Mag-log in旅館『月影』のロビーでは、隼人と支配人の怒鳴り合いが続いていた。
小夜子はその喧騒から逃れるように、奥へと続くのれんをくぐる。
薄暗い廊下を抜けた先にあったのは、広大な厨房だった。けれどそこは死んでいた。今の時刻は午後3時、本来なら夕食の仕込みで活気づいているはずの時間だ。包丁のリズムや出汁の香りが満ちているはずなのに。
ここにあるのは寒々しい静寂と、鼻をつくすえた臭いだけ。 コンクリートの床には乾いた泥がこびりついている。作業台の上には、皮をむきかけた大根や人参が転がったまま。シンクには魚の脂が浮いた水が溜まり、洗われていない鍋が山積みになっていた。(ひどい)
小夜子は眉をひそめた。これはストライキではない。ただの職場放棄だ。いや、それどころか食材への虐待だ。
プロの料理人ならば、たとえ経営陣と揉めたとしても、包丁と食材だけは守るはずなのに。 自分たちの聖域である厨房を、こんなゴミ溜めのように放置して出て行くなんて。彼らは誇りを失っている。(どれだけ追い詰められている状況だとしても、これはいけないわ)
小夜子の視線が、勝手口のフックにかかっている白い布に吸い寄せられた。誰かが置き忘れた木綿の割烹着(かっぽうぎ)。
彼女に迷いはなかった。小夜子は隼人に買ってもらった上品な紺色のワンピースの上から、その割烹着を被った。袖を通し、背中のひもをきつく結ぶ。ヘアゴムで長い黒髪を一つに束ねた。その瞬間、彼女の中のスイッチが切り替わった。「社長夫人」という借り物の殻を脱ぎ捨て、「熟練の家政婦」という本来の姿へ。
(さあ、仕事の時間よ。まずはシンクから)
シンクのよどんだ汚水を抜き、冷たい水で鍋を磨き上げる。ゴシゴシと、スポンジが脂をこすり落とす音が静かな厨房に響いた。
次に作業台に放置された野菜たちを救出する。 小夜子は泥のついた大根を手に取った。表面が乾きかけているが、まだ中身は生きている。タワシで泥を洗い落とす。蛇口から出る水は氷のように冷たく、小夜子の指先を赤く染めていった。けれど、手は止まらない。洗い落とし
高級な懐石料理の技法ばかりを追い求め、数字や体裁ばかりを気にしているうちに、小山田はその原点をいつしか忘れてしまっていた。その味が今、敵だと思っていた女の握ったおにぎりから、あふれ出していた。「……くそッ」 小山田はその場に膝をついた。ボロボロと大粒の涙が白衣の上に落ちていく。「……なんでだよ」 口の中の米を飲み込みながら、彼は子供のように涙をこぼし続けた。「なんで、あんたから……先代の味がするんだよ……」 頑固なプライドが、温かいお米の味によって内側から崩れていく。意地を張っていた心が、立ち上る湯気と共に溶けていく。 小夜子は静かに告げた。「私が作ったのではありません」 彼女は小山田の背中に向かって、深く頭を下げた。「あなた様が守ってこられたお出汁と、お米が素晴らしかったからです。私はそれを、ただ結んだに過ぎません」 相手のプライドを立て、手柄を譲る言葉だった。小山田は近くにあったアラ汁の椀を取り上げて、一気に飲み込んだ。「……美味い」 涙声で、彼は絞り出した。「……くそっ、美味いなあ……」 厨房の空気が完全に変わった。重苦しい敵意は消えて「美味しいものを食べた」という共有感と、温かな充足感だけが残っている。 壁際で見ていた隼人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。「腹は満たされたか」 小山田は涙を袖で乱暴にぬぐい、立ち上がった。バツが悪そうに、しかし真っ直ぐに隼人を見た。「……社長」 その呼び方には、先ほどまでのトゲはなかった。「話し合いの席を設けてくれ。……あんたの嫁さんの料理に免じて、話だけは聞いてやる」「いいだろう」 隼人は短く答える。 ス
「残飯ではありません」 凛とした声が小山田の怒号をさえぎった。小夜子だった。 彼女は最後に一つ残ったおにぎりを小皿に乗せ、小山田の前に進み出た。「これは、あなたたちが守ってきた大切な食材で作った、まかないです」「うるせえ!」 小山田が乱暴に腕を振り回した。「素人の握った握り飯なんざ、食えるか! 俺たちをバカにしやがって!」 払いのけられそうになっても、小夜子は引かなかった。皿を差し出したままの格好で、彼女の黒い瞳が小山田をまっすぐに射抜く。「……では、捨てますか?」「あ?」 小山田が怒りの視線を向ける。けれど小夜子は怯まない。「あなたたちが丹精込めて選び、仕入れたこのお米を。ここでゴミ箱に捨てますか?」 小夜子の問いかけは、料理人にとって最大のタブーを突くものだった。 小山田の手がピタリと止まる。食材を粗末にすることは、料理人の魂を捨てることに等しい。 小夜子は一歩踏み出した。「お腹が空いておられるはずです」 グゥ、と小山田の腹が小さく鳴ったのを、小夜子は聞き逃さなかった。「戦うにも、腹が減ってはなんとやら、ですよ。……どうぞ」 小夜子は微笑まない。媚びもしない。ただ真剣な眼差しで、白く輝くおにぎりを差し出し続けた。 長いにらみ合いが続く。やがて小山田は舌打ちをした。「……食えばいいんだろ、食えば!」 彼はひったくるようにおにぎりを掴んだ。投げやりに、大きく口を開けてかぶりつく。「んぐッ……!?」 その瞬間。小山田の動きが止まった。咀嚼(そしゃく)するあごのリズムが、急にゆっくりになる。 彼の口の中に広がる、米本来の甘み。素人とは思えない絶妙な塩加減。そして何より、強く握りすぎずかといって崩れもしない、空気をふんわりと含んだ優しい食感。 彼の脳裏に、古い記憶が蘇った。それは
夕暮れが迫り、厨房の窓が茜色に染まり始めていた。 今までの張り詰めていた空気が、音を立てて崩れ去ろうとしている。 きっかけは若い板前の隆太の一口だった。彼が真っ白な塩むすびにかぶりついた瞬間、その表情がくしゃりと歪んだのだ。「……うめえ」 震えるような声だった。「うめえよ、これ……」 その一言が合図になる。我慢していた他の仲居や板前たちが、いっせいに動き出したのだ。 ある者は塩むすびに手を伸ばし、ある者はアラ汁のお椀を両手で包み込むようにしてすする。 ズズ、ズルッ。ハフハフ。人々が夢中で料理を食べる音が静かな厨房に満ちていく。「あったかい……」 年配の仲居が泣きそうな声で呟いた。「ああ。体に染み渡るようだよ」 別の板前もしみじみと言う。 ストライキに入ってから既に数日。彼らは冷え切った厨房の片隅で、冷たいパンや乾き物をかじって食いつないできたのだ。 厨房が彼らの職場である以上、ストライキ中は火を入れられない。 彼らは意地を張って、限界まで耐え忍んでいたのだ。 湯気の立つご飯。熱々の味噌汁。それらが食道を通って胃袋に落ちる感覚は、ただの栄養補給ではない。凍えていた心と体を内側から溶かす、救済そのものだった。 敵意が食欲と安らぎに上書きされていく。 険しかった彼らの顔つきは、いつしか柔らかい笑顔が浮かんでいた。(空気が明らかに変わったな。さて、どうなるか……) 隼人は腕を組んだまま、その光景を静かに見つめていた。 と、その時。「てめえら、何やってやがる!!」 突然、怒号が響いた。勝手口の扉が乱暴に開かれる。料理長の小山田が踏み込んできたのだ。 彼は白衣を汚し、目を血走らせている。部下たちが敵である社長側の、それも社長の奥方が作った料理を夢中で食べている姿を見て、顔を真っ赤にして怒り始めた。「お前
作業台の上に料理が並んだ。 飴色に輝き、ごま油の香りを放つきんぴら。 脂が浮いて湯気を立てる、熱々のアラ汁。 そして真っ白でふっくらとした塩むすび。 見た目は地味で、高級旅館の懐石料理とは比べるべくもない。けれど、これこそが働く人のための活力の源となる「まかない飯」だった。 噛むほどに染み出す大根の滋味深い甘みと、ごま油のコク。醤油の香ばしさ。最後に唐辛子のピリッとした辛味が追いかけてきて、後を引く。皮特有の硬さが、むしろ心地よい歯ごたえというアクセントに変わっていた。「……美味い」 隼人は素直に認めた。驚きを隠せない顔でもう一口、箸を伸ばす。「これが、あの捨てられていた皮か? 信じられん。身よりも味が濃いじゃないか」「はい。手をかければ、どんなものでも美味しくなります。素材の声を聴いてあげれば」 隼人の言葉を聞いて、隠れていた板前たちがざわめいた。「おい、聞いたか? あの社長が美味いって……」「皮だぞ? あんなゴミが?」「でも、すげえいい匂いだ……腹減った……」 囁き声が漏れてくる。 小夜子は勝手口の方へ向き直った。アラ汁の鍋の蓋を開ける。ぶわっ、と白い湯気がもうもうと立ち上った。味噌と魚の香りを乗せて、彼らの元へと運んでいく。 それは、どんな言葉よりも強く心と空腹に響く説得だった。 小夜子は彼らに優しく声をかけた。「たくさん作りすぎてしまいました」 シンクの影、柱の裏、勝手口の向こう。気まずそうに身を隠している彼らに向かって、微笑みかける。「冷めないうちに、どなたか手伝ってくれませんか? これだけの量、私たち2人だけではとても食べきれないので」 それは「食べにおいで」という優しい招待状。 しばらくの沈黙の後。ズッ、と靴底を擦る音がして、若い板前の隆太がおずおずと姿を現した。 バツが悪そうに視線を泳がせているが、その
ジュワァアッ! 油の跳ねる景気の良い音と共に、ごま油の香ばしい香りが広がって厨房の空気を塗り替えてた。 菜箸で手早く炒め合わせる。皮が透き通って艶を帯びてきた。「いい香りだ……」 隼人が思わず呟くのが聞こえた。 小夜子は酒、砂糖、醤油を回しかける。ジューッという音。焦げた醤油の香りが立ち上り、鼻腔をくすぐる。それは日本人のDNAに刻まれた、食欲を強く刺激する香りだ。 仕上げに厨房の棚の奥で見つけた乾燥した鷹の爪(唐辛子)を刻んで散らす。飴色に輝く皮に、鮮やかな赤が映える。「大根の皮のきんぴら」の完成だった。 次は汁物だ。 魚の頭と中骨をザルに並べ、沸騰した熱湯を回しかける。表面が白く変わり、生臭さが湯気となって消えていく。霜降りという下処理だ。 流水で血合いや汚れを丁寧に洗い流せば、アラは美しい食材へと生まれ変わる。 鍋に水と昆布、臭み消しのための薄切り生姜、そして下処理を終えたアラを入れる。コトコトと煮込みながら、浮いてくるアクを丁寧に取り除く。手間を惜しまなければ、濁りのない澄んだスープが取れる。 最後に、地元産の合わせ味噌を溶き入れた。ふわり、と濃厚で野性味あふれる魚の出汁の香りが漂った。そこに刻んだネギの青い部分をたっぷりと放つ。 隼人の喉が、ゴクリと大きく鳴るのが聞こえた。「……なんだ、この匂いは」 先ほどまで「ゴミ」と呼んでいたものから、極上の香りがしていることに混乱しているようだ。 小夜子は微笑んだ。「アラ汁です。骨の髄から旨味が出ていますよ」 その時。勝手口の方から、微かな物音がした。 ゴクリ。誰かが唾を飲む音だ。一人ではない、複数の気配がする。 小夜子は気づかないふりで、作業を続けた。柱の陰から、若い男が覗いているのが視界の端に見えている。 一番下っ端の板前、隆太だった。その後ろには、仲居たちの姿も見える。 ストライキ中とはいえ、昼から何も食べていないのだ。ごま油と焦がし醤油、そして味噌の香りは、空腹の胃袋には
小夜子の手でシンクと作業台が磨き上げられ、本来の輝きを取り戻した厨房。 その真ん中で、小夜子はザルを片手に忙しく動き回っていた。 先ほど泥を洗い落とした大根から剥き取られた、分厚い皮。3枚におろされた魚の残骸として、無造作に放り出されていた頭や中骨もある。しなびて茶色くなりかけ、ゴミ箱行き寸前だった長ネギの青い部分。 小夜子はそれらを慈しむように次々と拾い上げ、冷たい水で丁寧に洗ってザルに入れていく。その様子を腕組みして見ていた隼人が、たまらずといった様子で口を開いた。「おい。まさかとは思うが、そのゴミを俺に食わせる気じゃないだろうな?」 彼の眉間には、深いしわが刻まれている。無理もない。高級旅館の再建を掲げる社長の目の前で、妻が残飯あさりのような真似をしているのだ。 けれど小夜子の手は止まらなかった。彼女はきっぱりと首を横に振る。「ゴミではありません。これも大切な『命』です」 ザルの中で水気を切りながら、まな板に向かう背筋はまっすぐに伸びている。「野菜は皮と身の間が一番栄養があって、味が濃いのです。太陽の光を一番浴びて育った場所ですから。魚のアラだって、素晴らしい出汁が出ます。捨ててしまうなんて、もったいない」「もったいない、か」 隼人は呆れたように息を吐いた。「貧乏くさい精神論だな。一流の料理というのは、最も美味い中心部分だけを贅沢に使うものだ」「ええ。そうかもしれません」 小夜子は否定しなかった。実家では、まさにその「一流」の残りカスだけが彼女の食事だったからだ。 客に出す刺身の切れ端や飾りに使われた野菜の茎。それらを工夫して、いかに美味しく温かい食事に変えるか。それが小夜子にとっての「料理」だった。 捨てられたものに自分自身を重ねていたのかもしれない。だからこそそれらをすくい上げ、輝かせることに大きな喜びを感じるのだ。「見ていてください。今、ご馳走に変えてみせますから」 小夜子は包丁を握った。 トントントントン、トントントントン。軽快でリズミカルな音が、静まり返った厨房に高く







