LOGIN私、林原詩乃(はやしばら しの)の産後うつが完治したその日、車を運転していた内藤凌雅(ないとうりょうが)は突然口を開いた。 「実は、外にもう一つ家庭があるんだ」 不意打ちの一言に、頭の中がぐわんと鳴った。 凌雅は前を見たまま、ため息まじりに続けた。 「ここ数年、お前が産後うつで毎日死ぬだの生きるだのと騒ぐから、俺だって生き地獄だったんだよ。 もう治ったんだから、これからは本当の妻と子供のために時間を使いたい」 しばらく、私は声も出なかった。ようやく喉の奥から震える声を絞り出す。 「じゃあ……私とこの子は何なの?ただの偽物ってこと?」 凌雅はすぐには否定しなかった。やがて、悪びれもせず言い放つ。 「好きに思えばいい。どうせ子供のためにも、お前は俺のもとから離れられないだろ?」 私の体から、すーっと血の気が引いていった。 必死に治ったふりをしていただけの私は、一瞬にして元の深い闇へと引きずり戻された。
View More「お前に俺に口出しする資格があるのか?お前と詩乃は一体何なんだ?答えろ!」 凌雅の怒号が次第に遠ざかり、誰かがドアを開けて入ってきた。 幼馴染の榛名東朔(はるな とうさく)だった。 「じゃあ、私を病院に運んでくれたのはあなただったの?」 東朔は頷き、私の布団を掛け直してくれた。 「詩乃、何があっても自分を見捨てないで。これからは僕が守るから」 昔の頼れるお兄ちゃんのような姿は、今も変わらず私に安心感を与えてくれた。 それからの数日間、東朔は私を外へ散歩に連れ出し、子供の頃の思い出話をたくさんしてくれた。 いつも私を心から笑わせてくれた。 私も再び精神科に通い始め、毎日欠かさず薬を飲んだ。 そんなある日、髪を振り乱し、やつれ果てた華恋が私の前に現れた。 「林原、あんたは略奪女のくせに、本妻にのし上がりたくて気が狂ったのね! どうして凌雅に私と離婚しろって迫ったの?彼をどこに隠したのよ!」 私は警戒しながら一歩下がり、淡々と答えた。 「安心して。私は一生、凌雅と結婚するつもりはないから。そんなもの、とっくに欲しくなくなったわ」 その言葉を聞いた華恋は、私が皮肉を言っていると勘違いして、鼻で嗤った。 「教えてあげる。凌雅が私と結婚したのは、私を愛しているからよ。あんたは永遠に私には勝てないわ!」 だけど私が、いつ彼女と争ったというのだろう? 彼女は私を仮想敵と見なし、表面上は寛容に振る舞いながら、裏では私の「謝罪」動画をネットに晒したのだ。 感情が抑えられなくなった。 「誰もあなたと争ってなんかいないわ。 でも、あなたは私の母を死なせた。私に謝罪すべきじゃないの?」 返ってきたのは、華恋の冷笑だった。 「なんでよ?私が謝らないからって、あんたに何ができるの?」 全身の震えが止まらなかった。もう一度、警告する。 「謝れって言ってるの!」 次の瞬間、華恋が突然手を振り上げて私を叩こうとした。 咄嗟に避けた直後、華恋は強く蹴り飛ばされて地面に倒れ込んだ。 凌雅が見下ろすように彼女を睨みつけていた。 「今すぐ詩乃に謝れ!」 華恋はいかにも被害者のように泣きながら、悔しげに唇を噛み締めた。 「嫌よ!私は何も悪いことしてないのに、なんで謝らなきゃいけないの!」
まさか自分が、もう一度目を開けるとは思わなかった。 医師たちは皆ほっとした様子で、凌雅に無事を知らせようと電話をかけていた。 けれど私は、もがきながら酸素マスクを引き抜こうと手を伸ばした。 次の瞬間、凌雅が飛び込んできて、私の手を強く押さえつけた。 「詩乃、何をするつもりだ! やっとのことで助かったんだぞ、もう自分を苦しめるのはやめてくれ!」 その言葉は、嫌というほど聞き慣れていた。 この数年、うつ病の発作が起きるたびに、こんな無様な場面が繰り返されてきた。 凌雅はいつも真っ先に駆けつけ、手慣れた様子で私を死の淵から引き戻してくれた。 けれど、もうとっくに必要なくなっていた。 骨の髄まで冷たい風が吹き込むようで、震えが止まらなかった。 「離して!もう二度とあなたに構ってもらう必要なんてない!」 凌雅は必死に私を押さえつけ、泣きながら声を震わせた。 「死なせない、頼むから、詩乃」 本当に私を失いたくないように見えた。 けれど私だけが知っている。これはただの憐れみであって、私が求めていた愛ではないと。 暴れ疲れて、静かに天井を見上げた。 「まさか私が、いつの間にかネット中から叩かれる略奪女になってるなんてね。 お願いだから、私を放っておいて。さっさと自分の家庭に帰って」 凌雅は手を離さず、必死に弁解を続けた。 「もう華恋とは離婚した。詩乃、回復したらすぐに婚姻届を出そう。お前だけが俺の妻だ」 私は思わず笑ってしまった。 「もうとっくに欲しくなんかない。凌雅、絶対にあなたとは結婚しない」 「なら子供のことを考えろ!」 凌雅が低く吠えた。 「子供がいるのを忘れたのか。詩乃、せめて子供のために、もう一度きちんとした家庭をやり直そう」 あの出産の日、一人で恐怖に向き合ったせいで――子供は私にとって、ほとんど心の重荷になっていた。 子供が泣くたびに、私も一緒に泣いて、一緒に壊れていった。 それでも、子供がいて、凌雅が支えてくれたからこそ――私は、なんとか生きてこられたのかもしれない。 けれどようやく気づいた。ずっと夢見ていた家庭は、結局手に入らなかったのだと。 だからもう、彼らに縛られたくない。 「あなたは子供の父親よ。この子にもっといい暮らしをさせる力もあ
「りょう……凌雅?いつからそこに?」 華恋は引きつった笑顔を浮かべた。 凌雅は大股で歩み寄り、彼女のスマホを奪い取ると、録画されていたあの動画を目にした。 パァン! 躊躇なく、思い切り平手打ちを食らわせた。 「お前がここまで腹黒い女だったとはな。見抜けなかった!」 華恋の両親が慌てて割って入り、彼女をかばった。 「凌雅くん、何をするんだ! 確かに華恋のやったことは行き過ぎだったかもしれない。だが元凶は君だろう!二人の女と同時に付き合うべきじゃなかったんだ!」 その一言に、凌雅はその場で固まった。 しばらくして、大きく息を吐いた。 「お義父さん、お義母さん……」 一瞬の沈黙。そして呼び方を変えた。 「伯父さん、伯母さん。たとえ俺が悪かったとしても、華恋に詩乃の母親を死に追いやる権利がない!」 よそよそしい呼び方に、華恋は慌てて詰め寄った。 「なんで急に他人行儀なの?あなた……」 返ってきたのは、凌雅の冷笑だった。 「離婚だ。今すぐな。 やっとわかった。俺が本当に愛していたのは詩乃だ。お前みたいな毒蛇のような女じゃない!」 そう言うと、その場で弁護士に電話をかけ、離婚協議書の作成を指示した。 華恋は血相を変えて凌雅のスマホを奪い取ろうとし、声を震わせた。 「り、離婚ですって?私たちこそ長年連れ添った夫婦じゃない!あんな泥棒猫のせいで私と別れるなんて、絶対に認めないから!」 凌雅は即座にスマホを取り返し、淡々と離婚の段取りを進めながら、華恋を冷たく見下ろした。 「夫婦だと?昔のくだらない約束で籍を入れただけだ。愛などない。 詩乃がお前の存在を受け入れられないのだと思っていたが、まさかお前の方が詩乃を許容する気がなかったとはな。なら、こうするしかない」 華恋が無残に捨てられる姿を見て、彼女の両親は居たたまれなくなり、口調を和らげた。 「長い間、家族同然に過ごしてきたじゃないか。今回だけは華恋を許してやってくれないか。頼む」 「そうよ、うちの華恋は本気であなたを愛してるのよ」 二人を見つめながら、凌雅は詩乃の母のことを思い出した。 かつて自分も、詩乃を一生大切にすると誓い、彼女の母親を親しみを込めて『お義母さん』と呼んでいた。 なのに結局、自分が彼女を死なせ
「内藤凌雅さんですか?林原詩乃さんが睡眠薬の過剰摂取で運ばれました。至急、病院までお越しください。現在、危篤状態です!」 その言葉を聞いた瞬間、凌雅は完全に固まった。 視線は、ゴミ箱の横に転がる空の睡眠薬の小瓶に釘付けになっていた。 詩乃の産後うつは完治したはずじゃなかったのか?なぜまた自分を傷つけるような真似を? 考える余裕などなかった。よろめきながら病院へ駆けつけた。 しかし彼を待っていたのは、無情にも『危篤』と書かれた通知書だけだった。 「内藤さん、林原さんは現在も懸命な救命処置が続いていますが、体内に蓄積された遅効性の薬の成分が非常に多く、恐らく……」 「恐らくって何だ?詩乃が死ぬなんて……絶対に許さない!」 凌雅は声を振り絞って叫んだ。通知書を握る手が激しく震える。 そこには、遅効性の睡眠薬を過剰摂取したため危篤状態にあると、はっきり書かれていた。 特に備考欄にはこう記されていた。――【患者は重度の産後うつを患っている可能性あり】 どうりで詩乃が突然血を吐いたわけだ。どうりで感情を抑えきれなかったわけだ。 彼女のうつ病は、そもそも治ってなどいなかったのだ。 なのに、なぜ完治したなどと嘘をついたのか…… 凌雅は疲れ果てて壁にもたれかかった。全身の震えが止まらない。 さっきの自分は、いくらなんでもやりすぎだったのではないか? ただでさえ傷ついていた詩乃に、九十九回もの鞭を耐えさせたのだ。 遅れてこみ上げてきた後悔が、息ができないほど彼を押し潰していく。 ちょうどその時、スマホに返金の通知が届いた。 先ほど詩乃の母を治療するため病院へ振り込んだ高額な医療費が、返されている。 凌雅は受付に歩み寄り、訝しげに尋ねた。 看護師が端末を確認し、痛ましそうに画面をこちらに向けた。 「こちらの患者さんは先ほどお亡くなりになりました。娘さんが他人の家庭を壊したと認める動画をご覧になり、突発性の心臓発作を起こされたようです」 その瞬間、凌雅はその場に凍りついた。 詩乃の母が、あの場面を見るはずがない。 ふとスマホに目を落とすと、友人たちから同じ動画のリンクが大量に送られてきていた。 魔が差したようにそれを開き――息を呑んだ。 さっき華恋の家で起きた光景が、すべてネット
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