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朝夕、別れを語る

朝夕、別れを語る

By:  步蘅Completed
Language: Japanese
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【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】 このメッセージに、清水梨花(しみず りか)はしばらく言葉を失い、返答しようとしたその時、急にビデオ通話がかかってきた。 「梨花さん、見て!辰昭さんがまたあなたのために大奮発してるよ!」 画面に映し出されたのは、今まさに進行中のオークション会場だった。 前列に座る、気品と見栄えを兼ね備えた一人の貴公子が、何のためらいもなく、次々と数億の骨董品を落札している。 会場内は早くも沸き立っていた。 「九条家の御曹司、奥さんに本当に尽くしてるな。笑顔が見たいだけで、こんなに骨董を買うなんて」 「八十億なんて、彼にとっちゃ端金さね。聞いた話だと、九条さんは奥さんのために梨花荘って邸宅まで建てたらしいぞ。名前だけで、どれだけ奥さんを愛してるか、伝わってくるよな」 その隣で、一人の富豪が鼻で笑った。 「見せかけだけだよ。どうせ裏じゃ、女遊びしてるんだろう」 その一言に、すぐに非難の声が飛び交った。 誰もが九条家の御曹司の溺愛ぶりを語っている。 その囁きに耳を傾けながら、梨花はふっと苦笑した。

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Chapter 1

第1話

【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】

このメッセージに、清水梨花(しみず りか)はしばらく言葉を失い、返答しようとしたその時、急にビデオ通話がかかってきた。

「梨花さん、見て!辰昭さんがまたあなたのために大奮発してるよ!」

画面に映し出されたのは、今まさに進行中のオークション会場だった。

前列に座る、気品と見栄えを兼ね備えた一人の貴公子が、何のためらいもなく、次々と数億の骨董品を落札している。

会場内は早くも沸き立っていた。

「九条家の御曹司、奥さんに本当に尽くしてるな。笑顔が見たいだけで、こんなに骨董を買うなんて」

「八十億なんて、彼にとっちゃ端金さね。聞いた話だと、九条さんは奥さんのために梨花荘って邸宅まで建てたらしいぞ。名前だけで、どれだけ奥さんを愛してるか、伝わってくるよな」

その隣で、一人の富豪が鼻で笑った。

「見せかけだけだよ。どうせ裏じゃ、女遊びしてるんだろう」

その一言に、すぐに非難の声が飛び交った。

誰もが九条家の御曹司の溺愛ぶりを語っている。

「この世界で、まだ愛が存在すると信じられるカップルがいるとしたら、それはあの二人だけだよ」

「九条さんって、若くして名を馳せた天才画家だろ。でも一躍有名になったのは、あの『梨花』って作品だったよな。あれ、九条奥さんをモデルに描いたんだって。

彼は奥さんを全てのインスピレーションの源だと言った。彼の絵から、奥さんに対しての想いが伝わってくるよ」

その囁きに耳を傾けながら、梨花はふっと苦笑した。

彼女と九条辰昭(くじょう たつあき)の結婚は、典型的な政略結婚だった。

初めて会ったのは、婚姻届を提出した日だった。

実家で十分な愛情を受けられなかった彼女は、結婚生活に何一つも期待していなかった。

だが意外にも、辰昭から特別な優しさをもらってしまった。

彼は、彼女がピーナッツアレルギーであることを覚えてくれていた。

乳糖不耐症のことも、気遣ってくれていた。

誕生日には、高価で美しいプレゼントを用意してくれた。

梨花の心は、少しずつ、彼の方へ傾いていった。

彼を亡き母の墓まで連れて行った。

その場で辰昭は、厳かにこう誓ったのだ。

「お義母さん、どうかご安心ください。梨花は僕にとって、何よりも尊い大切な存在です。今生をかけて、梨花を必ず幸せにします。もし僕が梨花を裏切るようなことがあったら、一生、愛する人を失う罰を受けよう」

昔のシーンを思い出すと、梨花は自嘲するようにもう一度笑った。

いつから、すべてが変わってしまったのだろう。

おそらく、辰昭はもうあの世に去った初恋の妹・望月唯稚子(もちづき いちこ)を家に迎え入れ、大切にしていた時から。

あるいは、唯稚子が帰国した日、唯稚子が彼の胸に飛び込んだ……しかし彼がそれを止めなかった、あの瞬間から。

または、彼のシャツについた口紅の痕、鎖骨の下に残るかすかな歯形を見た、あの時からかもしれない。

梨花はもう、自分をごまかし続けることはできなかった。

「九条さん、これらすべて、奥さんへのお誕生日プレゼントですか?」

ビデオの声に、意識を引き戻された。

画面の中で、辰昭の澄んだ声が響いた。

「違います。ただのちょっとした物です。妻の誕生日には、もっと良いものを用意してます」

その一言に、またしても令嬢たちの羨望のため息が漏れた。

梨花が通話を切ろうとしたその時、かすかにこんな声が聞こえた。

「辰昭さん、本当に十日後、梨花さんに盛大な結婚式をやり直すつもり?」

「もちろんだ。梨花のことは最優先だ、しっかり準備しろよ」

「了解。じゃあ……明日の夜、唯稚子の打ち上げパーティー、梨花さんも誘う?」

「いや、彼女には知らせるな」

辰昭がまだ何か言っているが、梨花にはもう、それが聞こえなかった。

彼女は、静かに通話を切った。

そして、先ほど届いた最終確認のメッセージをじっと見つめながら……ゆっくりと、けど確かな動きで文字を打った。

【承知しました。お願いいたします】

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第1話
【九条奥さん、十日後に放火で偽装死をご計画の件、弊社への正式なご依頼ということで、よろしいでしょうか?】このメッセージに、清水梨花(しみず りか)はしばらく言葉を失い、返答しようとしたその時、急にビデオ通話がかかってきた。「梨花さん、見て!辰昭さんがまたあなたのために大奮発してるよ!」画面に映し出されたのは、今まさに進行中のオークション会場だった。前列に座る、気品と見栄えを兼ね備えた一人の貴公子が、何のためらいもなく、次々と数億の骨董品を落札している。会場内は早くも沸き立っていた。「九条家の御曹司、奥さんに本当に尽くしてるな。笑顔が見たいだけで、こんなに骨董を買うなんて」「八十億なんて、彼にとっちゃ端金さね。聞いた話だと、九条さんは奥さんのために梨花荘って邸宅まで建てたらしいぞ。名前だけで、どれだけ奥さんを愛してるか、伝わってくるよな」その隣で、一人の富豪が鼻で笑った。「見せかけだけだよ。どうせ裏じゃ、女遊びしてるんだろう」その一言に、すぐに非難の声が飛び交った。誰もが九条家の御曹司の溺愛ぶりを語っている。「この世界で、まだ愛が存在すると信じられるカップルがいるとしたら、それはあの二人だけだよ」「九条さんって、若くして名を馳せた天才画家だろ。でも一躍有名になったのは、あの『梨花』って作品だったよな。あれ、九条奥さんをモデルに描いたんだって。彼は奥さんを全てのインスピレーションの源だと言った。彼の絵から、奥さんに対しての想いが伝わってくるよ」その囁きに耳を傾けながら、梨花はふっと苦笑した。彼女と九条辰昭(くじょう たつあき)の結婚は、典型的な政略結婚だった。初めて会ったのは、婚姻届を提出した日だった。実家で十分な愛情を受けられなかった彼女は、結婚生活に何一つも期待していなかった。だが意外にも、辰昭から特別な優しさをもらってしまった。彼は、彼女がピーナッツアレルギーであることを覚えてくれていた。乳糖不耐症のことも、気遣ってくれていた。誕生日には、高価で美しいプレゼントを用意してくれた。梨花の心は、少しずつ、彼の方へ傾いていった。彼を亡き母の墓まで連れて行った。その場で辰昭は、厳かにこう誓ったのだ。「お義母さん、どうかご安心ください。梨花は僕にとって、何よりも尊い大切な
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第2話
まもなくして、辰昭が外から慌ただしく帰宅した。一日中何も口にしていなかったのか、梨花は立ち上がった拍子にふらつき、辰昭にしっかりと支えられた。「今日も、ちゃんと食べてなかったの?」辰昭の目には、深い心配の色が宿っていた。彼はそっと彼女を抱き上げた。ふたりの距離が近づいた瞬間、ふわりと甘い果物の香りが鼻をかすめた。梨花は香水を使わない。ならばこの香りの持ち主は、言うまでもなかった。「何考えてるんだ、梨花ちゃん?」辰昭は甘えるように彼女の頭を撫でた。その時、梨花はふと、彼の手にうっすらとついた紅い唇の跡に気づいた。結婚の翌日、辰昭はこっそりと腕に梨の花のタトゥーを入れていた。「君を心臓とつながる血管の上に刻むことで、僕たちの心は通じ合うんだ」彼はそう言っていた。しかし今、そこには、彼女以外の女の痕跡があった。胸がまた痛み出した。重く、鋭く、心臓を貫くような痛みだった。「もしかして、空腹すぎて頭がぼーっとしてる?」辰昭は面白そうに笑い、梨花の額にキスを落とした。そして使用人に、温めていた料理を運ぶように指示を出した。かつては毎日、辰昭自身が彼女のために料理を作っていた。だがいつからか、仕事が忙しくなり、その役目は自然と使用人へと移っていった。「僕も一緒に食べよう、食生活が乱れると胃を壊すからね」そう言いながら、辰昭は梨花をそっとダイニングチェアに座らせ、食器を揃え、手を洗ってから魚の骨を丁寧に取り除いてくれた。「……うん」梨花は、胸の奥に広がる苦さを押し込めながら、彼がよそってくれた料理を小さく口に運んだ。食べ始めて間もなく、辰昭の携帯が執拗に鳴り出した。彼は発信者の名前を一瞥し、わずかに眉をひそめた。梨花が気にしていないことを確認すると、手を拭き、立ち上がって別室へと向かって電話に出た。戻ってきた彼の顔には、どこか落ち着かない影が走っていた。「梨花、アトリエに急用ができた。行かなきゃ。今夜は待たなくていい、早めに休んで」そう言って、辰昭は今日のオークションで手に入れた骨董品をテーブルに置き、「もっといいものを改めて買うから」とだけ言い残し、慌ただしく家を出ていった。料理がすっかり冷えきる頃、梨花はようやく席を立ち、階上へ向かった。ベッドに横たわると、ち
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第3話
辰昭はその夜、徹夜で帰らなかった。梨花は広いリビングにひとりきりで座り、夜明けから真昼過ぎまで、ただじっと待ち続けていた。そのとき、SNSの通知音が鳴った。【人気画家・九条辰昭、妹弟子のイベントにサプライズ参戦!師弟愛にファン感涙!】梨花は自嘲気味に薄く笑った。やっぱりね。もうこれ以上待っても意味がないと悟った彼女は、ひとりで母の墓へ向かった。道中でリシアンサスの花束をひとつ買い、墓前では丁寧に墓石の埃を拭き、花を供え、そっと身を寄せるように座り込んだ。まるで、こうしていれば、母の温かな腕に抱かれているような気がした。夜になってようやく辰昭が帰宅した。梨花がまだ起きていたのを見て、声をかけようとしたそのとき、彼女のカバンの中から線香がはみ出しているのに気づいた。その瞬間、ようやく今日が梨花の母親の命日であったことを思い出し、辰昭の目の色が変わった。「梨花ちゃん、ごめん……今日はどうしても抜けられなくて……すべて僕が悪い」取り乱したように彼は彼女の頬に触れ、慣れた動作で梨花の涙ぼくろを撫でた。だが梨花の目には、彼の耳の後ろ、髪の下にうっすらと残るキスマークが映っていた。彼女は静かに彼を押しのけ、「大丈夫」とだけ口にした。辰昭は機嫌を取るように、翌日、ふたりの肖像画を描かせようと言い出した。「完成したら写真に撮って、お義母さんの墓前に供えよう。安心してもらえるように」断ろうとした梨花は、彼の押し切るような視線に負け、しぶしぶ頷いた。翌朝十時、約束していた画家がやってきた。「梨花さん、初めまして。唯稚子です、辰昭さんの……妹弟子です」辰昭の顔にわずかな動揺が走った。手配した画家は彼女ではないはずだった。「山本先生が今日は都合が悪くて、代わりに私が来ます」唯稚子は梨花をじっと見つめながら、意味ありげに笑った。「梨花さん、誰かに言われたことありますか?梨花さんは、私の姉とそっくりだって。姉も、ここに涙ぼくろがありますよ。でも違うのはね……姉のは本物で、梨花さんのは……描いたものですよね?」その言葉を聞いた瞬間、辰昭の表情が険しくなった。「唯稚子、言いすぎだ。僕の心の中で、誰よりも大事なのは梨花だ」一瞬、唯稚子の動きが止まった。だがすぐに辰昭に舌を出し、変顔をした
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第4話
梨花は、画室の扉の前に崩れ落ち、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。自分はもう、十分に強くなったと思っていた。だが、この光景を目の当たりにした瞬間、彼女の心は音を立てて砕け散った。どれほどの時間が経ったのか。中から衣擦れの音が聞こえてきた。しばらくすると、辰昭が洗面所まで彼女を探しに来て、彼女の真っ赤な目を見てぎょっとした。「梨花ちゃん、どうして泣いてるの?」梨花は首を横に振りながら、静かに答えた。「手を洗ってたとき、洗剤が目に入っちゃって……」彼はようやく安心したように、ふっと笑って彼女の頬を軽くつまんだ。「まったく、子どもみたいだな」絵がほぼ完成した頃、辰昭はマネージャーに呼び出され、その場を離れた。すると、唯稚子はついに仮面を外した。「梨花さん、さっきの見てたでしょ。どうしよう?辰昭さん、やっぱり私のことの方が好きみたいよ」そう言いながら、彼女はシャツのボタンを一つ外し、肌に刻まれた青あざを見せつけた。「彼と最後にしたのは、いつ?私たちみたいに激しかった?あなた、本当に彼を満足させられてる?」唯稚子はゆっくりと梨花に詰め寄り、軽蔑の眼差しで梨花を見下ろした。彼女は梨花の顔に、苦しみや激情の色が浮かぶことを望んでいた。しかし梨花は、何の表情も見せなかった。たとえ心はすでに砕け散り、息をするのもやっとだったとしても……唯稚子が去った後、梨花は茫然としたまま、画室へと足を運んだ。無性に……昔の絵が見たくなった。電気を点けず、暗闇の中を手探りで三階へ上がっていくと、誤って足をくじいてしまった。足首から鋭い痛みが走ったが、それは心の痛みには遠く及ばなかった。「理想のカップル」と称賛される数々の絵に、描かれていたすべての涙ぼくろが、今では嘲笑が滲んでいる。梨花はペンスタンドからカッターナイフを取り出し、絵に描かれた涙ぼくろを一つずつ、削り落としていった。それとともに、辰昭との美しい記憶も、少しずつ……強引に、断ち切っていった。辰昭が帰宅した頃、梨花はすでに寝支度を終えて、ベッドに入る準備を整えていた。辰昭は梨花がよく食べていた料理店の出前を持って、寝室へと駆け込んできた。彼は出前をテーブルに置き、正座で反省した。「ごめん、今日のは気分悪かったよね……唯稚子
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第5話
梨花は少し離れた隅に立ち、試着室のカーテンの隙間から、二人の絡み合う姿を見つめていた。心臓を握り潰されるような痛みに襲われ、胃の奥が激しくかき乱される感覚に包まれた。込み上げる吐き気をどうしても抑えきれず、彼女はオエッという声が漏れ、身体が小刻みに震えた。涙が頬を伝い、あとからあとからあふれ出し、全身の力が抜け、梨花はその場に崩れ落ちた。その背後で、カーテンの奥の唯稚子が、得意げに微笑んでいたことに、彼女は気づかなかった。家に戻った梨花は、異様なほどの静けさに不安を覚えた。気を紛らわせようとテレビをつけると、画面には辰昭の新作展が映し出された。そこには、明るい黄色のドレスを身にまとう少女が、草原を自由に駆け回る絵があった。専門家の解説によれば、この作品はこれまでの彼の画風とはまったく異なるものだという。以前の静かで柔らかなタッチとは異なり、生き生きとしたエネルギーに満ちあふれていた。少女は後ろ姿のみで、顔は描かれていない。それでも、彼女に注がれた愛情は、画面から強く伝わってくる。【跳ねる髪の一本一本が、まるで風さえも彼女を偏愛しているように描かれてる】ネットでは、皆が冗談交じりに【九条若様がまた恋に落ちた】【梨花さんとの結婚が第二段階に入ったのだ」と話題にしていた。だが、梨花だけは知っていた。あの絵のモデルは自分ではないことを。あれは唯稚子……あるいは、辰昭が夢にまで見続けて、亡くなった初恋・望月唯稚葉(もちづき いちは)だった。梨花は深く息を吸い込み、胸の奥に渦巻く痛みを無理やり押し込めて、親友の咲希(さき)に電話をかけた。咲希が来るのを待ちながら、梨花はこの数年間、辰昭から贈られた品々をひとつひとつ整理し始めた。結婚一年目、不安でいっぱいだった彼女のために贈られたブレスレット。「この世で君を繋ぎとめた。君はもう僕のもの。どこにも行かせない」結婚二年目、亡き母を想って涙した彼女のために、彼は一緒に願い事を書いたラッキースターをいっぱい折り、瓶に詰めてくれた。「母さんが恋しくなったら、ひとつ開けて。いつでもどこでも、すぐに君のそばに戻ってくる。これからの人生は、ずっと僕が一緒だから」梨花は、ラッキースターを一つずつ、丁寧に開いていった。「小さな木を植える」「コーギーを飼う
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第6話
翌朝、目が覚めると、辰昭は珍しく早く出かけずにいた。彼は梨花のために歯磨き粉を絞り、彼女が顔を洗うのをじっと見守った。「外の風は冷たい。だから、うちの梨花ちゃんの顔は傷つけさせないよ」そう言いながら、明日すごく大きなサプライズを用意していると、神秘的に話し始めた。話し終わらないうちに、親友の灰原碧(はいばら あお)から電話が立て続けにかかってきて、何か決められないことがあるから急いで出かけてと言った。辰昭は申し訳なさそうに梨花を見ると、彼女が許しているのを確認してから家を出た。彼が出かけたのを確かめてから、梨花は依頼していた偽装死のチームと連絡を取り、翌日の細かい点をすべて確認し、車で梨花荘へ向かった。何日も来ていなかったせいか、すべてがとても見知らぬ場所のように感じられた。電話で海都市博物館と連絡を取り、一時間後に館長自らが訪れた。「梨花、これらをすべて国に無償で寄付すること、本当にいいのか?」博物館長の土井航(どい わたる)は梨花の師匠の弟弟子で、いわば叔父のような存在だった。彼女は迷わず頷いた。「もし何か困ったことがあったら、私に相談しなさい。無理しちゃだめだよ」梨花は何も答えず、中央に置かれた天女像を見つめていた。天女は頭を垂れ、優雅な姿勢で微笑みを湛えている。苔に覆われ薄暗くなっていても、世の人々を憐れむ心がそこにあった。梨花はもうここを去るけれど、これらの骨董品と一緒に葬られるべきではない。「大丈夫です、土井おじさん、ご心配なく」梨花が真実を言わないのを見て、航もそれ以上は尋ねず、助手に文物の搬出を指示した後、彼女の肩を軽く叩いて別れを告げた。「お大事に」梨花荘には彼女一人だけが残り、家はがらんとしていた。その時、SNSの通知音がほ鳴った。唯稚子のイラスト集オンラインサイン会のニュースだった。注目を集めるため、タイトルは【美女画家、かつて愛のために流産】とつけられていた。梨花は思わずタップすると、画面にはちょうど唯稚子の腹の傷跡が映し出されていた。「あの時、先輩は私がまだ若くて、妊娠が危険だったから、心配して手術に付き添ってくれたの」唯稚子は幸せそうに微笑んだ。「たぶん三年前くらいかな、彼はF国へ研修に行ってた……失った赤ちゃんにぴかちゃんという名前を
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第7話
手に持った携帯が滑り落ち、辰昭はまるで全身の力を奪われたかのように、その場に倒れ込んだ。電話の向こうからは「もしもし、もしもし」と声が続いていたが、辰昭にはまるで聞こえなかった。彼は狂ったように、何度も碧のスマホに映る動画を見返した。「ありえない、ありえないよ、梨花のはずがない……」碧は焦った表情で辰昭の腕を掴み、急いで外へと連れ出した。ランボルギーニのアクセルは底まで踏まれ、何度も赤信号を無視しながら、ようやく梨花荘に到着した。「九条さん、ご愁傷様です」辰昭はまるで刺激を受けたかのように碧の手を振り払うと、一拳をその顔に叩き込んだ。「誰が僕の梨花を呪うんだ!僕の梨花が死ぬはずがない!なぜそんな不吉なことを言うんだ」彼は突然感情を制御できなくなり、数人に取り押さえられて地面に抑え込まれた。さっき殴られた人は隣の人物の手から証拠袋を受け取った。中には一つのダイヤモンドの指輪が入っていた。辰昭はぼんやりとそれを見つめた。それは二人が婚姻届を出したとき、彼が梨花のためにデザインしたピンクダイヤの指輪だった。世界にただ一つの指輪だ。辰昭は急に眩暈がした。この瞬間、彼はついに認めざるを得なかった。目の前の白布に包まれた遺体こそが梨花であると。「梨花!」辰昭は悲しみに打ちひしがれ、その場で意識を失った。目を覚ましたのは二日後だった。辰昭の母親は息子の狂気じみた様子を見て、胸が張り裂けそうになり涙を流した。「咲希が昨日来てくれてね、梨花の葬儀を全部引き受けるって。火葬も済ませ、明日告別式だそうよ」「告別式」という言葉に突き動かされた辰昭は、画室の扉を勢いよく開けた。月明かりが絵を照らし、まるで銀のベールをかけたように輝いている。突然、彼は『梨花』に目が留まった。滑らかだった画用紙の上に穴が開いていた。ちょうど梨花の顔にあった涙ぼくろの位置だった。彼の胸はぎゅっと締め付けられ、急いでほかの絵を調べた。一枚また一枚と、涙ぼくろの位置がナイフで切り取られていた。辰昭の両手は震え、罪悪感が洪水のように押し寄せ、彼を激しく苦しめた。彼は想像できなかった。梨花がどれほど絶望した気持ちで、一つずつ削っていったのかを。彼は後悔し始めた。なぜあの時涙ぼくろをつけたのかと。
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第8話
この葬儀は梨花を慕うブロガーによって生中継され、ネット上で上大炎上した。辰昭と梨花のカプを推したファンたちは、辰昭を最低な男だと罵り、彼が梨花を裏切っただけでなく、ファンたちまで裏切ったと憤った。一方、唯稚子と先輩のカプを推したファンは、自分たちが知らないうちに不倫の助けの手になったことに気付き、悔しさのあまり自ら頬を叩く者も現れた。現在、両陣営のファンはかつてないほど結束し、辰昭と唯稚子のアンチに転向している。彼らはネット上で罵詈雑言を浴びせ、唯稚子の遺影写真にまで加工して拡散した。また唯稚子の個展会場に押しかけ、絵にペンキや汚物をかける者もいた。さらに酷い者は、死んだネズミが入った郵便物や脅迫メールを、唯稚子や辰昭のアトリエに送りつけ、怒りをぶつけた。以前に唯稚子のイラスト集を買った人々は集まり、横断幕を掲げて唯稚子のアトリエ前で返金を強く要求した。すぐに、辰昭と唯稚子の評判は地に落ち、誰からも軽蔑される存在となった。辰昭は九条家のバックアップがあるため、誰も彼に手を出せなかった。だが唯稚子は違った。自己保身のため、美術協会は彼女を除名し、永久に採用しないことを宣言した。唯稚子は今や家から一歩も出られず、焦って辰昭に連絡しようとしたが、彼はずっと電話に出なかった。梨花の初七日法要が終わると、辰昭は唯稚子の家を訪れた。「辰昭さん!やっと来てくれた!」唯稚子は甘えた声で飛びつこうとしたが、ふと違和感を覚えた。外は晴れ渡っているのに、辰昭の目は冷たく凍りついていた。彼女の顔から血の気が引いた。辰昭がが助けに来たのではなく、責めに来たのだと悟った。「望月、これまで僕の知らないところで、どれだけのことをしてきたんだ?」辰昭は迫りながら、歯を食いしばるように言葉を絞り出した。唯稚子は胸が締め付けられ、声が震えていた。「私……ただ、彼女が毎日辰昭さんを独り占めるのをやめさせたかっただけ……愛が深ければ独占欲も強くなるの。辰昭さん、私の何が悪いの?ただあなたを愛しすぎただけよ!」彼女は辰昭の足元に倒れ込み、涙を流して泣いた。辰昭は冷ややかにその芝居を見下ろしていた。突然、彼は手を伸ばし、唯稚子の首を掴んだ。目には狂気が宿っていた。「彼女に近づくなと言ったはずだ」唯稚子
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第9話
辰昭はその言葉を聞いて、頭が痛くなった。まさか、唯稚子が梨花の父親を説得したとは思わなかった。辰昭の暗い顔を見て、唯稚子は狂ったように笑った。「ははは、九条辰昭、私を捨てたいの?一生無理よ!」彼はもう唯稚子に構う暇もなく、急いで家へと走り出した。彼が去って間もなく、唯稚子は精神障害があり、他人の生命を脅かす恐れがあるという理由で、南苑平通2番600号、海都市で最も有名な精神病院へ連れて行かれた。かつて彼女の姉、唯稚葉の主治医だった医師が、今度は彼女の主治医となった。車のエンジンを止めることなく、辰昭は家に駆け込んだ。ソファには辰昭の父親・九条哲也(くじょう てつや)と梨花の父親・清水正義(しみず まさよし)が座っており、何の話をしているのかは分からなかったが、二人とも楽しそうに笑っていた。隣には梨花の腹違いの妹・清水愛子(しみず あいこ)は、はにかんだ表情を浮かべていた。清水正義は辰昭を見ると、大股で歩み寄り、申し訳なさそうに彼の肩を叩いた。「辰昭さん、すまなかった。梨花が役に立たず、君と九条家に恥をかかせてしまって……だが心配ない」彼は話の調子を変え、目に計算の色を浮かべた。「唯稚子は彼女とは違う。きっと素直に君の妻として、九条家の嫁としての役目を果たすだろう。それに……」正義は妊娠報告を取り出した。「唯稚子は君の子を身ごもってる。もうすぐ父親になるんだよ」辰昭はその報告書をぼんやりと見つめた。避妊はしていたはずなのに、どうして?「ありえない、子どもが僕のはずがない!」彼は正義の手を振りほどき、激しく息遣いを荒げた。「認めない!あなたたち、僕を何だと思ってるんだ?梨花を何だと思ってるんだ?」九条哲也は落ち着いてお茶を飲んでいたが、息子の乱れた態度に怒り、手に持っていた茶碗を床に叩きつけた。正義の目に一瞬、かすかな怒りの色が浮かんだが、すぐに笑顔で哲也に手を振った。「辰昭さんは純粋な性格だからこそ、俺は安心して娘を彼に託したんだ」正義にとって、辰昭と結婚するのが誰であろうと問題ない。名目上自分の娘であれば、九条家との利益の連鎖は途切れないのだ。哲也は答えず、険しい顔で執事に命じた。「この愚か者を連れて上がれ。納得するまで出すな」辰昭は強制的に上の階へ連れて行か
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第10話
梨花は呆然とした。まさかこの件が椋也と関係があるとは思わなかった。彼女が驚きで言葉を失うのを見て、椋也もからかうのをやめた。「長い付き合いだ。こんな小さなことなら喜んで手伝うさ」梨花の心に言いようがない感情が湧き上がった。彼女は顔を上げ、目の前の男をじっと見つめた。椋也は相変わらず優しくて礼儀正しく、眉間には成熟と落ち着きが加わっていた。金縁の眼鏡の下の瞳は、彼女の心の奥底まで見透かすようだった。「ありがとう」梨花はお礼を言い、椋也の微笑みに向き合いながら、これでは誠意が足りないと思った。「晩ご飯、おごらせて」口にしてすぐ後悔した。親しくもない間柄なのに、しかもなぜか椋也の前ではいつも 言葉で言い表せない感覚があった。「じゃあ遠慮なくいただくよ」そう言うと、彼の電話が鳴った。梨花にごめんを言い、窓辺に行って電話に出た。梨花の視線はふと椋也の手首に落ちた。日差しに照らされた紫檀の数珠ブレスレットが、より時を重ねた風合いが引き立ち、どこか見覚えがあった。この数珠の珠は普通の丸珠ではなく、一つ一つが蓮華の形に彫られていて、材質も見た目も、10年前彼女が誕生日に師匠から贈られた品と瓜二つだった。椋也は彼女の視線に気づき、彼女の疑問を理解した。「この数珠は……」「おやじが特別に仕入れた材木で、君のを作った後、まだ残りがあるから作らせてもらったんだ」椋也は軽い口調だったが、梨花はどこかおかしいと感じていた。夜、梨花は珍しく濃いメイクをした。もともと清楚な顔立ちが一変して妖艶になり、知っている人でもすぐに気づかないほどだった。しかし念のため、彼女はプライバシー性が高い個室のある店を選んだ。料理は椋也に注文させ、彼も遠慮せず、慣れた口調で料理名を告げた。だが、聞いているうちにどうもおかしいと感じた。椋也は六品の料理を注文したが、どれも彼女の好きなものばかりだった。「どうして私の好みを知ってるの?」梨花はついに我慢できずに尋ねた。椋也は意味ありげに彼女を見て言った。「ただ当ててるだけだ」彼女が問い詰める間もなく、外から店員の会話が聞こえてきた。「ほら!あの九条家の御曹司、新しいスキャンダル!妻が亡くなってまだ日も浅いのに再婚だって!」「まさか……そんなことしたら袋叩きに
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