LOGIN私の名前は白井夏帆(しらい かほ)。娘を産んだとき、夫の白井悠(しらい ゆう)は篠原美里(しのはら みさと)の出張に付き添ってヨーロッパにいた。 悠が帰国したのは、娘が生まれてから五日後のことだった。 悠は保育器から娘の白井安奈(しらい あんな)をそっと抱き上げ、申し訳なさそうに私を見つめた。 それ以来、悠は毎日のように育児について調べ、ベビーシッターを探し、産後の私の回復具合まで細かく気にかけるようになった。 夜中に安奈が目を覚まして泣き出すたび、悠は真っ先に飛び起き、安奈を抱き上げて背中を優しくトントンと叩きながらあやしてくれた。 それなのに私は、次第に悠を避けるようになり、何かと理由をつけて別の寝室に移った。 ある日、親友の鳴海遥(なるみ はるか)が会いに来て、小さな安奈をそっと抱きながら言った。 「あの日は本当に生きた心地がしなかったよ。急に転んで早産になっちゃうし、悠さんに何度電話しても出てくれないし…… でも、悠さんも帰ってきたし、今はいいパパになろうって頑張ってくれてるんだから、よかったよね」 私は安奈の頬を指先でちょんとつついて答えた。 「うん。でもね、私、一人で安奈を育てることになっても、ちゃんとやっていけると思うんだ」 その瞬間、遥は顔色を変え、私の手の甲を軽く叩いた。 顔を上げると、哺乳瓶を手にした悠が、沈んだ表情で部屋の入り口に立っていた。
View More「あの頃、悠は美里さんと別れたばかりで、ずっと落ち込んでいてな。夏帆はいい子だし、そばにいてくれたら、あいつもそのうち立ち直れると思ったんだ。でも、余計なことをした。無理に二人をくっつけようとするんじゃなかったよ」私は目を伏せた。「おじいさまのせいじゃないですよ。誰が悪かったなんて、そう簡単には言えませんから。それに、これからも安奈を連れて、ちょくちょく遊びに来ますから。心配しないでくださいね」悠の祖父は眼鏡を外して拭き、小さくうなずいた。「ああ……」話を終えて外に出ると、悠がポケットに手を入れて待っていた。「夏帆、俺が初めてお前を見かけたの、いつだと思う?」私は首を振った。「お前がお父さんと一緒にじいさんのところに来た日だよ。俺、そのとき二階にいたんだ。お前、すごく緊張してたけど、目がきらきらしてたのは今でも覚えてる。そのあと会社で、お前の上司がお前のことをよく褒めてるのを聞いてさ。仕事もできるんだなって、ますます気になった。それからは何かと口実を作って会いに行ってたんだ。気づいたら、好きになってたんだと思う」悠の話を聞いて、昔のことを思い出した。あの頃は、悠とよくばったり会っていた。偶然だと思っていたのに、悠のほうから会いに来てくれていたなんて。でも、私だって同じだった。悠に会いたくて、偶然を装ったことがあった。そうか。あの頃は、お互いに好きだったんだ。それなのに、肝心なところではずっとすれ違っていた。「……そうなんだ。でも、明日は離婚届を出しに行くんだから、忘れないでね」悠はしばらく黙ってから、小さく「ああ」と答えた。翌日、二人で役所に行き、離婚届を出した。外に出ると、悠はまた目を赤くしていた。悠が泣くのを見たのは、これで二度目だった。「夏帆、これからも二人に会いに行っていいか?」「いいよ」「安奈が大きくなったら、保護者会にも行っていいか?遊園地にも連れていっていい?」私は驚いて悠を見た。そうか。あの日、母との話を聞いていたんだ。私が子どもの頃、父に何をしてほしかったのかも。きっと安奈には同じ思いをさせたくないんだろう。それが私への償いにもなると思っているのかもしれない。私ははっきりとは答えなかった。「安奈が大きくなって、本人がそうしてほしいって言ったらね」
「お母さん、昔お父さんの浮気がわかったとき、私のために離婚しないって言ったよね。お父さんがいないと、私が周りからいろいろ言われるからって、ずっと我慢してたんでしょ?でも、離婚しなかったからって、お父さんが私に何かしてくれた?誕生日もろくに祝ってくれなかったし、保護者会にもほとんど来なかった。遊園地にだって、一度も連れていってくれなかったじゃない。それなのに、浮気相手の子は連れていってたんだ」母は言葉に詰まった。「それは……仕方なかったのよ。あの頃、お父さんは会社を始めたばかりで忙しかったし。それに、あなたは女の子だったから……ほら、弟が生まれてからは、お父さんも……」私は母の言葉を遮り、思わず声を荒らげた。「お母さんはさ、私の気持ち、少しでも考えたことある?それでも母親なの?私が安奈を産む前、何度も一人で泣いてたの、知ってた?どうしてこんな家に生まれたんだろうって、何度も思った。お母さんがずっと、両親がそろってなきゃ幸せになれないって言ってたから、私もそう思い込んでた。だから悠に愛してほしくて、私の気持ちもわかってほしくて、必死にすがってたの」少し間を置いて、私は続けた。「悠が美里とヨーロッパに行くって言ったときも、行かないでって必死に頼んだ。でも、聞いてくれなかった。それどころか、妊娠してたって離婚はできるって言われたんだよ。あの夜は一晩中泣いた。自分が嫌でたまらなかった。私があんなに苦しんできたのに、安奈にも同じ思いをさせてしまうんじゃないかって。そう考えると、つらくて……お母さんに話を聞いてほしかったのに、何を言っても否定されてばっかりで……そのたびに、何かを変える勇気までなくなっていった」少し黙ってから、私は母に言った。「……私、お母さんのこと、ずっと恨んでるんだよ」母は呆然として、しばらく何も言えずにいた。やがて、泣きそうな顔でぽつぽつと話し始めた。「知らなかった……あなたにまで、こんな思いをさせてたなんて……そんなに苦しんでたのね……でも私、ただ……あなたに幸せになってほしかっただけで……」母はそのあとも何か言っていたけれど、もう耳に入らなかった。母は慌てて涙を拭き、私を抱きしめようとした。でも、私はその手を払いのけた。母が帰ったあと、私は一人ソファに座り、こらえきれずに泣き出し
私は小さく笑った。「それなら、願ってもないですけど」美里は思いがけない返事に、面食らったようだった。「私が悠と別れた途端、あなた、すぐ悠に近づいて付き合い始めたじゃない。あれだけ必死に奥さんになろうとしてたくせに。結婚式の前に私と悠の写真を送って、昔のことも伝えたのに、それでも引かなかったでしょ?そんなあなたが自分から離婚するなんて、できるわけないじゃない」私はため息をついた。「それが、今は私のほうが離婚したいのに、悠が応じてくれないんです。篠原さんが説得してくれるなら、むしろお礼を言いたいくらいですよ」美里は何か思い当たったように、鼻で笑った。「何よ、今度は駆け引き?わざと冷たくして、悠に追いかけさせようとしてるんでしょ。だから最近、悠が私を避けたり、会社を辞めさせようとしたりしてたのね。ほんと、よくやるわ。でも残念だったわね。私がちょっと泣いたら、悠はすぐに優しくなったけど。私が何度振っても、あなたと結婚した今でも、悠は私のことを忘れられないの。あなたもわかってるでしょ?私が頼めば、離婚だってしてくれるわよ。私と悠は15年来の仲なの。たった7年で、私に張り合えると思ってるの?」昔は、美里のほうが悠と長い付き合いだと、ずっと気にしていた。悠のことが好きだったから、つい比べてしまっていた。でも、今はもうそんなことはどうでもよかった。「だったら、早く悠を説得してもらえませんか?私も離婚したいんです」美里は言葉を失った。「あなた、何を……」そのとき、美里の後ろから悠の声がした。「夏帆、そんなに俺と美里にヨリを戻してほしいのか?」私が答えるより先に、美里が振り返った。さっきまでの態度が嘘のように、急にしおらしくなって悠の袖をつかんだ。「悠、お願い。もう私を突き放さないで。昔、私が戻りたいって言えば、やり直してくれるって言ったじゃない。お願いだから、彼女と離婚して。もう一度、私と一緒になってよ」悠は美里の手を振り払った。「確かに、昔はそう言った。でも、いつまでも待っていられるわけじゃない。帰国したときにも言っただろ。俺はもう結婚してる。友達としてなら付き合えるけど、もうやり直すことはできない」美里は苦笑した。「ただの友達?じゃあ、私の誕生日にわざわざカルティエの『LOVE
「安奈がもう少し大きくなったら、3人であちこち旅行に行こう。かわいい服もいっぱい着せて、写真もたくさん撮ってさ……」悠は安奈とのこれからを思い描き、父親らしい優しい表情を浮かべていた。私はうつむいて指先をいじりながら、気のない返事をした。「安奈の父親なんだから、好きにしたらいいよ」悠も私のそっけない態度に気づいたようだった。「夏帆……俺にはもう、償う機会もくれないのか?ヨーロッパに行ったのは、本当に仕事のためだったんだ。美里についていったわけじゃない。出産のときに電話に出られなかったのも、スマホを盗まれたからなんだ。早産するってわかってたら、絶対に行かなかった。本当に申し訳ないと思ってる。あのときのことは、今でも後悔してるんだ」悠は真剣に話していて、嘘をついているようには思えなかった。それでも、私は首を横に振った。「でも、今さらそう言われても、もう遅いよ。起きてしまったことは変えられないし、私が傷ついたことも、なかったことにはできないから。だから、もう離婚しよう。悠だって、私のこと好きじゃないんでしょ?だったら早く別れたほうがいいよ。このまま一緒にいても、お互いつらいだけだし」悠は一歩近づくと、私の両腕をつかんだ。「違う。そんなことない。確かに、前は美里と別れたことを引きずってた。でも、今はもう未練なんてない。俺たちは結婚して、安奈も生まれたんだ。やっと自分の気持ちがわかったんだ。夏帆、愛してる」ずっと悠の口から聞きたかった言葉だった。でも、今さら言われても、もう嬉しくなかった。ただ苛立って、疲れるだけだった。私は悠と目を合わせなかった。「夏帆、頼むからこっちを見てくれ」私はそっと悠の手をほどいた。「もう何を言われても、気持ちは変わらないよ。別れよう。お互い、そのほうがいいと思う」けれど、悠はどうしても離婚に応じようとしなかった。私は弁護士にも相談した。けれど、悠が同意しない以上、まずは家庭裁判所で調停をすることになるという。裁判にまでなればさらに時間がかかるため、できるだけ話し合いで解決するよう勧められた。それから悠は毎日家に帰るようになり、安奈にはおもちゃを、私にはプレゼントを買ってきた。でも、離婚の話を持ち出すと、黙り込むか、電話に出ると言ってその場を離れて