。悠斗のこんな姿を見たら、ただその体を心配するばかり。たとえ兄妹でなくても、ただのクラスメイトでも、こんな痛ましい姿を見れば気遣うのが子供心というもの。けれど、悠斗の視線は夕月だけを追っていた。佐藤さんにたくさんのお金を渡し、必死に頼み込んで、日光浴の機会を利用して夕月の住むマンションまで連れて来てもらったのだ。悠斗はマンションで長い時間、夕月を待っていた。夕月の姿を見つけた時、本当は姿を見せるつもりはなかった。でも、夕月の後ろ姿が視界から消えそうになった時、ほんの一瞬ママを見ただけで、言葉も交わせないなんて——その思いが、悠斗の声を呼び起こした。ママを呼んだのに、夕月は最後まで振り向いてくれなかった。ただ後ろ姿だけを、悠斗に見せている。悠斗の瞳から光が消えた。定光寺の住職の言葉は本当だったのか。今度こそ、ママは自分を見捨てたのか。悠斗の目に涙が滲んだ。青ざめた唇を開き、震える声で懇願した。「ママ、振り向いて……一目でいいから」「目が覚めてから、一度も会いに来てくれなかったよ……」佐藤さんは夕月の冷たい背中を見て、慌てて悠斗の代弁を始めた。「坊ち
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
藤宮夕月(ふじみやゆづき)は娘を連れて、急いでホテルに向かった。すでに息子の5歳の誕生日パーティーは始まっていた。橘冬真(たちばなとうま)は息子のそばに寄り添い、ロウソクの暖かな光が子供の幼い顔を照らしていた。悠斗(ゆうと)は小さな手を合わせ、目を閉じて願い事をした。「僕のお願いはね、藤宮楓(いちのせかえで)お姉ちゃんが僕の新しいママになってくれること!」藤宮夕月(ふじみやゆづき)の体が一瞬震えた。外では激しい雨が降っていた。娘とバースデーケーキを濡らさないようにと傘を差し出したが、そのせいで自分の半身はずぶ濡れになっていた。服は冷たい氷のように張り付き、全身を包み込む。「何度言ったらわかるの?『お姉ちゃん』じゃなくて、『楓兄貴(かえであにき)』って呼びな!」藤宮楓は豪快に笑いながら言った。「だってさ、私とお前のパパは親友だぜ~?だからママにはなれないけど、二番目のパパならアリかもな!」彼女の笑い声は個室に響き渡り、周りの友人たちもつられて笑い出した。だが、この場で橘冬真をこんな風にからかえるのは、藤宮楓だけだった。悠斗はキラキラした瞳を瞬かせながら、藤宮楓に向かって愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。「で、悠斗はどうして急に新しいママが欲しくなったんだ?」藤宮楓は悠斗の頬をむぎゅっとつまみながら尋ねた。悠斗は橘冬真をちらりと見て、素早く答えた。「だって、パパは楓兄貴のことが好きなんだもん!」藤宮楓は爆笑した。悠斗をひょいっと膝の上に乗せると、そのまま橘冬真の肩をぐいっと引き寄せて、誇らしげに言った。「悠斗の目はね、ちゃーんと真実を見抜いてるのさ~!」橘冬真は眉をひそめ、周囲の人々に向かって淡々と言った。「子供の言うことだから、気にするな」まるで冗談にすぎないと言わんばかりだった。だが、子供は嘘をつかない。誰もが知っていた。橘冬真と藤宮楓は、幼い頃からの幼馴染だったことを。藤宮楓は昔から男友達の中で育ち、豪快な性格ゆえに橘家の両親からはあまり気に入られていなかった。一方で、藤宮夕月は18歳のとき、藤宮家によって見つけ出され、家の期待を背負って、愛情を胸に抱きながら橘冬真と結婚した。そして、彼の子を産み、育ててきたのだった。個室の中では、みんなが面白がって煽り始
藤宮楓は振り返り、橘冬真にいたずらっぽく舌を出した。「夕月、また勘違いしてるわ、今すぐ説明してくるね!」「説明することなんてないさ。彼女が敏感すぎるだけだ」橘冬真は淡々とした表情で、藤宮夕月が置いていった半分の誕生日ケーキをちらっと見て、眉を少しひそめた。橘冬真の言葉で、周りの人々は皆、安心したように息をついた。藤宮夕月は腹を立てて出て行っただけで、何も大したことじゃない。他の人たちは口々に同調した。「夕月はただ気が立っていただけ、冬真が帰ったらすぐに宥めればいいさ」「そうだよ、夕月が本当に冬真と離婚するなんて、あり得ない。誰でも知ってるよ、夕月は冬真のために命がけで子供を産んだんだから」「もしかしたら、外に出た瞬間に後悔して戻ってくるかもね!」「さあさあ、ケーキを食べよう!冬真が帰ったら、夕月はすぐに家の前で待っているだろうね!」橘冬真は眉を緩め、藤宮夕月が怯えて、何も言わずに自分を気遣って立つ姿を想像できた。悠斗は美味しそうに、藤宮楓が持ってきたケーキを食べている。クリームが口の中に広がり、舌がしびれるような感覚がするが、彼は気にしなかった。ママはもう自分のことを気にしない。なんて素晴らしいことだろう。誕生日の宴が終わり、橘冬真は車の中で目を閉じて休んでいた。窓から差し込む光と影が、彼の顔を明滅させていた。「パパ!体がかゆい!」悠斗は小さな猫のように低い声で訴えた。橘冬真は目を開け、頭上のライトを点けた。そこには悠斗の赤くなった顔があり、彼は体を掻きながら呼吸が荒くなっていた。「悠斗!」橘冬真はすぐに悠斗の手を押さえ、彼の首に赤い発疹が広がっているのを見た。悠斗はアレルギー反応を起こしている。橘冬真の表情は相変わらず冷徹だったが、すぐにスマートフォンを取り出して、藤宮夕月に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼が話そうとしたその時、電話越しに聞こえてきたのは、「おかけになった電話は現在使われておりません」橘冬真の細長い瞳に冷たい怒りが湧き上がった。子供がアレルギーを起こしているのに、藤宮夕月は無視しているのか?「運転手、速くしろ。藤宮家へ戻れ!」彼は悠斗を抱えて家に戻った。玄関を見やると、そこはいつも通りではなく、藤宮夕月が待っているはずの場所に誰もいなかった。佐
橘冬真はスコットランドエッグを食べたいと言ったが、実際は佐藤さんに藤宮夕月に連絡を取らせるためだった。彼はすでに藤宮夕月に逃げ道を作っている。「奥様は、もう帰らないと言ってます」「くっ…くっ…!」橘冬真はコーヒーをむせて、咳き込んだ。抑えきれずに咳が止まらない。佐藤さんは何かを察した。「橘様と奥様、喧嘩でもされたんですか?」「余計なことを言うな!」男は低い声で一喝し、レストランの中の温度が急激に下がった。佐藤さんは首をすくめて、それ以上何も言えなかった。橘冬真は手にしたマグカップをぎゅっと握りしめた。藤宮夕月が帰らないなんてあり得ない。今頃、彼女は会社に送る愛情たっぷりのお弁当を準備しているはずだ。以前は、藤宮夕月が彼を怒らせると、昼食を自分で会社に届けに来て、和解を求めてきたものだ。美優は食卓の前に座り、朝食を見て目を輝かせた。「わぁ!ピータンチキン粥だ!」美優はピータンチキン粥が大好きだが、悠斗はピータンを見ると吐き気を催す。藤宮家では、藤宮夕月が粥を作ることはほとんどない。橘冬真と悠斗は粥が嫌いだからだ。藤宮大奥様も言っていた、それは貧しい人たちが食べるものだと。貧しい家では米が足りないから粥を作るのだ。藤宮家では、三食きちんとした栄養バランスを取ることが重要だ。藤宮夕月が、たとえ彼女が作る粥に栄養があって、子どもたちに食べさせれば消化を助けると思っても、それでもピータン、鶏肉、青菜を入れると、藤宮家の人々からは「ゴミみたいだ」と笑われ、気持ち悪いと言われてしまう。特に悠斗のためにピータンを入れずに鶏肉と青菜だけで粥を作った時、悠斗はそれをゴミ箱に捨て、藤宮夕月は二度と粥を作ることはなくなった。彼女は悠斗に、食べ物を無駄にしてはいけないと教えていた。悠斗は怒って彼女に訴えた。「これは豚に食べさせるものだ!どうして僕に食べさせるの!ママはやっぱり田舎から来たんだな!」藤宮夕月は胸が詰まる思いがし、ふと我に返ると、美優はすでにチキン粥を食べ終えていた。美優は満腹でげっぷをし、きれいに舐めたお椀を見つめながら、まだ少し食べ足りないような表情を浮かべた。「祖母の家に来ると、ピータンチキン粥が食べられるんだね?」藤宮夕月は彼女に言った。「これからは、食べたいものを食べよう。他の人
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して
それに、男の罪悪感なんて、何の価値もないわ」「夕月ちゃんったら」心音は頬を膨らませた。「更年期なのね。誰にも愛されてないから、そんな意地悪な言葉を吐くのよ」夕月は即座に携帯をしまった。もう北斗に電話する気も失せた。「瑛優、上がりましょう」「ママ!」幼い男の子の声が響き、夕月の心臓が一瞬激しく跳ねた後、どっと沈んだ。振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。瑛優が振り返り、驚きの声を上げた。「悠斗!?」車椅子に座る悠斗の体は、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。首にはネックカラー、頭には毛糸の帽子。普段なら、おしゃれな髪型が崩れるからと帽子を嫌がる悠斗だったのに。今は髪の毛が剃られ、頭に傷があるため、帽子を被らざるを得なかった。血の気のない真っ白な顔に、青ざめた唇。まるで壊れた人形のようだった。「奥様」佐藤さんが悠斗の車椅子を押しながら、落ち着かない様子で夕月に声をかけた。「悠斗くん、病院は?大丈夫なの?どこか痛くない?」子供同士の諍いや張り合いなんて、瑛優にとっては浮かんでは消える雲のようなもの。悠斗のこんな姿を見たら、ただその体を心配するばかり。たとえ兄妹でなくても、ただのクラスメイトでも、こんな痛ましい姿を見れば気遣うのが子供心というもの。けれど、悠斗の視線は夕月だけを追っていた。佐藤さんにたくさんのお金を渡し、必死に頼み込んで、日光浴の機会を利用して夕月の住むマンションまで連れて来てもらったのだ。悠斗はマンションで長い時間、夕月を待っていた。夕月の姿を見つけた時、本当は姿を見せるつもりはなかった。でも、夕月の後ろ姿が視界から消えそうになった時、ほんの一瞬ママを見ただけで、言葉も交わせないなんて——その思いが、悠斗の声を呼び起こした。ママを呼んだのに、夕月は最後まで振り向いてくれなかった。ただ後ろ姿だけを、悠斗に見せている。悠斗の瞳から光が消えた。定光寺の住職の言葉は本当だったのか。今度こそ、ママは自分を見捨てたのか。悠斗の目に涙が滲んだ。青ざめた唇を開き、震える声で懇願した。「ママ、振り向いて……一目でいいから」「目が覚めてから、一度も会いに来てくれなかったよ……」佐藤さんは夕月の冷たい背中を見て、慌てて悠斗の代弁を始めた。「坊ち
瑛優が夕月の反対側に駆け寄り、回し蹴りを繰り出そうとした瞬間。「夕月ちゃん……」聞き慣れた声に、瑛優は蹴りを寸止めした。「おばあちゃん?どうしてここに?」瑛優は首を傾げた。夕月は驚きの目で心音の姿を見つめた。真冬だというのに、心音は薄手の白いシルクのワンピース一枚。素足は寒さで真っ赤に染まっていた。夕月には、なぜ母がこんな姿でいるのか理解できなかった。「お母さん、靴は?」心音の頬は真っ赤で、髪は乱れ、瞳には涙が溜まっていた。「うっ……うっ……」拳を握りしめ、涙を拭う。「雅子さんが戻ってきたって聞いて、すぐ盛樹さんに電話したの。でも出てくれなくて……空港まで追いかけたら、盛樹さんと雅子さんが……うぅぅっ……胸が張り裂けそう!」これまで心音は盛樹に大切にされてきた。夕月でさえ、二人は仲の良い夫婦だと思っていた。今日の重役会議での盛樹の様子、出迎えに行った後、午後は会社に姿を見せていなかったことを思い出す。夕月にとって、新任副社長としては盛樹が会社にいない方が都合が良かった。「お母さん、どうするの?あの人と離婚するの?」夕月は尋ねた。夕月はあの男を父と呼ぶのも吐き気がした。大粒の涙を浮かべた心音は甘えた声で叫んだ。「夕月ちゃん、なんてひどいこと言うの!あなたは不幸な結婚生活を送ったからって、みんなにも同じように離婚して、誰からも愛されない女になれって言うの?」夕月は容赦なく母に白眼を向けた。心音とは分かり合えないのだ。心音は盛樹が引き取った孤児で、年の差は十歳。中学を卒業してからは学校に行っていない。初めてそのことを聞いた時、夕月は衝撃を受けた。でも心音は「私、頭が悪くて成績も良くなかったの。盛樹さんが大切に育ててくれて、何不自由なく暮らせたわ」と言うばかりだった。「じゃあ、私のところに来た理由は?」夕月は問いかけた。心音は荒れた唇を尖らせ、真っ赤な指で夕月の服の裾をつかんだ。「夕月ちゃん、なんとかして!あなたは私の娘なのよ!娘なら母のために、パパの心を取り戻すべきでしょう?それが娘の務めよ!よそから来た女狐に、パパを奪われるのを黙って見てるなんて……」「でも、おばあちゃん。ママは私に前のパパの気を引くようなこと、一度も頼まなかったよ」瑛優が口を挟んだ。「もう!おばあちゃん
だが夕月は集中して涼のボタンと格闘していた。ハンドソープで滑るボタンは確かに扱いづらい。冬真の被害妄想じみた言葉など、無視するつもりだった。涼は首を傾げ、軽蔑の眼差しを冬真に向けた。「僕の彼女が服を脱がせてくれて何が悪い?時代錯誤も甚だしいね。そんな化石みたいな価値観で生きてて疲れないのかい?」最後の言葉に込められた皮肉が、空気を切り裂いた。冬真の瞳孔が一瞬で縮む。全身を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが走る。「お前、自分の言葉の意味が分かってるのか?」苦笑いを浮かべながら、「離婚してどれだけ経ったと思ってる?」夕月は冬真など眼中にもない。「ふぅん?離婚したのに、あなたのために独り身でいろっていうわけ?笑わせないでよ」涼の手を汚さないよう、自分でシャツを脱がせていく。その体は完璧な均整を保っていた。過剰な筋肉ではなく、しなやかな肉付きが美しい。胸板から腹部にかけての曲線は生まれながらの造形美で、後天的なトレーニングでは到底得られないものだった。夕月は思わず息を呑んだ。男性の魅力が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。彼女の頬の薔薇色に気付いた涼は、低く響く声で囁いた。「僕と橘さん、どっちが綺麗?」確実に冬真に聞こえる声で投げかけられた質問に、冬真の呼吸が止まる。夕月は笑みを浮かべた。「あなたよ」さらに追い打ちをかけるように続ける。「肌は透き通るように白くて、筋肉のライン、それに腰の感じも……たまらないわ」涼の腰は確かに美しかったが、その褒め方には何か色めいた響きが混ざっていた。「ん……」涼は唇を舐めながら、自分で罠を仕掛けたことに気付く。血の気が上り、耳まで真っ赤に染まっていく。冬真は内臓を掻き回されるような苦痛を覚えた。ふと目にした鏡の中の自己は、充血した目と殺気立った表情で、まるで別人のようだった。今の自分は一体、何という姿をしているのか。「夕月!彼と付き合うのは、私を苛立たせるためか?」冬真は軽蔑的な笑みを浮かべた。「似合わないぞ。桐嶋のやつ、すぐにお前を捨てるはずだ」両手をポケットに突っ込み、夕月の表情が暗く曇るのを待った。夕月はようやく彼を見た。「橘社長、人の恋愛に首を突っ込むのが趣味になったの?暇そうね。でも、元奥さんの願いはただ一つ。目の前からさっさと消えてく
まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が冬真を襲った。涼の罠に嵌まるべきではなかった。だが夕月が涼を擁護する言葉を聞いた瞬間、誰かが錐で胸を刺し貫いたような痛みが走る。飛び散る血が、網膜を真っ赤に染め上げた。涼は夕月を見つめ、無言のまま口角を上げた。夕月には分かっていた。彼が意図的に冬真を挑発していることを。それでも涼は、自分を守ろうとする彼女の姿に密かな喜びを覚えていた。涼は再び冬真に視線を向け、露骨な挑発の色を瞳に宿らせる。夕月の前に立ち、庇うような仕草を見せながら、「ハンドソープを掛けてくるかもしれない」と告げた。冬真の喉まで血が上り、吐き気を催した。ビジネスの世界を渡り歩いてきた彼でさえ、これほどの陰湿な手を使われたことはなかった。しかも男子トイレには防犯カメラもない。夕月の前で自分の潔白を証明する術がなかった。「冬真さん、あなたの性格は分かってる。殺されても桐嶋さんに謝らないでしょう。謝れないなら、スーツ代を弁償して。でなければ警察を呼ぶわ。10万円以上の器物損壊は重大な案件よ。毎日のように警察沙汰にしたいなら、私は止めないけど」涼は身を屈め、夕月の耳に十センチほど近づいた。わざと冬真に聞こえる声で囁く。「夕月さん、優しいね」冬真の拳は力が入り過ぎて、皮膚の下から骨が白く浮き上がっていた。次々とトイレに入ろうとする男たちが、夕月の姿を見るなり慌てて引き返していく。ドアの外から囁き声が漏れ聞こえてきた。「今、橘社長が見えたような……」橘グループのビルに近いこのレストランには、社員たちもよく訪れる。用を足せなくなった男たちは、仕方なく外でタバコを吸い始めた。「話は大体分かった。桐嶋さんが社長の元奥さんと付き合ってて、社長が激怒してハンドソープ掛けて突き飛ばしたんだって」外からの声に、冬真の体が震えだした。もはや濡れ衣を晴らすことなど不可能だった。「美人のためとはいえ、随分と荒れてますね。まあ、藤宮さんのような素晴らしい女性なら、二人の男が争うのも当然か」さらに声が潜められ、「あのさ……さっき聞いたんだけど、桐嶋さんの方が橘社長より、その、ピン……」壁は薄く、全ての噂話が冬真の耳に届く。冬真は外に出て、盗み聞きをしている社員たちを即刻解雇しようと思った。そう思
涼は寂しげに顔を背け、自分の惨めな姿を見られまいとするかのようだった。「どうしたの?」夕月は急いで尋ねる。涼の上半身が何か粘つく液体で濡れているのに気付いた。「この服はどうしたの!?」涼は体を起こし、夕月との距離を取った。「大丈夫だよ。橘さんは関係ない。きっと故意じゃなかったはずさ」男の声音には、強がりが滲んでいた。夕月は事態を悟った。「あの人があなたを突き飛ばしたの!?」涼は唇を引き結び、「本当に大丈夫だよ、夕月さん」と宥めるように言った。「服まで汚されたのね」夕月の声音に確信が滲んだ。涼はポケットを探りながら、説明を避けた。「ここで待っていて。スマートフォンを拾ってくるよ」夕月が男子洗面所に足を踏み入れた瞬間、冬真の顔を目にして、頭の中の血が沸騰した。「橘冬真、あんた正気!?」冬真は唖然とした。涼の口元が僅かに歪み、得意げな笑みが浮かぶ。その表情が冬真の目に刺さった。ゆっくりと身を屈めて端末を拾い上げる涼。画面に入ったヒビを、確実に夕月の目に入るよう手にした。罠にはめられた——冬真は気付いた。今頃夕月は、自分が涼を殴り、突き飛ばし、スマートフォンまで叩き付けた様子を想像しているに違いない。血が逆流し、喉に甘く生臭い味が広がる。涼が夕月の指先に触れるのを、ただ見つめることしかできない。「もう行こう。橘さんは僕らを見るだけで苛立つみたいだし、気にすることないよ」よくも目の前で元妻の手に触れられる——「押していない。端末も投げてない!夕月、彼の嘘が分からないのか?」冬真は息を切らしながら言った。「奴が自分でハンドソープを被ったんだ。私がそんな下らないことをすると思うのか?」夕月の眼差しには何の感情も温もりもない。かつて冬真が彼女を見つめた、あの冷たい視線そのままに。「人を突き飛ばすのは、初めてじゃないでしょう」夕月の言葉が冷たく響く。大きな腹を抱えたまま床に倒れ込んだ彼女の姿が、冬真の脳裏を走り抜けた。「物に当たるのだって、いつものことじゃない」汐が亡くなった年、冬真の感情は制御を失っていた。荒れ狂った後の惨状を、大きな腹を抱えた夕月が黙々と片付けていた。「桐嶋さんはあんなに純粋な人なのに。あなた以外に誰が意地悪するっていうの!?」冬真は息が詰ま
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット