俺は帰って、これから寝ようと思い、立ち上がった。
「今回は急に悪かったな。家帰るわ」
俺の言葉に、ニュースを見ていた二人が、揃ってこちらを見た。
その間にも鼻水が出そうになって、俺はすする。 すると時島がティッシュの箱を渡してくれた。それを見ながら紫野が言う。「まぁもう朝だしな、時島もちゃんと――取ってやったんだろう?」
「……取ったというか」怖かったので、何を俺から取り去ったのかは聞かない事にした。何故なのかこの時の俺は、『早く帰らなければならない』と思っていたのだ。ぼんやりと、『二人に風邪を移しては悪いし』とも考えていた。
「バイクで送るか?」
紫野の言葉に、笑顔で首を振る。時島は俺をじっと見ているだけで、特に何も言わなかった。
あんまりにもこの一晩、二人の態度が普通すぎたから、俺は自宅への恐怖を忘れていた。
――それにしても、頭が朦朧とする。これは本格的に風邪を引いたなと思いながら、帰りにコンビニで飲み物などを買った。まだ朝闇で薄暗い家の中へと入り、俺は目で本棚の上の救急箱を探す。今も存在するのかは知らないが、我が家には幼い頃から『富山の薬売り』という人々が来ていた。地元なら大抵どの家にも、薬売りが置いていく黄色い救急箱がある。一人暮らしをする際に、俺も救急箱を持たされた。
「風邪薬……」
それらしき小瓶を見つけて、俺はペットボトルを片手に、ベッドに座る。
瓶の中には白い薬が数錠入っている。一回二錠、服用するらしい。錠剤を口に含み、静かに飲み込む。するとすぐに睡魔が来たから、毛布を握りしめて、布団をかぶった。
それから――どれくらい眠ったのか。 俺が足音を聞いて目を覚ますと、周囲はすでに夕方の薄闇に包まれていた。 熱が上がっているのか酷く喉が渇いていて、思考が上手くまわらない。「お兄ちゃん風邪って大丈夫? はい、これ」
「ああ、悪い」俺は妹から、昨日も飲んだ風邪薬の瓶を手渡された。
それを再び二錠手に取り、俺はミネラルウォーターで飲み込む。 するとまたすぐに睡魔が訪れたので、俺はベッドに横になった。そんな事を三日ほど繰り返し、俺は久方ぶりに朝の光の中、目を覚ました。どちらかといえば、俺は夜型なのだ。ただこの時は、十分な睡眠を取っていた状態で、玄関の呼び鈴の音が響いてきたから、一気に覚醒したのだと思う。
いざ起きあがってみると、熱っぽさは無くなっていた。だが代わりに、気怠さが全身を支配していた。体を動かすのが億劫だ。そうは思いつつ、玄関へと向かう。
「おぅ、左鳥。風邪だって?」
やって来たのは、紫野と時島だった。
いつも通りに笑っている紫野の顔を見たら、ホッとして安堵の息が漏れてしまった。「具合悪かったんなら早く呼べよ。一人暮らしの天敵だろ、風邪なんて」
「それがさ、妹が看病に来ててくれたんだよ」ちょっとだけ照れくさく思いながらそう告げると、紫野が首を傾げた。
「左鳥……弟しかいないんじゃなかったっけ?」
その言葉に俺は硬直した。笑みを消す間すら無かった。きっとこの時の俺の表情は、奇妙なものになっていただろう。
そうだ――妹? 俺には妹なんかいないじゃないか。
「じゃあ一体、誰が風邪薬を……」
確かに俺は一日二回、促されて風邪薬を飲んでいた。あれは、何だったんだ?
俺が呆然としていると、時島が瓶を手に取った。「風邪薬ってこれか?」
「あ、ああ」手を伸ばして俺は眉を顰めた。
中に入っていたのは……誰かが、北海道土産で買ってきてくれた、マリモによく似た白い物体だったのだ。「……なんだこれ? 俺は白マリモを飲んでいたのか……?」
事態の理解が上手く出来ず、俺は空笑いをした。
だが時島も紫野も笑わない。「なぁ、左鳥。本気でこの家から、引っ越す気は無い?」
紫野の言葉に、今すぐにでも同意してしまいたかった。
だが敷金礼金を準備するあてが無い。「おかしいだろ、この部屋。時島もそう思うだろう?」
「ああ」二人の声に、俺は俯いた。
「……そう言われても」
「とりあえずは暫くは、時島の家にいろよ」出来ればお願いしたいなと思い時島を一瞥すると、頷いてくれた。
結局その日から、俺は時島のマンションへと、お邪魔する事に決まった。今度は一泊の予定では無かったから、衣類や教科書類の準備をする。お茶を出して、二人には待っていてもらう事にした。
「だけどお前ら、よく俺が風邪だって分かったな。誰にも連絡をしなかったのに」
ふと思って俺が尋ねると、その場に沈黙が降りた。
俺は何か変な事を言ってしまったのだろうか。驚いて、俺は振り返った。「お前は、俺に電話してきた事を……覚えてないのか?」
時島が緑茶を飲みながら、俺を見て呟くように言った。
狼狽えて、俺は目を見開く。「俺が……? 何て言ってた?」
「『悪質な風邪に罹った。特効薬があるから、すぐにでも飲みに来て欲しい、多分移ってる』――まぁこんな感じだったが……すごい剣幕だったぞ」腕を組んだ時島が、心なしか表情を固くした。すると紫野が笑う。
「時島から話を聞いた時は、ついに変なクスリにでも手を出したのかと思った」
「待ってくれ、俺、そんな電話、してないし。クスリなんかやらない」 「クスリは冗談だけど、時島に電話が着たのは、俺見てた」紫野の言葉に怖気が這い上がってきた。衣類を鞄に詰める手が震える。
「それにさ、時島の家から帰る時も、急にぼーっとし始めて、なんか、おかしかったんだよな」
紫野が続けながら、持参していたカフェラテのストローを噛んだ。
「『帰らなくちゃ、帰らなくちゃ』――って、ブツブツ言ってたのは……あれは、何だったんだ?」
「俺はそんな事を言った覚えが無い。紫野、止めろよ。俺を怖がらせるな。時島、嘘だよな?」 「俺も聞いていたから、紫野の話は嘘じゃない」目眩を覚えて、俺は床の上で肩を落とした。
俺は、おかしくなってしまったのだろうか。英語ノイローゼを引きずっているのか。 ――こうしてその日から、俺は時島に泊めてもらう事になった。そして……更なる、異常事態に遭遇する事となるのである。
さて――紫野の家に誘われたのは、俺がぐるぐると時島について考えていた頃の事だった。時島は俺を「愛している」と言ったが、あれが本心なのか……未だに分からない。時が経てば経つほど、からかわれているのではないかという思いが強くなってきたのだ。だが、仮に時島が本気だとしても……そもそも、俺は――時島を友人だと思っているのだ。 どうすれば良いのだろう? 一瞬、紫野に相談しようかとも思った。紫野も男が好きだと言っていたからだ。けれど紫野の想い人が時島だとすると、それは出来ない。紫野と気まずくなりたくない。三角関係なんて絶対嫌だ。だが、俺と時島の共通の友人は紫野だけだ。相談出来ないのが、もどかしい。 そんな感覚を持ったまま、初めてお邪魔した紫野の家は、よく整理された十畳だった。広い。お香の匂いがする。「まぁ、飲んでくれ」 座った俺に、紫野が濃い濁ったお茶を差し出した。 紫野はカフェラテを飲んでいる印象が強かったから、緑茶が出てきたのを、少しだけ意外に思った。濁っているが、緑色だし、急須を使っていた。苦そうに三重たのだが、思いの外飲みやすい。「時島と旅行してきたんだってな。俺の事も誘ってくれよ」 「悪い。次は絶対誘う」 「うん。左鳥には危機感が足り無さすぎる」 確かに憑かれやすいのだろうとは思うから、苦笑してしまった。「何で俺って憑かれるんだろう」 「そう言う意味じゃない――まぁ憑かれやすいっていうのは……俺には何も言えないけど」 「? じゃあどう言う意味だ?」 「もう分かってるだろ、俺が左鳥の事を好きだって。そんな相手の家に、一人で来るなんてどうかしてる」 溜息をつきながら紫野が言った。俺は目を見開いた。「え、お前の好きな奴って、時島じゃないのか!? だから俺、悪い事したなって思って」 「悪いこと、ね。それは根に持つかもな。ただ、時島のはずがないだろ。お前だお前。本当、鈍いのな」 それほど俺は、自分が鈍いとは思わない。「しかも一回、俺の薬飲んで弄られてるのに、何の不信感もなく、そのお茶も飲むし」 「――
次第に夏の気配が近づいてきた。 この日俺の食欲は、おかしかった。今日は時島がいない。俺はエビカツパンとヒレカツパンを買ってきた。紫野も遊びに来ないという。二つのパンを食べてお腹がいっぱいだと思うのに、俺はさらにオムライスを作った。それも食べた。その後はパスタを食べた。 ――気づけば俺は、冷蔵庫の中身が空になるまで食べていた。 我に返ったのは、帰ってきた時島に肩を叩かれた時の事である。「あ、俺……」「つかれてるんだよ」 思わず頭を抱えた時、不意に嘔吐感が襲ってきた。気持ち悪い。勿論、食べ過ぎだ。俺は全てを吐いてしまいたくなり、気づくとトイレに走っていた。 ――出てきたモノを見て、俺は目を見開いた。 そこには大きな溝鼠がいたのだ。「時島、時島!!」 すぐさま引き返すと、時島が立っていた。そして俺へと歩み寄る。俺はトイレの中を指差した。「これ、これ!!」「鼠だな」 そんな事は分かっていた。問題はそれが俺の口から出てきた事だ。 何事も無いように、時島はトイレの水を流す。呆然と俺はそれを見守っていた。 それからコタツのある部屋へ戻り、時島が大量の食材が入ったビニール袋を見た。買って帰ってきたらしい。それを手に、時島が冷蔵庫へと向かったので、俺も後を追う。「俺が食べちゃうって、予測してたのか……?」「昨日の野菜炒めで、冷蔵庫の中身は空になっただろう」「あ」 では、俺は何を食べていたのだろうか……? 全身に怖気が走った。気づけば俺は座り込んでいた。再び気持ちが悪くなってきた。「何も憑くのは、人ばかりじゃないからな」「え?」「本当、左鳥はどうして、そんなに取り憑かれやすいんだろうな」 淡々と言いながら、時島が食材を冷蔵庫にしまい始める。直接憑きやすいと言われたのは、久しぶりの事だった。「本来なら、こういう時こそ、紫野の薬が効くんだ」「そうなんだ……」「すぐに呼んだ方が良いと言いたい……ただな」 不意に時島が、俺の正面に座った。そして両手で俺の頬に触れた。 少し上を向かされて、顔を覗き込まれる。「お前と紫野を二人にしたくない」「え……?」 真剣な顔でそう言われた。黒い時島の瞳に、俺が映っているようだった。 ――あ、キスされる。 そう思った瞬間、インターフォンが鳴った。 慌てて立ち上がってから、俺は、片手で両目
東京に戻ってきてから、俺は――ここ数日の出来事を考えた。時島は確かにあの時、俺のことを「愛している」と言った。 だけど……なんで? いつから? 俺には好きになってもらう要素があるのだろうか……? 消しゴムと聞いたが……一番は、「一緒に暮らす内に」だと話していたな……。「俺は……時島の事を、どう思ってるんだろう……」 それがよく分からない。ただ、時島と二人きりでいても、恐怖を感じる事が無いのは分かっている。 ちなみに、分からないことはもう一つある。 ――紫野はどうしてあんな事をしたのだろう。好きな相手の代わりだったとか? 所謂、練習という奴だろうか。ただ紫野は、そう言う事はしない気がする。そして俺は、薬のせいもあったのか、現在……紫野にも恐怖や嫌悪感が無い。 そうすると、嫌な仮定が一つ浮かんでくる。 俺の体は、男を相手に感じてしまうのかもしれない。しかも性的な接触を持つと、安心感を得るようだ。仮にそうだとしたならば……その契機は? 今では強姦された事は曖昧な記憶になっていて、滅多に思い出さなくなって来た。だが――あの一件しかないだろう。講義でも習った。過度な嫌悪を抱く場合、本当はそう言う願望が自分にある事もある、と。俺は、同性に対して、以上に恐怖し嫌悪しているわけだが……まさか。 暫くして……もう、そう言う事を考えたくなくなった。だから俺は久方ぶりに、実家に帰省した。そして泰雅を呼び出し、弟と三人でN県のN市に遊びに行く事にした。 ――この当時、右京は高校生だった。 峠を越える事になったのだが、頂上付近が工事中だった。スノーシェッドの前には信号機がある。五分単位で、信号の色が変わる代物らしい。 F県側から抜けた所には、緑色の公衆電話があった。この頃はまだ、珍しい存在では無かった。
山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。 何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。 俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。「長かったな。料理が来てるぞ」 時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。 二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。 それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。 即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。 ――総髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」「何故?」「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」「……夢だと言っただろう?」 ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。「その夢の感覚がするんだよ」「――……そうか。だろうな」「え?」 ――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。「いかないで下さい……」 今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。 自分
――その頃からだった。 段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。「そうだな……いるな」 朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。「だろ?」 俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」 そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。「力、抜けてきただろ?」「ん……」 その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。 そして――……次に気づいた時、俺の後孔には、紫野の指が入っていた。「ンあ」 思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。「そんな所、汚――ッ、ああっ」 指がその時二本に増えた。その感触だけに意識が集中していて、不思議と恐怖は無い。 俺は前に、きっと同じような事をされて、怖くなったはずなのに。「あ、うッ」「左鳥の中なら汚いと思わない」「フぁ……ァ……――!!」 紫野の指がその時、俺の内部のある箇所を刺激した。目を見開いた。俺は、その刺激で射精しそうになっていたからだ。「あ、あ、ッううァ、止め、止めろ、そこ、ア」「ここか?」「ンあ――――!! 何だよこれッ」「多分、前立腺」 涙が零れてくる。俺は舌を出して大きく息を吐いてから、力の入らない体を叱咤して、何とか紫野を見た。すると紫野が、微苦笑していた。「色っぽすぎ」「ああっ、ン……ッ、う……出、出る、出るから……ッ、あ、前」「うん、出せよ」 紫野はそう言うと、俺の前を扱いた。そして呆気なく俺は射精した。 まだ息が苦しい。解放感に、クラクラした。 紫野は、ウェットティッシュで俺の下腹部や、後孔を拭いてくれる。「何でこんな事……」「これからは、こっちを思い出せよ」「答えになってない」「……善く無かったか?」「ッ」 多分俺は、気持ち良いと思ってい
それから、五日が経過した。 ――最近は、お腹の調子が良い。 そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。「紫野が来ると言っていた」「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」 俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。 それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」 ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」 確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」 強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。 俺の表情に、紫野は察したようだった。「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」「だよな」 俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」「ん? 何?」「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」「ああ……」 紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。 ――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ