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42:誰もいない厨房

last update Date de publication: 2025-12-17 06:22:57

 旅館『月影』のロビーでは、隼人と支配人の怒鳴り合いが続いていた。

 小夜子はその喧騒から逃れるように、奥へと続くのれんをくぐる。

 薄暗い廊下を抜けた先にあったのは、広大な厨房だった。

 けれどそこは死んでいた。今の時刻は午後3時、本来なら夕食の仕込みで活気づいているはずの時間だ。包丁のリズムや出汁の香りが満ちているはずなのに。

 ここにあるのは寒々しい静寂と、鼻をつくすえた臭いだけ。

 コンクリートの床には乾いた泥がこびりついている。作業台の上には、皮をむきかけた大根や人参が転がったまま。シンクには魚の脂が浮いた水が溜まり、洗われていない鍋が山積みになっていた。

(ひどい)

 小夜子は眉をひそめた。これはストライキではない。ただの職場放棄だ。いや、それどころか食材への虐待だ。

 プロの料理人ならば、たとえ経営陣と揉めたとしても、包丁と食材だけは守るはずなのに。

 自分たちの聖域である厨房を、こんなゴミ溜めのように放置して出て行くなんて。彼らは誇りを失っている。

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   455

    「検討の時間は与えられません。お客様は今まさに当ホテルのエントランスに到着されようとしています。もし5分以内に全額補填の確約が得られない場合、我々はロビーでお待ちのお客様全員に対し、『御社のシステム障害により部屋がご用意できない』と事実のみを説明します。ログデータも開示します。SNSでどのように拡散されるか、想像に難くないでしょう。御社のブランド価値と、代替費用。どちらを天秤にかけるか、今すぐ決断してください」 圧倒的なスピードと隙のない交渉術だった。 小夜子は隼人の横顔を見つめながら、その手腕に息を吐いた。 数秒の沈黙の後、電話口の役員が屈服する声が聞こえた。「確約をいただきました。後ほど録音データとともに念書をお送りします」 隼人は通話を切ると、小夜子に向き直った。「金の問題は解決した。客に支払う迷惑料も、代替手配の費用も、すべて向こう持ちだ。好きに使え」「ありがとうございます。ですが社長」 小夜子は手元のバインダーを強く握りこんだ。紙の束の感触が手のひらに伝わる。「お金があっても、お客様に提供する『部屋』がありません。周辺ホテルも満室です。今から仮設のベッドを空き地に建てるわけにもいきません」「分かっている。だが、そこをどうにかするのが、君たち現場の仕事だろう」 隼人の言葉は冷たいようでいて、同時に小夜子への強い信頼が含まれていた。「翔吾さん」 小夜子は隣のデスクに声をかけた。「予備としてブロックしてあるVIP用のスイートルームは、何部屋ありますか?」「ロイヤルスイートが1部屋、エグゼクティブスイートが2部屋です。清掃とセットアップは完了しています」「その3室を解放します。到着順で、特に遠方からお越しのお客様から優先してアップグレードを打診して。超過予約30組のうち、3組はこれでカバーできます」 小夜子もまた、即断で判断を下した。迷っている時間はもうない。「了解しました。しかし、残り27組はどうしますか」 翔吾がタブレットの画面を指で弾きながら問う。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   454

     逃げ道が塞がれていく。他ホテルへの振り替え、いわゆる「ウォーク」という手段が使えない。「チェックインを一時停止させます。まだ事情を知らないお客様をフロントに通すわけにはいかない」 小夜子がインカムに手を伸ばし、全スタッフへ指示を飛ばそうとした瞬間だった。 バックオフィスの重たい防音ドアが開いた。「事態の報告は受けている」 低い声とともに現れたのは、アーク・リゾーツ社社長の隼人だった。 上質なネイビーのスーツを身に纏い、その足取りには迷いがない。 手首で冷たい光を放つ金属製の腕時計が、今の時刻が午後3時ちょうどであることを示していた。チェックイン開始の時刻だ。「社長。チャネルマネージャーの同期エラーにより、30組の超過予約が発生しました。周辺ホテルへの振り替えは不可能です」 小夜子が簡潔に事実だけを告げると、隼人はわずかに顎を引いた。「システム側の不具合か」「はい」 翔吾がタブレット端末を差し出した。「外部システム連携のアクセスログです。こちらからの送信履歴と、先方での受信拒否エラーの記録はすべて確保しています。当ホテル側の設定ミスではありません」「上出来だ」 隼人はタブレットを受け取ると、そのまま自身のスマートフォンを取り出した。 迷うことなく、画面を数回タップして耳に当てる。「アーク・リゾーツの黒崎隼人だ。御社の担当役員に繋げ。今すぐだ。会議中? 関係ない、当ホテルの信用に関わる重大なインシデントが発生していると伝えろ」 冷静に事実だけを並べる声がオフィスに響く。 電話口の相手が慌てふためいている気配が、スピーカーの音漏れからでも察せられた。 数秒の保留音の後、相手が代わったようだ。「お世話になっております。単刀直入に申し上げます。御社のシステムの不具合により、当サンクチュアリにおいて30組の架空予約が成立しました」 隼人の声には一切の感情が混じっていない。ただ、事実を刃物のように突きつけていく。「当方のチ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   453

    「はい。複数のオンライン宿泊予約サイト、いわゆるOTAから新規の予約データが次々とPMSに落ちてきています。今日の宿泊分です」 小夜子の眉が自然と寄った。「今日の予約? それはあり得ませんね。今日は全室満室のはずでしょう。2日前には全販売チャネルでストップ通知を出したはずですが」「ええ、我々のシステムからは間違いなくストップ通知を出しています」 翔吾は自分のノートパソコンを手元に引き寄せて、画面をいくつかのウィンドウで分割した。 黒い背景に白い文字が滝のように流れる画面を展開する。「うちの予約システムと、外部の宿泊予約サイトを繋ぐ管理ソフトの記録を確認しました。こちらからは『満室だから販売を停止してくれ』という信号を正常に出しています。ですが、特定の予約サイト側のシステムがそれを弾いているんです。データの受け渡し部分でエラーが起きていて、向こうの画面上では当ホテルにまだ空室が大量にあることになっています」「エラーで販売が継続されているということ?」 小夜子はディスプレイに視線を落とした。 翔吾が開いた管理者画面には、信じがたい数字が並んでいる。 通知音とともに、目の前で「新規予約」のポップアップが次々と追加されていく。「現在確認できるだけで、超過予約は30組。人数にして60名強です。そして、今この瞬間も増え続けています」「30組……なんてこと」 小夜子の指先からすっと血の気が引いていくのが分かった。 30組のオーバーブッキング。ホテル運営において、これほどの致命傷はない。 すでに部屋の余裕はないのだ。 物理的な空間が存在しないのに、客は予約完了のメールを握りしめてもうすぐこのエントランスにやってくる。(いいえ、システムを恨んでも部屋は降ってこないわ。物理的な空間がないなら、今あるもので作るしかない) 小夜子は瞬時に思考を切り替えた。パニックを起こしている暇はない。「翔吾さん、すぐにその外部の担当者に連絡を入れて、販売を強制的に遮断してもらえますか。手動で

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     夏の陽光が、サンクチュアリのロビーへと差し込んでいた。 空調から吹き出す適度に冷やされた風が、微かなシトラスの香りを運んでくる。 大理石の床を歩く小夜子のヒールの音が、規則正しいリズムを刻んでいた。 週末の金曜日、午後2時45分。午後3時のチェックインラッシュが始まる15分前である。 小夜子は総支配人として、フロント周辺のスタッフの配置や身だしなみ、ロビーのソファのクッションの角度に至るまで、五感を研ぎ澄ませて最終確認を行っていた。(全て問題なし。今日も順調ね) 本日の客室稼働率はほぼ100パーセント。全200室がすべて埋まっている。 最近の観光ブームと近隣での学会開催があるとはいえ、ホテル業においてこれほど喜ばしい数字はない。 予約管理の担当者たちとセールス部門が連携し、綿密な価格調整を行って積み上げてきた成果だ。「フロント、準備は問題ありませんね」 小夜子が声をかけると、フロントデスクに立つスタッフたちが姿勢を正して頷いた。 彼らの制服にはシワ一つなく、胸元のネームプレートが磨かれたように光っている。 問題はない。完璧な週末の午後が始まる。 小夜子はそう確信して、フロントの奥にあるバックオフィスへと足を踏み入れた。 バックオフィスは、ロビーの優雅な空間とは打って変わって実務的な空気に満ちている。 複合機が稼働する微かな排熱の匂いと、誰かが淹れたブラックコーヒーの焦げたような匂いが混ざり合っていた。 小夜子が自身のデスクに向かおうとした時、予約管理部門のデスクから切羽詰まった声が上がった。「翔吾さん、ちょっと画面を見てもらえませんか。さっきから新規予約の通知が止まらないんです」 声を上げたのは、入社3年目の予約担当スタッフだった。 彼の声には明らかな焦燥が混じっている。 小夜子は足を止め、そのデスクへと向き直った。「どうしたの?」 小夜子が近づくと、隣のデスクでノートパソコンに向かっていた翔吾が、キャスター付きの椅子を滑らせて予約担当の画面をのぞ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   451

     理玖が感心していると、総料理長がフライパンに少量の洋酒を注ぎ込んだ。 ジュワッ! 赤い炎がフライパンから立ち上がり、換気扇に向かって巨大な火柱を作る。フランベの炎だ。「うわぁっ!」 突然の炎に園児たちは声を上げて後ずさりする。 それでも恐怖より好奇心が勝るのか、目を輝かせて料理長の手元を食い入るように見つめていた。「さあ、みんなでおやつにしよう」 総料理長がフライパンを傾けると、黄金色のオムレツが皿の上に滑り落ちた。 小さく切り分けられたオムレツが、小皿に乗せられて園児たちに配られる。理玖はフォークで卵をすくい、口に運んだ。 表面は薄いクレープのようにふんわりと焼き上がり、中はクリームのようにとろとろだ。 特製ケチャップも絶品。ほんのりした酸味とトマトの甘味のバランスが絶妙だった。 濃厚なバターの風味と、ほんのりとした塩気が舌の上に広がり、噛む間もなく溶けていく。「おいしい! おかわり!」「たまご、とろとろだよ!」 園児たちは口の周りにソースをつけながら叫ぶ。 プロの洗練された味に満面の笑みを浮かべながら皿を空にしていった。◇ 見学ツアーの終着点は、一階のメインロビーだ。 広大な吹き抜けの空間は、ホテルの顔として一切の妥協なく作り込まれている。 高い天井から吊るされた巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に無数の光の粒を落としていた。 フロアの中央には、大人が両腕を広げても抱えきれないほどの巨大な花瓶が置かれ、純白の百合が溢れんばかりに生けられている。 空間全体を満たす百合の芳香が、歩き回って少し疲れた理玖たちの心を優しく撫でた。 フロントカウンターの奥では、パリッとした制服を着たスタッフがパソコンのキーボードを打ち込み、ベルホップが真鍮製のカートに客の荷物を積んで滑らかに移動していく。 園児たちが一列に並ぶ前で、小夜子が優しい声で語りかけた。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   450

     火口が並ぶ調理台周辺の温度は40度近い。 換気扇の轟音、油が弾ける音、硬質なプラスチックのまな板に包丁が叩きつけられるトン、トンという高速の連打音が、厨房内に反響している。 銀色に輝く調理台の向こうでは、数十人の料理人たちが戦場のような熱気の中で立ち働いていた。 手前の作業台では、若い料理人が山のような玉ねぎを前に、瞬きする間もない速さでみじん切りを量産している。 その隣では、熱したフライパンにオリーブオイルが敷かれ、白身魚が皮目から焼かれていた。 料理人がスプーンを使い、溶けたバターを何度も魚の身に回しかけている。食欲を刺激する香ばしい匂いが充満していた。「ウィ、シェフ!」 フランス語のオーダーが飛び交う中、奥のガスコンロの前で一際高いコック帽を被った総料理長が動いた。 彼はよく使い込まれた鉄のフライパンを火にかけ、たっぷりのバターを溶かす。そこへ溶き卵を一気に流し込んだ。 菜箸で卵を素早くかき混ぜながら、フライパンの柄を握る左手首を小刻みに振るう。 手首の返しだけで、半熟の卵の塊がフライパンの縁を滑り、くるんと宙を舞って綺麗な木の葉型にまとまった。「すごい! 卵が飛んだ!」 理玖が身を乗り出して指を差すと、隣で見ていた小夜子が目を細めて笑った。「これは、私の実家である白河旅館で出していた特別なオムレツです。板前さんに教えてもらった大切なレシピを、ここで再現しているのですよ」 小夜子の実家である白河旅館は、すでに倒産してこの世には存在しない。 彼女の父と継母は怠惰な悪人で、小夜子を家政婦のように扱っては虐げていた。 経営末期の旅館はサービスも悪化し客足が遠のいていたが、朝食で出されるこの定番のオムレツだけは、長年の愛好者が足繁く通うほどの絶品だった。 小夜子はその味を途絶えさせまいと、当時の板前からレシピ――詳細な火加減やバターの配合を聞き出し、このサンクチュアリの厨房でメニューとして復活させたのだ。 一般の社員はその背景を知らない。 理玖は義理の伯父にあたる隼人を介して、小夜子の過去

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