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第5話

枝月ゆい
開いたままの車のドアから吹き込む雨が、花音の青白い頬を濡らしていた。ほかにもどこをケガしたのかわからない。ただ、雨と土の匂いに混じって、かすかに血の匂いが漂っているのを感じた。

肋骨をえぐられるような痛みの中、失血と豪雨のせいで体温は少しずつ奪われていく。

ワゴン車の運転手の罵声を聞きながら、花音はゆっくりと目を閉じた。

……

再び目を覚ますと、鼻先にほのかな消毒液の匂いが漂ってきた。

目を開けると、明臣の助手・西村悠斗(にしむら ゆうと)が病室にいて、ワゴン車の運転手と示談について話し合っていた。

花音が身を起こそうともがくと、悠斗はすぐに駆け寄ってくる。「花音さん、お目覚めになりましたか。ここは神谷グループの病院です。明臣社長が腕の立つ整形外科医を手配し、手術は無事に終わりました。あとはしっかり療養していただければ、後遺症が残ることはありません」

「明臣は?」片手でベッドを支えながら体を起こすと、肋骨のあたりが鈍く痛み、息をするだけでも裂けるような感覚が走る。

「社長は擦り傷程度のケガです。仕事を片づけ次第、すぐこちらへいらっしゃいます」

「そう」花音は病室にいる二人へ視線を向けた。「話し声が気になって休めないので、外で話してもらえる?」

「も、もちろんです。申し訳ありません」悠斗は慌てて運転手を連れ、病室を出ていった。

廊下から足音が聞こえなくなると、花音は立ち上がり、重い体を引きずるように病室を後にした。

神谷家の病院なら、詩織もきっとここにいるはずだ。

頭上の案内板には「VIP特別病棟」と書かれていた。

花音は壁際のリハビリ用手すりにつかまりながら、一部屋ずつ病室のガラス越しに中をのぞいていく。

そして最上階の一番奥の病室で、予想どおりの後ろ姿を見つけた。

001号VIP病室。

明臣はドアに背を向け、ベッドの脇に腰掛けていた。

やせ細った少女が静かにベッドへ横たわり、少し黄ばんだ顔には人工呼吸器がつけられている。その寝顔は、まるで眠っているだけのように穏やかだった。

だが、花音が思いもよらなかったのは、里奈まで病室にいたことだった。

里奈は、明臣が詩織の手を握る様子を見つめながら、少し拗ねたような声で言う。「詩織の仇を討つためだって言うから、私は婚約を延期することまで受け入れたの。三年も待ち続けたのに、耳に入ってきたのは、あなたが花音にプロポーズしたって話だった。この三年間、私はあなたにとって何だったの?」

その言葉を聞いた明臣は立ち上がり、優しく里奈を抱き寄せた。

彼女をなだめる声は、花音が一度も耳にしたことのないほど甘く、深い愛情に満ちていた。

「詩織の姿を見ただろう。あんなに若いのに、今は冷たい機械に命をつないでもらいながら、ベッドで眠ることしかできない。花音にも、その何倍もの苦しみを味わわせなければ、俺は何事もなかったように君と結婚なんてできない」

かつて明るく生き生きとしていた少女が、今は生気を失って横たわる姿を見つめる。

里奈も胸を痛め、彼の胸に顔を埋めたまま、小さくつぶやいた。「怖いの。ずっと一緒にいるうちに、いつか本当に花音を好きになってしまうんじゃないかって」

「そんなことはない」明臣は愛おしそうに彼女の柔らかな巻き髪を撫で、一房を指先に絡めながら、穏やかに言った。「詩織の仇を討ったら、俺たちは結婚しよう」

その約束を聞いた瞬間、里奈の不安は一気に溶けていったようだった。

声もすっかり柔らかくなる。「明臣、責めたかったわけじゃないの。あなたが大切にしている人だから、私もずっと詩織を本当の妹みたいに思ってきたの」

彼女は顔を上げ、慕うような眼差しを向けた。「あなたの心に私がいるってわかれば、それでいいの。詩織をあんな目に遭わせた桐谷家を、涼真一人が刑務所に入ったくらいで終わらせるなんて足りないわ。花音も、当然報いを受けるべきよ……」

病室のガラス越しに、花音は抱き合う二人の姿を見つめていた。

明臣には自分への想いなど一片もなかったとわかっていたはずなのに、それでも胸の奥は何度も締めつけられるように痛んだ。

リハビリ用の手すりにつかまりながら、その場から逃げるように立ち去る。

もう、それ以上聞いていられなかった。

病室へ戻ると、看護師を呼び、点滴をつなぎ直してもらう。冷たい薬液が手の甲へ流れ込んでいくのを見つめながら、花音はふっと自嘲するように口元をゆるめた。

ずっと、里奈が一方的に明臣へ想いを寄せているのだと思っていた。まさか、本当の婚約者は彼女のほうだったなんて。

これまで花音は、明臣は自分にも十分優しいと思っていた。

けれど、里奈に向けるあの声を聞いて初めて気づく。

自分に向けられていたのは、せいぜい穏やかで丁寧な口調だっただけ。里奈に向けるものこそ、本当の優しさであり、心からの愛情だった。

――なんて、皮肉なんだろう。

……

点滴のボトルがもうすぐ空になる頃になって、ようやく明臣が病室に姿を現した。

その目はいつもと変わらず穏やかで落ち着いていて、口調にも気遣いがにじんでいる。

「医者の話では、肋骨が二本折れてる。でも肺には刺さらなかったから、それが不幸中の幸いだった。少なくとも、あと一週間は入院することになるそうだ」

花音は静かに天井を見つめたまま、淡々とした声で言った。「明臣、私たち、別れよう」

病室は三十秒近く静まり返った。

明臣は寄せていた眉をゆっくりと緩めると、優しく言い聞かせるように口を開いた。「花音。あの事故の状況じゃ、俺があそこに残っていても君を助けることなんてできない。それに、あの辺は電波が悪かったんだ。少し車を走らせないと、悠斗にも電話できなかった」

花音は、あの時に澄江からかかってきた電話を思い出した。

電波が悪かった。

そうか。

彼女は小さく笑い、もう言い返す気にもなれなかった。

どうせ、もうどうでもいい。

これから神谷家へ戻って、明臣のあの絵を何としても壊さなければならない。

「別れる」という言葉は、もう伝えた。

明臣が受け入れようと受け入れまいと、美術展が始まるその日、自分は必ず彼の世界から姿を消す。

……

一週間後。

花音は抜糸を終え、退院した。

明臣はわざわざ会社を休み、一日空けて彼女を迎えに来た。

もう抜糸も済み、自分で歩ける状態だったのに、それでも彼は構わず彼女を抱き上げ、部屋まで運んだ。

花音も抵抗する気はなく、ベッドに腰掛けたまま、使用人に自分の世話の仕方を細かく説明する明臣を静かに見つめていた。

毎日の食事内容から薬を飲む時間、さらには傷口を圧迫しないよう寝返りを手伝う方法まで、一つひとつ丁寧に説明している。

これ以上ないほど気が利いていて、誰が見ても理想の恋人だった。

その姿を眺めているうちに、花音はふっと笑みをこぼした。

昔の自分の見る目のなさを、ようやく許せた気がした。

こんな人に本気で騙そうと思われたら、引っかからない人なんているだろうか。

使用人への指示を終えた明臣は、部屋を出ていった。

花音は帰ったのだと思い、目を閉じて眠っているふりをする。

しかしほどなくして、聞き慣れた足音が再びベッドのそばまで戻ってきた。

目を開けると、明臣は四つの茶缶を抱えて立っていた。

それは、花音が作った白峰山茶の茶缶だった。

「花音。君からもらったお茶を里奈に渡したわけじゃない。里奈に送ったのは、悠斗が用意したお茶なんだ。彼は前に君の白峰山茶を一度飲んで気に入って、ネットで現地のお茶を取り寄せて里奈に送ったらしい」

そう言って茶缶をベッドの脇に置き、少しひんやりとした指先で彼女の頬をそっとなでる。「君にもらったお茶は、ちゃんとこっちにある。一缶だけは飲んでしまったから、返せるのは四缶だけだけど……だから、誤解しないでほしい」

花音は何も答えず、ただ静かに彼を見つめていた。

明臣は再び彼女の手を取ると、片膝をつき、あの夜の集まりで用意していたダイヤの指輪を、そっと彼女の指にはめた。

「花音、結婚してほしい。これからは俺が君を守る」少しかすれた声でそう告げる彼は、涼やかな目で真っすぐ彼女を見つめていた。

俗世から離れたような清らかな雰囲気をまとっていた彼の瞳に、今は確かな恋情が宿っていた。

その眼差しには、人を抗えなくするような魅力があった。

花音は指にはめられた指輪へ視線を落とし、かすかな声で尋ねた。「明臣。この何年もの間、私に隠していたことって、本当に何もないの?」

花音は彼の顔を見なかった。

それでも、自分の指先を支える彼の手が、ほんのわずかに強張ったのが伝わってきた。

けれど耳に届いたのは、いつもと変わらない冷静な声だった。「ない」

「本当に?」花音は否定されても驚かなかった。

顔を上げて微笑みながら彼を見つめる。「この家の奥庭だって、私は一度も入ったことがない。それに、あなたに妹がいることも、最近になって初めて知ったの」

その言葉が落ちた瞬間。花音ははっきりと見た。それまで穏やかで揺るぎなかった明臣の瞳に、ついに小さなひびが走ったのを。

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