楓は一瞬、言葉に詰まった。電話の向こうで、冬真が言った。「用がないなら、切るぞ」「冬真!」楓は慌てて相手を呼び止めた。「今、ウエディングドレスを選んでるの。忙しくて付き合えないのは分かってるわ。安心して、もうこれ以上迷惑はかけないから」「それを言うためだけに電話を?」受話器越しにも、冬真が今にも電話を切りたがっているのがひしひしと伝わってきた。彼女は慌てて続けた。「さっき夕月にメッセージを送ったの。そしたら彼女、『どうしてVブランドのドレスじゃないの?あなたなら橘冬真に連れられて海外まで選びに行くと思ったわ』ですって。明らかに、私が既製品のドレスを選んでるのを見て、笑いものにしてるのよ。冬真、夕月に見くびられたいの?もうすぐあなたと結婚する私が、あの子に笑われるなんて、あなただって嫌でしょ」受話器の向こうから、男の冷酷な笑い声が聞こえてきた。「安物のドレスを着るのはお前だ、私じゃない。お前がどんなボロをまとおうが、私には痛くも痒くもない。楓、私を煽るのはよせ。夕月のちょっとした一言で、私がお前との結婚に何千万、何億円も注ぎ込むとでも思ったのか?腹の中の子供が、どこの馬の骨かも分からないのにな!」冬真の声は極限まで冷え切っており、まるで無数の針が楓の耳を突き刺すようだった。激しく高鳴る心臓が、灼けるように熱い血を撒き散らす錯覚に陥る。スマートフォンを握る彼女の顔が、鬼のように歪んだ。「冬真、あなたの心の中で、私は夕月以下だっていうの?一番長くあなたのそばにいたのは、この私なのよ!」「彼女は、私の二人の子供の母親だ。お前が何だって言うんだ!」電話の向から響く冬真の怒声に、楓の鼓膜が突き破られたかのように、頭の中でキーンという耳鳴りが鳴り響いた。「楓ちゃん」心音がまた彼女を呼んだが、楓にはその声が聞こえていないようだった。彼女の瞳は漆黒で光を失い、まるで夜の底知れぬ海のように、人を飲み込もうとしている。「冬真、私、Vブランドのウエディングドレスが着たいの。汐が一番好きだったブランド。知ってるでしょ、私は女でいることなんて少しも望んでないし、花嫁になるなんて面倒なだけ。でも、ウエディングドレスを着て、愛する人と結婚するのは、汐の最大の夢だった。私、汐が生きてるうちに叶えられなかったことを、叶えてあげたいの。……手伝
楓は心音がウエディングドレスを着ているのを見て、うんざりしたように天を仰いだ。「お母さん、正気なの?結婚するのは私で、あなたじゃないんだけど!」楓のきつい口調を、心音は意に介さない。彼女はくるりと背を向け、姿見に映る自分自身をうっとりと眺めている。やがてサロンのスタッフが歩み寄ってくるのを見ると、心音はにこにこと笑いながら尋ねた。「ねえ、私たち二人が並んだら、どっちがお母さんでどっちが娘に見える?」スタッフは一瞬、言葉に詰まった。もちろん、自分たちが接客すべき相手が誰なのかは承知している。なにしろ楓は店に入るなり、今日自分がドレスの試着に来たこと、心音はただの付き添いであることをはっきりと告げているのだ。心音は確かに若々しい顔立ちで肌も綺麗だが、どれだけ手入れをしていても、楓との年齢差は見て取れる。先ほど心音がスタッフにドレスを取ってほしいと言った時も、てっきり娘である楓に試着させるためだと思っていた。まさか、自分で着てしまうとは。スタッフは心音に向かって、困ったように微笑んでみせた。「奥様、こちらのドレスも大変お似合いでございます。旦那様とご結婚された時、ウエディングフォトは撮られましたか?当サロンでは『サンセットプラン』というものもございまして、よろしければご覧になりますか?旦那様にもお越しいただいて、金婚式の記念に一枚いかがでしょう」スタッフから差し出されたパンフレットを、心音は受け取った。心音がスタッフと楽しそうに話し込んでいるのを見て、楓はこめかみの血管がピクピクするのを感じた。すでに夕月からのメッセージで精神的に打ちのめされているのに、スタッフたちが皆、心音の周りに集まっている状況に、血圧が急上昇していく。「お母さん!もういい加減にしてよ!」楓の声には、刺々しい怒りが含まれていた。「あなたは私のドレス選びに付き添いに来たんでしょ!主役が誰だか、はっきりさせてよね!」その言葉は、スタッフたちに、自分たちが本来誰に付き従うべきかを思い知らせるためのものでもあった。心音は唇を尖らせ、金魚のように頬をぷっくりと膨らませた。「心音がウエディングドレスを着た方が、楓ちゃんよりずっと女らしいわ。楓ちゃんはメンズコーナーで選ぶべきよ。あなたがスカートを穿いてる姿なんて、心音には想像もつかないわ。きっとものすごい
量子科学では――夕月が会社のロビーに足を踏み入れると、彼女に気づいた社員たちが次々と挨拶をしてきた。社員たちが彼女に向ける眼差しには、純粋な感嘆の色が満ちていた。夕月はシンプルでゆったりとしたウエストマークのセットアップを着ているだけだ。墨色の長い髪はすっきりとポニーテールに結い上げられ、こめかみの後れ毛は二本のアメピンで留められている。足元は履き慣れたフラットシューズで、オフィスには普段使いできるようにと、わざわざ快適なシルクのスリッパまで用意してあった。最近、夕月が新しい社内規則を公布し、各フロアに更衣室が設けられた。社員は社内でスリッパを履いてもよく、ノーメイクでも構わない。今ではハイヒールとストッキングで出勤する女性社員はほとんど見られなくなり、たまに退社後のデートのために一足持ってくる程度だ。社員たちは皆、夕月のこの計らいは「悪だくみ」だと言っている。今やオフィスのデスク周りは自宅より快適で、帰りたくなくなってしまい、結局オフィスで馬車馬のように働く羽目になる、と。口ではそう言っているが、彼らがこの変化を喜んで受け入れているのは明らかだった。「藤宮社長、おはようございます」「社長、おはようございます」夕月は社長専用エレベーターに乗り込んだ。このエレベーターは彼女一人が使い、彼女だけが開ける権限を持っている。専用エレベーターのドアが閉まると、七、八人の一般社員が別のエレベーターに乗り込んだ。「今日のニュース見た?橘グループの社長が婚約するって!しかも相手、うちの社長の実の妹さんで、できちゃった婚らしいわよ!」顔見知りの社員数人が、エレベーターに乗るやいなや、待ちきれないとばかりに口を開いた。「姉妹で同じ男に嫁ぐなんて、橘家もどうかしてるぜ!」「社長の妹さん、きっとずっと前から橘社長とデキてたのよ!数年前から、あの二人いつもベッタリだったって噂だもん!」一人の社員が、ひどく憤慨した様子で言った。「社長はきっと、お子さんが大きくなるまでずっと我慢してたのよ。せっかくの青春を無駄にしちゃって、本当にかわいそうだわ」「社長、妹さんの妊娠のこと、もちろん知ってたわよね?見た感じ、あんまりショック受けてるようには見えなかったけど」すると別の社員が言った。「そりゃ、気持ちを整理してから会社に来てるのよ。さっき
涼の体が前のめりになる。閉まりかけていたエレベーターのドアが、彼の体を感知して見えない力に阻まれたように、再び両側へと開いていく。夕月の顔が、涼の視界いっぱいに広がる。彼は頭を下げ、相手の両目をまっすぐに見つめた。正常なパーソナルスペースを越えた先で、夕月の睫毛が人並み以上に濃密であることに気づく。眉は一本一本が際立ち、何本かは自由気ままに伸びていた。女の瞳は、白目と黒目の境がくっきりと分かれている。彼女が顔を上げることで、顔にかかる影が照明の下からことごとく消え去った。彼女の顔が、涼の視界で、ますます鮮明になっていく。やがて、柔らかな感触が涼の唇に落ちてきた。熱い息が、彼の鼻先で絡み合う。脳内で、轟音と共に巨大な花火が咲き乱れた。眩い閃光が思考を真っ白に爆ぜさせ、視点の焦点さえも奪っていく。エレベーターの照明が、一瞬にして目を灼くほど明るくなった気がした。周りのすべてが純白に染まる。その中で彼が捉えられたのは、くるりと上を向いた夕月の睫毛が、微かに数回震えたことだけだった。その柔らかさが離れていくと、女の指も涼のネクタイからするりと解かれた。夕月の手のひらには、びっしりと細かい汗が滲んでいた。彼女はようやく呼吸を取り戻し、まだネクタイを引かれたまま腰を屈めている涼の姿を見ると、その胸をそっと押し返した。彼女は手を伸ばし、閉ボタンを押す。そして振り返り、エレベーターの外に立つ男を見た。男の体躯は大きい。ホールの照明は箱の中より弱く、今や彼の半身は影の中に沈んでいた。今の夕月には、彼の表情は読み取れない。細かく観察する余裕もなく、ただ視界の端で、光に照らされた男の喉仏のあたりの肌が、淡いピンク色に染まっているのを捉えた。エレベーターのドアが完全に閉まると、夕月は壁に手をついた。そしてわずかに唇を開き、先ほどの感触を反芻する。アドレナリンが急上昇し、エンドルフィンが分泌されて、一日中溜まっていた疲れが吹き飛んでいく。キスを終えた後、体全体が軽くなったようで、頭まで冴え渡るのを感じた。今夜なら、エネルギーに満ちたまま深夜まで残業できそうだ。キスって、本当に効果があるのね。*夕月は部屋に戻り、子供部屋のドアを開ける。瑛優はすでに眠っていた。娘の枕元には、涼が買ってくれたぬいぐるみがいくつか増えている
涼の唇に薄い笑みが浮かんでいた。何も言わず、春の水面のような艶めいた瞳で夕月を流し見る。静寂が二人を包み込み、空気が徐々に熱を帯びていく。返事を待つ間、夕月は自分の鼓動が耳に響くのを感じた。「下まで送るわ」遠回しな別れの合図だった。「ああ」涼は不満ひとつ言わず、ソファにかけてあった上着を手に取った。夕月は玄関へ向かい、スリッパを履いてドアを開ける。涼が近づいてきて、その手に持っていた上着がふわりと夕月の肩にかかった。香水の匂いはしない。ただ、男のかすかな体香が残っている。ムスクとザクロを混ぜたような、思わず喉を渇かせる香り。「外は寒い。羽織ってろ」夕月が上着に手をかけたとき、涼の声が降ってきた。彼女の手は、男の上着の縁に沿って滑り落ちる。それがずり落ちないよう、指先で裾の角をきゅっと掴んだ。二人はエレベーターに乗り込む。下降していく箱の中で、涼が口を開いた。「もし、本当に俺に瑛優と会ってほしくないなら、そう言ってくれればいい」夕月は即座に口を開いた。「そんなこと、思ってないわ」涼の視線とぶつかる。彼の黒く深い瞳の中には、柔らかな笑みと、悪戯っぽい光が宿っていた。わざとけしかけられたのだと気づき、まんまとその手に乗ってしまった自分に、夕月は少し腹が立った。その上、この男は図に乗って尋ねてくる。「俺が瑛優の面倒を見ているの、君は結構好きだろ」夕月は理屈を並べるしかない。「あなたとお兄さんは、まったく違うタイプだから。瑛優が二人と接することで、学べることも多いと思うの」涼の喉から、くすくすと低い笑い声が漏れた。「はいはい。俺が天野の次だってことは分かってるよ。先輩後輩の序列ってやつは、ちゃんと弁えてるから」夕月はぎり、と奥歯を噛みしめた。「そういう風に一歩引いて見せる手口には、もう騙されないから!」エレベーターが一階に到着した。夕月は小さくあくびをすると、指の腹で目元を軽く揉んだ。「ここで見送るわ。今夜はもう少し残業しないと」「だが、もう眠そうだ」彼は夕月に「無理するな」とは言わない。そんな言葉が、夕月にとって何の意味も持たないことを知っているからだ。涼は無駄な気遣いはしない。彼はエレベーターを降り、夕月に向き合った。夕月はただ言った。「眠くても、コードを十数ページは書けるわ」
涼が慌てて瑛優の前にしゃがみこみ、溢れる涙を拭い取った。「もう二度と会えないわけじゃないよ。おじちゃんに内緒で、こっそり会いに来るから」優しく諭すような声で言うと、瑛優がくるりと天野の方を向いた。「おじちゃん、そんなのダメだよ!人は心を大きく持たなきゃ!」天野は腕組みをしたまま、顔色がさらに一段階暗くなった以外、表情に変化は見られなかった。「お前はまだ小さいから、人の心の怖さが分からないんだ」「でも涼おじさんはきれいで格好いいのに、どうして悪い人なの?」瑛優が首をかしげて反論する。「知らないのか?美しい植物ほど毒が強いんだ」「ママは世界で一番きれい!」瑛優は天野の言葉を全く受け入れようとしなかった。涼が瑛優の傍らにしゃがんだまま、耳元で囁いた。「あいつは僕に嫉妬してるんだよ。おじちゃんの独占欲の表れさ。君とママを自分だけのものにしたがってるんだ」瑛優が小さくため息をついた。「涼おじさん、おじちゃんには確かにお友達がいないのね。ちゃんとお話ししてみる」そして腰に手を当てて天野に向き直ると、堂々と宣言した。「私たち女の人はね、三人でも四人でも旦那さんがいるのが普通なの!」涼が「ぷっ」と噴き出し、頭を下げて肩を震わせた。夕月がダイニングテーブルに身を預け、興味深そうに尋ねた。「瑛優、その言葉どこで覚えたの?」天野が涼を見据える視線は、レーザー光線となって相手を貫き通しそうな勢いだった。「桐嶋さんが教えたんだろう」瑛優が首を振って反論する。「クラスのお友達がみんなそう言ってるもん」天野の前まで歩み寄った瑛優が、手を差し出した。「おじちゃん、手をちょうだい」意味も分からずに手を差し出す天野。瑛優がその手を引いて数歩前に進むと、もう片方の手で涼の手を掴み、二人の手を重ね合わせた。涼が切れ長の瞳を細め、笑みを深くする。瑛優が童謡でも歌うように、小さな口でつぶやき始めた。「みんなでお友達!けんかしない、たたかない、一緒に遊びましょう。仲良し家族になろうね」最後は「ラララ~」と歌い出す瑛優。涼が瑛優の手を引いてくるくると回り始めたが、天野は石の柱のように動こうとしない。涼が天野の腕にぶつかると、足を上げて相手のつま先を踏んだ。「チッ!」天野が睨みつける。涼が目配せで合図を送った。「どうした?瑛