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王都全体がざわついていた。だがそれは、好奇の混じる野次や侮蔑ではなかった。「……本当に、お戻りになったんだ」「リリウス様にあのような仕打ちを……神に仇なす行いだ」「アルヴァレス王国に、神罰が降りますように……」集まった民衆の声には、怒りと敬意が入り混じっていた。それを聞いたカイルは、思わず足を止める。(……これが、クラウディアの“神子”か)リリウスはただの王子ではなかった。その存在自体が、“信仰”として根付いている。王家に生まれた“Ω”はこの国に取って奇跡、なのだ。感情でもなく、政治でもない。その身ひとつが、王権にも勝る“正統”なのだと──カイルは、初めて肌で感じた。(この国は……この王子を、決して手放さない)※神王アウレリウスとの謁見。王宮の大広間には、王族と高官、神殿関係者たちが並び立ち、異例の晩鐘が三度、鳴り響いた。だがその空気は、リリウスが知る“帰還”の温もりではなかった。クラウディア王国としての公式記録に記されたのは、「王子リリウスの保護」ではなく、「アルヴァレス王国からの亡命者」。──それが意味するのは、政治上の“戦争の理由”たりえる存在ということ。形式的な挨拶、重々しい儀礼、冷えた視線。それらが、リリウスの心を刺した。だが──兄王、アウレリウスの瞳だけは、変わらなかった。「我が名の下に誓う。お前を脅かす者があるなら、王国ごと潰してでも守る」静かに、だが一国を動かす重みで、彼は告げた。リリウスは、短く息を呑んだ後、わずかに首を横に振る。「……兄上、それは、なりません」空気が凍りついたように感じられた。「もしそれで戦が起きれば……血を流すのは民です。それが、僕のせいだなんて……」その声には、震えも曇りもなかった。だが、はっきりとした“拒絶”の意志がこもっていた。もとより、リリウスがこの国に戻ること自体が、戦の火種になり得る。それ以上を──国家間の対立をさらに煽るようなことは、絶対に避けたかった。「僕は、ただ守られるだけの存在でいたくない。もし僕の選択が誰かを傷つけるなら……別の方法を探します」アウレリウスはしばし沈黙した。その後、誰にも読めぬ微笑を浮かべて頷く。「ならばその意志ごと、我が王権で守ろう。リリウス=クラウディア。お前の願いがこの国にとっての正しさであるなら、それを
夜が白み始めた頃、リリウスたちは霧の濃い山道を走っていた。前夜、尾根に王国軍の紋章が現れたその瞬間から、一行は休まず移動を続けている。カイルの判断は早かった。「包囲される前に、北東の旧国境門を抜ける」──それが唯一の脱出路だと告げられたとき、誰も反対の声を上げなかった。「……この先が、国境門か」クラウディアの術士が静かに頷いた。「ただし、結界門は形式上“王家の正当な証明”がなければ開きません」その言葉に、リリウスの足が一瞬だけ止まる。だが、すぐにカイルが懐から一通の封書を差し出した。「それも計算のうちだ。これは神王陛下からの信任状──殿下を保護対象として迎える準備は、すでに整っている」封蝋には、クラウディア王家の印が刻まれていた。「……兄上が……」リリウスの唇が震える。けれどその頬には、もう涙の気配はなかった。信じたいと思える人が、今は確かに存在する。その温度を胸に抱いたまま、彼は顔を上げる。夜が明ける。──その一歩を、確かに踏み出すように。やがて一行は、夜の余韻を背に受けながら、国境の地へと歩みを進めていった。クラウディアとアルヴァレス、その国境線に存在する結界門。魔術文明の黎明期に築かれた古代術式が今なお稼働しており、王家の正統な血と権威によってしか開かない。「ここが……」リリウスが息を飲んで立ち尽くす。朝霧の中、門はまるで巨大な神の眼のように不動の存在感を放っていた。霧の中に浮かぶ術式の紋が、彼の存在に呼応するようにわずかに光を帯びる。「王家の門だ。君の帰還を待っている」カイルの声は冷静だが、足取りには隠せない緊張がにじんでいた。セロは馬から降り、手綱をカイルに預けながら言った。「問題は……陽動が必要な場合です。門が完全に開く前に、王国軍が察知して追ってくる可能性がある」「結界門は人格を持っています。術式に触れる王族の意志を試すと言われております」クラウディアから同行していた使者──王家直属の術官が告げる。「試される……?」リリウスが門へと歩みを進めると、微かに空気が震えた。『──汝は何者か』結界門に刻まれた術式が淡く輝き、まるで誰かの声が響くように、その問いが空間に放たれた。リリウスは立ち止まり、深く息を吸った。「……僕は、リリウス=クラウディア。クラウディア王家の血を引く者であり、自らの
未明の山岳地帯。夜がまだ完全には明けきらぬ空の下、クラウディアとヴァルドの合同部隊は静かに動いていた。進行ルートは、王国と連邦の間に横たわる険しい山道。だが、単なる地形的な難所ではない。そこには、王国が過去に設置した魔力障壁が未だ残されていた。「術式の分析には時間がかかります。ですが、殿下の魔力なら……」クラウディア側の術士が慎重に結界を調べながら言う。リリウスは、障壁に指先をかざした。微かな振動──それは、拒絶ではなく、共鳴の予兆だった。「触れてみます」リリウスが静かに結界に手を当てると、術式の幾何学模様が淡く光を帯びる。王国の術式に使われている基本構造は、クラウディア式とも近しい部分がある。だが、そこに込められた“意図”が違う。これは、通さないための結界──恐れと支配の結界。「……消えるか、こんなもの」その言葉とともに、リリウスの魔力が流れ出す。感応の力が術式を塗り替え、障壁の輝きが静かにほどけていく。「……開いた」術士たちの声が上がり、部隊は静かに再始動した。道の途中、リリウスとカイルは岩陰で小さな休息を取っていた。「魔力の制御、安定してきたな」「はい……まだ、封印の痕は残ってますけど。今は、自分の魔力を“使っている”という感覚があります」カイルは少しだけ笑う。「変わったな、君は」リリウスは、その横顔を見て、ふと目を伏せた。「……カイル様は、最初から変わらない気がします」「そうか?」「強くて、冷静で。でも……僕を拾った時も、今も、優しい」それは、今まで誰にも言えなかった本音だった。「僕、最初はあなたのこと、怖かったんです」「よく言われる」思わず噴き出したリリウスの笑い声に、カイルが目を細めた。「でも今は……怖くない。むしろ、安心するんです。あなたがそばにいると」短い沈黙のあと、リリウスがふと、カイルの肩に額を預けるように身を寄せた。「僕……あなたに、会えてよかった」カイルはしばらく言葉を探すように沈黙して、やがて小さく呟いた。「……こちらこそ、だ」その言葉に、リリウスの目が僅かに潤む。だが、その涙は流れなかった。いま、この瞬間だけは、弱さではなく“証”として胸に刻まれていた。再び歩み始めた一行。だが、遠くの尾根に翻る軍旗を、真っ先に見つけたのはリリウスだった。──アルヴァレス王国の
クラウディア王国北部の密林地帯に設けられた、仮設の作戦本部──その一室で、リリウスは重厚な魔術障壁の前に立っていた。「ここが……密使の接続拠点?」隣に立つカイルが静かに頷く。「クラウディアとヴァルド。双方の安全回線だ。王命による使節団が合流している」魔力障壁の奥には、すでに数名の術者と護衛兵が揃っていた。その中央に、クラウディア王家直属の使節──王族外交官シルヴァが立っている。「リリウス殿下。このたびのご決断、クラウディアとしても全面的に支援いたします」「……ありがとうございます」リリウスは帽子を取り、深く頭を下げた。その仕草に、かつての王宮にいた面影がよぎる。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった意志が宿っていた。「正式に、クラウディア王国への保護申請を提出します。……これは僕の意思です」「了解しました。すでに神王陛下からの承認も得ております。これより、本国への転送手続きを開始します」その場にいた全員が静かに頷いた瞬間だった。──アルヴァレス王国、戴冠前式の前倒しが宣言されたのは。同時刻、アルヴァレスの王都。白石の塔が聳える王宮の高殿では、使者による“勅令”が読み上げられていた。「……よって、皇太子レオン殿下は、正式戴冠前式を三日後に執り行う。諸侯貴族、これに列席すべし」予告なしの発表だった。しかも王都外に出ていた重臣の一部には、未だ通知が届いていないという混乱ぶり。だがレオンは、いつになく落ち着いた面持ちで玉座に腰掛けていた。「まさか、保護申請を選ぶとはな……」その声は低く、しかし怒気よりも焦燥に近い色を孕んでいる。「リリウス、お前は“道具”のままでいればよかった」戴冠式を前倒すという決断。それは、ただのパフォーマンスではない。──今この瞬間、皇太子としての“支配構造”を確定させるための既成事実。王国におけるΩの立場は低く、リリウスのような感応者は特異な存在だった。それを「正妻」として迎えるという行為すら、レオンにとっては“義務”に過ぎなかった。だが、国際的にそのΩが「虐げられていた」と認知されれば──それはレオンという皇太子の失政として、国内外に波及する。(“保護”された被害者など、存在してはならない)レオンが恐れたのは、リリウス個人ではない。あの存在が“弱者の象徴”として立ち上がり、己の支配体系
朝靄の中、リリウスは簡素な外套を羽織り、ひとり城下の街路に立っていた。変装とは言っても、大げさなものではない。帽子を深く被り、視線を下げる。それだけで、誰も気づかない。誰も、自分を“特別”な目では見ない──それが、奇妙な安堵でもあり、不安でもあった。「……これが、街か」何年ぶりだろう。王宮の高い塀の外。リリウスにとって、それは異国のような空間だった。朝市の匂い、乾いた石畳に響く靴音。人々のざわめきが、ゆるやかに風に乗って流れてくる。近くの路地では子供たちが駆け回り、遠くでは商人の声が飛び交っていた。すぐ近くの屋台裏で、二人の若い男女が話しているのが耳に入った。「聞いた? また婚約破棄だって。王太子様、何人目よ」「なにそれ本当? 相手、クラウディアの姫君じゃなかった?」思わず、リリウスは足を止めた。「うちの親が言ってた。なんか、向こうの姫様って“呪い”があるとかなんとか……昔から縁談が続かないとかで、幽閉されてたとか……」「こわ……でも王太子様もすごいよね、そんなの受け入れてさ」「まぁ、政略結婚でしょ? ほら、噂だと“あっち側”って話もあったじゃない? 体は男だけど、女の役目で生まれてきたって──」軽く笑いが交わされる。嘲るような、それでいて無関心な調子の笑い。リリウスは、足元が崩れるような感覚を覚えた。(……これが、僕という存在か)名前すら正しく知られない。クラウディアの「姫」、呪われた存在、婚約破棄の原因、そして「体の性と役目が違う者」。全てが間違ってはいない。けれど、どれも“自分”じゃなかった。そこにあったのは、憶測と偏見の寄せ集め。真実のかけらをつまんで、噂話に味付けしただけの、人々の“娯楽”だった。(僕は……ただ、誰かのために、生きたかっただけなのに)少しだけ、肩が震えた。それでも、顔を上げる。石畳の街並み。そこにいる人々は、誰一人として、自分に気づかない。それが悔しかった。これほど多くの人間が、自分の存在を“ただの逸話”として語っていることが、たまらなく虚しかった。それと同時に、どこかで──(……これが、この国の現実なんだ)王宮の中だけにいた頃には見えなかったもの。市井の声は、時に容赦なく、時に無関心で、けれど決して“悪意だけ”ではないということも、皮膚の下に沁みてわかった。もしこのまま沈黙を選べ
王国からの公式通達は、冷たい文面で届いた。──リリウス・クラウディア殿下の奪還行為は条約違反に相当する。──当該行為が実行された場合、王国は武力をもって応じる用意がある。その簡潔な文書は、クラウディア王宮の会議室に重く落とされた。「……笑えもしない文面だな?」神王アウレリウスが文を一読し、低く呟く。会議の列席者たちは沈黙し、目配せを交わす。「陛下、恐れながら。この件に関しては、慎重に扱うべきだと思います」最初に口を開いたのは老臣の一人だった。「リリウス殿下は王家の一員であるとはいえ、王国との直接衝突はクラウディアにとっても危機となる。まずは交渉の場を設け、可能な限り穏便に──」「それで、あの子は戻ってくるのか?」アウレリウスの声は鋭く、しかし抑制されていた。「……奴らはリリウスに何をしてきた。あれを“返す”つもりがあるなら、なぜあのような声明を送ってくる」「ですが、神王陛下。軍を動かせば、国際的な非難は避けられません」「非難を受けて、王家の者一人も救えぬ国だと笑われる方が恥だ。だからこそ、あの国に送りたくなかったものを……」強い言葉に、会議室が再び沈黙する。だがその刹那──「失礼します。魔術通信回線が。使節団、マリアン様から強制割込みです」護衛兵の報告と共に、部屋の一角に淡い魔術光が灯った。そこには、整った軍服姿のマリアンが映し出されていた。「マリアン……?」アウレリウスがわずかに目を細める。「神王陛下、会議に割り込む非礼は承知しています。ただ──時間がない。リリウス様は、危ういです」静かな語調だったが、その言葉には切実な焦りが滲んでいた。「アルヴァレス使節団の立場上、外交的な均衡は保ってきました。しかし、内部から見ていて分かるのです。王国は、次の“処分”に向けて、動き出している」「処分……だと」「名目は“保護”のはずだった。ですが今や、監禁、封印、そして隔離。あの方は、何一つ間違ったことをしていない。……ただ、そこに生まれたというだけで」その場の空気が、明らかに変わる。マリアンは一呼吸置いて、続けた。「お願いです。今ここで手を引いたら、リリウス様は壊れます。私たちが守らなければ、もうあの方には戻る場所がない。……どうか、お願いします。陛下」魔術光の中、マリアンの姿が揺れる。通信の限界だ。アウレリウスは黙