ANMELDENぱさり。
燃え残った小さな羊皮紙の切れ端が、レイラの指先で崩れた。
(今夜の真夜中、第3密輸水路倉庫)
レイラは灰のついた指先を払った。倉庫の場所と約束の時刻を思い返した。脅迫状を消しても、真夜中までに行かなければならないという条件は残った。
皇宮の秘密の通路を牛耳る闇市場の商会、『灰色の鴉』。
彼らはギレンを通じ、皇帝の恋人が皇宮を離れようとしていることと、金券の枚数を知った。名前まで突き止めているかは、会ってみなければわからなかった。
「レイラ様、皇室の宝物庫より届いた下賜品の目録でございます」
侍女長が腰をかがめ、金色の羊皮紙の書類を差し出した。
寝殿の前庭には、螺鈿細工の箱が60個、ずらりと並んでいた。
南海の大粒の黒真珠の首飾り、銀糸で織ったドレス、そして血よりも赤いルビーのティアラ。
数日前にヘッセン侯爵家の家臣を踏みにじったカリクスが、今日、正式に専属の愛妾に任じたレイラへ惜しげもなく贈った品々だった。
「すべて倉庫へしまっておいて」
レイラは目もくれず、低く答えた。
その視線は、窓の外の鎧姿の近衛兵たちに向いていた。カリクスは彼女を守ると言って、護衛の騎士を2倍に増やした。警備が交代するときも、誰かが寝殿の扉の前に残っていた。
(真夜中には出なければ)
レイラは巡回日誌の内容を思い返した。交代時刻、北の回廊から西側の水路へ続く道には、15分の隙があった。その間に回廊を抜けなくてはならない。帰り道は、巡回が通り過ぎてから改めて様子を見る必要があった。
窓の外で、鎧のぶつかり合う音がした。レイラは音が遠ざかる方向を目で追った。巡回日誌の隙を知っていることと、実際にその道を歩くことは違った。戻るまでの時間を残さなければならず、途中で見つかっても、来た道を駆け戻るわけにはいかなかった。
彼女はソファの布地に爪を押しつけた。約束の倉庫に行けたとしても、相手に金だけ奪われればそれまでだ。しかし脅迫状を受け取った今、行かない場合の危険も同じくらいはっきりしていた。皇帝が政務を終える前に、表情を整えなければ。逃げようとしているのを顔に出したまま、彼を迎えるわけにはいかなかった。
そのときだった。
どん、どん、どん!
寝殿の応接室の真鍮の扉が、荒々しく鳴った。
皇帝の黙認すら得ずには近づけない一角に、無遠慮な足音が押し寄せた。
「皇太后陛下による、後宮府の監察勅令である! 扉を開けよ!」
鋭く甲高い声が、廊下を切り裂いた。
真っ青になった侍女たちが扉を開けると、紫の絹衣をまとった年老いた女官が、傲慢に顎を上げて入ってきた。
皇太后の腹心であり、後宮府筆頭女官のベルタだった。
その背後には、皇太后宮の私兵10人が、光る槍を手に整列した。
「皇帝陛下がご快癒なさらぬのをよいことに、素性の知れぬ下賤な侍女が国庫を浪費し、皇室の規律を乱しているとの訴えがあった」
上級女官ベルタが、鋭い眼差しでレイラをにらみつけた。
「直ちに妖婦の衣を剥ぎ、後宮府の地下牢へ連行せよ。皇太后陛下が自ら取り調べるとのご命令だ!」
侍女たちは悲鳴をのみ込み、後ずさった。
ヘッセン侯爵家と結託する皇太后の一派が、皇帝が政務で席を外した隙を突き、襲いかかってきたのだ。
それでもレイラは、ソファから立ち上がりもしなかった。
優雅にティーカップを置き、緑の目でベルタを見上げた。
「皇太后陛下の女官であれば、国法など軽んじてよいとお考えのようですね」
「何だと? この不届き者が、何をぬかす!」
「皇室法典、第4条第2項」
レイラの口から、淀みなく条文が流れ出した。
「『皇帝の寝殿およびその付属応接室は、皇帝1人の絶対主権が及ぶ領域である。皇帝直筆の許可を持たぬ者の無断侵入は、内乱に準ずる反逆として罰する』」
ベルタの顔が強張った。
「たとえ皇太后陛下の勅令であっても、皇帝直筆の許可状もなく、私兵を連れて寝殿に踏み込んだ時点で、あなたは皇帝を騙り、皇権を簒奪しようとした大逆人です」
レイラはティーカップから手を離し、扉のそばの侍従を見た。
「許可状がないことを近衛隊へ伝えて。私の指輪を見たと付け加えても構わないわ」
ベルタが侍従の方を向いた隙に、レイラは卓を隔てた位置で立ち上がった。条文だけで、この者たちを止められるはずがなかった。皇帝の部下にこの騒ぎが伝わるまで、持ちこたえなければならない。
たかが寝所付きの侍女の口から、皇室の高官でもなければ暗誦しないような法文が飛び出し、女官の瞳が揺れた。
「こ、この女め、よくもその忌々しい舌で……! 今すぐ縛れ! 皇太后陛下のご威光に逆らう女だ!」
ベルタは指を突きつけ、私兵たちに怒鳴った。
私兵たちが鎖を手に近づいてきた。レイラは卓の後ろへ一歩退いた。
そのとき、応接室の壁が轟音とともに崩れた。舞い上がる埃の中から、カリクスが入ってきた。引きずる長剣の切っ先が、大理石をこすった。
「朕の寝殿で吠えているのは誰だ」
「へ、陛下……!」
ベルタと私兵たちが、驚愕して床にひれ伏した。
カリクスの赤い目は、レイラに向けて突き出されたベルタの指だけを見つめていた。
ひゅん――!
剣が宙を切り裂いた。
「きゃあああっ!」
ベルタのスカートの裾が一太刀で裂け、血が飛び散った。
「朕の恋人に、指を突きつけたのか?」
カリクスは剣を収めないまま、ベルタを見下ろした。
「皇太后の犬なら、命が二つあるとでも思っているようだな」
「陛下! お助けください! 皇太后陛下のご命令で……!」
「あの老いぼれ狐に伝えよ」
カリクスは軍靴の爪先でベルタの顎を踏みつけ、蹴り上げた。
「朕の恋人に手を出す者は、皇太后であろうと帝国の貴族であろうと、一人残らず皮を剥いで城壁にさらすとな」
恐怖に怯えたベルタは血を流しながら、這って逃げ出した。
部屋に再び静寂が戻った。
カリクスが服の裾で手を拭いながら近づいてきた。レイラの肩をつかむ指先が震えていた。
「怪我はないか、レイラ」
「朕が……遅くなってすまぬ」
「いいえ、陛下。大丈夫です」
レイラは彼の腕に抱かれ、胸を撫で下ろした。
けれど、内心は焦りに焼かれていた。
皇太后とヘッセン家の刃が、喉元まで迫っていた。
もう猶予はなかった。今夜、必ず逃げ道を確保しなければならない。
背に回された腕が放してくれず、レイラは顔だけを動かして窓を見た。昼の光はまだ残っていた。夜が来るまでにすべきことを考えながら、彼の腕の中では安堵した女の表情を保った。
***
夜も更けた、真夜中。
痛みを鎮める煎じ薬を飲んだカリクスは、深く眠っていた。
レイラは息をも殺し、寝台から抜け出した。
腕を抜くときは、彼の指が掛け布を握り締めないかをまず確かめた。寝台から足を下ろすと、床の冷たさが足の裏を這い上がってきた。レイラは腰をかがめたまま、しばし動きを止めた。眠る男の呼吸が途切れたり、速まったりする気配はなかった。
着慣れた侍女服を取り出しても、心まで以前に戻るわけではなかった。昼には衣服を剥ぎ取れという命令を耳にし、今はその衣服だけが暗闇で顔を隠してくれる。頭巾の結び目を先にほどき、袖を広げた。着替えたら、指先の震えが隠れるほど袖を下ろすつもりだった。
華やかな絹衣を脱いで古びた侍女服に着替え、隠してあったダイヤモンドの裸石3粒と金券10枚を、胸元へしっかりとしまい込んだ。
月明かりが雲に隠れた隙に、彼女は西の庭園の崩れた回廊を、這うように進んだ。
巡回兵が通り過ぎる、ほんの一瞬の死角。
レイラは皇宮の北西の奥深くに隠された、第3密輸水路倉庫の腐った木の扉を押した。
ぎいい――。
埃と黴の臭いに満ちた闇。
冷たい風がうなじをかすめた瞬間、背後からひやりとした刃が顎の下へ食い込んだ。
「動くな」
低く荒れた男の声。
「皇帝の寵姫が、こんな掃き溜めまでお出ましとはな。いい度胸だ」
レイラは息を止めた。刃の触れる顎を強張らせたまま、目だけを横へ動かした。
闇の中から、フードをかぶった大柄な男が姿を現した。
男がフードを払い、冷たい月明かりの下に顔をさらした瞬間。
「……!」
レイラの緑の瞳が、驚愕に染まった。
頬の傷痕の下に、見覚えのある顔があった。顎の下に突きつけられていた短剣には、かつての公爵家騎士団の銀の薔薇が刻まれていた。
3年前、一族が皆殺しにされた夜。彼女を救うため炎の中へ飛び込んだ、エステル公爵家の筆頭護衛騎士。
「……ケイラン卿?」
レイラの震える唇から、信じがたい名がこぼれた。
男の手から、刃がぽとりと落ちた。
「その石に血を落とせ」暴君の冷たい剣先が、レイラの白い指先をじりじりと押した。数百人の貴族たちは息さえできず、壇上を見つめていた。「なぜためらう、妖婦め!」ガラスの破片の間で血まみれになった皇太后が叫んだ。「偽物だとばれるのが怖くて震えている姿を見ろ!」「黙れ」カリクスは剣を握る手に力を込めた。皇太后は退かず、貴族たちへ鑑別石を掲げて見せた。「本物の公女なら、一滴で済むことをなぜできない!」「血を見せろ! そうすれば認めよう!」仮面の向こうから誰かが叫んだ。レイラは声のした方を見た。少し前、勅令に従うとひざまずいた者たちの席だった。皇帝の脅しが止むと、彼らは再び条件をつけ始めた。レイラはカリクスへ顎を上げた。「陛下は、私の潔白を証明なさりたいのですか?」「そうだ」「指を切れば、私の話も聞いてくださいますか?」「まずは奴らの疑いを鎮めればよい」「陛下ご自身に残る疑いは?」カリクスは唇を閉ざした。レイラは震える手を隠さなかった。石が反応することはわかっている。その光を見た後も、自分の命を握る者が何と答えるかを知りたかった。「私がなぜこの宮殿へ入ったのかも、いずれお尋ねになるでしょう。そのときは皇太后ではなく、私の話を聞いてください」彼は剣を収めなかった。レイラは答えを待つ視線を伏せた。レイラは冷ややかに口元を持ち上げた。「喜んで血を捧げます。陛下、最後まで見届けてください」「レイラ……」「ご覧ください。私の
黄金のシャンデリアの下、仮面をつけた帝国貴族数百人が並んでいた。仮面の奥で光る眼差しは、薄氷のように冷たい。「今夜、あの女にエステルの領地を渡すそうだな」「すでに勅令が出た。返還名簿に署名するよう使者が来たぞ」「命令に従うことと、血筋を認めることは別だ。寝所付きの侍女を皇后にまで据えるとはな」「声を落とせ。騎兵隊に聞かれるぞ」黒狼騎兵隊が近づくと、仮面の奥の囁きは途切れた。返さねばならない土地と、迫る国婚について話していた貴族たちは、入口へ体を向けた。プオオオッ!皇室の黄金のラッパが、広間を切り裂くように鳴り響いた。「帝国の太陽にしてルクセンベルクの支配者、カリクス・フォン・ルクセンベルク皇帝陛下。そしてエステル公爵位の全権継承者、レイラ・エステル公女殿下のご入場です!」侍従長の声とともに、重厚な黄金の扉が大きく開いた。カリクスはレイラの腰を荒々しく抱き寄せたまま、玉座の壇上へ上がった。シャリン!カリクスは剣の柄を軽く叩き、貴族たちを見下ろした。「聞け、帝国の貴族ども」カリクスの低く乾いた声が、貴族たちの息の根を締めつけた。「今夜、エステル家の名誉を侮辱する者は、この場で即刻斬首し、柱に吊るす」「……」「異議のある者は、今すぐ前へ出ろ」誰一人、前へ出る者はいなかった。「いないのなら、公女の言葉に耳を傾けよ」レイラはゆっくり一歩前へ出た。仮面の下からのぞく翡翠色の瞳
「昨夜、誰と密談していた?」レイラは息を止めた。カリクスの問いは、先ほどヴァレンに下した命令よりも前の夜へ向けられていた。袖の中の水晶玉が手首に触れた。彼が腕を緩めて正面へ回ると、レイラは主催権の札が置かれた机に手をついた。彼と目を合わせるには顔を上げなければならなかった。「……陛下」「答えろ、レイラ」カリクスは抜いた剣で、足元の大理石を軽く叩いた。「夜に通信を交わした相手は誰だ?」「舞踏会の安全を確認するために連絡した相手です」「朕のための者か?」カリクスの目元が残酷に歪んだ。「よくも朕の寝室で、見知らぬ男と念話を交わしておきながら、朕のためだと言い繕うのか?」「言い繕ってなどおりません」レイラはためらわずカリクスへ一歩近づいた。「明日の夜に開かれる血の仮面舞踏会、その安全を確認していたのです」「舞踏会の安全だと?」「エステル家に仕えていた旧臣たちを通じて、皇都郊外の不穏な勢力の動きを調べていました」「不穏な勢力とは誰のことだ?」「皇太后の残党とヘッセン家の陰謀が、皇宮の内部へ入り込んでいるという情報を得ました」「皇太后の残党が、よくも朕の宮殿を狙うものだ」「奴らは陛下のお体を害し、政変を起こす機会をうかがっています」「ならば朕の騎兵隊に知らせればよかった」「ですからヴァレン卿を呼びました。本隊を動かせば気づかれるので、別動隊だけを出してほしいと頼んだのです」カリクスは机の上の札を見た。レイラは彼の視線を追い、手を少し動かした。「陛下が舞踏会の警備についても尋ねろとおっしゃったではありませんか。お任せいただいた仕事を確認しただけです」「それで朕より先に命令を下したのか?」「今、ご報告しています。ヴァレン卿が戻ったら、私が聞いた情報が正しかったかどうかも確認してください」「本当に……それがお前の本心なのか?」「私が持ち込んだ情報から確かめてください」レイラはひざまずいた。彼のズボンの裾をつかむ代わりに、指輪が見えるよう両手を膝の上に置いた。「ヴァレン卿が隠れ家を捜索しています。何を見つけて戻るのかまで聞いても、遅くはありません」レイラは掌の汗を衣服に押しつけて拭いた。膝の上の指輪を見る彼の視線が、剣へ戻らないことを願いながら待った。スッ。長剣が鞘へ収まった。カリクスはレイラを一息に立ち上がらせた。
『公女様! 今すぐ脱出なさらなければなりません!』水晶玉の向こうから聞こえるバロンの声は、かすかに震えていた。「鑑別石が皇太后側へ渡ったのは確かなのですか?」『宝物庫から消えたことまでは確認しました。奴らは明日の夜、舞踏会へ持ち込むつもりです』レイラは眠るカリクスの肩を見下ろした。石に血を落とすことは怖くない。その光を見た後、彼が何を尋ねるかが怖かった。「血統が確認されれば、仇の娘がなぜ恋人のふりをしたのかと問われるでしょうね」『石は公女様のお心まで証明してはくれません。その問いを皇太后に先に口にさせてはなりません』「それなら、鑑別石を取り戻すだけでは終わりませんね」『そのとおりです! 明日の夜では遅すぎます! 今夜、黒狼騎兵隊の目を逃れて脱出なさらなければ!』「逃げることはできません、バロン卿」『公女様! 命が危ういのです!』「私の人差し指にはめられた指輪をお忘れですか?」レイラは赤黒い黒曜石の指輪を見下ろした。「私を監視する兵がついています。皇宮を出る前に追いつかれるでしょう」『ですが舞踏会では、公女様が説明する前に皇太后が復讐の話を持ち出すはずです!』「それなら、会場へ届く前に奪えばいいのです」『奪うとは? 暗殺隊をどうやって止めるおつもりですか!』「鑑別石の移送経路はわかっていますか?」『西部郊外の廃れた風車小屋へ向かっているとの情報を得ました!』「皇太后宮の秘密の隠れ家ですね」『はい! 奴らはそこへ鑑別石を隠し、舞踏会当日に持ち込む計画です!』「それなら、まだ皇宮の外縁を離れていないでしょう」『しかし、我が一族の残党だけでは、影の鴉の精鋭を突破するのは困難です!』「私たちが直接突破する必要はありません」『え? それはどういう意味ですか?』「カリクスが私に握らせた剣を使うのです」レイラの視線が、脇卓の上に置かれた主催権の札へ向いた。『血の仮面舞踏会』の最高主催権を示す札。そして人差し指の黒曜石の指輪。「帝国で最も獰猛な猟犬たちを放つのです」『まさか……皇帝の親衛隊を動かすおつもりですか?』「舞踏会を任されたのですから、警備について尋ねることはできます。それに、この指輪で兵を呼びます」『近衛隊長ヴァレンが素直に従うでしょうか?』「彼が確認しなければならないことを、先に提示します」『公女様、どう
カリクスは壁から剣を引き抜き、刃を返した。切っ先がヴァレンの首筋をかすめると、彼はレイラから一歩退いた。「死にたいようだな、ヴァレン」「へ、陛下……!」ヴァレンの顔から血の気が引いた。「よくも朕の恋人をつかみ、体を調べようとしたな?」「も、申し訳ございません! 私はただ、侍医室の周辺をうろつく者を……!」「それが貴様の舌を動かす理由になると思うのか?」「お助けください! 国法に従い、非常警戒令を遂行していただけです!」「朕の言葉こそが国法であり、朕の恋人の歩みこそが法度だ」カリクスは長剣の切っ先で、ヴァレンの額をじりじりと押した。「誰が貴様にそんな権限を与えた? ヘッセンの残党か、それとも地下牢の皇太后か?」「違います! ただ皇室の安泰のため、忠誠を尽くしただけです!」「袖に手をかけようとしたのか。次は貴様の腕が先に斬り落とされるぞ」ヴァレンは額を床につけた。レイラは彼の首筋から流れた血を見た。皇帝は自分を守るために剣を振るっていたが、忘却草が見つからなかったという安堵まで無視することはできなかった。「朕の恋人が薬を求めたら、侍医へ伝えろ。貴様の判断で引き止めるな」カリクスはレイラの肩を抱き、乱暴に胸元へ引き寄せた。「行くぞ、レイラ。こんな虫けらどもと一緒にいる場所ではない」「……はい、陛下」レイラは息を潜め、カリクスに導かれて歩き出した。***深夜、皇帝の寝殿。重い黄金の扉が閉まると、カリクスはレイラを寝台の上へそっと座らせた。「手が氷のように冷たい。なぜこんなに冷えている?」カリクスはレイラの両手を自分の手で包み、息を吹きかけた。「寝殿へ戻る途中、風が冷たかったのです」「ヴァレンのせいで、まだ驚いているのか?」「……陛下」「なぜ朕に知らせず、一人で侍医室へ向かった?」「それは……」「朕の頭痛のために薬湯を取りに行ったのではないのか?」「……え?」レイラは呆然と目を瞬いた。カリクスは薄く微笑み、レイラの頬を撫でた。「侍医室の侍従が言っていた。お前は朕の呪毒を和らげる鎮痛薬を探していたそうだな」「あ……」「次からは侍従に言え。薬室まで下りる必要はない」「自分の手で用意したかったのです」レイラは彼の手に捕らわれた自分の手を見下ろした。今日も薬室へ入った理由を先に選んでくれたのはカリクスだった。
「北部要塞の反乱軍残党3,000人を、全員さらし首にしろ」黄金の謁見の間に響き渡る、冷酷な勅命。玉座にもたれたカリクスは、冷たい目で軍団長たちを見下ろした。「降伏を願い出た者どもの命乞いに来たのか、軍団長?」「陛下、北部の貴族300家が武器を捨て、慈悲を求めております!」「慈悲?」カリクスの唇が残酷に歪んだ。「反逆者に与える慈悲などない」「陛下、彼らを皆斬り捨てれば、北部国境の防壁を支える領主たちが……!」「黙れ! 朕の意に背く者は、その場で斬首せよと命じたはずだ」「どうかご再考ください、陛下!」「投降した者も例外ではない。首謀者の首は城壁に掲げ、加担した貴族の領地はすべて没収し、皇室直轄領に編入しろ」「御意! 皇帝陛下の命をお受けいたします!」赤いマントをまとった軍団長たちが、一斉に床へ額を打ちつけた。帳の後ろにいたレイラは、人差し指の黒曜石の指輪に触れた。昨夜、自分の名を呼びながらすがりついていた男が、今は投降者たちの命を奪えと命じている。その間に別人になったわけではないはずだった。侍医が告げた精製完了まで、あと2日。レイラは床に頭を垂れる軍団長たちを見た。薬を遅らせようとして発覚すれば、自分だけでなく調合室の者たちにも、あの命令が下されるかもしれない。何に手を出しても他人の命に触れてしまうことが、もどかしかった。***正午を過ぎ、政務が一段落した頃。レイラは領地の書類を確認すると告げて寝殿を出た。侍医室へ道を変えてからは、皇帝の頭痛に使う茶を求めに来たと言った。扉を守る衛兵は、人差し指の黒曜石の指輪を確かめて道を開けた。指輪は、すべての質問まで防いでくれるわけではなかった。背後で出入りの時刻を記録する音がした。レイラは聞こえないふりをして地下の調合室へ下りた。侍医たちが薬材を取りに席を外した隙に、青銅の薬釜のそばにある調合日誌を開いた。・第一段階の調合:浄化草の抽出液、完了。・第二段階の調合:氷霊水の蒸留、完了。・最終段階:2日後に精製完了予定。(2日後に精製完了……)レイラの心臓が激しく打った。そのとき、調合室の奥にある秘密の薬材搬入通路から、かすかな金属音が響いた。トン、トントン、トン。一族の暗号だった。レイラは息を潜め、薬材倉庫の角へ近づいた。みすぼらしい薬草商の服を着た男が、荒い息をつきながら







