LOGIN翌朝。
目を覚ました恵は、慣れない天井をぼんやり見つめた。
「……あ」
そうだった。
昨日、悟の家へ泊まったのだ。
リビングへ出ると、悟はネクタイを締めながら慌ただしく身支度をしていた。
「あ、起きた?」
「うん」
「コーヒーだけ飲む?」
そう言って差し出されたマグカップの中身は、インスタントコーヒーだった。
佳苗がいた頃は、朝食が並んでいた。
焼き魚や味噌汁、卵焼き。
寝坊した日でも、おにぎりだけは持たせてくれた。
そんな記憶がふと頭をよぎる。
悟も同じことを思い出したのか、小さく苦笑した。
「朝飯……作れなくてさ」
「別にいいけど」
恵はぶっきらぼうに答える。
悟は時計を見ると、慌てて立ち上がった。
「ごめん、もう行かないと遅刻する。
母との電話から数日後。 佳苗のもとへ、今度は恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、今大丈夫?』「うん。どうしたの?」『お母さんから変なこと言われた』「変なこと?」『しばらく私から連絡しないでって』 佳苗は眉を寄せた。「どうして?」『お姉ちゃんがいつ気づくか見たいんだって』「……何それ」 思わず声が低くなる。『私もやめなよって言ったんだけどさ』「うん」『だって、私がお母さんと普通に連絡取ってたら、本当に何かあったときはお姉ちゃんにも言うでしょ? それじゃ意味ないって』 佳苗はしばらく言葉が出なかった。 母が何を確かめたいのかは分かる。 自分から連絡しなくても、娘が心配してくれるのか。 けれど、そのために恵まで巻き込むのは違う。「恵は普通にしてて」『もちろん。そのつもり』「お母さんに何かあったら教えて」『当たり前じゃん』 恵は呆れたように言った。『こういうの、試すのよくないと思うんだけど』「私もそう思う」 ◇ その日の夜、佳苗は母へ電話を掛けた。『どうしたの?』「恵から聞いたよ」 母が黙る。「私がいつ連絡するか確かめたいって、本当?」『……恵、言ったのね』「お母さん」『別に大したことじゃないでしょう?』「大したことだよ」『ただ、あなたがどれくらい私のことを気にしてるのか知りたかっただけよ』「だったら普通に聞いて」『聞いたら意味ないじゃない』 佳苗は小さく息を吐いた。「そういうふうに試されるの、嫌だよ」『試すって……そんなつもり
母から連絡が来なくなって、一週間が過ぎた。 佳苗も最初の数日は気にしていたが、仕事に追われているうちに、いつもの生活へ戻っていた。 そんなある日、恵からメッセージが届く。『お母さんから連絡あった?』『ないよ』『やっぱり』 嫌な予感がして、佳苗は電話を掛けた。「何かあった?」『いや、何もないんだけどさ。今日電話したら、お姉ちゃんから一週間も連絡ないって言ってたから』「……それだけ?」『それだけ』 佳苗は眉間を押さえた。「お母さんからも連絡ないよ」『私もそう言ったんだけど』「何て?」『たまには娘の方から連絡するものでしょうって』「この前、私から連絡したこともあったんだけどな……」『覚えてないんじゃない?』「覚えてると思う」 きっと、そういう問題ではない。 母は今、自分が何もしなくても佳苗が気づいてくれることを待っているのだ。 ◇ 電話を切ったあと、佳苗は迷った。 このまま放っておいてもいい。 けれど、母と話したくないわけでもなかった。 結局、その日の夜にメッセージを送った。『元気?』 すぐに既読がついた。『元気よ』『最近連絡なかったから』 返事はしばらく来なかった。『佳苗も連絡くれなかったでしょう』『うん。お互い様だね』 また沈黙する。 数分後。『普通、親が連絡しなかったら心配しない?』 佳苗は画面を見つめた。『一週間くらいなら、忙しいのかなって思うよ』『倒れてるかもしれないのに?』『そのときは連絡して。必要ならすぐ行くから』 母が求めている答えではないことは分かっていた。『連絡できない状態だったらどうするの?
日曜日。 佳苗は予定通り雄吾と出かけた。 昼食を済ませ、以前から見たかった家具店を回る。それだけの休日だった。 それでも、佳苗はときどきスマートフォンを気にしていた。「母親から連絡?」「いえ。来てないです」「なら何で見る」「なんとなく……」 雄吾は少し呆れたように佳苗を見る。「昨日のこと気にしてるのか?」「少し」「佳苗は午後なら会えるって言ったんだろ」「はい」「それを断ったのは向こうだ」「分かってるんですけど」 佳苗は苦笑した。「お母さん、楽しみにしてたのかなって」「だったら午後から来ればよかっただろ」「……そうなんですよね」 雄吾の答えは単純だった。 けれど、その通りでもある。 佳苗は母に会うことを拒否していない。 ただ、先に入っていた約束を守っただけだ。 ◇ 夕方、恵からメッセージが届いた。『今日お母さんち行った?』『行ってないよ』『だよね』『どうしたの?』 しばらくして、電話が掛かってきた。『私、今日呼ばれたんだよね』「お母さんに?」『うん。お姉ちゃんが来なくなったから、ご飯食べない?って』「行ったの?」『行ったよ。暇だったし』 そこまでは何も問題ない。『でもさ、お母さん、お姉ちゃんの話ばっかりするの』「私の?」『雄吾さんとの予定を優先されたって』 佳苗はため息をついた。「優先したんじゃなくて、先に約束してたの」『そう言ったよ』「恵が?」『うん。そしたら、結婚したら夫が一番になるものなのかって聞かれた』
母から返事が来たのは、その日の夜だった。『分かった。もう急に行かないわ』 それだけだった。 佳苗は少し気になったものの、これ以上話を広げる必要もないと思い、『うん。今度はゆっくりお茶しよう』 と返した。 既読はついたが、返信はなかった。 ◇ 数日後、恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、お母さんとまた何かあった?』「どうして?」『この前、お姉ちゃんの家に行ったら、雄吾さんに邪魔そうにされたって言ってたから』「……やっぱり恵にも言ったんだ」 佳苗は事情を説明した。 突然訪ねてきた母を、雄吾は家へ上げたこと。 飲み物も出したこと。 ただ、仕事中だったため、ずっと話し相手にはなれなかったこと。『それだけ?』「それだけ」『普通じゃん』「私もそう思う」『ていうか、急に行ったんでしょ?』「うん」『それで仕事やめて相手してくれなかったって怒ってるの?』「怒ってるというか、歓迎されてないって思ったみたい」 電話の向こうで、恵が大きくため息をついた。『お母さん、めんどくさ……』「恵」『だってそうじゃん』 否定はできなかった。 ◇ その週末、母から佳苗へ電話が掛かってきた。『来週の日曜日、そっちに行ってもいい?』 今度はきちんと事前に聞いてきた。「ちょっと待って。予定確認するね」 カレンダーを見る。「午後なら大丈夫だよ」『雄吾さんもいる?』「いると思う」『じゃあ、お昼くらいに行こうかしら』「午後って言ったでしょう?」『お昼なら一緒に食べられるじゃない』
母が料理を持ってきてから、二週間ほど経った。 その間にも、母から料理の写真が送られてきたり、佳苗の好きだった菓子の話をしたりすることが増えた。 母との関係は、少しずつ良くなっている。 佳苗もそう思っていた。 ◇ ある土曜日。 佳苗は美容院へ出掛け、雄吾は自宅で仕事をしていた。 昼を少し過ぎた頃、インターホンが鳴る。 画面に映っていたのは佳苗の母だった。「こんにちは」「こんにちは。佳苗なら今、出掛けてます」「あら、そうなの?」 母の手には紙袋があった。「近くまで来たから、これを渡そうと思って。すぐ戻るのかしら?」「夕方になると思います」「そう……」「よかったら、上がって待ちますか?」「いいんですか?」「はい」 雄吾に促され、母は家へ上がった。 ◇「仕事中だったんですね」「少しだけ片づけたいものがあって」「あら、ごめんなさい。邪魔しちゃったかしら」「大丈夫です」 雄吾は飲み物を用意し、母の前へ置いた。「ありがとうございます」「佳苗に連絡しておきます」「あ、わざわざいいですよ。これを渡しに来ただけだから」 母は笑った。 けれど雄吾はすぐに仕事へ戻った。 同じ部屋にはいるものの、パソコンへ向かったまま会話はない。 母は一人で飲み物を口にした。 五分。 十分。 雄吾はときどき電話にも出ている。 忙しいのだろう。 頭では分かる。 それでも、だんだん居心地が悪くなってきた。「雄吾さん」「はい?」「私、そろそろ帰りますね」「佳苗を待たなくていいんですか?」
恵が帰ったあとも、母は一人でその言葉を考えていた。『必要だから一緒にいるんじゃなくて、会いたいから会うんじゃ駄目?』 言っていることは分かる。 今日だって恵は、頼み事があったわけでもないのに訪ねてきた。 それは嬉しかった。 けれど同時に、妙な寂しさもあった。 昔は違った。「お母さん、これどうしたらいい?」「お母さん、分からないから教えて」 娘たちは何度も自分を頼った。 自分が答えを教えれば安心した顔をした。 いつの間に、それがなくなったのだろう。「大人になったんだから、当たり前なのよね……」 口にしてみても、胸の奥はすっきりしなかった。 ◇ 数日後。 佳苗のスマートフォンに母から写真が届いた。 見覚えのある料理だった。『これ覚えてる?』『覚えてるよ。昔よく作ってくれたよね』『そう。久しぶりに作ったの』 懐かしくなり、佳苗は素直に返信した。『おいしそう』『今度作ってあげようか?』『食べたい』 すぐに返事が来る。『じゃあ今度持っていくわね』 佳苗の指が止まった。『うちに?』『そうよ。雄吾さんにも食べてもらいたいし』 母が家へ来る。 それ自体が嫌なわけではない。 ただ、勝手に日程を決められるのは困る。『来るなら先に日を相談してね』『もちろんよ』 その返事に、佳苗はほっとした。 ◇ 翌週。『土曜日はどう?』 母から連絡が来た。 佳苗は雄吾に確認してから返信する。『午後なら大丈夫だよ』『じゃあ持っていくわね』『ありがとう』 土曜日、母
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし







