これは、朝霧玲子が九条蓮を誘惑しようと試みた、通算九十九回目の夜だった。 だが、九条蓮は容赦なく彼女を突き放した。 「夜は冷える。風邪をひくぞ」 その冷たい一言を聞いた瞬間、玲子の胸の奥で何かが軋む音がした。 玲子は衝動のままベッドの枕を掴み、蓮へ向かって投げつけた。 「九条蓮!私ってそんなに魅力がないの?それとも女が嫌いなの!?」 ――そして玲子は、偶然にも蓮の書斎の片隅にある隠れ部屋を見つけてしまう。 そこには、壁一面に貼られた義妹・九条すみれの写真、乱れたシーツ、床に転がる湿ったティッシュの数々があった。 その瞬間、玲子は悟った。 彼は女を嫌っていたわけではなく、自分のことを拒絶していたのだと。 絶望の夜、玲子は祖父・朝霧宗一郎へ電話をかけた。 「おじい様、私、九条蓮と離婚するわ。 三日後、江城の一番大きなホテルで、自分自身をオークションにかける。 九条蓮よりも権力のある男と、結婚してみせるわ!」 そしてオークション当日―― 噂を聞きつけ、会場に現れたのは、御神木財閥の跡取り・御神木猛だった。 彼が札を上げた瞬間、九条蓮の中で何かが壊れた。 その日を境に、蓮は冷徹な仮面を脱ぎ捨て、狂気へと堕ちていくのだった――
View More虚しくも、蓮の期待はあっけなく裏切られた。玲子は最後まで背を向け、一度たりとも蓮を振り返らなかった。「……九条様、お帰りになりますか?それとも――」傍らに控えていた者が恐る恐る問いかけると、蓮は力なく答えた。「……帰る」帰れば、また玲子に会えるかもしれない。彼女に会える機会さえあれば、それで十分だった。だが蓮は知らなかった。そのわずかな望みさえ、玲子は与えなかったのだと。蓮が九条家に戻ると、すでに御神木猛が人を遣わし、九条家の家具を大型トラックへと積み込んでいた。蓮の姿を見るや、九条夫妻は涙を滲ませて駆け寄ってきた。「蓮……お前、一体何をしたんだ……?あの連中が、我々を江城市から追い出すと言うんだ。もう二度と戻るなと……!」「……御神木猛め!」猛の冷酷さに蓮は震えた。生涯を過ごしたこの家を追われることが、両親にとってどれほど残酷なことか、蓮には痛いほどわかっていた。「やめろ!御神木猛の狙いは俺だろ!親まで巻き込むな……!」そのとき、御神木の使者が淡々と告げた。「九条様、御神木様のご意向は、あくまで江城市から立ち退いていただき、今後一切戻られぬことです。ご両親はお別れを惜しまれ、共に移られることをご希望されております。ご安心ください、御神木様は新しい住まいをすでにご用意され、九条グループもそちらへ移転となります。これも、玲子様のご意向です。どうかご理解ください」その言葉を聞いた蓮は呆然とした。「……これが、玲子の意思だと?」「はい。玲子様は、もう二度と会いたくないとおっしゃっています」その瞬間、蓮は空虚な笑みをこぼした。「……なるほどな。本当に……俺と会いたくないんだな」やがて九条家は江城市を去り、すみれの暮らしもまた暗転していった。養女として体の不自由な夫に嫁ぎ、家族に疎まれながら日々を送る中で、すみれは孤独に耐えかね、外の世界へと逃げ出そうとした。だが、すぐに菅田家の人間に見つかり、それ以降屋敷の門を出ることすら許されなくなった。一方で、玲子は優雅なセレブ妻としての日々を過ごしていた。ある日、御神木家のプライベートビーチ――サングラスをかけたしずくがパラソルの下でくつろぎながら、日焼け止めを塗る玲子へ声をかけた。「玲子!旦那さん、今出張でいな
蓮は無力感に襲われ、手の中の拳銃を無造作に甲板へ投げ捨てた。金属音が冷たく響き渡り、沈黙があたりを覆う。「……彼女を、連れて行け――」震える指先を強く握りしめ、込み上げる感情を歯を食いしばって押し込める。ゆっくりと顔を上げた蓮の瞳は、必死で縋るような哀願で濡れていた。「玲子……俺たち……まだ、友達でいられるか……?」玲子は冷たい視線で彼を見据え、赤い唇を静かに開いた。「無理よ。もう、あなたの顔すら見たくない――」その冷酷な一言が、蓮の心の最後の砦を粉々に砕いた。立っていることすらできず、蓮は膝をつき、その場に崩れ落ちた。「なぜだ……どうして、ほんの少しのチャンスすら俺にくれない……?」「忘れたの?かつて、あなたも同じことを私に言ったじゃない――」あの夜、必死で彼に想いを伝え、縋ろうとした自分に向かって、『お前に触れることはない、永遠に』と冷たく吐き捨てた蓮の声が、今も耳にこびりついている。玲子は凍てつくような微笑を浮かべながら振り返り、猛の胸へ身を預けた。「……疲れたわ。もう帰りましょう」「そうだな、帰ろう」猛は玲子を抱きかかえるようにしてヘリコプターへ乗り込んだ。プロペラが回り、機体が上昇すると、玲子は疲れ果てたように猛の胸へ顔をうずめた。「すまなかった、玲子……君をこんな目に遭わせてしまって。今朝、本来なら君との結婚式を挙げるはずだった教会が火事になって、急いで駆けつけていたんだ。まさかその間に、君がこんな危険に巻き込まれているなんて……」玲子は微かに苦笑いを浮かべた。「それも……九条蓮の仕業でしょうね」猛は優しく玲子を抱きしめ、熱い眼差しを向けた。「玲子。君さえ望むなら、俺はあいつを一生立ち上がれないようにできる」玲子は目を閉じ、吐息を落とした。「じゃあ……九条家を江城市から追い出して。京城からもよ。二度とあの男が、私の視界に入らないようにして」「わかった。全部、君の望み通りにするよ」猛は玲子の顎をそっと持ち上げ、瞳を覗き込んだ。「……俺の奥様、今日の君は、とびきり綺麗だよ」「本当に……?」玲子は不満そうに唇を尖らせた。「悲惨にしか見えないと思うけど?」「綺麗だよ。……ただ、もう一声呼んでくれたら、その美しさがもっと増すんだけどな」玲子は
猛が片手を挙げると、甲板に響いていた乱闘の音がぴたりと止んだ。海風を切り裂く静寂が戻り、御神木家のボディガードたちが即座に動きを止める。猛の瞳が、鷹のように鋭く光り、蓮を鋭く射抜いた。「九条蓮――玲子の指一本でも傷つけたら、お前に明日はないと思え!」張り詰めた空気の中で、蓮は口元をわずかに歪めた。「俺は一度も負けたことがない。今日だって、負けるつもりはない」蓮は視線を落とし、腕の中の玲子を見下ろした。「玲子、最後のチャンスをやる。死ぬか、俺の元に戻るか――どちらかだ」蓮の身体から放たれる冷気が周囲の空気を震わせ、玲子は思わず身を震わせた。常に冷静だった蓮が、ここまで自制を失う日が来るなど、彼女には想像すらできなかった。それでも、玲子の決意は微塵も揺らがなかった。「言ったはずよ。死んでも、もうあなたとは一緒にならないって――」玲子の声は風を断つように澄み渡った。「私は三年間、あなたの妻として生き地獄を味わってきたのよ。全裸で隣に寝ていても、一度だって私に触れようとしなかったくせに、九条すみれの写真を抱えて欲望を吐き出していたわよね。それで今さら『愛している』だなんて――笑わせないで!」玲子は冷笑を漏らし、吐き捨てるように続けた。「撃てるものなら、撃ちなさいよ」「……いいだろう」蓮の指がゆっくりと引き金にかかろうとした、その瞬間――「彼女を解放しろ、九条蓮!」猛の声が雷鳴のように轟いた。「玲子を解放するなら、御神木グループの株式の10%を譲る!」蓮の目がわずかに揺れ、口元に皮肉な笑みが浮かぶ。「……10%だと?御神木さんもずいぶん太っ腹だな」御神木グループの資産は世界中に及び、10%といえば想像を絶する価値がある。だが今の猛にとって、それはどうでもいいことだった。蓮はゆっくりと銃を構え直し、押し殺した声で問いかけた。「御神木猛――俺には理解できない。玲子とは知り合って間もないだろうに、彼女の何がそこまでお前を惹きつけるんだ?」猛は玲子を見つめながら、静かに口を開いた。「十五の時、お前の誕生パーティーで彼女に出会った。あの日、プールに落ちた彼女を救った瞬間、一目で惚れたんだ」玲子が小さく息を呑む。「だが、そのまま急用で去るしかなかった。その後、彼女を探し
何度も人工呼吸を繰り返し、玲子の胸が上下し、ついに海水を吐き出すと、激しく咳き込んだ。その瞬間、蓮は震える手で彼女を引き寄せ、力強く抱きしめた。「玲子……無事でいてくれて、本当に良かった……!お前を失いかけて、どれほど怖かったか、分かるか?」蓮は玲子をそっと離し、蒼白で小さな彼女の顔を両手で包み込み、慎重に言いかけた。「不注意すぎるぞ……!どうして海に落ちたんだ!?もし誰にも気づかれなかったら、本当に死んでいたんだぞ……!もう二度とお前に会えなかったんだ……!」必死な声に、玲子は冷え切った瞳で蓮を見返した。「……どうして助けたの?」「何を言ってるんだ?」蓮の瞳孔が一瞬で収縮し、声が震えた。「助けるに決まってるだろ……!」玲子は唇を歪め、冷笑を漏らした。「私は不注意で落ちたんじゃない……自分で飛び込んだのよ、自殺するために」その言葉は鋭利な刃となって蓮の胸を抉り、呼吸すらできなくなるほどの痛みを刻んだ。蓮は顔を歪め、絶望の呻き声をあげた。「なぜだ……!死んでも、俺と一緒にはいたくないっていうのか……!?」玲子は目を伏せず、ただ静かに答えた。「そうよ。だから帰すか、死なせるか、どちらかにして」「お前は俺の妻だ。絶対に帰さない……!御神木猛のところへなんて戻らせない!お前は俺を愛していたじゃないか……!あいつとは知り合って間もないだろ!?なぜ、俺じゃなくて、あいつを選ぶんだ……!?」蓮は狂ったように玲子の肩を掴み、赤く充血した瞳から涙が溢れ落ちた。肩に激痛が走るが、玲子の表情は微動だにしなかった。「私たちはもう離婚したのよ、蓮。何度言わせるの?私はもうあなたを愛していないし、絶対によりを戻さないわ」「……何を言われても、絶対に離さない。たとえ死んでもな……!」蓮は思いっきり顔を近づけ、そのまま玲子の唇を奪った。唇が触れた瞬間、玲子は必死に抵抗して腕で押し戻そうとしたが、蓮の腕は狂気じみた力で彼女を縛り付けた。強引に唇を割り開き、貪るように深く口づけを落とす。玲子は押し返せないと悟ると、強い決意で蓮の舌に思い切り噛み付いた。血の味が口内に広がり、激痛に耐えかねた蓮はようやく玲子を解放した。「……玲子……」「触らないで、九条蓮……!今のあなたを見ていると……吐き気が
波音と玲子の悲鳴が入り混じり、その声が蓮の胸を鋭く引き裂いた。「……そんなに俺が嫌なのか?」「そうよ、大嫌いよ!九条蓮、あんたってほんと最低!私が愛していたときは見向きもしないで、頭の中は九条すみれだけだったくせに!今さら他の男と結婚しようとしたら、邪魔しに来るなんて……!」蓮は荒い息を吐き、声を張り上げた。「嫌われてもいい。今日は必ずお前を連れていく!」迷いの欠片もなく蓮は腰を落とし、玲子を抱き上げ、そのままヨットへ乗り込んだ。ヨットが静かに桟橋を離れ始めると、玲子の顔色はみるみるうちに青ざめていった。「……どこへ連れて行くつもり?」蓮は遠くを見つめ、息を整えるように言った。「天と地の果てだ。御神木猛には、絶対に見つけられない場所へ――」「……どうかしてるわ!」叫びかけた瞬間、肩に鋭い痛みが走り、玲子の視界が暗転した。気がつくと、そこは白いシーツの揺れる広いベッドの上だった。周囲は静寂に包まれ、遠くで響く波音とカモメの鳴き声だけが聞こえた。玲子はベッドを降り、船室の扉を開けると、眼前に広がるのは青一色の大海原だった。足元で紺碧の波がうねり、視界のどこにも陸地はない。御神木猛の姿も、逃げ道も、何一つ見えなかった。玲子はこれほどまでに絶望を感じたことは、一度もなかった。「九条蓮……!」足元の海を見つめ、玲子は歯を食いしばった。「あなたなんかと一緒にいるくらいなら……!」その叫びと同時に、玲子はウェディングドレスの裾を掴み、躊躇なく海へ身を投げた。――バシャーン!音水しぶきが音を立てて弾け、玲子の身体が海中へ沈んでいく。頭上から誰かの悲痛な声が響いた。「大変だ!玲子様が海に飛び込まれたぞ!」塩辛い水が鼻腔を刺し、息が詰まる。水面の光が遠ざかり、指の隙間を泡が鈴の音のように滑り抜けていく。その瞬間、記憶の断片が脳裏を駆け抜けた。――あれは十歳の頃、九条蓮の誕生日の日。祖父に連れられ、九条家のプールサイドにいた時、拾われて間もないすみれに出会った。すみれは笑顔のまま、突然玲子をプールへ突き落とした。泳げなかった玲子は水を飲み込み、死を覚悟したその瞬間――水面を割って飛び込む少年の姿があった。濡れた髪を揺らしながら玲子を抱き上げ、冷たい目で見
玲子は呆れたように首を振り、しずくの額を指で軽く突いた。「やめてよ。今は九条蓮のことを考えるだけで、頭が痛くなるんだから」メイクを終え、純白のウェディングドレスに身を包むと、玲子は深呼吸をひとつ落とした。階段を一歩ずつ降りるたび、白いドレスの裾が波のように揺れ、周囲の視線が彼女に注がれる。その姿を見つめていた宗一郎は、老いた目尻を緩め、静かに涙を拭った。「御神木家は悪くない避難所だ。今度こそこの機会を掴め。これ以上、朝霧家もお前自身も、無駄に傷つけるな」「わかってるわ、おじい様」玲子が微笑むと、目がわずかに潤んだ。その時、外から大きな声が響いた。「迎えの車列が到着しました!」「行くがよい。わしもすぐに行く」重厚な門を出ると、漆黒の高級車が連なり待機していた。しずくは何も言わず、玲子を後部座席へ乗せた。玲子は車内を見渡し、運転席以外に猛の姿がないことに気づいた。「猛さんは?いらっしゃらないの?」「御神木様は急用で、先に玲子様を式場へ送るよう仰せでした」しずくが不満そうに顔をしかめた。「え、何それ?こんな大事な日に適当すぎるでしょ」玲子は気に留めなかった。ただ、結婚式が無事に進行することだけを願っていた。「大丈夫よ。行きましょう」車列は静かに動き出し、車窓を流れる見知らぬ景色を眺めながら、玲子は胸の奥にかすかな違和感を覚えた。やがて車は人里離れた道で停車した。問いかける暇もなく、ドアが勢いよく開かれる。乗り込んできたのは――猛ではなく、蓮だった。「……蓮?どうしてあなたがここに?」蓮は静かに首を傾け、真剣な眼差しで玲子を見つめた。眉間に淡い影を落としながら、白いベールへそっと手を伸ばすと、一言ずつ噛みしめるように告げた。「玲子。言っただろ?お前を御神木猛には渡さないって」玲子の血の気が引いた。「嘘でしょ……この車列、御神木家のものじゃなかったの!?全部、あなたが仕組んだことだったの……!?」玲子はようやくすべてを悟った。猛がいなかったのは、急用ではなかったのだ。蓮がこの全てを計画していたのだと。「やっと気づいたか。だが、もう遅い」蓮の瞳の奥に、ぞっとするほど深い独占欲が宿っていた。「蓮、今すぐ降ろして!さもないと、御神木猛が黙っていない
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