تسجيل الدخولマンションへ戻る頃には、
すっかり日が暮れていた。エントランスを抜け。
エレベーターへ乗り込む。
佳苗は無意識にため息を吐いた。
「疲れたか」
雄吾が尋ねる。
「少しだけです」
佳苗は笑う。
「でも楽しかったです」
その言葉に。
雄吾は小さく頷いた。
それだけだった。
けれど。
どこか嬉しそうにも見えた。
部屋へ戻る。
靴を脱ぐ。
荷物を置く。
ただそれだけのことなのに。
佳苗はふと不思議な気持ちになった。
帰ってきた。
そう思ったのだ。
自分の家ではない。
仮に身を寄せているだけの場所。
そのはずなのに。
「どうした」
雄吾の声で我に返る。
「いえ」
「……恵」 佳苗は思わず妹の名前を呼んだ。 最後に会った離婚協議の日よりも、恵はやつれて見えた。 丁寧に整えていたはずの髪は少し乱れ、目の下には薄く隈が浮かんでいる。 それでも佳苗を見つめる瞳だけは、鋭く揺れていた。「久しぶり」 佳苗は努めて穏やかに声を掛ける。 恵は返事をしない。 代わりに視線を雄吾へ向けた。 雄吾も無言で軽く会釈をする。 恵はその二人を何度も見比べた。「そうなんだ」 ぽつりと呟く。「今度はこの人なの?」 佳苗は小さく眉を寄せた。「違うよ」「何が違うの?」 恵は乾いた笑いを漏らす。「一緒に出掛けて、笑って、ご飯食べて」 商店街を見回しながら言葉を続けた。「どう見てもデートじゃない」「恵」「お姉ちゃんって、本当にずるいよね」 その一言に、佳苗は息を呑んだ。「私は全部なくなったのに」 恵の声が少し震える。「悟さんにも出て行けって言われて、お金もなくて、仕事もうまくいかなくて」 唇を噛み締める。「なのに、お姉ちゃんは新しい男の人と楽しそうに笑ってる」 恵は佳苗を睨みつけた。「どうしていつもお姉ちゃんばっかりなの?」 通りを歩く人たちが、何事かと足を緩める。 佳苗は静かに息を吸った。 以前なら。 きっと謝っていた。 自分が悪くなくても、「ごめんね」と言っていた。 でも――。「恵」 佳苗はまっすぐ妹を見つめる。 その声は驚くほど落ち着いていた。「私は、あなたから何かを奪ったことはないよ」 恵の肩がぴくりと震える。「悟さんを選んだのは、あなた」 佳苗は
翌週の日曜日。 佳苗は約束の時間より少し早く支度を終え、リビングへ向かった。 雄吾はすでにソファへ座り、スマートフォンを眺めている。「お待たせしました」「ああ」 雄吾は立ち上がった。「行くか」「今日は教えてくれるんですか?」「昨日言っただろ」「食べる、だけですよね」「十分だ」 佳苗は苦笑する。 結局、今日も目的地は分からないままだった。 二人は電車へ乗り、三十分ほど揺られる。 降り立った駅は休日らしく、多くの人で賑わっていた。「ここは……」「商店街だ」 雄吾が歩き出す。 アーケードの下には食べ歩きのできる店がずらりと並んでいた。 焼き小籠包。 メンチカツ。 フルーツ飴。 焼きたてのクッキー。 甘い匂いと香ばしい匂いが入り混じっている。「すごい……」 佳苗は思わず辺りを見回した。「こういうところ、初めてです」「そうか」 雄吾はどこか満足そうだった。「まずはこれ」 そう言って買ってきたのは、熱々の焼き小籠包だった。「気を付けろ」「はい」 佳苗は一口かじる。「熱っ」 思わず目を丸くすると、中から肉汁が溢れ出した。「おいしい……!」 雄吾はその様子を見て小さく笑う。「予想どおりだ」「先輩!」「そんなに嬉しそうな顔するとは思わなかった」 佳苗は少し頬を膨らませる。 けれど嬉しくて仕方がない。 二人はゆっくり商店街を歩いた。 気になる店があれば立ち止まり、少しずつ買って分け合う。「
朝食を終えたあと、佳苗は食器を流しへ運んだ。「洗い物は私がやります」「いや」 雄吾は立ち上がり、食器を一枚受け取る。「今日は半分ずつだ」「半分ずつ?」「ああ」 そう言うと、ごく自然な手つきで洗い始めた。 佳苗は思わず笑ってしまう。「それ、子どもみたいですよ」「公平だろ」「そうですけど」 結局、二人で並んで洗い物をすることになった。 食器を洗う雄吾。 佳苗は隣で拭いていく。 たまに手が触れそうになって、お互い少しだけ譲り合う。「すみません」「いや」 そんな短いやり取りが何度か続き、最後の皿を棚へ戻した。「終わりましたね」「ああ」 佳苗がエプロンを外した、その時だった。「そういえば」 雄吾が思い出したように口を開く。「来週の日曜、空いてるか」 佳苗は振り返る。「来週ですか?」「ああ」 少し考える。 資格試験まではまだ少し時間がある。 会社の予定もない。「空いてます」 そう答えると、雄吾は小さく頷いた。「なら出掛けるぞ」 また説明がない。 佳苗は思わず笑った。「今度は教えてくれないんですか?」「秘密だ」「またですか」「前も文句を言ってたな」「だって、本当に何も教えてくれないじゃないですか」 佳苗が少しだけ頬を膨らませると、雄吾は珍しく声を立てて笑った。「その顔」「え?」「前はしなかった」 佳苗はきょとんとする。「そうですか?」「ああ」 雄吾は頷いた。「前のお前は、遠慮ばかりしてた」
その夜。 買ってもらったプリンを食べながら、佳苗は何度も思い返していた。 駅まで迎えに来てくれたこと。 何も聞かずにプリンを買ってくれたこと。 どちらも雄吾にとっては大したことではないのだろう。 だからこそ困る。 何気ない優しさだから。 余計に心へ残ってしまう。「何笑ってる」 食器を洗いながら、雄吾が振り返った。 佳苗ははっとする。「え?」「さっきから」 言われて初めて気付いた。 自分は笑っていたらしい。「そんなに美味しかったか」 佳苗は照れ隠しにプリンの空を見つめた。「……美味しかったです」 嘘ではない。 でも、それだけじゃなかった。 雄吾は「そうか」とだけ言って洗い物を続ける。 佳苗はその背中を見つめ、小さく笑った。 本当に。 敵わない人だ。 翌朝。 目を覚ますと、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。 佳苗は寝ぼけ眼のままリビングへ向かう。「おはようございます」「ああ、おはよう」 雄吾はエプロン姿でフライパンを振っていた。 佳苗は目を丸くする。「先輩?」「何だ」「もう料理してるんですか?」「熱は下がった」 そう言って味噌汁の火を止める。 確かに顔色も昨日よりずっといい。 佳苗はほっと胸を撫で下ろした。「良かった……」 思わず本音が漏れる。 雄吾は苦笑した。「そんなに心配だったか」「当たり前です」 佳苗は即答してしまう。 その瞬間、自分でも少し言い過ぎたと思った。 慌てて視線を逸らす。
翌週の金曜日。 佳苗は時計を見上げ、小さく肩を落とした。 午後六時半。 普段ならもう帰り支度をしている時間だった。「ごめん、佳苗さん」 課長が申し訳なさそうに近づいてくる。「この書類、今日中に確認だけお願いできる?」「はい、大丈夫です」 佳苗は笑顔で頷いた。 入社してまだ日が浅い。 頼ってもらえるのは嬉しかった。 急いで資料を確認し、入力を終える。 気が付けば七時半を回っていた。「終わりました」「助かったよ。ありがとう」 課長に礼を言われ、佳苗はほっと息をつく。 会社を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。「遅くなっちゃった……」 スマートフォンを見る。 雄吾からメッセージが届いていた。『まだ会社か』 短い一文。 佳苗は少しだけ頬を緩める。『今終わりました。これから帰ります』 送信すると、すぐに返信が返ってきた。『駅にいる』 佳苗は思わず立ち止まった。「え?」 駅にいる。 その意味を理解するまで数秒かかった。 急いで改札へ向かう。 人混みの向こうに、見慣れた姿があった。 雄吾は柱にもたれ、スマートフォンを見ている。 佳苗に気付くと顔を上げた。「先輩?」 思わず駆け寄る。「どうしたんですか?」「迎え」 あまりにも簡潔な答えだった。 佳苗は目を丸くする。「迎えって……」「今日は遅いだろ」 それだけだった。 佳苗は胸の奥がじんわりと温かくなる。「連絡してくれれば良かったのに」「仕事中だろ」
湯気の立つ鍋を囲みながら、二人で夕食を取る。 今日の献立は、卵とじうどんだった。 食欲がない時でも食べやすいようにと、佳苗なりに考えた一品だ。「味、薄くないですか?」 佳苗がおそるおそる尋ねる。 雄吾はうどんを一口すすり、ゆっくりと飲み込んだ。「ちょうどいい」 その一言に、佳苗は胸を撫で下ろす。「良かった」 雄吾は箸を置き、佳苗を見た。「お前」「はい?」「昔からこうだったのか」「何がですか?」「人の世話を焼くのが好きなのか」 思いがけない問いだった。 佳苗は少し考える。「好き……なんでしょうか」 自分でもよく分からない。 ただ。 困っている人を見ると放っておけない。 それだけだ。「昔は」 佳苗は箸を持つ手を止めた。「家族のために何かするのは当たり前だと思っていました」 朝早く起きて朝食を作ることも。 洗濯も掃除も。 節約も。 全部、妻だから当然だと思っていた。 感謝されなくても。 気付かれなくても。 そういうものだと、自分に言い聞かせていた。「でも」 佳苗は少し笑った。「今は少し違います」 雄吾は黙って続きを待っている。「先輩が『ありがとう』って言ってくれるから」 その一言で十分だった。 誰かのためにしたことが。 ちゃんと届いている。 そう思えるだけで嬉しかった。 雄吾は照れくさそうに視線を逸らす。「礼くらい言うだろ」「悟さんは、あまり言いませんでした」 その言葉が出た瞬間。 佳苗は「あっ」と小さく声を漏らした。
「二泊三日だ」 雄吾の言葉に。 佳苗は思わず聞き返した。「結構長いですね」「そうか?」 雄吾は平然としている。 佳苗は口を閉じた。 二泊三日なんて。 普通なら大した期間じゃない。 それなのに。 なぜか落ち着かない。「何か問題あるか」 雄吾が尋ねる。「いえ」 佳苗は慌てて首を振った。「大丈夫です」 本当に。 大丈夫なはずだ
翌朝。 佳苗はいつもより少し早く目を覚ました。 カーテンを開ける。 柔らかな朝日が差し込んだ。 不思議だった。 少し前まで。 朝が来るのが嫌だったのに。 今は違う。 今日も一日が始まる。 そう思える。 佳苗は着替えを済ませ、 リビングへ向かった。 キッチンから香ばしい匂いがする。「あれ?」 思わず声が漏れた。 雄吾がいた。 しかも。
週末が終わり。 月曜日の朝が来た。 佳苗はキッチンで朝食の準備をしていた。 以前より手際がいい。 自分でもそう思う。 生活のリズムが戻ってきたからだろうか。 その時。 テーブルの上のスマホが震えた。 雄吾が画面を確認する。 そして。「三浦だ」 短く言った。 佳苗の手が止まる。 最近。 三浦からの連絡は、 離婚の話が多い。 雄吾は通話へ出た。『おはようございます』 三浦の落ち着いた声が聞こえる。『相手方の代理人から連絡がありました』 佳苗は思わず顔を上げる。『離婚条件について協議したいとのことです』 静かな朝だった。 けれど。 その一言で空気が
電車を降りたあと。 佳苗は周囲を見回した。「ここ……」 見覚えがある。 いや。 正確にはテレビや雑誌で見たことがあった。「植物園ですか?」「ああ」 雄吾が短く答える。 佳苗は少し驚いた。 もっと賑やかな場所を想像していたからだ。 テーマパークとか。 ショッピングモールとか。 そういう場所を。「嫌だったか」「いえ」







