LOGIN蒼真の車は、そのまま警察署の駐車場へ入った。
エンジンが止まっても、美月はすぐには動けなかった。
後ろを振り返るのが怖い。
「……もういませんか?」
「はい」
蒼真は周囲を確認してから答えた。
「警察署には入ってこなかったようです」
「良かった……」
美月はようやく息を吐いた。
身体に入っていた力が、一気に抜ける。
もし、あのままサービスアパートメントへ戻っていたら。
そう考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
「住んでいる場所を知られるところだったんですね」
「その可能性はあります」
蒼真は静かに答えた。
「中へ行きましょう」
「はい」
二人は車を降り、警察署へ入った。
受付で事情を説明すると、少し待ったあと、別の場所で話を聞いてもらうことになった。
『なお、九条氏とお子さんとの関係については、交際に伴い接触する機会はあるものの、九条氏が父親として養育を担っている事実はなく、現時点で再婚の具体的な予定もないとの回答です』 拓也は、その文章を何度も読み返した。 九条は子どもに会っている。 やはり、昨日母から聞いた話は事実だった。 けれど、父親として養育しているわけではない。 再婚の予定もない。「……」 少し安心した自分に気づいて、拓也はスマートフォンを握り直した。 何に安心しているのだろう。 美月と九条が付き合っているという事実は変わらない。 ◇ 昼休みになって、拓也は弁護士へ電話した。『はい』「朝倉です。今朝の連絡、見ました」『はい』「あの、養育費は……今までどおりってことですか?」『現時点で伺っている事情だけなら、直ちに変更を求める事情が生じたとは考えにくいですね』「九条は金持ちでも?」『九条さんが美月さんと交際しているというだけで、九条さんがお子さんの扶養義務を負うわけではありません』「……そうですよね」『今後、再婚や養子縁組などで事情が変わった場合には、その時点で改めて検討することになります』「養子縁組……」 また、聞きたくない言葉が増えた。「それって、九条が俺の子の父親になるってことですか」『仮に将来そうした話になった場合は、法律上の関係を含めて整理する必要があります。ただ、今はそういう話ではありません』「はい」 拓也は返事をした。 今は違う。 分かっている。 それでも頭の中では、昨日から同じ光景が繰り返されていた。 美月。 九条。 子ども。 三人で歩いている姿。
翌日の夕方。 仕事を終えた拓也が会社を出たところで、スマートフォンが震えた。 母からだった。 一度はそのまま帰ってからかけ直そうかと思ったが、何度か続けて着信が入る。「……何だよ」 拓也は駅へ向かう途中で電話に出た。「もしもし」『拓也? 今、大丈夫?』「仕事終わったところ。何?」『ちょっと聞きたいことがあるんだけど』 母の声は、妙に落ち着かない。「何?」『美月さん、今、お付き合いしている人がいるの?』 拓也の足が止まった。「……なんで?」『やっぱり、いるの?』「俺が聞いてるんだけど。なんでそんなこと聞くの」『今日、知り合いから聞いたのよ』「何を?」『この間、美月さんを見かけたって』 拓也はスマートフォンを強く握った。「どこで」『公園の近くだって。赤ちゃんを連れていたそうよ』「それで?」『男の人と一緒だったっていうから』 一瞬、周囲の音が遠くなった気がした。「……どんな男?」『そこまでは知らないわよ。私だって直接見たわけじゃないんだから』「年は?」『だから、そんなことまで聞いてないわよ』「写真とかは?」『ないわよ。偶然見かけただけなんだから』 拓也は黙った。 九条だ。 真っ先に浮かんだ。 昨日、弁護士に確認してもらったばかりだった。 九条蒼真と美月は付き合っているのか。 九条は自分の子どもと会っているのか。 その答えが来るより先に、こんな話を聞くとは思わなかった。『拓也?』「……何」『心当たりがあるの?』
蒼真と付き合い始めてから、美月の日常は少しずつ変わった。 仕事へ行き、赤ちゃんの世話をして、母に助けてもらいながら毎日を過ごす。 そこに、蒼真と過ごす時間が加わった。 大きく何かが変わったわけではない。 それでも美月は、以前よりよく笑うようになっていた。 ◇ その日の午後、仕事を終えた美月は、カフェの更衣室でスマートフォンを確認した。 藤崎からメッセージが届いている。『お時間のある時に、一度お電話いただけますか。緊急ではありません』「……何だろう」 離婚後の手続きについては、ほとんど片づいている。 美月は着替えを済ませて店を出ると、駅へ向かう途中で藤崎へ電話した。『お疲れさまです、藤崎です』「朝倉です。メッセージ見ました」『ありがとうございます。今、お話ししても大丈夫ですか?』「はい」 藤崎の声はいつもどおり落ち着いていた。『拓也さん側の代理人から連絡がありまして』 その名前を聞いた瞬間、美月の足が止まった。「……何かあったんですか?」『大きな問題ではありません。今後のお子さんとの交流について、改めて希望を整理したいという連絡です』「ああ……」 美月は少しだけ力を抜いた。 離婚しても、拓也が赤ちゃんの父親であることまでなくなるわけではない。『それと、いくつか確認したい事項があるそうです』「確認?」『現在のお子さんの生活環境についてです。九条さんがお子さんと日常的に接触しているのか、美月さんと同居しているのか、今後再婚などの予定があるのか、といった内容ですね』 美月は眉を寄せた。「……そこまで聞いてきたんですか?」『はい。養育費や今後の面会交流との関係で確認しておきたい、という趣旨です』
――家族に見えたかもしれませんね。 蒼真の言葉は、その日の夜になっても美月の中に残っていた。 だからといって、すぐに結婚を考えたわけではない。 付き合い始めて、まだそれほど経っていない。 それでも以前なら、「家族」という言葉を聞けばもっと身構えていた気がする。 一度失敗したもの。 もう二度と同じ思いをしたくないもの。 そんなふうに考えていたはずなのに。「……嫌じゃなかったんだよね」 美月は眠っている赤ちゃんを見ながら呟いた。 ◇ 翌日、カフェは昼過ぎまで忙しかった。 ようやく客足が落ち着いた頃、美月は空いた皿を下げてカウンターへ戻る。「美月ちゃん、昨日どうだった?」「何がですか?」「九条さんとお出かけ」「なんで知ってるんですか」「金曜日に言ってたじゃない」「あ、そうだった」 美月は皿を置いた。「楽しかったですよ」「どこ行ったの?」「公園です」「へえ。珍しく健全」「今までだって健全です!」「冗談よ」 店長が笑う。 美月は少し迷ってから続けた。「昨日は赤ちゃんも一緒だったんです」「あら」 店長の顔から、からかうような表情が少し消えた。「初めて?」「三人で出かけたのは」「どうだった?」「普通でした」「普通?」「蒼真さんも変にお父さんみたいなことしようとしないし。私が赤ちゃんのことしてる間は待ってるし」 話しながら、美月は自分が安心していた理由に気づいた。 蒼真は、無理に家族になろうとしなかった。 だからこそ、家族という未来を想像しても嫌ではなかったのかもしれない。 ◇ その夜。
引っ越しについては、すぐに答えを出さないことにした。 今の部屋に不満があるわけではないし、急いで出ていかなければならない理由もない。 それなら、もう少し考えてから決めればいい。 そう思うと、美月の気持ちも少し楽になった。 ◇ 次の休日。 美月は赤ちゃんを連れて近所へ買い物に出ていた。 ベビーカーを押してスーパーを回り、日用品を買う。それだけで以前より時間がかかるようになったが、最近はそれにも慣れてきた。 帰り道、スマートフォンが震えた。『今日はお休みですか?』 蒼真からだった。『休みです。今、買い物して帰るところです』『お一人ですか?』『この子と一緒です』 返してから、美月は少し笑った。 一人ではない。 今の自分には、この子がいる。『荷物が多ければ迎えに行きます』『大丈夫です。そんなに買ってないので』『分かりました』 そこで一度やり取りは終わった。 けれど歩きながら、美月はふと思った。 蒼真とは何度も出かけている。 水族館も、植物園も、食事も。 けれど、いつも母に赤ちゃんを預けていた。「……三人ではないんだよね」 もちろん、蒼真は父親ではない。 付き合い始めたばかりの恋人に、父親の役割を求めるつもりもなかった。 それでも。 自分の生活から赤ちゃんだけを切り離して、蒼真との関係を続けることもできない。 ◇ 帰宅すると、ちょうど内側の扉の向こうから物音がした。 美月は荷物を置き、少し迷ってから扉をノックする。「蒼真さん?」「はい」「今、大丈夫ですか?」 扉の向こうから蒼真が現れた。「おかえりなさい」「ただいま」
蒼真を引き止めた夜から数日後。 美月は仕事帰りに、駅前の不動産会社の広告を見て足を止めた。 以前なら気にも留めなかった。 けれど離婚が成立してから、ずっと心の隅にはあった。「……そろそろ、考えないとだよね」 今住んでいるのは、九条グループのサービスアパートメントだ。 拓也から身を守る必要があった時、蒼真が用意してくれた。 あの頃は住む場所を自分で探す余裕などなかったし、何より安全が最優先だった。 けれど今は違う。 離婚は成立し、生活も落ち着いている。 蒼真と付き合い始めたからといって、いつまでも会社の部屋に甘えていていいのだろうか。 ◇ その夜。「ただいま」 母から赤ちゃんを受け取り、美月はソファへ座った。「ねえ、お母さん」「何?」「私、そろそろ引っ越した方がいいかな」 母が振り返る。「急にどうしたの?」「今の部屋って、もともと避難するために貸してもらったところでしょう?」「そうね」「離婚も終わったし、仕事も戻ってきたし。ずっと住んでるわけにもいかないかなって」「九条さんには聞いたの?」「まだ」「じゃあ先に聞いたら?」「でも、蒼真さんに聞いたら絶対『好きなだけいてください』って言いそう」「あら、もう蒼真さんなの」「……そこ?」 美月が睨むと、母は笑った。 ◇ 母が帰ったあと、美月は賃貸物件を検索してみた。 職場までの距離。 赤ちゃんとの暮らし。 家賃。 広さ。 条件を入れるほど、候補は減っていく。「現実って厳しい……」 いくつか保存したところで、内側の扉からノック







