LOGIN夫の涼介の浮気に気づいたその日、私は産後鬱を患った。 あの日を境に、いったい何度繰り返しただろう。私はまた、薬を飲み込んだ。 ベビーカーの中で、息子が怯えて泣きじゃくった。 親友の愛梨が半狂乱になって、私の口から薬を掻き出した。 涼介は私を抱きかかえて救急処置室に運び込み、後ろめたそうに誓った。 「小夜、お前が1日長く生きるごとに、願い事を1つ書いてくれ。 お前が元気になったその日に、全部叶えてやるから」 1000個目の願い事を書き終えた頃、病院から退院の知らせが届いた。 心を弾ませながら、私は予定より早く家に帰って、みんなを驚かせようとした。 けれど、以前掛けてあったはずのウェディングフォトは、見覚えのない写真の数々に置き換えられていた。 愛梨と、涼介と息子の家族写真。3人で旅行した時の写真。 最後の空いた枠には、ディズニーランドと書かれたタグが付いていた。 サブアカウントに切り替えて愛梨のインスタを開くと、一番上に出てきたのもディズニーの投稿だった。 【二人に付き添うのもこれが最後。生まれ変わったら、家族になれますように】 画面いっぱいに、惜しむようなコメントが並んでいた。 私たち3人の共通の友人もいれば、私の同僚もいた。 一番下のコメントは、涼介のものだった。 【愛梨、ありがとう。この3年間、俺が息をつける場所をくれたのはお前だった】 【もし来世があるなら、どうか俺の妻になってくれ】 震える指先で彼女のページを開くと、同じような投稿が1000件以上も並んでいた。 3年間、1000以上の昼と夜。 一度も欠かすことなく。 私は黙って、願い事ノートを取り出した。 最後の一文「あなたと永遠に一緒にいたい」を、「あなたの願いが叶いますように」に書き換えた。 来世を待つ必要なんてなかった。 愛梨は確かに、私よりずっと相応しい妻に、母親になれる。 だから涼介の願いを叶えるために、私が先に旅立つことにする。
View More涼介がアルバムを1冊取り出した。そこには、私が昔撮影した雑誌の表紙が収められていた。私は一瞬呆然とした。ずっと探しても見つからなかったものだ。てっきり、もう失くしてしまったのだと思っていた。まさか、涼介がこっそりしまっておいてくれたなんて。朝陽がアルバムを開き、指先で写真の中の私の顔をなぞった。涙が写真の上に落ちて、小さな花のようににじんで、朝陽は慌てて、それを一生懸命拭った。「だめ、ママの顔、汚しちゃだめだ」涼介も目を赤くしていた。私はただ、冷めた目でその光景を見つめ、声もなくため息をついた。翌日、愛梨は法廷に立たされた。罪状は、私の検査報告書を改ざんした、間接殺人にあたる罪だった。愛梨は自分にもう逃げ場がないと悟った。ならばいっそと、記者たちの前で、涼介との関係を洗いざらいぶちまけた。「涼介、自分がそんなに立派な人間だとでも思ってるの?この3年間、小夜が病院に閉じ込められている間、あなたは息子と一緒に、私といろんな所を旅行して回ってたじゃない。結婚するなら私がよかったって、あなた自身の口で言ったのよ。一番小夜に申し訳ないことをしたのは、私じゃない。あなたよ!」その一言一句は、記者の手によってそのままネットに暴露された。愛梨は懲役3年の判決を受けた。涼介もまた、世間の非難の矢面に立たされた。株価は急落し、株主たちは対応に追われて右往左往した。秘書は冷や汗を拭いながら、涼介に何度も電話をかけた。だが当の本人は動じるふうもなく、顔色一つ変えずに電話を切り、ただひたすらに薔薇の花を束ねることに没頭していた。生前、私が一番好きだった品種の薔薇だった。昔、涼介とデートするたびに、私はいつも花屋の花のセンスが悪いと文句を言っていた。それで涼介は独学で花の扱いを学び、私のために綺麗な花束を作ろうとしてくれた。病院で過ごした日々、私も何度となく口にしていた。もう一度、涼介が自分の手で束ねてくれた花が欲しいと。そのたびに涼介は、困ったように笑って言うだけだった。「今は忙しいんだ。今度、包んでやるよ」私は何年も待ち続けたが、その花が届くことはなかった。私が死んで、ようやくこの花束は、私の墓前に届けられた。涼介は久しぶりで手が慣れなかったのか、薔薇の棘で手のあちこちを
まもなく、涼介は愛梨に召喚状を送りつけた。その日、玄関の扉が激しく叩かれ、涼介が扉を開けると愛梨が出てきてどさりと膝をつき、その場に崩れ落ちた。愛梨は病衣を着たままだった。おそらく病院から抜け出してきたのだろう。彼女の顔は真っ青で、身を切るように泣いていた。「涼介、私が悪かった。本当に、悪いのは私ってわかってる。4年間愛し合った仲だと思って、どうか許してくれない?」愛梨が取り出した指輪が、私の目を深く刺した。その指輪は、かつて涼介が私にくれたものと、瓜二つだった。涼介は笑いながら、これは「許しの指輪」だと言っていた。これから先、喧嘩をして涼介を怒らせてしまった時は、この指輪を取り出して見せればいい。「そうすれば、俺の機嫌はきっと直る」と。私は笑顔で頷いたものだった。なるほど、この指輪は、涼介が私だけに贈ったものではなかったのだ。愛梨も、同じものを持っていた。今、涼介の体がぴくりと震えた。愛梨はここぞとばかりに、泣きながら訴え続けた。「涼介、私は小夜の一番の親友だったのよ。あの子の死だって、私一人のせいじゃないでしょう。私を刑務所に送ったりしたら、絶対に世間の噂になるわ。どうせ小夜はもう死んでしまったんだから、このことはもう終わりにしましょうよ。これから毎年、お墓参りをして詫び続けるって約束するから」愛梨の泣き方は、真に迫っていた。だが涼介の表情は、少しずつ暗く沈んでいった。涼介は足を引き、感情のない声で言った。「召喚状を取り下げるつもりはない。法廷に立って記者の前で、好きなだけ好きに言えばいい」愛梨は泣くのをぴたりと止め、信じられないという顔で涼介を見た。「涼介、あなたの会社は今、まさに上り調子じゃない。もし悪影響が出たら、間違いなく大打撃を受けるわよ。本当に、私にそこまでさせるつもり?」涼介の口調は、あくまで軽やかだった。「ああ、好きにしろ。もともと小夜には借りがある。これはその報いだと思うことにするよ」愛梨は恥をかかされた怒りで我を忘れた。「涼介、頭がおかしくなったの?これがあなたの会社にどんな影響を及ぼすかわかってるの?何代にもわたって積み上げてきた黒木家の身代も、あなたが何年もかけて築いてきた利益も、全部大打撃を受けるのよ。それでもいいの?」
「なんでそんなこと言うのよ!この子は私の子供なのよ、堕ろさない!」涼介は愛梨を見もせず、相変わらず淡々とした口調で言った。「お前に選択肢はない。そもそもお前がこんな真似さえしなければ、別荘を買ってお前をゆっくり休ませてやれたし、俺たちの子供も健やかに育てられたはずだ」涼介はそこで言葉を止めた。だが小夜は死んでしまった。涼介の心も、彼女と一緒に逝ってしまったのだ。人間とは、つくづく不思議な生き物だ。自分の近くにいる時は、それを当たり前だと思う。失って初めて、気が狂ったように取り戻そうとする。涼介が冗談を言っているのではないと悟り、愛梨は更に取り乱した。傍らで黙り込んでいる朝陽の腕を掴み、泣きながら訴えた。「朝陽、私のこと、一番好きだったよね?お菓子もおもちゃもたくさん買ってあげるから、パパを説得してよ。本当に刑務所に入ることになったら、私、終わりなんだから」だが朝陽は、もう以前のように彼女の言いなりにはならなかった。顔にはまだ涙の跡が残ったまま、冷たい表情で愛梨の指を1本1本振りほどいた。「パパから全部聞いたよ。愛梨さんは、僕のママじゃない!愛梨さんが――ママを傷つけたんだ!絶対に許さない!」愛梨は朝陽に突き飛ばされ、そのまま床に倒れ込んだ。下腹部に、突然激しい痛みが走った。愛梨がうつむくと、下半身から血だまりが広がっているのが見えた。「嫌、嫌ぁ!」愛梨の泣き声が、フロア中に響き渡った。しばらくして、愛梨は緊急処置室へと運び込まれた。医師が困った様子で、涼介に1枚の書類を差し出した。「黒木様、実は姫川様のお腹の赤ちゃんは、まだ助かる可能性があります。本当に手術を諦められますか?」「ああ、諦める」涼介は表情を変えずに署名すると、朝陽に向かって手を差し伸べた。「行こう。ママのために、綺麗なお墓を選びに行こう」朝陽は鼻をすすりながら、その手を握った。家に帰ると、涼介の足に何か小さな薬瓶が当たり、拾い上げて見た瞬間、涼介の顔色が変わった。慢性毒だった。3年前、小夜が薬を飲んで病院に運ばれた事件以来、家中の薬はすべて金庫に厳重にしまい込んでいたはずだった。この瓶だけは、小夜がどこかに隠し持っていたのだろう。検査報告書に記されていた、体内の薬物濃
愛梨の心臓が、どくりと跳ねた。さっきの検査結果には、確かにいくつか問題があった。だが自分でもよく確かめないまま、こっそり人に頼んで書き換えさせただけだった。ただ、涼介が今でも自分を信じてくれるかどうか、試してみたかっただけだ。ついでに、小夜にも自分の立場をわきまえさせようと思っただけ。できるだけ早く、黒木家の妻の座を譲ってもらいたい――それだけだったのに。小夜を、死に追いやるつもりなんて一度もなかった。愛梨は無理やり笑みを作った。「涼介、冗談やめてよ。小夜、さっきまで元気だったじゃない。死ぬなんてありえな……」涼介は上着をめくり、中の骨壺と死亡診断書を見せつけた。それが、刃物のように愛梨の目を刺した。愛梨の胸はますます重くなり、手の震えが止まらなくなったが、必死に心の底の動揺を押し殺した。「涼介、話はいったん家に帰ってからにしましょう。病院に忘れ物をしたから、先に取りに行くわ。あなたは先に朝陽を連れて帰って、待ってて」そう言うと、愛梨はよろめくように病院へと駆け戻った。病院で目についた看護師を、無理やり呼び止めた。「お願い、黒木小夜さんのさっきの検査報告書、見せてちょうだい」看護師は事情がわからないまま、それでも言われた通りにした。何項目もの数値が基準を大きく超えているのを見て、愛梨の体がびくりと震えた。小夜は、薬を大量に飲んでいたに違いない。もし自分が小夜の報告書を書き換えていなければ、涼介はきっと異変に気づき、彼女を救えていたはずだ。自分が――自分こそが、小夜を死に追いやったのだ。愛梨は恐怖のあまり、体の震えが止まらなくなった。そうしてとうとう覚悟を決め、この報告書を消してしまおうとマウスを手に取った。その時、大きな音を立てて扉が開いた。愛梨が振り返ると、深い淵の底のように暗い目をした涼介の視線とぶつかった。「愛梨、何をするつもりだ」愛梨は慌てて画面を消した。「な……なんでもないわ。涼介、どうしてここに?」涼介は取り合わず、大股で歩み寄って愛梨を押しのけ、マウスを奪おうとすると、背後から愛梨に強く抱きつかれた。愛梨は目を赤くして、泣きながら訴えた。「涼介、お願い、そんなことしないで」涼介は冷たい表情で愛梨を振り払い、すぐさまさっきのページを