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もうあなたのために無理はしない

もうあなたのために無理はしない

Por:  子猫の月登りCompletado
Idioma: Japanese
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娘である柊結衣(ひいらぎ ゆい)が熱を出して2日目、私、白石紬(しらいし つむぎ)はスーパーへ粉ミルクを買いに行った。 ポケットの隅々まで探っても、まだ400円足りなかった。 私は隅の方へ隠れ、手に汗を握りながら、肩身の狭い思いで柊朔也(ひいらぎ さくや)に電話をかけた。 「ねえ、400円だけ振り込んでくれない?粉ミルクを買うお金が少し足りなくて……」 朔也は冷たく遮った。「粉ミルクなんて大していいものじゃないだろ。母乳が足りてるなら、無駄金を使う必要はないじゃないか」 私からとうに母乳が出なくなっていたことすら、彼は知らなかった。 レジ係が声を聞きつけてこちらを見た。 私はいたたまれなくなり、粉ミルクを棚に戻した。 その時、電話の向こうから別の女の甘ったるい声が聞こえてきた。 「朔也、うちの子にこんな高いゲーム機を買わなくていいわよ。甘やかさないで」 「たかだか40万円だよ。高くないさ。それに、俺が買いたいんだ」 後ろに並んでいた人にぶつかられるまで、私はその場に呆然と立ち尽くしていた。 その女の声には聞き覚えがあった。 朔也の昔の思い人で、最近離婚して幼い息子を連れている水野凛(みずの りん)だ。 私は顔を上げ、先ほど棚に戻した一番安い粉ミルクを見つめた。 急に目頭が熱くなった。 この結婚生活、もうこれ以上無理して続けるのはやめよう。

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Capítulo 1

第1話

家に帰ると、玄関先でツンとした酸っぱい臭いがした。

結衣がベッドの上一面に吐いていたのだ。

結衣はまだ小さく、寝返りも打てない。口を大きく開けて泣き叫び、声はすっかり枯れていた。

慌てて抱き上げると、その小さな体は恐ろしいほど熱く、驚くほど軽くてぐったりしていた。

私は涙をこらえながら、大急ぎでおむつを外し、新しい服に着替えさせた。

小さな足をバタバタとさせ、本当に苦しそうだった。

ちょうどその時、朔也が帰宅した。

ドアを開けて入ってきた彼は、瞬時に眉をひそめ、ハンガーラックを指差した。

「この臭い、俺の服につけたくないんだけど。明日は大学で会議があるから、早く綺麗に片付けてくれ」

結衣は彼の声に驚き、ヒクッと息を詰まらせた。

その瞬間、私は爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。

無性に朔也を問い詰めたくなった。

結衣が熱を出してから、2日間も吐いたり下したりしているというのに、彼は心配するどころか、自分の服のことしか頭にないのだろうか!?

口を開きかけたその時、彼は背を向けて立ち去った。

彼はベランダに立ち、電話をかけていた。その口調はとても穏やかだった。

「ゲーム機は届いた?気に入ったかな?今度テストで10位以内に入ったら、また特別なご褒美をあげるからね」

電話の向こうから、男の子の興奮した叫び声が聞こえてきた。

朔也も笑い声を上げ、優しい声で言った。「明日はおじさんが高級料理に連れて行ってあげるよ。お母さんと一緒においで、いいかい?」

私は床に膝をつき、腕の中で痙攣する結衣を強く抱きしめた。

5年前、私も同じように両親の前にひざまずいていた。

当時、未婚のまま妊娠した私に対し、父は勘当すると言い放ち、母は泣き崩れて言葉も出なかった。

それでも私はひざまずいたまま、隣にいた朔也にしがみついた。

「お父さん、お母さん、私は一生この人についていくって決めたの。死んでも彼と結婚するわ!」

父は茶器のセットを叩き割り、「出て行くなら、二度と戻ってくるな!」と怒鳴った。

そして、私は本当に実家へ帰らなかった。

だが結局、お腹の子は不注意で流産してしまった。

朔也は大学院入試に二度失敗し、無職のまま受験勉強を続けた。

私は流産後の体を休める間もなく、彼の生活費を稼ぐためにアルバイトをするしかなかった。

幼い頃から家事などしたことがなく、家族に甘やかされて育ってきた。

それなのに、いつしか私の手はマメだらけになり、毎日キャンバス地のトートバッグを提げて市場を駆け回るようになっていた。

幸いなことに、朔也は3年目でようやく合格した。

その日、彼はひどく酔っ払って私を抱きしめ、「紬、俺が稼げるようになったら、絶対にお前にいい思いをさせてやるからな」と言った。

しかし結婚式の日、安物のウェディングドレスを着た私は、彼の昔の思い人である凛と鉢合わせた。

凛は高級ブランドのバッグを手に提げ、からかうように言った。「朔也、あなたの奥さん、すごく家庭的でいい人そうね」

朔也はただ眉をひそめ、「ああ」とだけ答えた。

多くを語りたくないようだった。

今思えば、あの時彼は、心の中で私を疎ましく思っていたのかもしれない。

――違うだろうか?

私はうつむき、タイルの床に映る、やつれてむくんだ自分の顔を見て苦笑した。

結衣がまた泣き出した。

抱きかかえて洗面所へ連れて行き体を洗うと、結衣は私が手を離すのを恐れるかのように、小さな手で私の服をぎゅっと握りしめた。

朔也はまだ電話をしていた。

ただ、相手は凛に変わっていた。

彼の甘い声が響く。「家に着いた?今日は疲れなかった?」

向こうが何か言うと、彼は低く笑い声を漏らした。

「それなら早く休んで。また徹夜しちゃ駄目だよ。週末の予定は俺が立てておくから」

私はうつむき、腕の中の結衣を見つめた。

高熱のせいで眼窩は窪み、ひと回り痩せてしまった。

わずか400円足りなくて、粉ミルクすら飲ませてやれない。

電話を切った後、朔也は私のそばを通り過ぎ、結衣をちらりと見て言った。「まだ熱が下がらないのか?」

その口調は氷のように冷たかった。

まるで、どうでもいい赤の他人のことを聞いているかのようだった。

私が答える間もなく、彼は書斎へ入っていった。

私はその場に立ち尽くし、結衣を抱きしめたまましゃがみ込んだ。急に目頭が熱くなった。

結衣が小さな手を伸ばし、不意に私の目に当てた。

ついに涙がこぼれ落ちた。

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第1話
家に帰ると、玄関先でツンとした酸っぱい臭いがした。結衣がベッドの上一面に吐いていたのだ。結衣はまだ小さく、寝返りも打てない。口を大きく開けて泣き叫び、声はすっかり枯れていた。慌てて抱き上げると、その小さな体は恐ろしいほど熱く、驚くほど軽くてぐったりしていた。私は涙をこらえながら、大急ぎでおむつを外し、新しい服に着替えさせた。小さな足をバタバタとさせ、本当に苦しそうだった。ちょうどその時、朔也が帰宅した。ドアを開けて入ってきた彼は、瞬時に眉をひそめ、ハンガーラックを指差した。「この臭い、俺の服につけたくないんだけど。明日は大学で会議があるから、早く綺麗に片付けてくれ」結衣は彼の声に驚き、ヒクッと息を詰まらせた。その瞬間、私は爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。無性に朔也を問い詰めたくなった。結衣が熱を出してから、2日間も吐いたり下したりしているというのに、彼は心配するどころか、自分の服のことしか頭にないのだろうか!?口を開きかけたその時、彼は背を向けて立ち去った。彼はベランダに立ち、電話をかけていた。その口調はとても穏やかだった。「ゲーム機は届いた?気に入ったかな?今度テストで10位以内に入ったら、また特別なご褒美をあげるからね」電話の向こうから、男の子の興奮した叫び声が聞こえてきた。朔也も笑い声を上げ、優しい声で言った。「明日はおじさんが高級料理に連れて行ってあげるよ。お母さんと一緒においで、いいかい?」私は床に膝をつき、腕の中で痙攣する結衣を強く抱きしめた。5年前、私も同じように両親の前にひざまずいていた。当時、未婚のまま妊娠した私に対し、父は勘当すると言い放ち、母は泣き崩れて言葉も出なかった。それでも私はひざまずいたまま、隣にいた朔也にしがみついた。「お父さん、お母さん、私は一生この人についていくって決めたの。死んでも彼と結婚するわ!」父は茶器のセットを叩き割り、「出て行くなら、二度と戻ってくるな!」と怒鳴った。そして、私は本当に実家へ帰らなかった。だが結局、お腹の子は不注意で流産してしまった。朔也は大学院入試に二度失敗し、無職のまま受験勉強を続けた。私は流産後の体を休める間もなく、彼の生活費を稼ぐためにアルバイトをするしかなかった。幼い頃から家
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第2話
部屋の片付けを終え、私は寝室に戻った。スマホを確認すると、母からこっそり20万円の送金と、一通のメッセージが届いていた。【紬、自分のことももっと大切にしなさいね】私は慌てて口元を覆い、声を殺して泣いた。お金を受け取ると、私は粉ミルクをいくつか買い、急いで結衣を抱きかかえて病院へ向かった。午後2時、小児科の救急外来にはまだ長い列ができていた。高熱で全身を震わせる結衣を抱きながら、私は焦燥感に駆られて呼び出しのモニターをじっと見つめていた。前にはまだ10人以上も待っている。さらに30分待った頃、結衣が突然ビクッと痙攣し、口から白い泡を吹いた。頭の中が真っ白になり、私はナースステーションへ駆け込んだ。看護師は一目見るなり言った。「熱性けいれんです。すぐに処置室へ!」私は結衣を抱いて処置室へ走る途中、廊下の角で、視界にある人物を捉えた。朔也だ。彼は凛に付き添って婦人科の前に立ち、ある男性と立ち話をしていた。その男性には見覚えがあった。朔也の教え子の保護者であり、この病院の院長だ。「凛のことは、どうかよろしくお願いします。彼女の体、まだ調子を整える必要があります」院長は笑顔で頷いた。「柊先生、ご安心ください。奥様のことは私どもで特別に配慮いたしますよ」それを聞いても、私には深く考える余裕などなかった。腕の中で、結衣はまだ痙攣を続けている。「朔也!」私は駆け寄り、震える声で訴えた。「結衣が熱性けいれんを起こしたの!前にまだ10人以上も待ってるんだけど、誰か頼める人を探してくれない!?」朔也が私を一瞥した。その目は警戒に満ちていた。院長も怪訝そうに私を見て、それから隣の凛へと視線を移した。朔也は冷ややかな声で言い放った。「どちら様ですか?俺、あなたとお会いしたことありましたっけ?」彼は凛を庇うように胸元へ引き寄せた。院長に何かを悟られるのを恐れるかのような、極めて自然な動作だった。院長は少し躊躇して、「そちらの女性、先ほど何かおっしゃりたかったのでは?」と尋ねた。「放っておいてください」朔也は淡々と遮った。「院長、少し場所を変えて話しましょう」私はその場に凍りつき、彼らが去っていく後ろ姿を見つめていた。腕の中の結衣が再び痙攣し、小さな声で泣き声を上げた。可哀想でたま
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第3話
病院を出た後、私は結衣を連れて小さな診療所へ行き、注射を打ってもらった。翌日の午後になって、ようやく熱が下がった。だが結衣はぐったりとしていて、泣くことも動くこともせず、ただ熱っぽく顔を赤らめていた。私が薬を買って帰宅すると、リビングから物音が聞こえてきた。ドアを開けた途端、私はその場に呆然と立ち尽くした。冷たい床の上に結衣が這いずっており、その上に凛の息子の翔太(しょうた)が馬乗りになっていた。彼は両手で結衣の肩を掴み、お尻をドスンドスンと打ちつけながら、口では「ハイヨー!ハイヨー!」と叫び続けている。結衣は息を詰まらせて顔を真っ赤にし、泣く声すら出せずにいた。おむつまで乱暴に引きちぎられ、お腹が半分剥き出しになっている。私の頭の中で、何かの糸がプツリと切れた。次の瞬間、私は狂ったように翔太を引き剥がし、泣き崩れながら結衣を抱きしめた。ちょうどその時、朔也が切った果物を手にキッチンから出てきた。私は鋭い声で問い詰めた。「見えなかったの!?結衣はまだ生後数ヶ月なのよ!あの子が結衣の上に馬乗りになっていたのに、どうして見て見ぬふりができるの!?」朔也は眉をひそめた。彼は果物を手に取り、翔太に食べさせながら言った。「子供がわからずに結衣と遊んでいただけだろ。そんなにムキになることか?」翔太は傍らに立ち、うつむいて震えながら口を開いた。「おばさん、ごめんなさい……僕、ただ結衣と遊びたかっただけで、具合が悪いなんて知らなくて……」言い終わる頃には、翔太は泣き出してしまった。朔也はすぐに立ち上がった。彼は歩み寄り、しゃがみ込んで翔太を抱きしめた。「もう泣かないで。おじさんは、翔太がわざとやったんじゃないってわかってるからな」朔也の声は優しく根気強くて、まるで自分の実の子供をあやしているかのようだった。そして彼は顔を上げて私を睨み、冷淡に言い放った。「見ろよ、そのみっともない姿。子供相手にムキになりやがって」私は結衣を抱きしめ、激しく反論した。「私のみっともない姿ですって!?この前、病院で結衣が熱で死にそうになってた時、あなたは私を頭がおかしいと言って、警備員に引きずり出させたじゃない!朔也、頭がおかしいのはあなたのほうよ!」数日間抑え込み続けていた感情が、ついに完全に決壊した。しかし、
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第4話
電話の向こうから、母の焦った声が聞こえてきた。「紬、どうして泣いてるの?今どこ?結衣に何かあったの?」「ううん……」私は咽び泣きながら首を振った。「結衣は寝てる……」私はここ数日で起きたことを、途切れ途切れに母に打ち明けた。電話の向こうは静まり返った。しばらくして、母が沈んだ声で言った。「紬、今はもう何も考えなくていい。荷物をまとめて結衣を連れて、明日の朝一番で家を出なさい。お母さんが迎えに行くから。お父さんのことは心配しなくていいわ。あの人は口が悪いだけだから。あなたが妊娠した年にも、こっそりお金を振り込んでくれたのよ。紬、帰っておいで。この家にはいつでもあんたの居場所があるんだから」私は嗚咽をもらして、何も言えなくなった。電話を切った後、私は荷物をまとめ始めた。だが、この家には私自身のものと呼べるような品が、ほとんどないことに気がついた。服でさえ、何年も前に買ったものばかりだ。結衣の物はもう少し多くて、紙おむつや粉ミルクなどはあったが、おもちゃは可哀想になるほど少なかった。荷物をまとめ終えて玄関に置いた、ちょうどその時だった。帰ってきた朔也と鉢合わせた。彼は眉をひそめて言った。「何してるんだ?」私は平静を装って嘘をついた。「捨てるのよ。もう古くなったし、いらないから。気分転換に捨てようと思って」「やっと吹っ切れたみたいだな」朔也は淡々と言った。「4万円で足りるか?」私は一瞬、呆気にとられた。彼の口調は、まるで乞食に施しでもするかのように高慢だった。「4万円やるから、そんなゴミはさっさと捨てて、新しいものを買ってこい」彼はスマホを取り出し、画面をタップした。すぐに、送金を知らせる通知音が鳴った。備考欄には「生活費」と書かれている。子供を産んでから今に至るまで、もうすぐ1年になるが、彼から生活費をもらったのはこれが初めてだった。彼は凛の息子に何十万円もするゲーム機を買い与え、一回2万円もする乗馬教室に通わせているというのに、私の娘はどうだろう。病気になっても、彼は見向きもしない。その瞬間、私は突然理解した。心が死ぬというのは、こういうことなのだと。夕方になり、凛が翔太を迎えに来た。彼女は下腹部を押さえ、目を赤くして私に謝ってきた。「ごめんなさい、紬さん。私
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第5話
朔也が凛を抱えて部屋を出て行った後。私は書斎に入り、パソコンから朔也のLINEにログインした。そして、二人のやり取りの履歴、送金の日付、さらに……ホテルの利用履歴をスクリーンショットで保存した。それから離婚弁護士に連絡を取り、これらの証拠をすべて送信した。田中弁護士はこう言った。「親権の問題はありません。この状況なら、裁判所が彼に親権を認めることはありません。ただ、今後、彼が子供を口実にあなたに付きまとってくる可能性はあります」「それはないです」私は淡々と答えた。「あの人は、私たちを恥晒しだと思っていますから」すべての作業を終えた後、私はベッドに横たわり、結衣を寝かしつけた。心の中は、驚くほど穏やかだった。ところが、朔也がドアを開けて入ってきて、珍しく自分から口を開いた。「紬、少し話があるんだ」彼は軽く咳払いをした。「紬、お前も分かってると思うが、准教授という立場にもなれば、周囲に多少なりとも……親しくする人間が出てくるものだ。凛のことはお前も知ってるし、お互い素性も分かってる。だが、変な勘ぐりはしなくていい。彼女がお前の立場を脅かすことはない。お前はいつまでも俺の妻だ。俺はただ、女手一つで子育てをしている彼女が可哀想なだけなんだ」朔也の視線が一瞬泳いだ。しかし、すぐに元の落ち着きを取り戻した。「紬、お前もこれからは彼女と上手く付き合っていくようにしてくれ。これからは凛の子供も、俺たち自身の子供だ。俺の妻として、お前にもきちんとした態度を示してもらいたい」彼は顔を上げ、私を見た。私は彼の目をじっと見つめ返し、何も言わなかった。朔也はこの数年間、ほとんど変わっていないようだった。相変わらず端正な顔立ちで、歳月は彼を少し成長させたに過ぎない。初めて彼に出会ったのは、大学の図書館だった。窓の外は土砂降りの雨だった。自転車に乗っていた私はずぶ濡れになり、道端で転んでしまったが、気にかけてくれる人は誰もいなかった。そんな時、駆け寄ってきて、無言のまま私を背負って医務室まで走ってくれたのが朔也だった。彼の背中は広くて、とても安心できた。医者に薬を塗ってもらった後、私は彼がもう帰ったのだと思っていた。だが数分後、朔也は温かい料理を手に、急ぎ足で戻ってきた。全身ずぶ濡れの彼は、初々しい声
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第6話
実家に戻り、見慣れた自分の部屋を目にした途端、急に目頭がツンと熱くなった。家を出てから5年。私の部屋は埃一つなく、綺麗に保たれていた。家具の配置すら、当時のままだ。誰かが毎日、丁寧に掃除してくれていたのは明らかだった。母は私の腕から結衣を受け取り、慰めるように言った。「紬、もう安心しなさい。お父さんは大学の幹部なんだから。当初、朔也がこんなに早く昇進できたのも、お父さんが裏で口利きをしてくれたからなのよ。すべては、あなたに少しでもいい暮らしをしてほしかったからなのに……」言いかけて、母は嗚咽を漏らした。「……まさか、あの男がこんな仕打ちをするなんてね!」「もう大丈夫よ、お母さん」私は母を抱きしめ、静かに呟いた。「もう終わったことだから。離婚協議書にもサインしたし」少し離れたリビングのソファでは、父が押し黙ったまま座っていた。一言も発しようとしない。テレビからはニュースの音声が流れているが、父の耳には全く入っていないようだった。私は歩み寄り、「お父さん」と小さく声をかけた。父の強張った体が一瞬だけ緩んだ。私を見つめるその目はうっすらと赤く潤んでいたが、すぐにぷいと顔を背けられてしまった。こめかみ辺りに増えた白髪が、やけに白く光って見えた。この数年間、私は確かに惨めな暮らしをしていた。当時、流産したばかりだったが、朔也は大学院の受験勉強に追われ、私を労わる余裕など微塵もなかった。私自身も変にプライドが高く、実家に頭を下げて帰ることもできなかった。毎日朝から晩まで働き詰め。下半身から出血しながら、額に汗して働くような日々だった。そうやって歯を食いしばって1年間支え続け、ようやく朔也を大学院へと送り出した。あの頃は本気で、これからは苦労が報われるのだと信じていた。今思えば、ただの幻に過ぎなかった。長い沈黙ののち、父が掠れた声でぽつりと言った。「……帰ってきたからには、自分の体をちゃんと労わりなさい。結衣のことは俺と母さんで面倒を見るから、お前は自分のことに専念すればいい」私はコクリと頷いた。「うん、そうするね、お父さん」夕方になり、ふと時計に目をやった。もうすぐ夜の7時だ。朔也はとうに仕事を終えている時間だ。きっと昔のように、私がキャンドルディナーを用意して待っているとでも思い込んで
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第7話
朔也が帰宅した頃には、すでに外は真っ暗だった。マンションの敷地内に入ると、自宅のキッチンの明かりが暖かそうに灯っているのが見えた。彼は口角を釣り上げた。案の定、紬はもうキャンドルディナーの準備を始めているらしい。今朝、紬にメッセージを送ったが返信はなかった。それでも朔也は、彼女がちゃんと内容を頭に入れてくれたのだと確信していた。紬とはそういう女だ。口には出さなくても、心の中ではしっかりと留めている。エレベーターに乗り込みながら、朔也は雰囲気を盛り上げるために花束でも買おうかとすら考えた。紬と結婚して以来、こんなロマンチックな瞬間は滅多になかったからだ。正直なところ、紬は美人だ。そもそも一目惚れしたからこそ、彼女を口説き落としたのだ。だが、女というのは結婚した途端に魅力が色褪せてしまうらしい。特に子供を産んでからは、すっかり所帯染みた「おばさん」の空気を纏うようになってしまった。自分がすでに准教授という地位に就いているというのに、紬はいまだに貧乏くさい生活を続けている。新しい服も買おうとせず、普段はメイクすらしない。女としての魅力など完全に失われていた。夜の営みすら、退屈で味気ないと感じることがあった。朔也は時折、男が成功する意味とは何なのかと考えることがあった。まさか、みすぼらしい妻に縛られ、毎日馬車馬のように働いて家族を養うためだけだというのか?そんな時、凛が現れた。学生時代のマドンナだった彼女は、裕福な実業家に嫁いだと聞いていたが、今は離婚し、子連れで出戻っているという。その姿はどこか哀れを誘った。男には誰しも、多かれ少なかれヒーロー願望があるのだろう。かつてのマドンナがここまで落ちぶれているのを見れば、朔也も同情心を抱かずにはいられなかった。実際のところ、凛はすでに出産を経験しているにもかかわらず、手入れが行き届いており、大学を卒業したばかりの女子学生のように見えた。それどころか、大人の女としての成熟した色気すら漂わせていた。最初は、凛のちょっとした用事を手伝うだけだった。子供の送り迎えを代わったり、弁当を届けたりと、一線を越えない程度の些細なことだ。だが、一度あることは二度ある。二度あれば、その後は際限がなくなる。回数を重ねるうちに、彼は凛の家に上がり
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第8話
再度かけ直してみても、結果は同じだった。朔也はその場に立ち尽くしたまま、自分でも気づかないうちに指先を震わせていた。どうしてしまったのか自分でも分からず、無意識に壁へ手をつくと、ずるずると床に座り込んだ。家の中は、どこを見渡しても紬が残した痕跡で溢れている。この数年間、彼は一度もキッチンに足を踏み入れていなかった。思えば、大学院の受験勉強をしていた頃は、紬が外へ働きに出て、彼が食事を作り、家事をこなしていたというのに。それが、結婚してからはただの一度もキッチンに立とうとしなかった。紬が妊娠していた時期でさえ同じだった。彼女はひどいむくみに悩まされ、足がパンパンに腫れて歩くことすらままならず、夜中には足がつって痛みに目を覚ましていた。それでも彼女は毎日欠かさず三食を用意し、わざわざ大学まで弁当を届けてくれていた。だが、当時の朔也はその気遣いを少しもありがたいとは思わなかった。紬が大学へやって来るたび、同僚や学生たちの好奇の目を引いたからだ。すっかり所帯染みて「おばさん」のようになった彼女の姿は、とてもエリート准教授の妻と呼べるようなものではなかった。心の奥底で常に鬱屈とした不満を抱えていた彼は、弁当を食べる時も、紬に対して決していい顔を見せなかった。紬は大きなお腹を抱えながら、自分が何か悪いことでもしたのではないかと、不安げに彼の傍らに立っていた。そんな彼女の姿を見ると、さすがの朔也もあからさまに責めることはできず、ただ「迷惑だから、もう持ってこなくていい」と冷たく言い放つだけだった。しかし、紬は彼のことを気にかけすぎていた。雨の日も風の日も、いくら止めても頑なに弁当を届け続けた。――あんな女が、俺と別れられるわけがない。朔也は無意識のうちに、これは単なる嫌がらせか、自分の気を引くための幼稚な駆け引きに過ぎないと思い込んでいた。彼は唇を引き結び、そのまま紬に短いメッセージを送信した。【馬鹿な真似はよせ。腹が減ってるんだ、早く帰ってこい】ちょうどその時、不意にスマホの着信音が鳴り響いた。彼は「ほら見ろ、やっぱり紬からだ」と高を括った。しかし、画面に表示されていたのは「凛」の文字だった。わけもなく、朔也の瞳の奥に一瞬だけ苛立ちの色がよぎった。それに彼自身すら気づいていなかった。
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第9話
病院内。朔也の目の下には、くっきりと青黒い隈ができていた。医師の診察によれば、凛の体に大きな異常はなく、最近の栄養不足で少し低血糖気味なだけなので、食事に気をつければ問題ないとのことだった。しかし凛は可哀想な被害者ぶって、全身が痛いと泣きついた。朔也は仕方なく彼女に付き添い、3日間も病院に泊まり込んだ。その間、凛はひどく我が儘に振る舞った。彼に仕事を休むようせがみ、さらには彼のスマホを取り上げて、見ることすら許さなかった。「他の女の動画でも見てるんじゃないの?スマホは見ちゃダメ!」と甘えた声で言った。朔也は唇を引き結んだ。内心では苛立っていたが、顔には出さなかった。すでに4日目の夜だった。朔也の頭の中は、別のことでいっぱいだった。一刻も早く家に帰り、紬がまだ自分の帰りを待っているかどうか確かめたくてたまらなかった。だが、凛は異常なほど彼にまとわりつき、息をつく暇すら与えてくれなかった。ようやく凛が診察に向かった隙を突き、朔也は慌ててスマホを取り出し、メッセージを確認した。4日間。仕事のグループチャットや同僚との雑談以外、何もなかった。紬からのメッセージも、着信履歴も一切ない。何度電話をかけても、ずっと電源が入っていない。朔也は病室の長椅子に座り込んで呆然とした。ふと、数日前に紬が「気分転換に捨てる」と言って荷物をまとめていたのを思い出した。だが今思えば、あんなに倹約家の紬が、そう簡単に物を捨てるはずがない。「朔也!」凛が不満げに甘えた声を出しながら近づいてきた。「どうして隠れてスマホなんか見てるの?まさか外に別の女がいるんじゃないでしょうね?」朔也は唇を噛みしめた。そして、冷淡に言った。「今日は用事があるから、一度家に帰る。お前の世話は、ヘルパーを雇うから」「嫌!」凛は眉をひそめ、いかにも可哀想に目を潤ませた。「紬さんに会いに行くつもりなんでしょう?あんな女のどこがいいのよ?私じゃダメなの?」「それとこれとは話が別だ」朔也は限界だった。コートを手に取り、外へ向かおうとした。凛は泣きじゃくった。「紬さんのところへ行くなら、私は誰が付き添ってくれるの?身重の体で一人ぼっちで入院してるのに、私を見捨てる気?」「お前はもう大丈夫だ。医者も二度も退院していいと言って
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第10話
朔也がまだ呼び出し状の衝撃から立ち直れないうちに、スマホが鳴った。大学の学部事務室からだった。電話の向こうの相手は厳粛な口調で、冷淡に告げた。「柊先生、伊藤学部長が今すぐこちらへいらっしゃるようにと。ご都合はいかがですか?」「どのようなご用件で?」「お越しになれば分かります」電話は一方的に切られた。朔也はスマホの画面を見つめ、胸の奥がひやりと冷えていくのを感じた。彼が学部に到着すると、事務室は異様なほど静まり返っていた。すれ違う同僚たちも、誰も挨拶をしてこないどころか、遠巻きに避けるように通り過ぎていく。伊藤学部長は彼の姿を認めると、冷ややかに言った。「柊先生、お入りください。ドアをお閉めいただけますか」朔也は部屋に入った。デスクの上には、書類の束が広げられていた。真っ先に目に飛び込んできたのは、一番上に置かれた送金履歴のスクリーンショットだった。彼が凛へ送金したものだ。タイトルには【柊朔也准教授の不倫及び実子遺棄に関する状況説明】とあり、末尾には【白石紬】と署名されていた。「柊先生、これらの資料が昨日、大学の懲戒委員会のメールアドレス宛てに送られてきました」伊藤学部長の声は厳しかった。「同時に、学内のネット掲示板にも同様の告発スレッドが立ちました。技術部がすでに削除しましたが、かなりの数の学生や教職員が目撃しています」朔也は絶句し、まるで金縛りにでも遭ったかのように一歩も動けなかった。「柊先生、今回は大学の懲戒委員会を代表して事情を伺います。この資料の内容は事実ですか?大学側はこの事態を極めて重く受け止めています。もし事実であれば、これは個人の素行問題にとどまらず、教員としてのモラルに関わり、ひいては大学の評判にも泥を塗る由々しき事態です」朔也の視線は、書類に添えられた数枚の写真に釘付けになっていた。その中の一枚は、病院の産婦人科の廊下で撮られたものだった。彼と凛が腰に手を回し合い、寄り添って立っている。あの時、紬は警備員に引きずり出され、通りすがりの人々は好奇の目でスマホを向け、盗撮していたのだ。「柊先生、何か弁明はありますか?」朔也は口を開き、反論しようとした。だが、言葉は喉の奥に飲み込まれた。ホテルの利用履歴や、凛の超音波エコーの写真まで突きつけられている。これ以
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