Se connecter私が歩き去ると、ザーンが追いかけてきた。
腕を掴まれる。
強く。
「頼む……送らせてくれ」
私は彼を見なかった。
もう言い争う気力すら残っていなかった。
そのまま彼に引かれるように、路肩に停めてあった車へ乗り込んだ。
車内は静まり返っていた。
漂っていたのは、ジョヴィの香水。
淡く花のような香り。
彼女そのもののような香りだった。
ザーンがエンジンをかける。
その音が、やけに大きく響いた。
一つ目の交差点を過ぎる。
そして、二つ目。
「……彼が、新しい上司なのか?」
ザーンが、何とか普通の話題を探すように口を開いた。
「そうよ」
また沈黙。
車内の空気が、ますます重くなる。
「ネリッサ……本当にすまない」
突然、ザーンが言った。
「全部、俺のせいだ。全部……」
声が震える。
「頼む。ジョヴィを責めないでくれ。彼女は弱いんだ。ヴァンスを怖がっていた。君だって、彼がどんな男か分かっているだろう?」
私は笑わなかった。
ただ、信じられないという息だけが漏れた。
「結局、また彼女なのね」
静かに言う。
「彼女がどれだけ弱いか。何を必要としているか。何を怖がっているか……」
「彼女は、俺たちの友達だったんだ」
まるで、それだけで裏切りが許されるとでもいうように。
私はゆっくり彼を見た。
「それが理由?」
声は低かった。
「私たちのベッドで彼女と一緒だったのも、友情のため?」
ザーンが顔をしかめ、ハンドルを強く握った。
「……そんな言い方は、ひどい」
「ひどい?」
私は彼を見つめた。
「彼女が、もっと金を持っている男を選んであなたを捨てたとき、私はそばにいた」
「何か月も、あなたを支えた」
声は震えていた。
それでも、涙は出なかった。
「私たちは一緒に人生を築いたでしょう、ザーン」
「それなのに、私はただの予備だったの?」
「彼女が戻ってくるまで、寂しさを埋めるための存在だった?」
「違う!」
ザーンがすぐに否定した。
「俺は君を愛してる。俺たちの結婚だって大切だ」
彼は言葉に詰まった。
二つの矛盾した感情を、どうにか両立させようとしているようだった。
「でも……彼女とは違う」
そして、苦しそうに続ける。
「彼女だけは……昔から、ずっと彼女なんだ」
――今も、彼女。
その三つの言葉は、車内に漂う香水の中に沈んだ。
口にはされなかった。
けれど、私たちは二人とも聞いていた。
私はヴァンスを思い出した。
バーで私を見たとき。
ホテルで私を見たとき。
そして、廊下で私を見たとき。
あの瞳に浮かんでいたもの。
愛でもない。
欲望でもない。
ただ――認識。
まるで、彼だけが私を見ていた。
ずっと前から、私という人間を見ていたかのように。
「仕方ないんだ……」
ザーンの声が続く。
「彼女のことになると、どうしても守りたくなる。何よりも彼女を優先したくなるんだ」
「昔から、彼女は弱くて……優しくて……傷つきやすくて」
「だから、彼女が泣いているのを見るたびに、胸が痛むんだ」
彼は私に理解してほしかったのだろう。
自分の苦しみを。
葛藤を。
彼女への愛を。
でも私には――
その一言一言が刃物だった。
彼がどれほど彼女を愛しているのか聞かされるたびに、私の心が少しずつ切り刻まれていく。
「車を止めて」
「俺たちは、このことをちゃんと話し合わないと――」
私は彼の言葉を無視し、ドアノブへ手を伸ばした。
「分かった! 分かったから!」
ザーンが慌てて車を路肩へ寄せる。
車が完全に止まるより先に、私は外へ出た。
ドアを強く閉める。
それが、すべての終わりを告げる音のように響いた。
振り返らない。
私は歩道まで行き、腕を上げた。
そして、最初に見つけたタクシーへ乗り込んだ。
「どちらまで?」
運転手が尋ねる。
「アステラ・スパイアへ」
家には帰らない。
もう、帰る場所なんてなかった。
あるのは――
これから何をするか、それだけだった。
アステラのエレベーターは、滑るように静かに上っていった。
磨かれた扉に映る自分の姿。
虚ろな目。
固く結ばれた唇。
さっきのザーンとの会話が、頭の中で何度も繰り返される。
熱い涙が一粒落ちた。
そして、もう一粒。
そのとき、エレベーターが短く音を鳴らした。
扉が開く。
そこに――
ヴァンス・ブラックウッドがいた。
秘書と話している。
けれど、私の顔を見た瞬間、彼は言葉を止めた。
五十代ほどの、鋭い雰囲気を持つ女性秘書も私に気づき、黙り込む。
私は慌てて顔を背け、頬の涙を拭った。
俯いたまま、扉が閉まることだけを願う。
「少しだけ、時間をくれ」
ヴァンスが秘書へ言った。
静かな声だった。
秘書は何も言わず、その場を離れた。
ヴァンスがエレベーターへ入る。
扉が閉まった。
重い沈黙が、二人の間に落ちる。
私は階数表示だけを見つめた。
慎重に呼吸する。
こんな姿を彼に見られていることが、どうしようもなく嫌だった。
「大丈夫か?」
その声は、冷たくなかった。
静かで。
近かった。
私は声を出す自信がなくて、小さく首を横に振った。
彼が隣で動く気配がした。
磨かれた扉の反射を見る。
ヴァンスが一瞬、ためらっていた。
私の頬に残る涙を見ている。
その表情がわずかに変わった。
昨夜のホテル。
あのキス。
二人だけの、最悪な出来事。
それを思い出したのだろう。
彼の顎がわずかに強張った。
まるで、私の涙をどう扱えばいいのか分からないようだった。
やがて、彼はゆっくり手を伸ばした。
そして――
「開」
停止ボタンを押した。
エレベーターの振動が止まる。
私たちは階と階の間で、二人きりになった。
彼は私を慰めようとはしなかった。
代わりに身体をずらし、隅にある監視カメラと私の間に立った。
私を見ようとはしない。
ただ、閉じた扉をまっすぐ見つめている。
けれど、私は気づいていた。
七年前と同じもの。
一瞬だけ現れて、すぐに消える。
まるで私を見ているのに――
見ないようにしているかのような視線。
「十五分後、ハリントンが役員会議室に来る」
低い声が響いた。
彼は、私が集中できるものを与えようとしているのだと分かった。
「ゼニスのデータを気にしている。君はスカンジナビア地域のレポートを担当したな」
質問ではなかった。
私を現実へ引き戻すための、一本のロープだった。
私は唾を飲み込み、無理やり声を出した。
「はい。生データを見る限り、彼らが見落としている大幅な効率改善があります」
「彼らはコストだけを見ています」
「そうか」
ヴァンスが短く答えた。
そして、一拍置く。
「データをまとめろ」
「十二分後、役員会議室で会う」
私は彼を見る。
「私が?」
「私はデータアナリストです。ハリントンは社長であるあなたか、CFOを期待するはずです」
ヴァンスが、ようやくこちらを向いた。
その灰色の瞳が、私を真っ直ぐ捉える。
そこに同情はなかった。
ただ、明確な挑戦があった。
「彼が会うべきなのは、それを一番よく知っている人間だ」
「数字の中にある真実を恐れない人間にな」
彼の目が私から離れない。
「できるか?」
落ち着いている。
期待している。
まるで、ハリントンを感心させられるかと聞いているのではない。
もう一度、立ち上がるつもりがあるのかと――
そう聞かれているようだった。
涙が止まった。
胸の奥にあった空虚さが、鋭い集中力へと変わっていく。
彼は私の肩を叩いたわけではない。
慰めたわけでもない。
それでも、もっと大切なものを与えてくれた。
やるべき仕事。
そして――
それをやり遂げる理由。
「はい」
私は答えた。
今度は、はっきりとした声で。
「できます」
ヴァンスは短くうなずいた。
そして、停止ボタンを解除する。
エレベーターが再び動き始めた。
扉が開いた瞬間、彼は振り返らずに言った。
「十二分だ、サリヴァンさん」
仕事の声だった。
彼はそのまま歩き去った。
私は一人、エレベーターに残された。
深く息を吸う。
真鍮の扉に映った自分を見る。
そこにもう、泣いている妻はいなかった。
仕事を持つ一人の女性がいた。
私はプレゼンの準備をしなければならない。
ザーンは五年かけて、私に「私は足りない」と思わせた。
ヴァンスは、たった五分もかからずに――
私が何に価値があるのかを思い出させた。
私は新たな自信を胸に、役員会議室へ向かった。
もし、愛が私を守ってくれないのなら――
私自身が、私を守ればいい。
帰り道は、ずっと静かだった。後部座席では、マヤが疲れ果てて眠っている。ネリッサは助手席の窓の外を見つめていた。学校を出てから、一度もヴァンスを見ていない。いつもなら、二人で車に乗っているときは、ヴァンスがギアを入れ替えるたびに、その手に自分の手を重ねたりする。けれど今夜は、両手を膝の上で固く握ったままだった。ヴァンスは何度も横目で彼女を見る。それでも、ネリッサは振り向かない。何を考えているのか分からない。怒っているのか。傷ついているのか。それとも、まだ恐怖が残っているだけなのか。ただ一つ分かるのは――彼女が静かだということ。そして、ネリッサの沈黙は、言葉よりずっと怖かった。 ***ブラックウッド邸に着いた。ヴァンスは眠ったままのマヤを抱き上げ、自分の部屋へ連れていく。ベッドに寝かせ、毛布を掛ける。額にそっとキスをした。「おやすみ、ベイビー」「おやすみ、パパ……」小さな声を聞いてから、ヴァンスは静かにドアを閉めた。そのまま二人の寝室へ向かう。ネリッサはすでにベッドに座っていた。部屋着に着替えている。何を見るでもなく、ただ一点を見つめていた。ヴァンスは彼女の隣へ腰を下ろす。二人の間に、言葉はなかった。彼が手を伸ばす。ネリッサは拒まなかった。ただ、ヴァンスには何を言えばいいのか分からなかった。何をしてしまったのか。なぜ、家族を壊した女のために、燃えさかる建物へ戻ったのか。どう説明すればいい?口を開く。けれど、言葉が出てこない。そして、ようやく絞り出した。「……ごめん」ネリッサが顔を向ける。疲れ切った目だった。「どうして謝るの?」ヴァンスは彼女の顔を見る。疲労。恐怖。そして、まだ消えていないショック。手を伸ばして、額にかかった髪をそっと払う。それから、瞼に優しくキスを落とした。「君が、俺が彼女を抱えて出てきたときに見せた顔……覚えてる」少し間を置く。「裏切られた人の顔だった」「それに……すごく怖がってた」ネリッサは何も言わない。「彼女を抱えて外へ出た瞬間、君が何を見るのか分かってた」ヴァンスの声が少し低くなる。「君にあの記憶をもう一度思い出させるのが、俺自身だと思うと……本当に嫌だった」彼は握った手へ目を落とす。親指が、彼女の指の節をそっと撫でた。「
ザーンが歩み寄ってきた。救護スタッフがジョヴィの足首を確認している。「捻挫のようですね」「包帯を巻きましょう」ジョヴィは上の空で頷いた。けれど、その目は――一度もヴァンスから離れなかった。ザーンは気づいた。それでも、何も言わない。ただ彼女のそばにしゃがみ込む。「ほかに痛むところは?」ジョヴィが瞬きをした。まるで今になって、初めてザーンがここにいることに気づいたようだった。「……ないわ」ザーンは一度だけ頷く。「そうか」けれど――彼は彼女の言葉を信じてはいなかった。 ***その夜。サリバン家は、いつになく静かだった。オースティンとセレナは、泣き疲れて眠っている。ザーンは二人が本当に眠りにつくまで、そばを離れなかった。髪を撫でながら、「もう大丈夫だ」と何度も言い聞かせた。それでも、家の中にはまだかすかに煙の匂いが残っていた。ジョヴィは主寝室のベッドの端に一人で座っていた。足首は枕の上に乗せている。手首には包帯が巻かれていた。窓の外を、何を考えるでもなく見つめている。やがて、寝室のドアが静かに開いた。ザーンがトレイを持って入ってくる。温かい紅茶。薬。そして、スープ。ベッド脇のテーブルに置く。「食べたほうがいい」ジョヴィは視線を落とした。「お腹が空いてない」「それでも食べないと」優しい声だった。ザーンは彼女の前にしゃがむ。何も聞かず、怪我をした手首へ手を伸ばした。古い包帯を慎重に外す。ジョヴィは黙って、その手元を見ていた。傷をきれいに洗い、薬を塗る。そして、新しい包帯を丁寧に巻き直す。その動きには慣れがあった。オースティンが自転車から落ちたときも。セレナがお菓子を作っていて指を火傷したときも。同じように手当てしていた。もっと昔からそうだった。子供の頃、自分が怪我をしたときも。いつだって、彼は誰より先に周りの人間の面倒を見ていた。数分後、包帯を結び終える。ザーンは今度は毛布を整えた。彼女の脚を覆い、怪我をした足を楽な位置に置き直し、その下の枕まで調整する。すべてが快適になったことを確認してから、ようやく立ち上がった。けれど、ベッドの隣には座らなかった。向かいに置かれた椅子へ腰を下ろす。背もたれに身体を預け、ゆっくり息を吐く。再び、部屋が静かになる。
ヴァンスは、まっすぐこちらへ向かってきた。一歩、一歩。そのすべてが、耐え難いほどゆっくりに感じられる。周囲にはまだ煙が渦巻いていた。背後では消防隊員たちが慌ただしく叫んでいる。誰かが泣いている。誰かが祈っている。けれど、ネリッサには何一つ聞こえなかった。見えているのは、ただ一つ。自分の夫の腕に抱かれている女。まるで彼だけが頼れる場所であるかのように、ヴァンスにしがみついているジョヴィ。胸が、痛いほど締めつけられた。 ***救護班がヴァンスのもとへ駆け寄ってきた。「こちらへ! その方を下ろしてください!」ヴァンスはようやく、ネリッサと交わしていた視線を外した。慎重に身体を屈める。そしてジョヴィを支えながら、両足が地面につくまでゆっくりと下ろした。腕の力を緩めた、その瞬間。ジョヴィの指が反射的に彼の袖を掴んだ。「……ヴァンス」声と呼ぶのも難しいほど、かすかな囁きだった。ヴァンスが足を止める。そして、見下ろした。ジョヴィは無理に笑った。「……ありがとう」ほんの一瞬。ジョヴィは思ってしまった。もしかしたら。これだけのことがあったあとでも――二人の間には、まだ何か残っているのかもしれない。けれど、ヴァンスは彼女の指をそっと袖から外した。乱暴ではない。苛立っているわけでもない。ただ、迷いなく、はっきりと。ジョヴィの目を見る。「勘違いするな」声は冷たく、厳しかった。その目を見た瞬間、ジョヴィの背筋に冷たいものが走る。「人として助けることと、愛情を持って接することを混同するな」沈黙。さっきまで自分を炎から救い出してくれた男の姿は、もうどこにもなかった。「君は閉じ込められていた」ヴァンスは一度言葉を切る。「誰だって、同じことをする」それだけだった。一言、一言は静かだった。それなのに、重かった。ヴァンスはジョヴィから目を逸らす。そして、家族のもとへ戻っていく。ネリッサとマヤが待っている場所へ。ジョヴィは、その背中をただ見つめていた。そのとき、初めて気づいた。――自分は、彼が戻ってくるための理由になったことなど、一度もなかった。 ***ヴァンスはポケットへ手を入れ、小さなブレスレットを取り出した。「マヤ」マヤがすぐに顔を上げる。「私のブレスレット!」ヴァ
煙が、あたり一面に広がっていた。視界はほとんど利かない。ヴァンスはステージの近くへ戻り、床を探した。散乱した瓦礫。倒れた機材。燃え上がる布。その中に――見つけた。小さなブレスレット。ステージの出入口の脇に落ちていた。ヴァンスはすぐに拾い上げ、ポケットへ入れる。これで一つ。マヤとの約束を果たせる。そのとき。かすかな悲鳴が、トイレへ続く廊下のほうから聞こえた。ヴァンスの足が止まる。まだ誰かが中にいる。出口へ視線を向ける。それから、廊下を見る。顎が強く引き締まる。「……くそ」次の瞬間、ヴァンスは廊下へ向かって走り出した。煙が廊下へ流れ込んでいる。 ***火事が起きたとき、ジョヴィはトイレの中にいた。外の騒ぎを聞き、急いでドアを開けようとした。けれど、開かない。「誰か……!」弱々しくドアを叩く。そのとき、出口近くにあった梁が崩れ落ちていた。ジョヴィは必死にドアを押し開けようとして、足を捻った。鋭い痛みが走る。それ以来、まともに歩けない。煙が部屋の中へ入り始める。ジョヴィは咳き込んだ。目が痛い。息も苦しい。意識が少しずつ遠のいていく。――私、ここで死ぬんだ。そう思った。そのとき、ドアの向こうから大きな音がした。ヴァンスだった。咳き込む声が聞こえる。彼はドアを蹴った。一度。開かない。もう一度。それでも開かない。三度目。そして――ドアがついに壊れた。ジョヴィが顔を上げる。涙が頬を伝っていた。煙と涙で滲んだ視界の向こうに、人影が見える。ヴァンス。ほんの一瞬だけ――十三年前に戻ったような気がした。両親に結婚を決められ、初めて彼と顔を合わせた日のこと。あの日も、ただ彼を見つめていた。ジョヴィは震える手を伸ばす。かすかな声が漏れた。「……ヴァンス」ヴァンスはすぐに彼女の前へ膝をついた。足首を確認する。呼吸も見る。「立てるか?」落ち着いた声だった。ジョヴィは何とか立ち上がろうとした。けれど、足首に激痛が走る。膝から力が抜けた。身体が前へ倒れる。ヴァンスがすぐに受け止めた。床へぶつかる前に、その身体を支える。ジョヴィは反射的に彼のシャツを掴んだ。「……ごめんなさい」自分から離れようとする。けれど、その瞬間また強い眩暈が襲った。身体
学校のホールは、まだざわめきに包まれていた。保護者たちはいくつかのグループに分かれ、それぞれの計画について話し合っている。子供たちはテーブルの間を走り回り、その笑い声が広い壁に反響していた。午後の陽射しが窓から差し込み、床には長い影が伸びている。休憩時間になると、ヴァンスがネリッサのところへやってきた。「どうだった?」「順調よ」ネリッサが笑う。「ステージ発表委員会と一緒に進めることになったの」ヴァンスの眉がわずかに寄る。「誰が責任者だ?」ネリッサは一瞬黙った。「ジョヴィ」ヴァンスの表情は変わらない。ただ、顎のあたりがほんのわずかに強張った。「……そうか」「ええ」ヴァンスはネリッサを見る。「それで、大丈夫なのか?」ネリッサは肩をすくめた。「学校のためだもの。マヤのためでもある」「彼女と一緒にやることは?」「大丈夫よ。私なら平気」ヴァンスは彼女の顔をしばらく見つめた。そして、静かに頷く。「今日は吐き気は? 頭痛は?」少し考えてから続ける。「予定より早く帰るか?」「吐き気も頭痛もあるけど、今日はまだ大丈夫」「本当に?」「ええ。終わらせて帰りましょう」二人は並んで歩き、それぞれの委員会のテーブルへ戻っていった。 ***その頃、保護者と教師たちが準備に追われている中、ステージから少し離れたところに三人の少年が立っていた。オースティンより年上で、九歳か十歳くらいだろう。三人は、隅のほうで古びたスニーカーの紐を直しているオースティンに気づいていた。「お前の親、靴を買い替えてくれないの?」一人が声をかける。オースティンの身体が固まった。「その靴、ダサい」別の少年が笑う。「かわいそうなやつ」オースティンの顔が赤くなる。以前にも聞いた言葉だった。同じ言葉。同じ笑い声。それは、いつだって靴だけの話ではない。服。リュック。昼食の弁当箱。何かを見つけるたびに、笑われてきた。セレナが前へ出た。「私のお兄ちゃんに、もう話しかけないで」少年が笑う。「それで?」「どうするっていうの?」その声に、マヤがセレナの隣へ立った。「私のお父さんに言うから」少年たちがさらに大きく笑った。「お前の父親なんて、ここにいないだろ」マヤが指を差す。「いるもん」少年が振り返る。ホールの反対
学校のホールは、先週よりずっと騒がしかった。――いや、比べものにならないほどだった。入口の近くでは父親たちが何人かずつ集まり、コーヒーを片手に少し途方に暮れたような顔をしている。子供たちはあちこちを走り回っていた。今日は土曜日。学校全体が、子供たちにとって巨大な遊び場になっている。壁にはポスターボードが立てかけられ、テーブルの上には会場のレイアウト図が広げられている。学校の見取り図は、空いている壁という壁に貼られていた。コーヒーとマーカー、それから混沌とした空気の匂いがする。ネリッサはゆっくりとホールへ入った。お腹にそっと手を添える。まだ身体は少し重い。けれど、吐き気は少しずつ落ち着いてきていた。自分なりに、うまく付き合えるようになってきている。辺りを見回す。フードバザー委員会のテーブルが目に入った。すでに何人もの母親が集まり、話し合いを始めている。そして、その少し離れた場所にはヴァンスがいた。何人かの父親たちと一緒に立ち、学校の平面図を真剣に覗き込んでいる。その視線を少し動かした先に――ジョヴィがいた。ステージ発表委員会のテーブルのそばで、何人もの母親に囲まれている。何かに笑い、身振りを交えながら楽しそうに話していた。まるで、最初からそこにいることが決まっていたかのように自然だった。ネリッサは視線を逸らした。 ***教師がホールの前へ立ち、手を叩く。「それでは皆さん、始めましょう!」ざわめきが少しずつ静まっていく。「今日やるのは、実際の作業ではありません」教師は笑った。「今日は、どんな一日にしたいのかを考える日です」大きな学校の見取り図をテーブルいっぱいに広げる。保護者たちが、その周りへ集まった。 ***フードバザー委員会も、自分たちのテーブルを囲んだ。さっそく、何人もの母親がアイデアを出し始める。「韓国料理にしない?」「いえ、やっぱり昔ながらの料理がいいわ」「デザートも必要よ」「いっそ、ブースごとに違う国の料理にしましょう」意見が一気に飛び交う。声が重なり、どんどん大きくなっていく。ネリッサは黙って聞いていた。すると、一人の母親が気づく。「ブラックウッドさん、まだ何も言ってないわね」ネリッサは微笑んだ。自分が主導権を握ろうとしているわけではない。ただ、一つだけ問い