ログイン車内には重苦しい沈黙が流れていた。
助手席に座る恵は、窓の外をぼんやり眺めている。
悟も何を話せばいいのか分からず、ただハンドルを握っていた。
やがて、マンションへ到着する。
「着いた」
エントランスを抜け、部屋の前へ立つ。
ドアを開けた瞬間、恵は思わず顔をしかめた。
「……何、この匂い」
「え?」
悟は気づいていないようだった。
部屋の中には、生ごみと洗濯物が混ざったような生活臭が漂っている。
床には脱ぎっぱなしの服。
ソファにはコンビニの袋。
テーブルには飲みかけのペットボトルが何本も置かれていた。
「ちょっと散らかってるけど……」
「ちょっと?」
恵は思わず声を上げる。
以前、この部屋はいつ来ても綺麗だった。
床には埃一つなく、洗面所も鏡まで磨
「……もし旦那さんの会社が取引先と競合してたら、結構まずいんじゃない?」 田中の言葉に、佳苗は思わず顔を上げた。 佐藤は困ったように笑った。「でも、そんな話、誰もしてないじゃん」「そうだけどさ。なんか、いろいろ重なってるから気になっちゃって」「まあ、変なメールが何通も来たらねえ」 二人はそれきり別の話題に移った。 佳苗はパソコンの画面に視線を戻したが、指が動かなかった。 田中は、佳苗が情報を漏らしたと決めつけたわけではない。ただ、そんな可能性もあるのではないかと口にしただけだ。 それでも、胸が痛んだ。 以前なら、そんなことを疑われることさえなかったのに。 終業時間になると、佳苗は仕事を片付け、会社を出た。 雄吾の車は、少し離れた場所に停まっていた。「お疲れ」「……ただいま」 助手席に乗り込むと、雄吾が佳苗の顔を見た。「何かあったか?」「うん。ちょっとね」 佳苗は、田中たちの会話について話した。「別に悪口じゃないんだよ。ただ、私が雄吾さんに会社の情報を話してるんじゃないかって、気になってるみたい」「そうか」「なんかね、どんどん変な方向に話が広がっていくの」 佳苗は膝の上で手を握った。「最初は、私が絢子さんを助けたことだったのに。今度は仕事のことまで疑われて……」 雄吾はしばらく黙っていた。「弁護士には、今日の件も伝えた。久世への通知は準備を進めている」「うん」「ただ、警告を出したからといって、すぐに収まるとは限らない」「……そうだよね」 佳苗は窓の外を見た。「私、会社を辞めたほうがいいのかな」 雄吾がこちらを向いた。「辞めたいのか?」
翌朝、佳苗が目を覚ますと、雄吾はすでに身支度を整えていた。「おはよう。早いね」「ああ。弁護士に連絡を入れておきたいからな」「昨日の件?」「そうだ。まずは相談してみる」 雄吾は佳苗の顔を覗き込んだ。「少しは眠れたか?」「うん。昨日はありがとう」「気にするな」 佳苗は微笑んだ。 雄吾に話を聞いてもらっただけで、ずいぶん気持ちが楽になっていた。 会社に着くと、佐藤と田中はすでに書類の確認を始めていた。「おはようございます」「あ、おはよう、榊原さん」 佐藤はいつもどおり挨拶を返した。 田中も軽く会釈する。 佳苗は自分の席に着き、今日の業務を確認した。 契約関係の仕事は、まだ任されていない。 それでも、今できることをきちんと進めようと思った。 午前中、高瀬に声をかけられた。「朝倉さん、例のメールの件なんだけど」「はい」「ご主人が弁護士に相談されるんだったね。会社に届いたものについては、必要な記録を残してあるよ」「ありがとうございます」「ただ、外部に出す資料については、こちらでも確認させてもらいたい」「もちろんです」 佳苗は頭を下げた。 高瀬が協力してくれることがありがたかった。 昼休みになる頃には、少し落ち着いて仕事ができるようになっていた。 ところが、午後二時を過ぎた頃だった。 高瀬の電話が鳴った。「はい、高瀬です」 いつもの調子で応じた高瀬だったが、相手の話を聞くうちに表情が変わった。「……それは、いつ届いたものですか?」 佳苗は思わず顔を上げた。「分かりました。確認して、折り返しご連絡します」 電話を切った高瀬は、しばらく考え込んでいた。 そして、佳苗の
帰宅した佳苗を、雄吾はいつものように迎えてくれた。「おかえり。今日は早かったな」「うん。ただいま」 佳苗は笑顔を作り、バッグを置いた。 リビングのテーブルには、雄吾が買ってきた夕食が並んでいる。「お寿司だ。おいしそう」「好きだっただろう?」「うん。ありがとう」 向かい合って食事を始めたものの、佳苗はなかなか箸が進まなかった。「……何かあったのか?」 雄吾に尋ねられ、佳苗は顔を上げた。「ううん。ちょっと疲れただけ」「そうか」 雄吾はそれ以上聞かなかった。 その気遣いが、かえって胸に染みた。「……あのね」「うん?」「今日も、会社で書類の確認をしてたの」 佳苗は箸を置いた。「また小さな間違いが見つかって。それで、確認する書類も増えちゃった」「そうか」「私が間違えたのは本当なの。だから、確認されるのは仕方ないと思う」 話しているうちに、声が小さくなった。「でも、佐藤さんも田中さんも、普段の仕事があるのに、私の書類まで調べなきゃいけなくなって……」 雄吾は黙って聞いていた。「二人とも、私を責めたりはしないんだよ。ただ、仕事が増えて困ってるだけで」「……ああ」「それが分かるから、余計につらくて」 佳苗は膝の上で手を握った。「最近、会社にいると、誰かが話してるだけで私のことかなって思っちゃうの。前はそんなことなかったのに」 声が震えた。「私、ちゃんと仕事をしたかっただけなのにな……」 最後まで言い終わる前に、涙がこぼれた。「あ、ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」 慌てて目元を拭うと、雄吾が隣に移動し
「……私、仕事を外されるんですか?」 佳苗の問いに、高瀬は少し考えてから答えた。「しばらく契約関係の書類は、ほかの人に任せようと思っている」「……はい」「今回の件で、先方も神経質になっているからね。ただ、ずっとというわけじゃないよ」 高瀬は穏やかに続けた。「まずは、これまでの書類を確認しよう。何も問題がなければ、それで終わりだ」「分かりました」 佳苗は頭を下げた。 会議室を出て席に戻ると、作成途中の契約書類が画面に表示されたままだった。 昨日までは当たり前に任されていた仕事だ。 佳苗は保存を済ませ、静かにファイルを閉じた。 翌朝、高瀬は佐藤と田中に書類の確認作業を頼んだ。「通常業務もあるから、手分けして進めてほしい。急ぎの仕事があれば、そちらを優先して構わないよ」「分かりました」 佐藤は頷いたが、田中は書類の一覧を見て目を丸くした。「結構ありますね、これ」「申し訳ないね。私も一部は確認するから」 佳苗はその会話を聞きながら、申し訳ない気持ちになった。 自分のミスがきっかけで、同僚たちの仕事まで増えてしまった。 午前中、佳苗は備品の発注や社内資料の整理を進めた。 普段から担当している業務だが、契約書類に触れられないだけで、妙に手持ち無沙汰に感じる。 昼前になると、田中が小さな声を上げた。「あれ、ここも違う」「どうしたの?」 佐藤が隣から画面を覗き込む。「この書類、会社名の漢字が一文字違ってる」「あ、本当だ」「でも、別紙のほうは合ってるんだよね」「入力するときに間違えたんじゃない?」「そうだと思う。内容には影響なさそうだけど」 田中はため息をついた。「また修正かあ」 佳苗は思わず顔を上げた。「すみません。それ、私が作った書類ですよね」「あ、うん。でも、直せば済むところだから」「確認不足でした。申し訳ありません」「いや、榊原さんに謝られても……」 田中は少し困った顔をした。「こっちも確認するように言われてるから、見つけたところは報告するよ」「はい。お願いします」 佳苗は頭を下げ、自分の席に戻った。 二つ目のミス。 どちらも単純な間違いだった。 けれど、普段なら訂正して終わるものが、今は一つ見つかるたびに記録されていく。 午後、給湯室へ向かう途中で、田中と佐藤の会話が聞こえた。「し
「こんな人、知りません!」 思わず大きな声を出してしまい、佳苗は慌てて口を押さえた。 高瀬は写真を見下ろした。「落ち着いて。君を疑っているわけじゃないよ」「すみません。でも、本当に見覚えがなくて……」 写真には、若い頃の佳苗と悟が写っていた。 場所は、以前二人で訪れたレストランだった。悟の誕生日を祝った日のことを、佳苗は覚えている。 けれど、隣に立つ男性だけが分からない。「この写真、元は二人で撮ったものだったと思います」「そうなの?」「はい。店員さんにお願いして撮ってもらったんです」 佳苗は写真を指さした。「この人、私のすぐ隣に立っていますよね。でも、こんな人と一緒に写真を撮った覚えはありません」 高瀬は画像を拡大した。「確かに、少し不自然なところがあるね」 男性の肩と佳苗の髪が重なる部分に、わずかな違和感があった。「加工された写真かもしれないな」「……そこまでして、何がしたいんでしょう」 佳苗の声が震えた。 昔の写真を勝手に送られるだけでも嫌なのに、知らない男性との関係まで作り上げられている。「このメールについては、情報システム部門にも確認してもらっている。社内で転送しないよう周知するよ」「ありがとうございます」 佳苗は頭を下げ、席に戻った。 佐藤が田中と話している。「写真、合成じゃないかって話になってるらしいよ」「えっ、そうなの?」「だって、あんなメールを会社に送ってくる時点でおかしいじゃん」「まあねえ。でも、わざわざ写真まで作るって怖くない?」 二人は佳苗に気づくと、自然に話をやめた。 気を遣われているのだと分かる。 それでも、何とも言えない居心地の悪さが残った。 午後になり、佳苗は雄吾に写真の件を伝えた。
『明日の朝には、皆さんのお手元に届くと思いますよ』 佳苗はメッセージを読み返した。「……これ、どういう意味だと思う?」 信号待ちで車を停めた雄吾が、画面に目を向けた。「職場に写真を送るつもりだろうな」「でも、悟はまだ渡してないって言ってたのに」「そのあと渡した可能性はある」 佳苗は唇を噛んだ。 悟のことだから、十万円を目の前にちらつかされれば、簡単に気が変わってもおかしくない。「明日、会社に行くのが嫌になってきちゃった」「休んでもいいんだぞ」「ううん。仕事はちゃんとしたい」「そうか」 雄吾はそれ以上勧めなかった。「ただ、メッセージは残しておけ。何か届いたら、高瀬課長にも見せたほうがいい」「うん。そうする」 翌朝。 佳苗が出勤すると、いつもより早く来ていた佐藤が、パソコンの画面を見ながら首を傾げていた。「おはようございます」「あ、おはよう、榊原さん」 佐藤は挨拶を返したあと、少し迷うような顔をした。「ねえ、これって何なんだろう」「どうしました?」「変なメールが来てるんだよね。差出人も知らない人だし」 佳苗の胸がざわついた。「……どんなメールですか?」「榊原さんの名前が書いてあるの」 佐藤が画面を指さした。 件名は『榊原佳苗さんについてのお知らせ』。 本文には、佳苗が以前結婚していたこと、元夫と揉めて離婚したことなどが書かれていた。 そして、写真が数枚添付されている。「これ、開かないほうがいいよね?」「……はい。たぶん」 佳苗は画面から目を離せなかった。 添付ファイルの名前には、見覚えのある日付が並んでいた。 悟との結婚式の日付だっ
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ