로그인投稿するまでに、3時間かかった。
書いては消し、書いては消し、最後に残ったのは、短い文と1枚の写真だった。
写真の端に住所や書類名が映り込んでいないか、何度も確認した。元画像は撮影時刻が残ったまま、私しか開けない保管先へ移した。
【韓国出張中の夫のパスポートが、家にあります】
写真は、濃紺の表紙だけ。名前のページは写さなかった。
送信して、陽翔と風呂に入って、寝かしつけて、恐るおそるスマホを開いた。
拡散の数字が、4桁になっていた。
【は? どういうこと?】
【パスポートなしで海外……行けるわけない】 【偽装出張だ。うちの元夫と同じ手口】 【奥さん、落ち着いて。まず証拠の保全を】 【いや待って、更新で古いのが家にあるだけかも。冷静に】コメント欄は、燃えているというより、沸騰しながら整列していた。責める声を、たしなめる声が抑える。憶測を、経験談が裏づける。夜中の3時に、知らない人たちが、私のために本気で議論していた。
その中に、ひときわ具体的なコメントがあった。
【元調査業界の者です。パスポートだけでは「行っていない」と断定できません。古い旅券ではないか、有効期限も確認してください。
出入国記録は本人以外が簡単に取れるものではないので、離婚を視野に入れるなら、まず弁護士に相談して、必要な手続きや照会方法を確認してください。最初は自治体の無料法律相談でもいいと思います】
アイコンは虫眼鏡のマーク。まる子さんがすかさず【調査員さんだ。この人の言うことは確か】と返していた。
弁護士。
その言葉が、画面の中で急に現実になった。
愚痴のはずだった。吐き出すだけの場所のはずだった。それがいま、「離婚を視野に」という言葉と一緒に、私の手の中にある。
……
朝になって、私はひとつの投稿をした。
【たくさんの反応、ありがとうございます。ひとつだけお願いです。夫の名前や勤務先を探すのは、やめてください。私は事実を確かめたいだけで、誰かを晒したいわけじゃありません。名前も顔も、これからも出しません】
【了解です】
【それでこそ奥さん】 【俺たちは証拠集めのお手伝いだけな、みんな】ルールが、できた。私と、顔も知らないこの人たちの間に。
私は投稿を閉じ、スマホのメモを開いた。
【出発2日前 崇が韓国出張と説明】
【出発前日 香織が荷造りを手伝う】
【出発当日 崇が出発。韓国到着とLINE】
【出発3日目 自宅で有効なパスポートを発見】
見たことと、推測を分けて書いた。「浮気」とは、まだ入力しなかった。崇が韓国にいない可能性は高い。でも、どこにいて、誰といるのかは知らない。
知らないことまで事実にすれば、私も崇と同じになる。
そう書いても、頭の中では答えを作りたがる自分がいた。パスポートが家にある。なら、崇は国内にいる。国内にいるのに10日も帰らない。なら、女がいる。
推測は、階段のようにつながっていた。1段目が事実なら、最後まで正しいように見える。けれど、途中にはまだ、私が見ていない段がある。
私はメモの文字色を変えた。自分の目で見たものは黒。崇が話したことは青。推測は赤。
画面には、赤い文字ばかりが増えた。
【国内にいる】
【誰かと会っている】
【会社にも嘘をついている】
【浮気している】
いちばん知りたいことほど、まだ赤かった。私はその4行を消さず、先頭に【未確認】と付けた。
信じたい気持ちで白に戻すことも、怒りで黒へ塗り替えることもしない。赤いまま残して、確かめる。
陽翔が昼寝から起き、私の膝へよじ登ってきた。私はすぐに画面を閉じた。
「パパ、いつかえる?」
「もう少しだって」
それは崇から聞いた事実だった。帰ってきたあと、どんな父親の顔をするのかは分からない。
「おみやげ、ある?」
「あるといいね」
私は陽翔の髪を撫でた。子どもの期待まで、私の推測で先に壊さない。その代わり、崇が帰ったとき、言葉ではなく行動を見る。
赤い文字の画面を閉じたまま、私は陽翔と積み木を積んだ。崩れた塔を、この子は何度でも最初から作り直した。
スクリーンショット、パスポートの写真、崇からのLINE。日付ごとにフォルダを分ける。SNSの人たちが教えてくれた「証拠の保全」は、私にもできた。
昼すぎ、市役所に電話をかけて、無料法律相談の予約を取った。いちばん早い枠は、およそ2週間後の月曜日だった。長い。でも、進んでいる。
相談までに聞きたいことも書き出した。夫が本当に出国したかを確認する方法。夫婦のお金を守るために、いま何をしてよいか。子どもを連れて家を出る場合、先に準備するもの。
離婚すると決めたわけではない。
ただ、崇の説明ひとつで、私と陽翔の生活が消えないようにしたかった。
電話を切ったあと、通帳と印鑑の場所を確認した。勝手にお金を動かすつもりはない。口座の残高と、毎月いくらあれば陽翔と暮らせるのかを、家計簿の余白へ書き出した。
数字にすると、怖さに輪郭ができた。
育休中でも、私は何もできない人間ではない。復職する会社があり、わずかでも自分名義の貯金がある。母親である前に、夫の言葉を信じるだけではない自分がいた。
夕方、崇からLINEが来た。
【ごめん、出張延長かもしれない。あと2、3日】
台所に立ったまま、その画面をしばらく見ていた。
不思議なくらい、心が動かなかった。
3日前の私なら、「大変だね」と返して、信じようとして、夜中にひとりで苦しかったはずだ。
いまは違う。この14文字は、嘘だ。嘘だと知っている。そして嘘には、証拠という反対語がある。
【わかった。体に気をつけてね】
完璧な妻の返信を打ちながら、私は生まれて初めて、自分の中に静かな戦意が灯るのを感じていた。
スマホの向こうでは、まだコメントが増え続けている。
【奥さん、それ絶対に何かあります】
知らない誰かが、本気で怒ってくれていた。
私は証拠フォルダへ、崇の「延長」のLINEを追加した。
画面の保存時刻も、メモへ残す。崇が帰宅したら、出張先の話を自分からするはずだ。どの街にいたのか。誰と会ったのか。何を食べたのか。
私は答えを知りたいのではない。
崇が、どんな嘘を選ぶのかを知りたかった。
帰ってきたら、問い詰めない。
崇が自分から何を話し、何を隠すのかを見る。嘘をひとつずつ、本人の言葉で残してもらう。
そのために私は、何も知らない妻の顔で待つことにした。
11月20日、金曜日、午後0時10分。先に電話をかけたのは、崇だった。香織へ先に聞けば、崇へ知らせる時間を与えてしまう。だから崇の昼休みを選び、通話用のスマホをスピーカーにした。テーブルの上では、以前使っていた古いスマホが録音を始めている。私自身が参加する会話だ。質問は短く、答えを誘導しない。弁護士と確認したとおりにする。録音前に、質問を紙へ3つだけ書いた。どこにいたか。何時に戻ったか。誰といたか。4つ目は書かなかった。なぜ嘘をついたのか。その質問は、事実ではなく言い訳を集めるためのものになる。聞きたいことと、いま聞くべきことは違う。弁護士からは、録音の前後を切らず、元データを残すよう言われていた。私は時刻が映る画面を写真に撮り、古いスマホを機内モードにした。証拠は、内容だけでなく、どう残したかまで説明できなければならない。「どうした?」崇の背後で、食器の触れ合う音がした。「家計簿と予定表を整理してるの。韓国出張の2日目の夜、どこにいた?」「急だな」「忘れないうちに書いておきたくて」2秒の沈黙。「向こうの担当と会食。ソウルの焼き肉屋」「ホテルへ戻ったのは?」「11時くらい。疲れて、すぐ寝た」「誰と食べた?」「会社の連中。美咲が知らないやつ」嘘は、質問を重ねるほど具体的になった。「ありがとう。仕事中にごめんね」通話を切る。午後0時12分。録音を止めず、そのまま香織へ電話した。「もしもし、お姉ちゃん?」「急にごめん。ひとつ確認したいことがあるの」「なに?」「崇が韓国へ行った2日目の夜、香織はどこにいた?」受話口が、静かになった。「え、なんで?」「手伝いを頼もうとした日があった気がして。予定表へ残しておきたいの」「ああ。あの日は、新宿でクライアントと食事。終電近くまで一緒だったよ」「誰と?」「仕事の人。お姉ちゃんの知らない人」崇と同じ言い方だった。私が知らない人。「そう。ありがとう」「それだけ?」「うん。それだけ」午後0時14分、通話を終えた。崇はソウル。香織は新宿。実際には、ホテルSの同じ客室で、シャンパングラスを2つ並べていた。2人に相談する時間を与えず、別々の嘘を記録できた。2つの録音を聞き返すと、声の調子は驚くほど普通だった。崇は面倒な予定を説明するように。
3日間、何も投稿できなかった。書けば、香織は「疑っている相手」から「夫の隣にいた妹」になる。私が書かなくても、事実は変わらない。それでも、指が動かなかった。タイムラインには、心配する言葉が増えていった。【更新がないけど、大丈夫かな】【お子さんと無事なら、それでいいです】【待っています。返事はいりません】まる子さんからは、DMが来た。【何も聞きません。ごはんは食べていますか】【食べています】嘘だった。陽翔が残したうどんを、数本飲み込むのがやっとだった。崇は気づかなかった。毎朝、私が整えたシャツを着て出勤する。夜は私の作った夕食を食べ、陽翔の頭を撫で、先に眠る。香織からもLINEが来ていた。【お姉ちゃん、今週こそ手伝いに行こうか?】通知だけを読み、開かなかった。ありがとう。助かる。私はその2つの言葉で、何度、あの2人に時間を渡したのだろう。……3日目の夜、コメント欄のいちばん下に、短い一文があった。【あなたは、間違っていない】Rだった。がんばれ、でもない。
香織の仕事用アカウントは、パスワードがかかっていなかった。作品、打ち合わせ先のカフェ、ネイル。私は昔からフォローしている。新しい作品が出れば「いいね」を押し、妹が順調に働いていることを喜んでいた。ただ、投稿が複数枚あるときも、全部を見てはいなかった。3カ月前の投稿で、指が止まった。最初の1枚は、ノートパソコンとコーヒー。【大きな仕事が一区切り。たまには自分へご褒美】私はその写真に「いいね」を押していた。横へ滑らせる。2枚目は、夜景。3枚目は、ルームサービスのワゴンだった。シャンパングラスが2つ。窓際のソファ。投稿日は、崇の「韓国出張」3日目。私は写真を拡大した。窓の外に観覧車が見える。高速道路の曲がり方も、ホテルSの公式サイトに載っている客室の景色と同じだった。グラスの向こうに、ベージュの革と金色の金具。あの鞄。まだ、香織がホテルSへ行ったことしかわからない。そう言い聞かせて、もう一度、画面の端を見る。ソファの背に、紺色のジャケットが掛かっていた。袖口に、銀色の四角いカフス。陽翔が生まれた年、私が崇へ贈ったものだった。裏には、崇のイニシャルを彫ってもらった。画面をさらに広げる。夜景の映った窓に、人影が反射していた。スマホを構える香織。その後ろで、ワイシャツ姿の男がグラスを持っている。顔の半分しか見えない。それでも、見間違えなかった。崇だった。スマホが、手から落ちた。床に当たる音で、息をしていなかったことに気づいた。台所へ行き、シンクに両手をつく。何も食べていないのに、吐き気だけが上がってきた。水を出した。流れる音の向こうで、記憶が勝手につながっていく。香織が選んだ、崇の紺のネクタイ。聞かずに開けた、うちの台所の引き出し。崇のホテル利用日に限って届いた、「今日は忙しい」のLINE。私が欲しいと言った翌月、香織が買ったベージュの鞄。【お姉ちゃんのため】何度も聞いた言葉だった。お姉ちゃんのために、陽翔を預かる。お姉ちゃんのために、荷造りを手伝う。お姉ちゃんのために、家へ来る。そのたび、2人が会う時間を作らされていたのは、私だった。寝室から、崇の寝息が聞こえる。深く、規則正しい音。私が妹の投稿を見ている夜にも、この人は眠れる。悔しいより先に、不思議だった。何もしていない私が眠
香織の名前を書いた夜から、私は眠れなくなった。夫の浮気相手が知らない女なら、夫だけを失えばいい。香織なら、夫と妹を同時に失う。結婚式の日、香織は私のベールを何度も直した。緊張で手が冷えていた私に、『お姉ちゃん、絶対に幸せになってね』と言い、自分の方が先に泣いた。陽翔が生まれた日も、家族の中で最初に病院へ駆けつけたのは香織だった。小さな手を怖々とのぞき込み、『私、何でも手伝うから』と笑っていた。あの涙も、笑顔も、最初から嘘だったとは思えない。少なくとも、あの瞬間の香織は、私の幸せを願っていたはずだ。だから余計に苦しかった。人は、昔愛していた相手を、あとから傷つけることがある。過去が本物だったからといって、現在まで無実になるわけではない。私は、結婚式の写真をしまった箱へ手を伸ばしかけ、やめた。確かめたいのは、あの日の香織ではない。いま、崇の隣にいる女性だった。だから私は、確かめたいのに、外れてほしかった。……水曜日、香織からLINEが来た。【今週、手伝いいる?金曜なら空いてるよ】いつもなら、迷わず頼んでいた。香織が来れば、陽翔は喜ぶ。私も買い物や家事が進む。でも今は、香織が台所の引き出しを迷わず開ける姿を見たくなかった。【ありがとう。今週は大丈夫。陽翔と2人でゆっくりするね】既読がつく。【そっか。何かあったら、いつでも呼んでね】何かあったら。も
ベージュの革に、金色の金具。写真を閉じても、鞄の形だけがまぶたに残った。あのブランドは去年から流行っている。同じ鞄を持つ人は、街にいくらでもいる。だから、鞄だけでは何も決まらない。そう書いた付箋を、パソコンの横へ貼った。【見た事実】崇が、接待ゴルフの日にホテルSへ入った。女性が隣にいた。女性はベージュの鞄を持っていた。【まだわからないこと】女性の名前。崇との関係。ホテルの部屋へ入ったか。書いてみると、わからないことのほうが多い。それでよかった。疑いを、答えのふりで扱わない。付箋の余白へ、香織との古い記憶が割り込んだ。私が小学5年生、香織が3年生だったころ。下校中に雨が降り、傘は私の1本しかなかった。私は香織を内側へ押し込み、自分の肩を半分ぬらして歩いた。途中で水たまりを避け損ね、2人とも靴下までびしょぬれになった。帰宅して母に叱られたあと、布団の中へもぐり込み、濡れた靴下の跡を見せ合って笑った。「お姉ちゃんと一緒なら、雨の日も好き」香織はそう言って、私の腕へ頬を寄せた。守るのは、私の役目だと思っていた。おやつを半分多く渡すことも、母に叱られそうな失敗を先にかばうことも、姉なら当たり前だと思っていた。だからいまも、香織の名前を疑いの欄へ移すだけで、自分が妹
週明けの月曜日、私は市役所の小さな相談室にいた。パスポートの写真を投稿した日から、およそ2週間待った無料法律相談の日だった。担当は、三上沙耶(みかみ さや)弁護士。私より少し年上に見える女性だった。私は印刷した表を机へ置いた。家にあるパスポート。出張期間中の都内のレシート。家計用カードの明細。ホテルへ入る崇の後ろ姿。三上弁護士は、ひとつずつ日付を確認した。「よく、事実と推測を分けましたね」褒められたのは、我慢でも、覚悟でもなかった。分けたことだった。その一言で、肩に入っていた力が少し抜けた。「夫が韓国へ行っていない証明になりますか」三上弁護士は、すぐにはうなずかなかった。「行っていない可能性は、かなり高いです。ただし、このパスポートだけで断定はできません。別の有効な旅券がないか、出入国したかを、奥様が本人に無断で直接照会することも原則できません」パスポートを投稿したときのコメントを思い出す。弁護士経由なら取る方法がある。それは、いつでも簡単に取れるという意味ではなかった。「調停や訴訟へ進み、必要性が認められれば、記録を求める方法を検討できます。ただ、いま手元にない公的記録を、あるものとして話してはいけません」「ホテルへ問い合わせるのは?」「奥様が『身に覚







