ANMELDEN床に落ちた刃が動きを止めた。レイラはドアノブを握ったまま、男の顔をうかがった。
黒い毛皮のマントからのぞく顎の線は、記憶の中と変わらなかった。左頬の傷痕だけが見覚えのないものだった。手を伸ばせば届く距離にいるのに、うかつには近づけなかった。
皇宮の廊下でも、似た後ろ姿を見かけて足を止めたことがあった。そのたびに、振り向いたのは別の顔だった。今度も先に名前を呼んでしまったあとで、人違いだと告げられるのが怖かった。
レイラは男が取り落とした短剣に目を落とした。
銀の薔薇が刻まれた短剣。その紋様を自分が見抜いたことよりも、彼が自分の声を聞いて刃を手放したという事実のほうが、信じがたかった。
3年前、屋敷を覆っていた煙が脳裏によみがえった。
『お嬢様、どうか生き延びて、国境をお越しください!』
背後から聞こえたその言葉を最後に、レイラは彼の生死を知らずにいた。戻って確かめることもできなかった。長いあいだ思い出すまいとしてきた顔に、今、格子窓からの月明かりが差していた。
口の中が渇き、名前がすぐには出てこなかった。レイラはドアノブから手を離し、今度は彼の目を見て呼びかけた。
「ケイラン卿」
男の体がびくりと震えた。何か言おうと口を開いたが、最初は荒い息が漏れただけだった。ほんのひと言の返事を待つあいだ、レイラは、これまで自分を支え続けてきた逃亡への思いを一瞬忘れた。
「そのお声……まさか……」
レイラは古いリネンの頭巾を取った。隠れていた灰色の髪が肩へと流れ落ちる。ケイランはその髪と緑の瞳を交互に見つめた。
「お……お嬢様……?」
彼は膝をついた。床についた手の甲に筋が浮かんだ。顔を上げかけてはまた伏せることを繰り返し、ついにこらえていた嗚咽を漏らした。
「本当に……公爵家のお嬢様なのですか? 生きて……生きておいでだったのですか?」
レイラは男の顔をじっくりと見つめた。傷痕が走る場所にも、覚えている面影が残っていた。一度名前を呼んだだけで信じてはいけないと思いながらも、ひざまずいた彼の肩を見ていると、長く胸の奥にしまい込んでいた呼び名が口の中によみがえった。
皇宮では、誰も自分をお嬢様とは呼ばなかった。その言葉を聞いた瞬間、侍女の頭巾の下に隠してきた顔が、すべてあらわになった気がした。うれしさに声を上げて外へ漏れてはならない。レイラは口を閉じ、先に手を伸ばした。彼の肩に触れて、ようやく生きた人間の体温が伝わってきた。
「ケイラン、立ってください。お願い、声を落として」
レイラはあわてて彼の肩をつかみ、立ち上がらせた。
「どうして……どうしてあなたが、闇市場の『灰色の鴉』の主になったのですか?」
ケイランは手の甲で目元をぬぐった。話そうとして声が詰まり、一度口を閉じた。
「あの夜、死体を投げ込まれた穴から、かろうじて這い出しました。一族の仇を討ち、お嬢様をお捜しするため、裏社会を渡り歩くうちに……皇宮の鼠どもが使う密輸経路を押さえるに至ったのです」
彼の視線が、レイラのみすぼらしい侍女服をたどった。首筋に残る赤い手の痕を見ると、その表情がこわばった。
「お嬢様が、どうして皇宮の寝所などに? 皇帝が侍女を一人、恋人にしたという噂は耳にしましたが……その女性がお嬢様だったのですか?」
ケイランの目に怒りと苦痛が満ちた。
「あの人殺しの暴君がお嬢様を脅したのですか? 今夜、すぐにでも脱出なさるべきです! この命に代えても、皇宮の外までお連れいたします!」
「落ち着いて、ケイラン」
レイラの声は氷のように静かだった。
「カリクスは、私が誰なのか知りません。呪毒のせいで記憶が入り乱れているようなのです。私を昔の恋人だと思っています」
「人違いを……?」
「その思い違いのおかげで、今まで生き延びて、逃げるための資金も集められました」
レイラは懐から革袋を取り出し、中身を広げた。無色のダイヤモンドが3粒と、帝国中央銀行の無記名金券が10枚。金券だけで1,000万リュートあった。
ケイランは金券を確かめると、宝石とともに袋へ戻し、彼女に返した。国境を越えたあと、新たな暮らしを始めるための元手だった。
「南部自由都市連合へ行くための身分証を2枚と、馬車が必要です。検問所を通過できるように、手配してください」
「お嬢様……」
「皇帝の記憶が戻れば、私は断頭台に送られます。もう時間がありません」
ケイランは拳を固く握り締めた。
「身分証は2日あれば万全に用意できます。3日後の真夜中、皇宮の外へ出る干し草の補給馬車にお隠れください。私が直接、国境の向こうまでお守りいたします」
「ありがとう、ケイラン」
レイラは胸の内で日付を確かめた。3日後の真夜中。それまでは、恋人のふりをして耐え抜かなければならなかった。
そのとき、ケイランは懐から、黒く焦げた古い手紙を1通取り出した。
「それから……お嬢様。一族が滅ぼされた夜の秘密がわかりました」
「秘密とは?」
「エステル公爵家に反逆の濡れ衣を着せ、偽造した書簡を皇帝に差し出したのは……当時皇太子だったカリクスではありません」
手紙を受け取ろうとしたレイラの手が止まった。
「皇太后とヘッセン侯爵の一派です。公爵家を粛清することで皇太子の力を削ぎ、傀儡として操ろうとしたのです」
レイラは焦げた手紙を見た。
カリクスが振るった剣の背後には、濡れ衣をでっち上げて差し出した別の人間たちがいた。家族に何が起きたのか、自分はまだすべてを知らなかった。
だが今は、復讐を考えている場合ではなかった。
今すぐ手紙を開きたかった。父の死の背後に、別の者の名が浮かぶ手紙ならば、古く焦げていても、一行たりとも見逃したくなかった。しかし、文字を一つずつたどって読む時間はない。レイラは扉の隙間の向こうに広がる闇に目をやってから、再びケイランに目を向けた。
カリクスが自ら濡れ衣を作ったわけではないと聞かされても、彼を恐れずに済むわけではなかった。彼の握った剣が家族を殺し、今の自分の命も彼の思い違い一つにかかっている。彼女は胸に湧いた疑問を、ひとまず押しとどめた。あの日の出来事を問いただすより先に、この倉庫から無事に戻らなければならなかった。
「わかりました。その真実を明かすのは、生き延びてからでも遅くありません。3日後の真夜中、ここでまた会いましょう」
レイラは身分証の手配を改めて確認し、闇の中に身を隠した。
頭巾をかぶり直すと、慣れ親しんだ粗い布が額を押さえた。ケイランを残して背を向けるのは容易ではなかった。生きていることをもっと確かめたかったが、彼を長く見つめるほど、戻らなければという決意が揺らいだ。
***
帰る途中、レイラは薬材室へ回った。万一外出を問い詰められたときのために、口実が必要だった。侍医が毎晩求めていた銀青草の保管場所は知っていた。鍵のかかった扉を石で壊す際に指を傷つけたが、痛みを確かめる余裕はなかった。
薄荷の香りがする葉を毛織りの袋に入れ、寝殿へ戻った。薬草はすぐに取り出せる場所に、金券は別にしてスカートの裾の内側に隠した。胸元が膨らんでいないか最後に手で押さえ、衛兵の目を避けて扉へ近づいた。
幸い、見つからなかった。
身分証を受け取る約束は取りつけたし、金券も無事に手元にある。3日後の真夜中まで耐えられるだろうか。レイラは頭巾を深くかぶり直し、寝殿の扉を押した。
ギィ……。
明かりの消えた部屋から、血の臭いがした。レイラはドアノブから手を離せないまま、目が闇に慣れるのを待った。
レイラの視線が寝台へ向かった。
空だった。
シーツはずたずたに裂かれて床に散らばり、銀の水盤はひしゃげて血水をこぼしていた。
バタン!
背後の扉が固く閉ざされた。
「……どこへ行っていた」
扉のすぐ脇から聞こえた声だった。
レイラはドアノブを探していた手を止めた。皇帝がそこに立っているとは気づかなかった。
ゆっくり振り向くと、カリクスがいた。彼は裸足で大理石の床に立っていた。握った長剣から血の滴が落ちていた。
「レイラ」
カリクスが近づいてきた。レイラは剣とドアノブの間で視線を動かした。扉を開け直す隙はなかった。
彼の力強い手が、砕かんばかりにレイラの顎をつかみ、その体を壁へ叩きつけた。
ドン!
「へ、陛下……うっ!」
カリクスの赤い瞳の奥で殺気が渦巻いた。
「朕が眠っているあいだ……この夜更けに、一人でどこへ行っていたのだ?」
荒い息が、レイラの冷えた頬を焼くようにかかった。
「朕を置いて……よもや朕を捨てて逃げようとしたのか?」
逃げ道の一つも残さない、殺人鬼の冷たい追及。
レイラのスカートの裾の内側で、金券を入れた革袋が脚に触れた。
「その石に血を落とせ」暴君の冷たい剣先が、レイラの白い指先をじりじりと押した。数百人の貴族たちは息さえできず、壇上を見つめていた。「なぜためらう、妖婦め!」ガラスの破片の間で血まみれになった皇太后が叫んだ。「偽物だとばれるのが怖くて震えている姿を見ろ!」「黙れ」カリクスは剣を握る手に力を込めた。皇太后は退かず、貴族たちへ鑑別石を掲げて見せた。「本物の公女なら、一滴で済むことをなぜできない!」「血を見せろ! そうすれば認めよう!」仮面の向こうから誰かが叫んだ。レイラは声のした方を見た。少し前、勅令に従うとひざまずいた者たちの席だった。皇帝の脅しが止むと、彼らは再び条件をつけ始めた。レイラはカリクスへ顎を上げた。「陛下は、私の潔白を証明なさりたいのですか?」「そうだ」「指を切れば、私の話も聞いてくださいますか?」「まずは奴らの疑いを鎮めればよい」「陛下ご自身に残る疑いは?」カリクスは唇を閉ざした。レイラは震える手を隠さなかった。石が反応することはわかっている。その光を見た後も、自分の命を握る者が何と答えるかを知りたかった。「私がなぜこの宮殿へ入ったのかも、いずれお尋ねになるでしょう。そのときは皇太后ではなく、私の話を聞いてください」彼は剣を収めなかった。レイラは答えを待つ視線を伏せた。レイラは冷ややかに口元を持ち上げた。「喜んで血を捧げます。陛下、最後まで見届けてください」「レイラ……」「ご覧ください。私の
黄金のシャンデリアの下、仮面をつけた帝国貴族数百人が並んでいた。仮面の奥で光る眼差しは、薄氷のように冷たい。「今夜、あの女にエステルの領地を渡すそうだな」「すでに勅令が出た。返還名簿に署名するよう使者が来たぞ」「命令に従うことと、血筋を認めることは別だ。寝所付きの侍女を皇后にまで据えるとはな」「声を落とせ。騎兵隊に聞かれるぞ」黒狼騎兵隊が近づくと、仮面の奥の囁きは途切れた。返さねばならない土地と、迫る国婚について話していた貴族たちは、入口へ体を向けた。プオオオッ!皇室の黄金のラッパが、広間を切り裂くように鳴り響いた。「帝国の太陽にしてルクセンベルクの支配者、カリクス・フォン・ルクセンベルク皇帝陛下。そしてエステル公爵位の全権継承者、レイラ・エステル公女殿下のご入場です!」侍従長の声とともに、重厚な黄金の扉が大きく開いた。カリクスはレイラの腰を荒々しく抱き寄せたまま、玉座の壇上へ上がった。シャリン!カリクスは剣の柄を軽く叩き、貴族たちを見下ろした。「聞け、帝国の貴族ども」カリクスの低く乾いた声が、貴族たちの息の根を締めつけた。「今夜、エステル家の名誉を侮辱する者は、この場で即刻斬首し、柱に吊るす」「……」「異議のある者は、今すぐ前へ出ろ」誰一人、前へ出る者はいなかった。「いないのなら、公女の言葉に耳を傾けよ」レイラはゆっくり一歩前へ出た。仮面の下からのぞく翡翠色の瞳
「昨夜、誰と密談していた?」レイラは息を止めた。カリクスの問いは、先ほどヴァレンに下した命令よりも前の夜へ向けられていた。袖の中の水晶玉が手首に触れた。彼が腕を緩めて正面へ回ると、レイラは主催権の札が置かれた机に手をついた。彼と目を合わせるには顔を上げなければならなかった。「……陛下」「答えろ、レイラ」カリクスは抜いた剣で、足元の大理石を軽く叩いた。「夜に通信を交わした相手は誰だ?」「舞踏会の安全を確認するために連絡した相手です」「朕のための者か?」カリクスの目元が残酷に歪んだ。「よくも朕の寝室で、見知らぬ男と念話を交わしておきながら、朕のためだと言い繕うのか?」「言い繕ってなどおりません」レイラはためらわずカリクスへ一歩近づいた。「明日の夜に開かれる血の仮面舞踏会、その安全を確認していたのです」「舞踏会の安全だと?」「エステル家に仕えていた旧臣たちを通じて、皇都郊外の不穏な勢力の動きを調べていました」「不穏な勢力とは誰のことだ?」「皇太后の残党とヘッセン家の陰謀が、皇宮の内部へ入り込んでいるという情報を得ました」「皇太后の残党が、よくも朕の宮殿を狙うものだ」「奴らは陛下のお体を害し、政変を起こす機会をうかがっています」「ならば朕の騎兵隊に知らせればよかった」「ですからヴァレン卿を呼びました。本隊を動かせば気づかれるので、別動隊だけを出してほしいと頼んだのです」カリクスは机の上の札を見た。レイラは彼の視線を追い、手を少し動かした。「陛下が舞踏会の警備についても尋ねろとおっしゃったではありませんか。お任せいただいた仕事を確認しただけです」「それで朕より先に命令を下したのか?」「今、ご報告しています。ヴァレン卿が戻ったら、私が聞いた情報が正しかったかどうかも確認してください」「本当に……それがお前の本心なのか?」「私が持ち込んだ情報から確かめてください」レイラはひざまずいた。彼のズボンの裾をつかむ代わりに、指輪が見えるよう両手を膝の上に置いた。「ヴァレン卿が隠れ家を捜索しています。何を見つけて戻るのかまで聞いても、遅くはありません」レイラは掌の汗を衣服に押しつけて拭いた。膝の上の指輪を見る彼の視線が、剣へ戻らないことを願いながら待った。スッ。長剣が鞘へ収まった。カリクスはレイラを一息に立ち上がらせた。
『公女様! 今すぐ脱出なさらなければなりません!』水晶玉の向こうから聞こえるバロンの声は、かすかに震えていた。「鑑別石が皇太后側へ渡ったのは確かなのですか?」『宝物庫から消えたことまでは確認しました。奴らは明日の夜、舞踏会へ持ち込むつもりです』レイラは眠るカリクスの肩を見下ろした。石に血を落とすことは怖くない。その光を見た後、彼が何を尋ねるかが怖かった。「血統が確認されれば、仇の娘がなぜ恋人のふりをしたのかと問われるでしょうね」『石は公女様のお心まで証明してはくれません。その問いを皇太后に先に口にさせてはなりません』「それなら、鑑別石を取り戻すだけでは終わりませんね」『そのとおりです! 明日の夜では遅すぎます! 今夜、黒狼騎兵隊の目を逃れて脱出なさらなければ!』「逃げることはできません、バロン卿」『公女様! 命が危ういのです!』「私の人差し指にはめられた指輪をお忘れですか?」レイラは赤黒い黒曜石の指輪を見下ろした。「私を監視する兵がついています。皇宮を出る前に追いつかれるでしょう」『ですが舞踏会では、公女様が説明する前に皇太后が復讐の話を持ち出すはずです!』「それなら、会場へ届く前に奪えばいいのです」『奪うとは? 暗殺隊をどうやって止めるおつもりですか!』「鑑別石の移送経路はわかっていますか?」『西部郊外の廃れた風車小屋へ向かっているとの情報を得ました!』「皇太后宮の秘密の隠れ家ですね」『はい! 奴らはそこへ鑑別石を隠し、舞踏会当日に持ち込む計画です!』「それなら、まだ皇宮の外縁を離れていないでしょう」『しかし、我が一族の残党だけでは、影の鴉の精鋭を突破するのは困難です!』「私たちが直接突破する必要はありません」『え? それはどういう意味ですか?』「カリクスが私に握らせた剣を使うのです」レイラの視線が、脇卓の上に置かれた主催権の札へ向いた。『血の仮面舞踏会』の最高主催権を示す札。そして人差し指の黒曜石の指輪。「帝国で最も獰猛な猟犬たちを放つのです」『まさか……皇帝の親衛隊を動かすおつもりですか?』「舞踏会を任されたのですから、警備について尋ねることはできます。それに、この指輪で兵を呼びます」『近衛隊長ヴァレンが素直に従うでしょうか?』「彼が確認しなければならないことを、先に提示します」『公女様、どう
カリクスは壁から剣を引き抜き、刃を返した。切っ先がヴァレンの首筋をかすめると、彼はレイラから一歩退いた。「死にたいようだな、ヴァレン」「へ、陛下……!」ヴァレンの顔から血の気が引いた。「よくも朕の恋人をつかみ、体を調べようとしたな?」「も、申し訳ございません! 私はただ、侍医室の周辺をうろつく者を……!」「それが貴様の舌を動かす理由になると思うのか?」「お助けください! 国法に従い、非常警戒令を遂行していただけです!」「朕の言葉こそが国法であり、朕の恋人の歩みこそが法度だ」カリクスは長剣の切っ先で、ヴァレンの額をじりじりと押した。「誰が貴様にそんな権限を与えた? ヘッセンの残党か、それとも地下牢の皇太后か?」「違います! ただ皇室の安泰のため、忠誠を尽くしただけです!」「袖に手をかけようとしたのか。次は貴様の腕が先に斬り落とされるぞ」ヴァレンは額を床につけた。レイラは彼の首筋から流れた血を見た。皇帝は自分を守るために剣を振るっていたが、忘却草が見つからなかったという安堵まで無視することはできなかった。「朕の恋人が薬を求めたら、侍医へ伝えろ。貴様の判断で引き止めるな」カリクスはレイラの肩を抱き、乱暴に胸元へ引き寄せた。「行くぞ、レイラ。こんな虫けらどもと一緒にいる場所ではない」「……はい、陛下」レイラは息を潜め、カリクスに導かれて歩き出した。***深夜、皇帝の寝殿。重い黄金の扉が閉まると、カリクスはレイラを寝台の上へそっと座らせた。「手が氷のように冷たい。なぜこんなに冷えている?」カリクスはレイラの両手を自分の手で包み、息を吹きかけた。「寝殿へ戻る途中、風が冷たかったのです」「ヴァレンのせいで、まだ驚いているのか?」「……陛下」「なぜ朕に知らせず、一人で侍医室へ向かった?」「それは……」「朕の頭痛のために薬湯を取りに行ったのではないのか?」「……え?」レイラは呆然と目を瞬いた。カリクスは薄く微笑み、レイラの頬を撫でた。「侍医室の侍従が言っていた。お前は朕の呪毒を和らげる鎮痛薬を探していたそうだな」「あ……」「次からは侍従に言え。薬室まで下りる必要はない」「自分の手で用意したかったのです」レイラは彼の手に捕らわれた自分の手を見下ろした。今日も薬室へ入った理由を先に選んでくれたのはカリクスだった。
「北部要塞の反乱軍残党3,000人を、全員さらし首にしろ」黄金の謁見の間に響き渡る、冷酷な勅命。玉座にもたれたカリクスは、冷たい目で軍団長たちを見下ろした。「降伏を願い出た者どもの命乞いに来たのか、軍団長?」「陛下、北部の貴族300家が武器を捨て、慈悲を求めております!」「慈悲?」カリクスの唇が残酷に歪んだ。「反逆者に与える慈悲などない」「陛下、彼らを皆斬り捨てれば、北部国境の防壁を支える領主たちが……!」「黙れ! 朕の意に背く者は、その場で斬首せよと命じたはずだ」「どうかご再考ください、陛下!」「投降した者も例外ではない。首謀者の首は城壁に掲げ、加担した貴族の領地はすべて没収し、皇室直轄領に編入しろ」「御意! 皇帝陛下の命をお受けいたします!」赤いマントをまとった軍団長たちが、一斉に床へ額を打ちつけた。帳の後ろにいたレイラは、人差し指の黒曜石の指輪に触れた。昨夜、自分の名を呼びながらすがりついていた男が、今は投降者たちの命を奪えと命じている。その間に別人になったわけではないはずだった。侍医が告げた精製完了まで、あと2日。レイラは床に頭を垂れる軍団長たちを見た。薬を遅らせようとして発覚すれば、自分だけでなく調合室の者たちにも、あの命令が下されるかもしれない。何に手を出しても他人の命に触れてしまうことが、もどかしかった。***正午を過ぎ、政務が一段落した頃。レイラは領地の書類を確認すると告げて寝殿を出た。侍医室へ道を変えてからは、皇帝の頭痛に使う茶を求めに来たと言った。扉を守る衛兵は、人差し指の黒曜石の指輪を確かめて道を開けた。指輪は、すべての質問まで防いでくれるわけではなかった。背後で出入りの時刻を記録する音がした。レイラは聞こえないふりをして地下の調合室へ下りた。侍医たちが薬材を取りに席を外した隙に、青銅の薬釜のそばにある調合日誌を開いた。・第一段階の調合:浄化草の抽出液、完了。・第二段階の調合:氷霊水の蒸留、完了。・最終段階:2日後に精製完了予定。(2日後に精製完了……)レイラの心臓が激しく打った。そのとき、調合室の奥にある秘密の薬材搬入通路から、かすかな金属音が響いた。トン、トントン、トン。一族の暗号だった。レイラは息を潜め、薬材倉庫の角へ近づいた。みすぼらしい薬草商の服を着た男が、荒い息をつきながら







