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接待を終えた御子柴弥一(みこしば やいち)はいつもよりだいぶ遅くなったものの、ちゃんと帰宅しようとしていた。
今日の相手は得意先の中でもダントツで厄介な質で、酒好きな上に女好きとあって、そいつの接待には必ず美味しいお酒と華やかな女を用意しなければならなかった。 弥一自身もかなり酒を飲まされた上に、そのルックスから女たちは皆彼をロックオンすると、あからさまなボディタッチをするなどしてアピールしてきた。 残念ながら弥一がそれに釣られることはなく、むしろベタベタ触られたことで彼女たちの付ける香水の匂いが自分からもしていることにかなり苛立っていた。 車の空気を入れ替えようと後部座席の窓を開けながら、 「おばさんには連絡入れてるのか?」 と、助手席に座る秘書の三雲諭(みくも さとる)に問いかける。 三雲はその言い草に苦笑しつつ弥一のほうを振り返ると、 「してありますよ。奥さまより、お帰りの際はお気をつけてとのことでした。」 その返答に、弥一は安心したように座席に座り直すと、ふうと息を吐いた。 ニ年前、御子柴家の絶対的君主である八重子から、自身と十歳も離れた女との結婚を迫られた時は言葉にできないほど嫌で嫌で仕方なかった。 もし、相手の女の見た目が、年齢差を感じさせないような"綺麗なお姉さん"だったのならまだしも、弥一の目には彼女はどう贔屓目に見てもおばさんにしか見えなかった。 彼には長年想い合っている女性がいたが、祖母である八重子はどうしても彼の想い人を受け入れてくれなかった。 八重子の猛反対を受け、弥一と結婚できると思っていた恋人は辛いはずなのにそんな感情はお首も出さず、「おばあさまが認めてくれる女性になれるよう、A国へ行って自分を磨いてくるわ。絶対今よりもっと良い女になって帰ってくるから。」と、言った。 「弥一、あたしの心はあなただけのものだよ。あなたもずっとあたしだけでしょ?」 愛らしい顔でその目を潤ませながら上目遣いに見つめられ、弥一は熱い思いを抱きながら、 「当たり前だ、俺の心はずっと君だけのものだよ。今すぐにでも君と永遠を誓いたのに‥‥頑固なおばあさまでごめんな。」 「あたしたち、絶対一緒になろうね?」 「ああ。」 そう返して、弥一は彼女の唇にキスを落とした。 なんて健気な子なんだろう。 健気で、か弱くて愛らしくて守ってあげたくなる。 今思い出してもあの日彼女の願いを叶えてあげられなかった申し訳なさで、弥一の心はぎゅっと締め付けられた。 彼女がA国に旅立ったその日。 意気消沈で家に帰ろうとした弥一に八重子から携帯にメッセージが届いた。 恨みがましい目でそのメッセージを開くと、 "今すぐこの住所に来なさい。" 八重子から送られてきた住所は、都会から少し離れただけなのに自然を身近に感じられる場所で知られている、海老原市というところだった。 「海老原市?なんでそんな場所に?」 御子柴家は日本にもいくつか別荘を持っていたが海老原市には持ってなかったはずだ。 なぜそんなところに呼ばれるのかわからなかったが、八重子に逆らえるはずもなく、渋々ながらも送られてきた住所に向かった。 八重子に呼びつけられた場所に着くと、そこには二階建ての真新しい洋風な家が建っていた。 庭先の花壇には色とりどりの花が咲き誇っているが、そんなほっこりする景色をぶち壊すかのように、真っ赤なポルシェがこれ見よがしにどーんと停まっている。 八重子の愛車だ。 そして、家の横の広々としたガレージにはこれも良く目にする黒色のセダンが停まっていた。 そしてその横にもう一台、白の軽自動車が停まっている。弥一の身近では見たことのない車だ。 訝し気に眉をひそめながら、弥一はその家のインターホンを押した。ありきたりなチャイムの音が響く。しばらくすると、 「鍵は開いておりますよ、坊ちゃん。どうぞお入り下さい。」 と、インターホンから家政婦の望月早苗(もちづき さなえ)の聞き慣れた声が聞こえてきた。先程家の前に停まっていた、黒のセダンの持ち主だ。 その声に弥一は安心したようにドアを開け中に入った。なんてことはない。おばあさまがまた別荘を買ったんだ。 弥一と恋人の結婚を反対してしまったことに対する贖罪か何かのつもりで、この別荘を自分に与えることでご機嫌取りでもしようとしてるのだろう。そう思った。 だが、弥一の機嫌はそんなことで直るはずもなかった。自分の愛している女性を真っ向から否定されたのだ。 あの瞬間の彼女の心痛と、踏みにじられた自身のプライドを思うと未だに腹が立つ。 例え歯向えない相手だとしても、こんな見え透いたやり方に乗ってやるつもりは毛頭なかった。 だからリビングに入る前に、弥一は一度深呼吸すると、敢えて無愛想な表情をその端正な顔に作り上げた。そしてやや乱暴に見えるようリビングへ続く扉を勢いよく開ける。 と、その目に飛び込んで来たのは、予想通り、ソファでその長い足を優雅に組んで座る八重子と、その隣には早苗が家政婦よろしく、ピンと伸びた背筋にお腹の前で行儀良く手を重ねて立っていた。 と、八重子の対面にあるソファにもう一人、弥一に背を向ける形で黒い髪を低い位置で一本に束ねた女が座っている。 弥一が思いがけない登場人物に驚いていると、その女が振り返った。 女は弥一の顔を見ると、その場に立ち上がり軽く微笑むと、「はじめまして。白石かすみと申します。今日からしばらくお世話になります。どうぞよろしくお願いします。」そう言って礼儀正しくお辞儀をした。とある日曜日。 海老原市の別荘にある自室で、弥一は一人ベッドに横になっていた。 あの日ー 最後にかすみと別れたあの日から既に2ヶ月が経過したが、あれから何度かすみに連絡してみても返事は一度もなかった。 巴とジョンも、あの日を境に仕事が忙しくなったのか、結局何の説明もないままに二人は海外へと飛び立った。今はどうやらE国に行っているらしいことを後々咲希から聞いた。 弥一は力なく寝返りを打つと仰向けになった。 真っ暗な部屋にも何時間といれば目が慣れてくる。 天井の壁の模様を眺めながら、弥一は力なくため息を吐いた。 ありがたいことに、平日は仕事で忙しく、余計なことを考える暇がない。 だがその代償として、休日になると襲ってくるありとあらゆる思考の波に、ベッドから起き上がることさえ難しい。 家族だったり、三雲や愛蘭や加島、冬馬までもが心配して連絡を寄越してくるが、むしろその気遣いが今の弥一には苦痛でしかなかった。 あの日以降、櫂斗という人物を個人的に調べている。 才覚溢れる敏腕CEOだが、使えないとわかったら部下だろうが取引先だろうが、問答無用で切るような利己的で冷酷非道な人間であることがわかった。 でも、どうやらそれだけではないようでー 店主不在のかすみの店は、オープンすることすらできないままかと思いきや、当初の予定通りに次の日にオープンしたし、なんなら初日から繁盛していた。 弥一が見に行った時には、少なくとも三人の人間が働いているようで、店は大変な賑わいを見せていた。 さらには、かすみの意見を第一に考えているかのように、営業時間もメニューも彼女が言っていた通りのものだった。 まるで、いつか彼女が戻ってきた時に難なく仕事を引き継げるようにしているかのようであった。 では、ここまでのことを、一体誰が事前に手配していたというのか。 あの男がかすみを恐怖で縛りつけているのは間違いない。 だが、それと同時に、あの男がかすみを特別に思っていることも間違いないー 今の弥一にとって一縷の望みは、かすみの店がかすみの理念に沿って経営している以上、いずれ彼女は戻ってくるだろうということだった。 ただ、それがいつになるのかがわからない。 何ヶ月後か、あるいは何年か後か。 ときに、時間の流れは人の思い
かすみが二人のために用意してくれたのはネギと玉子のシンプルなうどんだった。 だが、共にテーブルを囲むかすみの前には何も置かれていない。 櫂斗はちらりとかすみに目をやったが、結局は何も言わずに席に着いた。 「いただきます。」と手を合わせる羽柴に対し、櫂斗は無言で食べ始める。 そして一言、 「味が薄い。」 羽柴の手から箸が滑り落ちた。 「大丈夫ですか、羽柴さん⁉︎別のお箸を持ってきましょうか?」 立ち上がったかすみに羽柴は慌てて、 「テーブルの上に落ちただけですから大丈夫です。」 羽柴はかすみにはニコニコと笑って、箸が落ちた箇所を布巾で拭いた。 拭きながら、目線は隣りに座る櫂斗を凝視する。 文句を付けておきながら、食べる手を一切休めない櫂斗に、羽柴は目を細めた。 「これ以上俺を見るつもりなら、今すぐこの箸をお前の目に突き立ててやるぞ。」 羽柴はムッとしたような顔つにきなって、 「こちらこそ。思ってもないような失礼なことを言うだけの口なら、いっそのこと一思いに縫って差し上げましょうか?」 互いに睨み合う男二人に、かすみは困った顔で、 「お二人とも。うどん、伸びますよ?」 羽柴は「すみません。」と、席に座り直し、再度手を合わせてからうどんをすすった。 昆布の旨みが存分に引き出された優しい味付けの出汁に、ふんわりとした溶き卵とネギが絡みついたうどんはたまらなく美味しかった。 箸が止まらない羽柴は、そのまま汁まで残すことなく一気に食べ切った。 ふう、と羽柴は息を吐くと、 「久々にかすみ様の料理が食べられました。感無量です。ごちそうさまでした。」 手を合わせる羽柴に、かすみは、 「そんな大層なものは作っておりませんが、お口に合ったのなら幸いでー」 かすみの前に、ずいっと器が差し出された。 かすみが目線を上げると、無表情の櫂斗が空になった器を手に、それをかすみへと差し出している。 「ーおかわり、ですか?」 「それ以外に何がある?」 かすみは器を受け取ると、立ち上がりながら、 「少し味を濃くしますね。」 「余計なことはするな。」 かすみは眉根を少し寄せて、 「薄かったのですよね?」 櫂斗はふんぞり返るようにして腕を組むと、 「こんな夜中に味の濃
荷物を運び終え一息ついている櫂斗に、羽柴が声を掛ける。 「櫂斗様、悠長にしていられる時間はありません。あっちの件もそうですが、何よりも先ず優先すべきことはかすみ様とのことです。小5男子みたいな態度をとっている場合じゃありませんよ。もっと大人の男性らしく振る舞わないと!」 「小5男子みたいな態度とは何だ?」 羽柴はため息を吐くと、 「好きな子に対して意地悪な態度を取ることです。」 絶句している櫂斗に、羽柴はさらに言葉を続けて、 「意識するあまりそうなってしまうのだとは思いますが…いいですか、櫂斗様?そんな態度じゃ伝わるものも伝わりませんよ?」 羽柴はさらに櫂斗に詰め寄ると、 「何度も言いますが我々には時間があまりありません。間違いないために、後悔しないために、素直になることが一番なんです。いいですか、素直ですよ!」 「気色悪い顔を近づけるなっ。」 櫂斗は不愉快そうに眉間を寄せると、羽柴から距離を取った。 「お前こそ、いい加減俺がかすみを好きだと決めつけてくるのはやめろ。そんな幻想は二度と抱くな。わかったか?」 「フラワースタンドのメッセージにあんなことを書いて?」 櫂斗は羽柴から視線を逸らすと、 「羽柴、お前はジョークってものを知らないのか?それに、だ。よく考えてみろ。あいつはこの俺に相応しいと思うか?いいとこ俺専用の家政婦ってくらいだろ。あんな芋娘、俺の伴侶になど到底値しないー」 どこか遠くを見るような目の櫂斗に、羽柴は再度ため息を吐いた。 (だったら俺専用とか言うなよな) 「いいですよ。認めたくないのなら、認めなくても構いません。ただ、私が主のためにできる限りやるまでです。」 「余計なことはするな。」 「いいえ、します。何せ、我が主は小学5年生ですからね。手が掛かるのは当然です。」 「誰が小学生5年生だ?」 睨みつける櫂斗に、羽柴は真剣な表情で、 「櫂斗様が心配するのも無理はありません。あなたはかすみ様が再び母親の毒牙にかかることを恐れているのでしょう?」 櫂斗はぴくりと眉を動かした後、目を細めた。 「櫂斗様は、かすみ様との思い出作りに来日されたつもりなのかもしれませんが、私はそれだけで終わるつもりはありません。お二人の未来のためにも、今度こそ茉莉(まつり)をブタ箱
そんな祖母のお葬式の場ですぐさま始まったのが、親戚たちによる遺産相続争いだった。 祖父母は家をはじめとするすべてをかすみへと遺すと言ってくれていたが、肝心の遺言書が見つからなかった。 そんな中、ギャンブル好きで知られる祖父の弟夫婦が、生前兄は遺産は全て自分とその家族にやると言われていたと言い始め、彼らが連れてきた弁護士がその証言を裏付ける書類を提示して皆に見せた。 かすみはせめてこの家だけでも自分に譲って欲しいと頼み込んだが、一切聞く耳を持ってもらえなかった。 そして祖母のお葬式後、かすみはあっという間に家を追い出され、この家もギャンブルで作った借金返済のためにすぐさま競売にかけられてしまったのだったーー そして、時を経たずしてどこぞのお金持ちがこの家を買い取ったと聞いたが、まさかそれが櫂斗だったとはー 「そんなことをしてお金をみせつけたら、その後も何かにつけてタカりにきたんじゃありませんか?」 どこか蔑んだような言い方をするかすみに、櫂斗は手の中の置物をそっと元の位置に戻すと、 「黙らせた、と言ったろう?ゴミクズみたいな人間の扱いなら慣れている。2億払って、それで奴らとはおしまいだ。」 かすみは櫂斗を真っ直ぐに見上げると、 「ありがとうございます、櫂斗さん。本当に・・・ありがとうございます。」 祖父母の靴を抱きしめ、かすみは櫂斗に深々と頭を下げた。 櫂斗はかすみを見下ろして、 「礼なら羽柴に言え。俺だったらこんな気味悪い家、例えタダでも買わなかっただろうからな。」 そこへ、荷物を手に抱えた羽柴が現れ、大きなため息を吐いた。 振り返る櫂斗に、羽柴は視線で訴える。 櫂斗は眉間にしわを寄せ、チッと舌打ちをすると、 「俺に報いたいのなら、キッチリとこの分の対価を払うことだな。何、時間はたっぷりある。これからゆっくりと返していってもらうさ。」 どこがたっぷりだ、限られた時間しかないというのにーー 羽柴は切羽詰まったような顔をした。 薄ら笑いを浮かべる櫂斗に、かすみの顔からスッと温度が消えると、 「もちろんです。」 櫂斗は鼻で笑って、 「家中の明かりをつけろ。それが終わったら冷蔵庫にあるもので何か夜食でも作っておけ。」 そう命令すると、荷物を運びにさっさと戻って行ってしまう。
「え?」 車から降りたかすみは、目の前の日本家屋に目を丸くした。 あれから何度かサービスエリアに寄ったのだが、その名前に、時折目にする看板の文字に、おそらく東北に向かっているのだろうということは見当がついていた。 しかしー 立派な日本家屋を前に立ち尽くしているかすみの姿を、櫂斗はしばらくの間黙ってみつめていたのだったが、ふいに、 「おい。」 と、声をかける。 かすみは肩をビクリとさせると、ためらいがちに振り返った。 「なぜ、ここに?」 かすみの質問に、櫂斗は顎を少し上げてかすみを見下ろすと、 「しばらくはここに身を置く。さっさと荷物を移動させろ。」 そこへ、すかさず羽柴が、 「かすみ様、荷物は私が責任を持ってお運びいたします。なので、先に行って家の明かりをつけてきてもらえませんか?鍵は開けておきましたので。」 かすみの戸惑った目に、羽柴は優しく笑って、頷いてみせた。 かすみは再度日本家屋に振り返ると、ゆっくりとそこへ向かって歩き出すり 門を跨ぎ、吸い込まれるようにして歩き出したかすみに、櫂斗は荷物を下ろす手を止めると、「後はやっておけ。」と羽柴に言い残してかすみの後を追う。 かすみは家屋の引き戸に手をかけたものの、開けられないでいた。 その間に櫂斗はかすみに追いついたが、1メートルほど後ろでその足を止める。 背後の櫂斗に気づかないかすみは、そこで目を閉じると大きく深呼吸をした。 そして意を決したように目を開けると、一気に引き戸を引く。 かすみがここを訪れるのは実に8年ぶりだった。 暗くて良くは見えなかったものの、不思議なことに古びた空気の匂いはしなかった。 そして、例え暗くてもかすみの身体がこの家の間取りを未だにちゃんと覚えていた。 彼女は玄関で靴を脱ぐと、数メートル先の壁まで歩いていき、そこにある三つのスイッチの中の真ん中を押した。 すると、パッと辺りが明るくなる。 明かりに照らされ露わとなった玄関に、かすみは息を呑んだ。 ピカピカに磨き上げられた床に敷かれた玄関先の敷物は、真新しいものの、かすみが祖父母と暮らしていた時と全く同じ柄のものだった。 玄関先の靴箱の上には、祖母が集めていた可愛らしいカエルの置物たち(カエルと帰るを掛けて、大事な人たちが無事に帰
空港を出たかすみたちは、再度羽柴の運転する車で移動していた。ただ、今度の車はアルファードだったために、軽自動車の時のような圧迫感は皆無だった。櫂斗は上質な皮のシートで難なく脚を組んでは、流れる外の景色を眺めていた。時折、窓ガラスに反射したかすみを盗み見ては、彼女の様子を見張る。羽柴も時折、バックミラーで二人の様子を気に掛けては、「喉は渇いていませんか?お腹はどうです?」「お手洗いは大丈夫ですか?次のサービスエリアでトイレ休憩にしましょうか?」と、声を掛けた。だが、かすみは、こんな姿で外なんて歩けない、という思いから、トイレに行く必要がないよう羽柴が差し出した水を受け取らなかった。櫂斗も櫂斗で、「俺はいい。」と断る。そんなわけで、車は一度も休憩を挟むことなく、ひたすら高速道路を走るのだった。とはいえ、空港を出てそろそろ5時間。かすみの我慢も限界に達していた。ただでさえ緊張するような場面に5時間。かすみの口の中はもはや唾液すらまともに出ていなかった。だが、それよりも深刻なことがあった。1時間ほど前からトイレに行きたくてたまらないのである。かすみはちらりと横にいる櫂斗を盗み見た。自分と同じ状況のはずのに、隣の彼はいつも通り、余裕綽々とした様子であった。トイレに行きたい。けど、こんな格好で出歩きたくない。そんな思いの狭間に揺れるかすみは、困ったように眉根を寄せている。するとー「羽柴、次のサービスエリアでおろせ。タバコが吸いたい。」主の注文に、羽柴はすぐさま、「承知いたしました。」と答えた。幸いなことに、次のサービスエリアはここから2キロほど先の距離であったため、数分走っただけで着くことができた。羽柴が車を停めると、櫂斗は流れるような動作で車から降りた。と、すぐさまかすみ側のドアが開けられ、そこから姿を現した櫂斗が一言、「降りろ。」と、かすみに命令する。かすみが戸惑ったように目を泳がせたので、櫂斗はその目を細めると、「俺にペットボトルか、何かちょうどいい容器でも持って来させる気か?」最初は櫂斗の言葉の意味がわからなかったかすみだったが、すぐさま意味が理解できたのか、次にその顔を赤くした。そんなかすみに櫂斗は、「さっさと降りてトイレに行ってこい。」かすみは唇を引き結ぶと、そろりそろりと車から降り、少し前屈みになってト
三雲は、信じられないといった様子で弥一を見つめていた。 ウォッカとはいえ、弥一が口にしたのはほんの小さなグラスにたったの二杯である。 そんな量で泥酔って… そもそも、そんなに酒が弱いならウォッカなんて頼むなよ! しかもこっちはまだ一口も飲んでもいなければ食べてもいないってのに。独りよがりが過ぎるだろ! と、一通り頭の中で喚き散らかしてから、はあ、とくたびれたように息を吐き出した。そして、仕方なしに弥一の介抱に取り掛かる。 彼は弥一の肩に手を掛けると、そのまま優しく揺さぶり起こそうとした。 弥一は嫌そうに「うーん。」と低く呻くだけで、目を開けようとさえしない。 三
過去に思いを馳せていた弥一の耳に、「社長、着きましたよ。」と、三雲の声が響く。 一気に現実に引き戻された弥一は、反射的に「ああ。」と返して、シートベルトを外した。 そして、運転手が開けてくれたドアからその長い足を外に出しながら、 「今日は厄介な接待に付き合わせて悪かったな。明日の昼にでもこの埋め合わせをしたいから、予定空けといてくれよ。お前の大好きな寿司でも一緒に食いに行こう。じゃあ、お前も早く帰って休め。」 そう三雲に言って車を降りると、今度はドアを開けてくれた運転手に向かっていつものように「ありがとう。」と言った。運転手もまた、「とんでもございません。」と言って微笑む。弥一
見知らぬ女の唐突の挨拶に面食らった弥一はしばらくお辞儀したままの女を見つめていたが、女が顔を上げて再度自分と目が合うと、すぐさまハッとしたように我に返って女の挨拶を無視して八重子に向かって言った。 「おばあさま、誰ですかこの人?てか、何なんですかこの状況!」 そう尋ねながら、ちらりと女を見る。 その後、弥一は女のそばに寄りたくないのを隠す様子もなく、女から距離を取るようにわざと迂回して八重子に近づいていった。 その様子を見ていた八重子はこちらも不快な気持ちを一切隠すことなく、ありありとその顔に浮かべると、 「あんたみたいな女の見る目もなければ礼儀もなってないような人間を孫
そんなことに気づく由もない孫を尻目に、八重子はソファから立ち上がると、「じゃあ、あたしはそろそろお暇しようと思うのだけれど、その前に。かすみちゃん、荷物はもう部屋に運んだのかしら?」 かすみはゆったり微笑むと、「はい、荷物は全て午前の内に業者さんに手伝っていただいて運び終わりました。」 その返答に八重子は安心したように微笑むと、 「それなら良かった。弥一にはこの後すぐ荷物をまとめさせるけれど、それでもなんだかんだこの別荘に来るのには二、三日かかると思うわ。その間大丈夫?いつでも早苗はいてくれるとしても、何か心配事はない?」 かすみは首を横に降ると、「早苗さんが居てくださるので