Masukエリアーリアは治療を一度中断すると、小屋の奥にある書棚に向かった。
書棚には多くの薬草の瓶の他、古びた羊皮紙の巻物や革の装丁の古文書が並んでいる。彼女はその中から一冊、特に丁寧な装丁がされている分厚い書物を手に取った。それはかつて師である大地の魔女テラから写本を許された、魔女の叡智が詰まった古文書。禁術や呪詛についても記された、安易に開くべきではない知識の集積である。
青年の言葉と、呪いの紋様。二つの情報がエリアーリアの頭の中で結びついていた。もう何十年も前にこの書物で学んだ、禁忌の魔法に関する記述の記憶。
(茨のような紋様。高貴な人間への裏切り……。まさか、あの禁術のはずがない。あれはただの伝説のはず)
嫌な予感が確信へと変わっていく。動揺する心を押し殺して、目当てのページを探し始めた。
ぱら、ぱらと乾いた羊皮紙をめくる音だけが、やけに大きく響いた。ランプの灯りの下、ついに目的のページが開かれた。
そこには、今まさに青年の胸で脈打っているものとよく似た、黒い茨の紋様が禍々しく描かれている。エリアーリアは息を呑んだ。
書物に記されていたのは、特定の血族だけを標的とし、その魂ごと喰らい尽くして存在を抹消するという、人間の闇魔術の極致――「魂喰いの呪い」。 屍の魔女の魔法を応用し、古い時代の人間たちが編み上げた禁忌の魔術だ。 書物には、あまりの悪辣さと強力さから、心ある人間の魔術師たちによって封印、破棄されたとある。(封印……。では、誰かが破棄された術を掘り返したのね。そしてまた、人を傷つけるために力を振るっている)
エアーリアは書物を手に、青年の元へと戻った。
書物によると、黒い茨は魔法陣でもある。対象の血族を指定し、相手を逃さないための術式が組み込まれているようだ。 エアーリアは青年の茨に指を伸ばし、内容を読み取っていった。「血族名、アストレア……!?」
アストレアの名を関する一族は、一つしかない。この一帯を支配するアストレア王国、その王家の血。
目の前の青年が、この呪いの標的となる高貴な血筋――アストレア王家の人間であるという事実を示していた。 エリアーリアは思わず、先ほど青年の服から転がり出た指輪を見る。その紋章に見覚えがあった。そう確か、王家の。エリアーリアは古文書と、ベッドで苦しむ青年を交互に見つめた。
彼女が森に招き入れたのは、ただの傷ついた人間ではなかった。王国の玉座を巡る血塗られた争いの渦中にいる、一人の王子だったのだ。「アストレアの血脈を狙う呪いだというの? この国の王家の? そんな人間が、なぜ私の森に……王宮で、一体何が起きているの?」
百年保たれた森の静寂が、今、崩れ始めようとしていた。
その悠久の時の流れを、エリアーリアは静かに見つめていた。 彼女の心はもはや孤独ではない。エリアーリアの中ではアレクと過ごした輝かしい日々の記憶が、決して色褪せることなく生き続けている。彼の笑顔、声、温もり。その全てが、彼女の永遠を支える糧となっていた。◇ アレクの死から六百年後。 アストレア王国は遠い歴史のものとなり、今は覚えている者は少ない。 かつての王都はありふれた町の一つに変わって、今でも人々の生活の場となっていた。 その町の片隅に、苔むした遺跡がある。 そこはアレクの眠る墓所だった。 墓碑は朽ちて、緑の苔が全体を覆っている。 その遺跡が何であるか覚えている者はもういないけれど、一つの古い伝説だけが人々の心に根付いていた。 それは、「年に一度、初夏の季節に金色の髪の美しい女性が現れ、花を供える」というもの。 女性が誰なのか、何のために花を供えるのか、知る人は誰もいない。 ただ、その美しい光景に出くわした人が、心を打たれて語り継いでいる。◇「今年もまた会いに来たわ、アレク」 よく晴れた初夏の日、変わらぬ姿のエリアーリアはアレクの墓所を訪れていた。 彼女は苔むした墓石の前に跪くと、手に持っていた花をそっと捧げた。 捧げる花は、年によって違う。ある年は思い出の月光花。またある時は、名も無い森の野の花。 その時に最も美しいと思った花を、エリアーリアは供えてきた。「人々の記憶からあなたの名は消えても、私の心の中では、今も鮮やかに輝いている……。私の愛した、ただ一人の人。私の、陽炎の王」 千年を生きる魔女にとって、人の一生は陽炎(かげろう)のように儚い。 しかしアレクはその短い生涯の中で、圧政を打ち破って国を復興させ、民に愛された。エリアーリアという伴侶を得て双子たちの父となった。 まさに夏の日の陽炎のように眩しく輝いたのだ。 エリアーリアは空を見上げる。この季節はいつだって、愛
アルトが弔辞を読み終えると、聖堂は大きな拍手に包まれた。偉大な王への感謝と、新しい王への期待が入り混じった、力強い音だった。(アルト。立派になったわ。あの南の辺境で暮らしていた頃の小さな姿が、嘘のよう……) エリアーリアは父の跡を継ぎ、王としての一歩を踏み出した息子の姿を、誇らしげに見つめていた。◇ そうして数日が経ち、葬儀の全てが終わった後で。 エリアーリアは彼女の私室に、アルトとシルフィを呼び出した。「アルト、シルフィ。葬儀、お疲れ様でした。二人とも立派になって、私もアレクも誇らしく思います」 エリアーリアの微笑みに、二人は何かを予感したらしい。 続けて言われた母の言葉に、驚く様子はなかった。「私は今夜、この国を去ります。私の役目は終わりました。これからは、あなたたちの時代です。遠くから見守っていますからね」 王妃としての数十年で、様々な知恵の種が撒かれていた。 王立薬草院は今や大きな施設となって、何十人もの職員が働き、毎年新しい薬草師を生み出している。 治水の知識は体系化され、書物にまとめられて、誰もが学ぶことができる。 アルトとシルフィが作った靴の事業は、今でも人々の足を支える重要な産業だ。「母上、本当に行ってしまわれるのですか……」「お母さまの教えは、忘れません。子どもたちにも教えて、受け継いでいきます」 それぞれに寂しさを隠せないアルトとシルフィに、エリアーリアは微笑みかける。「二人とも、ありがとう。あなたたちは、いつまでも私の大事な宝物よ」 悲しむ子どもたちを抱きしめて、それから彼女は部屋を出た。 見上げた空は、満月。いつかの遠い日に、アレクと見上げた月。 エリアーリアの姿は、人知れず夜の闇に溶けて消えていった。◇ その後のアストレア王国はアルト王の賢明な治世の下、黄金時代を迎えた。
王都の大聖堂は、静かな悲しみに包まれていた。 アストレア王国を偉大な繁栄へと導いた大王アレクの棺が、中央に安置されている。参列しているのは貴族、各国の使節、そして彼を慕う多くの民衆たち。 折しも初夏の空は晴れ渡って、その清冽な青色は、大王の瞳の色を思い起こさせた。 エリアーリアとシルフィが黒い喪服に身を包んで、静かにその様子を見守っている。 やがて父の跡を継ぎ新王となったアルトが、ゆっくりと前に進み出た。その青い瞳は、父と同じ夏空の色。 彼は父の棺に一度深く頭を下げると、手に持った弔辞を読み上げ始めた。明瞭ながらも威厳のある声が、聖堂の中に響いていく。「父上。偉大なるアストレアの大王、夏空の王アレク。今、あなたの息子として、そして、この国の新しい王として、最後の言葉を捧げます」「あなたが玉座に就く前、この国が深い闇と悲しみに覆われていたことを、私たちは忘れません。あなたは、圧政に苦しむ民の声を聞き、正義の旗を掲げた。土地を失った者に畑を返し、飢える者に食料を与えて、国の隅々にまであなたの慈愛は満ちていました。あなたが流した汗と、時に流した涙が、この国の礎を、もう一度築き上げてくれたのです」「だが私が何よりも敬愛するのは、王としてのアレクではなく、父としてのアレクです」「父は、私に剣の道を教えてくれました。ですがそれ以上に、剣を振るうことの重さと、剣を収めることの勇気を教えてくれました。彼は、最後まで兄の罪を憎みながらも、その命を奪うことはありませんでした。その慈悲の心が、この国の新しい時代の礎となったのです」「そして父は、生涯ただ一人の女性を愛し抜きました。その愛の深さが、彼の力の源泉であったことを、私は知っています」「父は、一度は全てを失い、絶望の闇に沈みました。しかし彼は立ち上がった。光なき水路の底から、彼は再び天を見上げたのです。父が私たちに遺してくれた最大の遺産は、豊かな国や城ではありません。どんな絶望の中にも必ず希望はあるという、その不屈の魂そのものです」「父上、安らかにお眠りください。あなたの愛した母上は、私がシルフィが、必ずお守りします。そしてあなたが築いたこの国を、
それから数十年の年月が流れた。 王宮の寝室には、年老いたアレクが横たわっている。彼の銀の髪は色が抜けて、既に白髪へと変わっていた。 アレクは長年の善政により、民に「大王」と称えられる身。 それでも老いには抗えず、最近はベッドから起き上がるのも難しくなり、眠る時間が増えた。 久方ぶりに意識を取り戻したアレクは、自らの死期を悟って家族を呼び寄せたのだった。 国王の寝室には、立派な壮年の男となった王太子アルトと、女公爵の務めを果たしているシルフィがいる。 彼らはもうずいぶん前に伴侶を得て、たくさんの子宝に恵まれていた。孫たちも祖父の寝台の周りを囲んで、悲しそうな視線を注いでいる。 彼らの傍らに立つエリアーリアだけが、昔と何一つ変わらない。金の髪は美しく輝き、肌は白磁のように滑らかだった。 深緑の目だけが深さを増して、愛する人を見つめている。 部屋は静かな悲しみに満ちているが、彼女の表情は穏やかだった。『ならば俺が君の記憶に残る、最高の人生を生きてみせる。君が千年経っても退屈しないくらい、幸せな記憶で君の心をいっぱいにしてみせる。君が愛した人間の王として、一人の男として、歴史に名を刻む。だから俺が生きる、陽炎のような――この短い時間だけでいい。俺の隣にいてほしい』 いつかの時に彼が言った言葉が、胸に蘇る。 だから彼女は、愛する人の命の灯火が静かに消えゆくのを、覚悟を持って見守っている。後悔はない。アレクは約束を守ってくれた。エリアーリアの心は幸せな記憶で満ちあふれていたのだから。 アレクは集まった家族一人一人に、老い衰えながらも確かな声で言葉をかける。孫たちの頭を撫で、シルフィの涙を拭い、アルトには最後の言葉を託した。「アルト……良き王になれ。民の声を、決して忘れるな……」「はい、父上」 次代の王として、アルトは悲しみをこらえて威厳を保とうとしている。 アレクは次にシルフィを見た。「シルフィ……。お前は、母様を頼む…&
「歩きやすい。すごい」 早速履いてみたシルフィが、歩き心地に感動している。「これを履いたら、元の靴に戻れそうもないや」 アルトも笑顔だ。 職人たちも満足そうにしていた。「それじゃあ、靴の売出し計画を作ろう。本来ならば貴族を優先させるのだろうが、これは人々のための靴。身分にかかわらず売るものとする」「王子殿下。それでは平民と同列に並べられた貴族たちが、不満を抱きかねません」 職人の一人が不安そうに言うので、アルトは首を振った。「そうだろうな。だが俺は、貴族がこの靴を独占するのを望まない。父上だって同じ意見だろう。ただし貴族の面子を立てるため、仕様を変える」「というと?」「平民用にはシンプルに、この靴の利点を最大限に生かせるように、安価な路線を。貴族向けには趣向を凝らして、革に刻印を押したり着色をしたり、一人ひとりのサイズに合わせたりなど、高級路線とする。これならば貴族の不満を抑えながら、平民に流通もできるはずだ」「なるほど! それであれば、できそうです!」◇ 数カ月後、王都で売りに出された新しい靴は、爆発的な人気を博した。 長い距離を歩く旅人はもちろんのこと、町を行き交う町民もこぞってこの靴を買い求める。性能の割に安価で、しかも王子殿下のお墨付きなのだ。 貴族たちに向けては、豪華に飾り立てた靴を作った。華やかな見た目の靴は貴族たちの虚栄心を大いに満たし、それでいて靴の機能性は変わらないので、彼らもすっかり靴の虜になった。 作れば作るほど売れる有り様で、靴事業は大きな利益を上げる。 職人や魔法使いの雇用や弾力の木の収穫、植林や森の管理まで含めて、波及した経済効果も大きかった。 王都の景気は大いに賑わって、失業者の吸収もできた。 この国だけではなく外国への輸出も盛んになり、外貨獲得にも一役買ったのである。 その年の暮れになると、アルトとシルフィは事業で得た莫大な利益を金貨として積み上げて、父であるアレクの前に差し出した。「父上。これ
「ねえ、アルト。この樹皮は熱に弱い性質なのよね。特に長時間熱に当てるのが駄目。短時間で水分を蒸発させる必要がある」「ああ。でも鉄を熱するような、高温過ぎてもだめだ。振り返ってみれば、火で炙るのが一番マシだった」「もう一度、火で炙ってみましょう」「え、でも」「火といっても、魔術の炎で」 シルフィが手のひらを上に向けて短く呪文を詠唱をすると、真っ赤な炎が生み出された。「温度は高すぎず、お鍋の水が湯気になるくらい。時間は短く、せいぜい十分。それから……魔力を炎に多めに含ませて、樹皮に浸透するようにする」 アルトが樹皮を持ってきて、魔術の炎にかざす。砂時計で十分計った。「どう?」「水分の蒸発は十分だ。あとは耐久テストを」 テストの結果は今までで一番良かった。「ううーん、だいぶ改善したけど、目標にはもう一歩足りない」 アルトが唸る傍らで、シルフィは考え込んでいた。「アルト。私、もう一度、森に行ってくる」「なぜ? 樹皮の在庫は足りているよ」「ちょっと気になることがあって」「分かった。じゃあ俺も行くよ」◇ 再度訪れた森で、シルフィは弾力の木を見上げた。高い木の枝には、緑色の地衣類がぶら下がっている。「あの地衣類。薬になる種類だわ」「どんな薬?」「滋養強壮と炎症止め。アルト、あれが欲しい。取ってきて」「はいはい」 アルトは靴を脱ぐと、身軽に木を登り始めた。職人たちが心配そうにハラハラと見守る中、危なげなく地衣類を採取して戻って来る。「これで足りる?」「とりあえずは」 シルフィは他にも周辺の植物を集めて、帰路についた。◇「魔力を与えたら耐久度が増したのを見て、思いついたの。弾力の木の力を補ってやれば、もっと良い結果になるかもって」 シルフィは言って