LOGIN駅とは反対へ歩き始めたものの、特に目的地があるわけではなかった。
大通りを外れ、明るい店が並ぶ道を二人でゆっくり歩く。
「雨宮さん、明日仕事ですよね?」
「はい」
「遅くなって大丈夫ですか?」
「まだそんな時間じゃないですよ」
「それはそうですけど」
千紘は時計を見た。
まだ九時前だった。
帰ろうと思えば、十分帰れる。
でも、帰りたいとは思わなかった。
「律さんこそ、明日仕事でしょう?」
「俺も大丈夫です」
「じゃあ、もう少しだけ」
言ってから、自分でも驚いた。
律が千紘を見る。
「もう少し歩きましょうか」
「……はい」
そのまま二人で歩き続けた。
◇
途中で小さな公園を見つけ、ベンチに座った。
近くの自動販売機で律が温かい飲み物を
共同プロジェクトが終わってしばらく経った頃、佐伯から声をかけられた。「今度、向こうのチームと軽く飲みに行くことになったんだけど、来る?」「打ち上げですか?」「そんな大げさなものじゃないけどな。最後にちゃんと集まってなかったし」 参加者を聞けば、以前一緒に仕事をしていたメンバーが何人か来るらしい。 その中には、彰人と芹奈の名前もあった。「行きます」 千紘はすぐに答えた。 ◇ 当日は十人ほどが集まった。 仕事の話をする者もいれば、すっかり雑談に移っている者もいる。 千紘は佐伯たちと話していたが、途中で席を移動した芹奈が隣に座った。「雨宮さん、お久しぶりです」「お久しぶりです」 最後に会ってから、それほど時間が経ったわけではない。 けれど芹奈は以前より少し疲れて見えた。 千紘は何も聞かなかった。 代わりに仕事の話をして、最近忙しいのか、そんな当たり障りのない会話を続ける。 しばらくして、千紘はふと視線を感じた。 少し離れた席にいる彰人だった。 こちらを見ている。 千紘と目が合うと、彰人はすぐ隣の男へ顔を向けた。 千紘は何も言わず、芹奈との会話を続けた。 数分後。 また見ている。 今度は千紘ではなく、芹奈の方を。 そこで千紘は、少しだけ笑った。「榊原さん、さっきからずっとこっち見てますね」「え?」 芹奈が振り返る。 彰人と目が合った。 彰人は一瞬動きを止め、それから手元のグラスへ視線を落とした。「……本当だ」「相沢さんのこと、気になるのかな」 千紘は冗談めかして言った。「仲いいんですね」「……どうだろ」 芹奈の返事が少し遅れた。 千紘はそれ以上何も言わなかった。「そういえば、佐伯さんが次の案件で――」 すぐ別の話題へ移る。 芹奈も相槌を打った。 けれど、その後何度か、芹奈は彰人の方を見ていた。 店を出る頃には、芹奈の口数は少なくなっていた。「じゃあ、お疲れさまでした」「お疲れさまです」 千紘は佐伯たちと駅へ向かう。 彰人と芹奈は同じ方向らしく、少し離れたところを歩いていた。 その途中で、彰人が芹奈に何か話しかけているのが見えた。 千紘は足を止めなかった。「雨宮さんと何話してた?」 駅へ向かう途中、彰人が聞いた。 芹奈は横目で彼を見る。「仕事の話とか」「ほか
翌朝、芹奈は通勤電車の中で法律事務所の予約ページを開いた。 昨夜、入力しかけた内容は残っていない。 もう一度最初から入力しなければならなかった。 空いている日時を確認しているうちに電車が駅へ着き、芹奈は画面を閉じた。 昼休みにでもやればいい。 そう思った。 ◇「おはよう」 会社へ着くと、彰人はすでに仕事を始めていた。「おはよう」 芹奈は自分の席へ向かう。 彰人はこちらを見たが、それ以上は何も言わなかった。 昨日、自分から聞いた。 最近、私に聞きたいことはないのか、と。 それでも彰人は何も聞いてこない。 旧端末のことも、雨宮凛のことも、千紘のことも。 以前なら何度も確認してきたのに。 芹奈はパソコンを立ち上げながら、ちらりと彰人を見る。 視線が合った。「何?」「……何でもない」「昨日からそればっかりだな」 彰人は苦笑して、すぐに仕事へ戻った。 ◇ 昼休み。 芹奈は一人で外へ出た。 適当に昼食を済ませ、会社へ戻る前に近くのカフェへ入る。 コーヒーを置き、スマートフォンを取り出した。 今なら時間がある。 予約だけなら数分で終わる。 法律事務所の名前を検索しようとして、指が止まった。 昨日の彰人の言葉が浮かぶ。『前はずっと鞄を手元に置いてただろ』 ただ目に入っただけ。 そう言っていた。 実際、それだけなのかもしれない。 けれど、もし自分が気づいていないだけで、ほかにも見られていたら。 芹奈は検索画面を閉じた。「……何考えてるんだろ、私」 予約したことを彰人に知られるはずがない。
帰宅してからも、律の言葉が頭に残っていた。『俺も、用事がなくても雨宮さんに会いたいので』 千紘は着替えを済ませ、ソファに座った。 スマートフォンを見る。 少し前に律から届いたメッセージがあった。『今日はありがとうございました。気をつけて帰ってください』 すでに、『こちらこそありがとうございました』 と返している。 だから、もう送るものはない。 それなのに何度も画面を開いてしまう。「何してる」 声がして顔を上げると、クロがいた。「別に」「そうか」 クロはそれ以上聞かず、向かいに座った。 その態度がかえって気になった。「……何も聞かないの?」「聞いてほしいのか?」「そういうわけじゃないけど」「なら聞かない」 前にも同じようなやり取りをした気がする。 千紘はスマートフォンを伏せた。「律さんとご飯食べてきた」「そうか」「今日、急に私から誘ったの」「前にも誘ってただろ」「覚えてたんだ」「お前がいちいち騒いでたからな」「騒いでない」 クロは答えなかった。「ねえ、クロ」「何だ」「人を好きになるのって、どこからだと思う?」 クロが千紘を見る。「知らん」「即答しないでよ」「死神に聞くことか?」「……確かに」 千紘は膝を抱えた。 自分でも、なぜこんな質問をしたのか分かっている。 律から連絡が来ると嬉しい。 会いたいと思う。 自分から誘うようになった。 別れると、次に会うことを考える。 今日だって、ただ一緒に夕食を食べ
仕事を終えてスマートフォンを見ると、律からメッセージが届いていた。『今日はもう仕事終わりました?』 千紘は歩きながら返信する。『今終わりました』 すぐに既読がついた。『お疲れさまです』 それだけだった。 千紘はしばらく画面を見つめる。 以前なら、ここでスマートフォンをしまっていただろう。 けれど今日は、自分から誘うと言ったことを思い出した。『律さんは?』『俺も終わったところです』 千紘の指が止まる。 会いたい。 そう思った。 この前会ったばかりなのに。 何か用事があるわけでもないのに。 千紘は少し迷ってから文字を打った。『もしまだ夕食を食べてなかったら、一緒に食べませんか?』 送った瞬間、胸が騒がしくなった。 ◇「急でしたよね」 待ち合わせた駅で、千紘は律を見るなり言った。「全然。むしろ嬉しかったです」「本当に?」「雨宮さんから誘ってくれたので」 律が笑う。「この前も誘いましたけど」「二回目です」「数えてるんですか?」「まだ二回なので」 千紘は思わず笑った。 律が選んだのは、駅近くの定食屋だった。 洒落た店でも、特別な場所でもない。 仕事帰りに待ち合わせて、夕食を食べる。 それだけだった。 けれど千紘には、その普通さが妙に心地よかった。「雨宮さん、今日は何食べます?」「生姜焼きにします」「決めるの早いですね」「お腹空いてるので」 注文を済ませ、二人で仕事の話をする。 千紘は共同プロジェクトが終わって少し落ち着いたことを話した。「じゃあ、最近は帰るの早いんですか?」
芹奈の様子が、また変わった。 彰人がそう感じたのは、鞄のことを口にした翌日だった。 話しかければ普通に答える。 仕事にも問題はない。 けれど、ときどきこちらを窺うような視線を向けてくる。 余計なことを言ったかもしれない。 彰人はそう思った。 旧端末のことは、もう聞かないと決めていた。 芹奈が持っているのか、自宅に置いているのか、それすら分からない。 無理に確かめようとすれば、また警戒されるだけだ。 それなのに、以前とは違う行動が目につき、つい口にしてしまった。「……面倒だな」 誰にも聞こえない声で呟き、彰人はパソコンへ目を戻した。 ◇ 昼休み、芹奈は同僚と一緒に外へ出ていった。 彰人は自席に残っていた。 少しして視線を上げると、芹奈の机が目に入った。 当然、そこに旧端末はない。 引き出しの中にあるかもしれない。 一瞬そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。 勝手に探すわけにはいかない。 そんなことをすれば、それこそ芹奈に自分が焦っていると教えるようなものだ。 彰人が知りたいのは、端末の中身だけではなかった。 芹奈が何を考えているのか。 誰かに話したのか。 これから何をするつもりなのか。 何一つ分からないことの方が、今は気味が悪かった。 ◇ 午後、コピー機の前で芹奈と二人になった。「芹奈」「何?」「昨日のこと、気にしてる?」 芹奈の手が止まった。「昨日?」「鞄の話。変な意味で言ったんじゃないから」「……別に気にしてないよ」「ならいいけど」 彰人はそれ以上続けなかった。 先に戻ろうとしたところで、
駅とは反対へ歩き始めたものの、特に目的地があるわけではなかった。 大通りを外れ、明るい店が並ぶ道を二人でゆっくり歩く。「雨宮さん、明日仕事ですよね?」「はい」「遅くなって大丈夫ですか?」「まだそんな時間じゃないですよ」「それはそうですけど」 千紘は時計を見た。 まだ九時前だった。 帰ろうと思えば、十分帰れる。 でも、帰りたいとは思わなかった。「律さんこそ、明日仕事でしょう?」「俺も大丈夫です」「じゃあ、もう少しだけ」 言ってから、自分でも驚いた。 律が千紘を見る。「もう少し歩きましょうか」「……はい」 そのまま二人で歩き続けた。 ◇ 途中で小さな公園を見つけ、ベンチに座った。 近くの自動販売機で律が温かい飲み物を二本買ってくる。「ありがとうございます」「寒くなってきましたね」「昼間はまだ暑いのに」 缶を両手で包む。 温かさが指先に広がった。 しばらく二人とも黙っていた。 気まずくはなかった。 何か話さなければと思わなくてもいい沈黙が、千紘には心地よかった。「雨宮さん」「はい?」「最近、最初に会った頃と結構変わりましたよね」 千紘は少し身構えた。「どこがですか?」「よく笑うようになったと思います」「前にも言ってませんでした?」「言いましたっけ」「言いました」「じゃあ、本当にそう思ってるんでしょうね」 律が笑う。「最初は、ずっと何か考えてるような顔してましたから」 千紘は缶へ目を落とした。 あの頃は復讐のことしか考えていなかった。 三か







