로그인「心の底から不思議なのですが」実篤から受け取った報告書を読んでいた光也が首を傾げた。「どうして実花が誘いに乗ると思っているのでしょう」「自意識過剰なのだろう、君のように」光也の言葉に応えた実篤を、光也がじっと見る。「俺は身の程はわきまえていますよ」「それでは、その身はかなりでっかいのだろうな」実篤は納得したように頷くと、新たな報告書を高峰が渡した。そこには一ノ瀬恒一の計画が書かれていた。この情報を寄越したのは、一ノ瀬恒一が協力者だと思っている者たち。彼らは恒一から協力を求められたときに断ろうとしたが、それよりもこれを利用しようと考えた。この情報を使って藤宮に恩を売る。だが、それは情報をもらった側が恩を感じなければ意味がない。「小学生の冷やかしと変わりませんね」高峰は小学生レベルの嫌がらせだと評価し。「二人で食事をしていたところで、復縁だと騒ぐ者などいるわけがないというのに」「それなら俺と実花がもっと騒がれてもいいですよね」実篤は呆れ、光也は実篤に茶々入れていた。その程度の情報。これで藤宮に恩が売れると思っているほど、恒一の元取り巻きたちは浅はかだった。.「それにしても、なぜ俺と実花は騒がれないのでしょう」「騒がれたではないか」「最初だけですよ。最近は全く。慣れですかね」「まあ、それもあるだろうな」実篤は一つ頷き、光也を見た。「しばらく実花に会うのを控えたらどうだ?」「その意図は?」「……マンネリ防止?」実篤の言葉に光也がため息を吐く。「何を馬鹿なことを仰っているのか。俺と実花の間にマンネリなんてありませんよ」「確かに、毎日刺激的でしょうね」光也の言葉に高峰が同意し、そんな二人を見比べながら「ジェットコースターみたいなやつらだな」と実篤は思っていた。
【一ノ瀬恒一視点】「考えてみれば、これまでは遠慮しすぎていたな」遠慮ではない。婚約を破棄された側が、いつまでも相手を追いかけるなど、恒一のプライドが許さなかっただけだ。だから、従妹の智花に実花を誘わせようとした。恒一は「女同士なら警戒されないだろうと思ったから」と理由をつけているが、ただ自分が頭を下げるようで、それがやりたくなくて、智花にやらせただけだ。だが、智花は何の成果も上げられなかった。まともに誘い出すことさえできなかったし、聞けば実花から距離を置かれているらしい。(まったく、役に立たない奴だ)簡単なこともできないのなら、もう期待するだけ無駄。恒一は智花を切り捨てることにした。自分で動いたほうが早いと思ったが。(問題は、いつ誘うかだな)実花の予定なら把握している。学校の授業が終わる時間も、習い事の曜日も知っている。元婚約者だったし、実花自身が恒一のために火曜日はあけていると言っていた。実花は几帳面で、決められた予定を簡単には変えない。ならば、予定のない火曜日の放課後を狙えばいい。(もともと俺のためにあけていた時間だ)今度の火曜日。恒一は満足げに頷いた。実花の火曜日が、すでに実篤と光也によって全て埋められていることなど、恒一は知る由もなかった。.(食事にでも誘うか)どうせ自分も食事はする。それなら、一緒に食事に行けば、周りに自分たちが並ぶ姿を見せられて丁度いい。二人で食事をしているところを誰かに見られれば、それだけで噂になる。実花だって、昔から知っている自分に誘われれば、無下にはできないだろう。そう考えて、恒一の顔がにやける。(どこへ連れていくか)女性が喜びそうな、雰囲気のいい店がいい。料理が美味しく、内装も華やかで。一緒に過ごす自分が、実花にとって特別
【一ノ瀬恒一視点】「……これだけか?」机の上に置かれた調査報告書を見て、恒一は眉をひそめた。篠原真理について調べ始めてから、すでにかなりの時間が経っている。それなのに、興信所から届く報告は代わり映えしないものばかりだった。学校は休みがち。たまに登校することはあるが、実花以外の交友関係はない。素行に問題はなく、不審な人物との接触も確認されていない。そもそも、学校に行く以外の外出は、藤宮家に行くだけ。それ以外は、買い物などにも行く様子はない。「そんなはずがないだろう」恒一は報告書を机に放り出した。実花は以前、篠原真理と東国光也の関係を気にしていた。実花がわざわざ気にかけるくらいなのだから、篠原真理と東国光也には何かあるはずだ。少なくとも、そこを突けば実花と東国光也の間に疑念を生じさせることができる。そう考えて調べさせているのに、何ひとつ出てこない。「本当に調べているのか?」思わず声に出して疑ったが、依頼している興信所は一ノ瀬家が昔から利用しているところだ。仕事は確実で、秘密も守る。父も祖父も信頼しているのだから、いい加減な報告をするとは思えない。だからこそ腹立たしかった。何も見つからないということは、何もないことに他ならないからだ。(そんなはずはない)調査が足りないのだ。恒一はそう結論づけた。実花がすでに真理と光也の関係について納得し、疑念などとうに解消していることを、恒一は知らなかった。まして、興信所に届く情報が実篤と高峰によって巧妙に調整されているなど、想像すらしていなかった。.「何か新しい情報はあったか?」翌日、呼び出した調査員に恒一が尋ねると、彼は一枚の資料を差し出した。「藤宮実花様が、東国家の夕食に招かれたそうです」「…&he
――そんなに『光也』と呼んでほしいなら、他の人に頼んだらいいじゃないですか。光也の指が、ハンドルの上でぴたりと止まった。もちろん車は走っているため、視線は前に向けたままだったが。「他の人?」「そうです。東国さんのことを名前で呼んでいる人なんて、たくさんいるでしょう?」「……いるな」「だったら、その人たちに呼んでもらえばいいと思います」「俺は実花に呼んでほしいんだが」「でも、ほかの人だって呼んでいるじゃないですか」「それがどうした?」実花は答えなかった。窓の外へ顔を向け、頬を膨らませる。その様子を横目で見た光也は、ようやく何かに気づいた。(……もしかして)実花は怒っているのではない。拗ねている。しかも、ほかの人間が自分を名前で呼んでいることに対して。(嫉妬……か?)光也は驚いた。実花が自分に嫉妬している。実花に嫉妬させるような態度を取った覚えはないのだが、なぜ嫉妬するのか。そんなはずはないと思いたいが、実際に目の前で起きている。そう考えた瞬間、胸の奥にじわりと温かいものが広がった。そして、以前、航が恋愛について語っていたことを思い出した。◇◇◇「嫉妬は恋愛を大きく進展させるんだよ」航は、妙に自信満々に言った。本社の受付の女性だったか、光也は興味がなくて忘れてしまったが、意中の相手を落とせて航は浮かれ切っていた。「押してだめなら引いてみろって言うだろ?」「そうだな」押してだめだったことはないので、光也が過去に引いたことは一度もない。だが、そういう格言があることはさすがに光也も知っている。だから、頷いた。「だから、相手を嫉妬させるために、あえて引くんだよ」
――やっぱり、私は東国さんって呼ぶことにします。実花の言葉に、光也は目を見開いた。つい先ほど、初めて名前で呼んでもらえた。蚊の鳴くような小さな声だったが、間違いなく「光也さん」と呼んでくれた。それなのに、どうして元に戻るのか。「どうしてだ?」光也は前を向いたまま尋ねた。実花は窓の外へ視線を向ける。「……今さらなので」「今さら?」「ずっと東国さんと呼んできましたし、急に変えるのも変かなと思いまして」「変化は大事だろう。人間関係も、仕事も、現状維持ばかりでは発展しない」「名前の呼び方を仕事と一緒にしないでください」もっともな反論だったが、光也は納得できなかった。「実花」「はい」「俺の名前は光也だ」「存じておりますよ」「それなら呼んでくれ」「嫌です」即答された。しかも、拒絶。これまでの実花なら折れて光也の要望に応えるか、曖昧に笑って往なすかのどちらかだっただろうから、明確な意思表示は一種の甘えだと思って、光也としては喜ばしいと思わなくもない。だが、結局は願いが叶っていないので、光也は小さく息を吐く。「……どうしてそこまで頑ななんだ?」「東国さんのほうが慣れていますもの」「慣れなら、光也だって呼んでいるうちに慣れる」「……そういう問題ではないんです」実花は膝の上で両手を握った。嫉妬しているなんて言いたくなかった。まして、その原因が前の生で見聞きしたことだなんて、説明できるはずもない。今の光也にはどうしようもないことだ。まだ出会っていなかった頃の女性関係を責めるなんて、理不尽にもほどがある。それに、実花が見聞きした女性たちと光也が本当に親密だったのかさえ分からな
「……名前?」目を見張る実花を見た光也は首を傾げ、何かに納得したように一つ頷く。「悪かった」「え?」光也が実花の頭の上から、足元まで見たあと、肩のあたりをじっと見る。「急停止したとき、肩や首を痛めていないか?」「あ……」実花は肩を動かし、首を回してみる。「大丈夫です」「良かった」光也は少しだけ表情を和らげると、前後左右を確認して車を発進させる。実花は前を向く光也の顔をじっと見ていた。(まだ名前呼びを気にしていたのね)名前で呼ぶことを期待される経験は少なくない。名前で呼ぶことで距離の近さや親密さをアピールするものであり、実花に名前で呼ばれることは藤宮家にある程度認められたという一種のステイタスにもなっていた。そのため、早々に名前で呼んでほしいと言われることが多かった。(思い返せば、恒一さん……ううん、一ノ瀬さんもそうだった気がする)一ノ瀬恒一にとっては、実花との距離の近さをアピールすることが重要だった。だから、名前で呼び合いたいと恒一のほうから言ってきた。当時の実花はそれを『特別』『好意』『愛情』と思っていたが、今の実花にはそれが『戦略』だったのだと分かっている。その点、光也は呼ばれ方を気にしているようではなかった。自分を呼んでいるのが分かればいいという程度に、呼び方に拘りがないと実花は思っていた。なぜならば、光也に実花の影響力は不要だから。確かに実花は藤宮の後継者ではあるが、社会的に見ればまだ子ども。後継者候補の一人であろうと、すでに社会に出て、結果も出している光也のほうが名前の価値は高い。(それに……)光也は実花に名前で呼ぶように言わなかった。実花も言われなかったから、今も『東国さん』と呼んでいる。普
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい







