Masuk「私の人脈をお貸しします。条件は、あなたとの結婚です」 没落寸前の名門令嬢ネリネが求婚した相手は、家柄を持たない成り上がり豪商ノア。 必要なのは彼の財力。恋なんてするつもりはなかった。 ところが結婚早々、二人は大喧嘩! お人好しで無茶をする夫と、容赦なく夫を叱る妻。顔を合わせれば言い争うのに、誰よりも相手を守ってしまう。 やがて二人は、旧富裕層の壁を打ち破り、国の商いを変えていく。 契約だけの夫婦だったはずなのに、いつしか互いがかけがえのない存在に――。 喧嘩して、笑って、支え合って。 これは、正反対の二人が生涯をかけて育む、不器用で壮大な純愛物語。
Lihat lebih banyak「……随分と、ご親切なご招待ですこと」ネリネ・スターブルームは、旧商業会から届いた通知をもう一度読み返し、静かに微笑んだ。王暦八十二年、初夏。旧富裕層の商取引を長年取り仕切ってきた旧商業会は、ラングレー家の令嬢であるネリネに限り、商談審査への出席を認めていた。ただし、新興商人である夫の同席は許可しないという。「俺は留守番か。ずいぶん嫌われたもんだな」ノアは応接室の長椅子に腰掛け、呆れたように笑っていた。「笑い事ではございませんわ。私たちは共同経営者なのですよ?」「わかってるさ。だが、あんた一人なら話を聞いてもらえるんだろ?」「だからといって、あなたを排除する条件を認めるわけにはまいりません」ネリネがきっぱりと言い切ると、ノアは少しだけ表情を和らげた。「無理するなよ。俺のために、あんたまで立場を悪くする必要はない」「……またそれですの?」「何がだ?」「あなたは、どうしてすぐに他人の心配ばかりなさるのです!」ネリネは腰に手を当てた。「私は自分の判断であなたと結婚したのです。今さら夫の出自を理由に尻込みするなど、ラングレー家の名折れですわ!」「ははっ! 相変わらず威勢がいいな!」「あなたも少しは怒ってくださいませ!」「俺が怒ったら、あんたの出番がなくなるだろ?」あまりにも呑気な返答に、ネリネは言葉を失った。まったく、この男はどこまで人がよいのだろう。◇ ◇ ◇旧商業会の商館は、磨き上げられた大理石と重厚な木製家具で飾られていた。ネリネにとっては幼い頃から見慣れた世界である。しかし、今となっては、その豪華さがどこか空虚に感じられた。審査は書面を中心に進められた。提出した商品の資料に対し、返された評価書には品質そのものへの異議はほとんど記されていない。問題視されていたのは、販売元の名前だった。『スターブルーム商会は旧商業会の認可を受けておらず、当会の信用制度に適合しない』ネリネは評価書を静かに読み進めた。そして、最後の備考欄で指を止めた。『申請者は名門ラングレー家の出身であるものの、現在は成金商人の妻であり、従来の信用を保証する立場には疑義がある』「……成金の妻、ですか」胸の奥に、小さな痛みが走った。覚悟していたはずだった。ノアとの結婚によって、これまで当然のように与えられてきた敬意を失うことも、理解してい
「……これは、少々ひどすぎますわね」ネリネ・スターブルームは、二冊の帳簿を見比べながら、思わず眉をひそめた。王暦八十二年、初夏。スターブルーム商会の取引記録と、ラングレー家に残された旧富裕層の売買台帳。その数字を照らし合わせた結果、ネリネはある重大な問題に気づいていた。「ノア様。こちらをご覧くださいませ」「何だ? また妙な数字でも見つけたのか?」「ええ。先日、倉庫で拝見した北部の陶器についてです」ネリネは帳簿の一箇所を指差した。「あなたの商会では、花瓶一つを金貨三枚で仕入れておりましたわね?」「ああ。腕のいい職人が作っている。品質を考えれば安いくらいだ」「ところが、旧富裕層の市場では、同じ工房の印がある品が金貨十枚で販売されております」「……七枚も違うのか?」ノアは驚いたように身を乗り出した。「もちろん、仕入れ値と販売価格を単純に比較することはできません。運搬費や保管費、販売に必要な経費もございますから」「そりゃそうだ。俺だって仕入れた値段のまま売るわけじゃない」「ですが、問題はその内訳ですわ」ネリネは旧市場の台帳を開き、金額を順番に読み上げた。仕入れ代金、運搬費、倉庫の保管料。そして、商業会への登録料と取引紹介料。その中でも、紹介と信用証明に関する費用が、販売価格の大きな割合を占めていた。「……何だ、こりゃ」ノアが呆れた声を上げる。「商売を紹介するだけで、こんなに取るのか?」「以前は、品質を保証するための審査も含まれていたようです。ですが、近年の記録には、実際に検品した証拠がほとんど残っておりません」「つまり、名前を使わせるだけで金を取ってるわけか」「すべてが無意味な費用とは申しません。ただ、現在の制度が価格に見合う働きをしているかは疑問ですわ」ネリネは静かに帳簿を閉じた。長い年月をかけて築かれた信用が、いつしか商売を妨げる壁になってしまった。それは、名家に生まれた彼女にとっても、決して愉快な発見ではなかった。「……私たちの市場は、いつからこんなことになってしまったのでしょう」思わず漏らした言葉に、ノアが顔を上げた。「ネリネ?」「信用とは、本来、取引する相手を守るためのものですわ。それなのに、今では家柄を守るための仕組みになっている」ネリネは悔しそうに唇を結んだ。「これでは、衰退するのも当然です
「ノア様。こちらの帳簿、少々おかしくありませんこと?」ネリネ・スターブルームは、夫の商会から取り寄せた取引記録を眺めながら、不思議そうに首を傾げた。王暦八十二年、初夏。旧商業会の規則によって新興商人の品質保証が制限されていると知った二人は、まず庶民市場の取引実態を調べることにした。ところが、ノアの商会の帳簿には、ネリネが見慣れない数字がいくつも並んでいた。「どこがおかしいんだ?」「こちらですわ。北部の農産物について、仕入れ価格が市場相場より高く設定されております」ノアは帳簿を覗き込むと、あっさり頷いた。「ああ。それで合ってる」「合っている?」「生産者から直接買い付けてるんだ。間に何軒も商人を挟む必要がないから、その分を上乗せして払ってる」ネリネは思わず顔を上げた。「ですが、それではあなたの利益が減るのでは?」「多少はな。だが、作り手が食っていけなきゃ、来年の仕入れだってできなくなるだろ?」ノアは当然のように答えた。その言葉に、ネリネはしばらく考え込んだ。確かに、目先の利益を増やすために仕入れ価格を下げ続ければ、生産者はいずれ立ち行かなくなる。しかし、それを理解していても、実際に利益を分け与える商人は決して多くない。「……あなた、意外と先のことまで考えていらっしゃるのですね」「おい。意外とは余計だろ」「普段のお買い物を拝見していると、少々心配になりますもの」「まだ寝台のことを根に持ってるのか!」「金貨百二十枚ですわよ? 簡単に忘れられる金額ではございません!」ノアは苦笑しながら、帳簿を閉じた。「だったら、実際の商売を見せてやるよ。数字だけじゃわからんこともあるからな」◇ ◇ ◇その日の午後、二人はスターブルーム商会の取引所を訪れた。旧富裕層が利用する商館とは異なり、そこには華美な装飾も、格式を示す紋章もない。代わりに、商品を保管する倉庫や荷車の通路が合理的に配置され、帳簿と伝票が整然と管理されていた。「……ずいぶん機能的ですこと」「だろ? 見栄えより、荷物を早く動かせることが大事だからな」「その点については、全面的に同意いたしますわ」「へえ。今日は珍しく意見が合うな」「いつも反対しているようにおっしゃらないでくださいませ!」二人が言い合っていると、ノアの親友が取引記録を抱えて近づいてきた。庶民市場
「……まあ。こんな記録が残っていたなんて」ネリネ・スターブルームは、ラングレー家の書庫で一冊の古い台帳を開き、驚きの声を上げた。王暦八十二年、初夏。旧富裕層との商談が相次いで断られた翌朝、ネリネとノアは、かつてラングレー家が取り仕切っていた商取引の記録を調べていた。「何かわかったのか?」ノアが隣から覗き込む。「ええ。旧富裕層の信用制度について、興味深いことが記されておりますわ」ネリネは黄ばんだ紙の一箇所を指差した。そこには、商品の品質を確認した記録と、取引を保証した家の署名が並んでいた。「昔は、名家が商品の品質を保証することで、商人たちが安心して取引できる仕組みだったようです」「保証ってのは、名前を貸すだけか?」「いいえ。不良品があった場合には、保証した家が一定の責任を負う取り決めですわ」ノアは感心したように頷いた。「なるほどな。だったら、信用がある家の品物を買いたくなるのもわかる」「ところが、現在は少し事情が違います」ネリネは別の台帳を開いた。「いつの間にか、品質よりも家柄が優先されるようになったのです。旧商業会に認められた家だけが取引を保証できる。結果として、新しい商人は市場に入れなくなりました」「……ずいぶん都合のいい仕組みになったもんだ」ノアは呆れたように笑った。「最初は客を守るためだったのに、今じゃ自分たちの商売を守るために使ってるわけか」「おっしゃるとおりですわ」ネリネは静かに台帳を閉じた。名家の信用とは、長い年月をかけて築かれた財産である。しかし、それを守ることばかり考え、新しい価値を認めなくなれば、いずれ信用そのものが意味を失ってしまう。「ノア様。私、ひとつ考えがございます」「聞かせてくれ」「ラングレー家の名前で、商品の品質を保証するのです」ノアの眉が上がった。「旧商業会を通さずにか?」「ええ。私たちが独自に検品し、その結果を明文化いたします。品質に問題があれば、契約で定めた範囲で責任を負うのです」「そいつは面白い。だが、保証する側の危険も大きいぞ」ノアはすぐに真剣な表情になった。「全部の品物を保証して、万が一大量に不良品が出たらどうする? あんたの家は、ただでさえ金に困ってるんだろ」ネリネは思わず口を閉じた。確かに、保証には責任が伴う。信用があるからといって、無制限に約束を引き受