紫野から聞いた話を簡単にまとめると、次のようになる。
これは、紫野が中学三年生の夏休み、父方の祖父の所へ遊びに行った際の話だ。
彼の祖父の家は、サカイと呼ばれている場所の近くにあった。住民は皆、大体が紫野の父の旧姓と同じだったらしい。紫野の父は入り婿だったとも聞いた。「で、じいちゃん家の所から暫く先に抜けた裏手にサカイがあって、村とサカイの向こうには、名前の無い場所があるんだ。小屋が沢山立ってるんだよ。全部無人。小さい頃から、『絶対にサカイの向こうには行くなよ』って言われてたし、まぁ行かなかった」
紫野が言うには、祖父の家のある集落にあるサカイとその先の窪地は、特別視されている場所だったらしい。近代家屋が一つも無く、農作業用の小屋や朽ちた民家が建ち並んでいたようで、ある種の廃村の趣を呈していたようだ。大体が木で出来た小さな家々だったそうだ。
「ただあの日は、バドミントンをしてたらハネがサカイまで飛んで行っちゃってさ……妹が泣くから、取りに行く事にしたんだよ。ほら俺、妹思いだからさぁ」
「俺も弟思いだから、気持ちは分からなくもないけど、それで?」 「ああ、それで――ハネはボロボロの小屋の、開けっ放しの入り口の中に落ちた。ほこりっぽいなぁと思いながら、中に入って拾ったんだけど、その時、『ギシ』って音がしたんだよ」その音は、小屋が軋む音でも、紫野が立てた音でも無かったのだという。
紫野が語る。これは、俺がその場で書き留めた、彼の言葉だ。――腕を下に伸ばしたまま俺は動きを止めたんだけど、視界の隅に、突き当たりの窓の向こうを何かが横切ったのが見えたんだ。とにかくハネを手に取って、それから顔を上げたんだけど、そうしたら窓の向こうには、特に何も無くて……と言うか曇りガラスだったから日の光しか見えないんだよな。そもそも、どうして最初に横切ったと分かったのかの方が不思議だな。
――ああ、気のせいだなと思って振り返ったんだよ。
――そうしたらさ、扉の左側から、赤と黒を重ねて透過させてみたいな色の、巨大な円の弧の部分が見えてきたんだ。なんだこれはって思ったけど、見知らぬ農機具で、何か作業でも始まったんだろうと考え直して、俺は小屋を出たんだ。もう一つの扉があったから、そちらから出た。――帰りは、サカイの外に出るまで、振り返らないで走った。ちょっと怖かったのかもな。それでいざ、サカイを出るって言う時になって、振り返ってみたら……やっぱり小屋の前に、小屋の屋根と同じくらいの高さの、赤黒い丸があるわけだ。遠目には水車っぽく見えた。何やら動いてもいたからなぁ。
――その、時々動く、黒っぽいのをだなぁ、『なんだあれは』って顔で、俺は見たんだよ。
――実物を見た事が無いから断言は出来無いけど、羊膜に入った胎児っていうの?
――それを巨大にしたら、あんな感じになるんじゃないのかっていう謎物体が、丸の表面に付いてたんだよな。直視した頃から、周囲に漂う生臭さにも気づいて……血みたいな臭いがしたんだよな。幻覚だとかお化けだとか、難しい事は何も考え無かった。――ただ目の前にそれがあったんだよ。
――同時に音が聞こえだしてな。キュルキュルキュルキュルキュルみたいな音がするんだ。サカイを出たばかりで立ち止まっていた俺にさ、『それ』が、ゆっくりゆっくり近づいてくるのを、俺はぼけっと見てた。そうしたら妹に呼ばれたんだよ。「お兄ちゃん、まだー?」
そこまで言うと、紫野が一息ついて、鞄からカフェラテを取り出した。俺が見守っていると、紫野が一口飲んでから、思い出すように大きく頷いた。そして続きを語り始めた。「で、俺は帰ったわけだよ。じいちゃん家に」
そして入り口を開けようとしたその時、紫野は動きを止めたらしい。
「家に入ろうとしたら、後ろから見てるんだよ、何か、変なのが」
そこにはサカイで見たものがいた。塀を乗り越えようとするように、赤い羊膜みたいなものにくるまった胎児がいたらしいのだ。胎児と言っても大きさは、塀を乗り越えるほどなのだから、軽自動車程度の大きさはあったようだ。何が起きているのか分からなかった紫野は、暫く呆然としたまま、音を聞いていたそうだ。すると、赤黒い羊膜の中の巨大な胎児と視線が合った。
「きょぽぴゃぽぽ、きょぽぴゃぽお――っていうの? 奇声を上げだしてさ。キュルキュルも相変わらず聞こえるし」
何となくこれは『マズイな』と思って、紫野はすぐに家の中へと入ったそうだ。
「じいちゃん、外に変なのがいた」
「変なの?」 「すごいデカイ丸いやつで、きょぴぽぽぽお、みたいな事言ってる」 「――! おめ、こっちさ来い!!」 「え」険しい口調と表情になった紫野の祖父が、いきなり紫野の手を取って離れへと連れて行った。そして古い茶碗の入った筺を、紫野に渡した。
「朝になって俺が開けるまで、絶対にここから出るな。トイレは奥の壺にでもしてろ」
「は?」 「兎に角喋るな、気配を殺せ、何が起きても聞かぬふり、見ぬふりだ」それだけ言うと、夕方の五時前に、離れの扉はピシリと閉められた。無論手持ちの娯楽品も何も無く、筺を渡されただけで――閉じこめられた。何が起こっているのか分からなかった紫野は、ただ筺を抱えて暫くの間座っていた。高い所にある窓ガラスから、空の色が次第に暗くなっていくのが分かる。
その後――夜の十時を回ったのを、腕時計で確認した頃だった。
「もう大丈夫だ。こっちさ来い。夕飯の用意してるからな、出てこい」
こっちさ来い――『こちらへ、来い』の方言だ。
確かに祖父の声だった。実際空腹だったが、紫野は思わず半眼になる。頑固者の祖父は、一度「中に入っていろ」と言ったら、朝になって迎えに来るまでは、それを貫き通す性格をしていると考えていたからだ。それを今更、食事の用意が出来たからといって……呼びに来るのはおかしい。
その頃紫野は、四谷怪談にハマっていたから、「これがオカルト現象か何かだとすれば、この声は祖父のものでは無い」と冷静に考えたそうだ。
「出てこい」
「……」 「出てこい」 「……」 「出てこい!」扉が勢いよく何度も叩かれた。いよいよおかしかったのは、それは母屋から通じる廊下側の扉ではなく、外へと出入りする際に使用する扉から聞こえた事だという。祖父は普段、そちらを使用しないそうだ。
次第に声自体も祖父のものではなく、赤子の泣き声のように変化していく。紫野は、筺を抱き直して座った。すると高い位置にある窓から、羊膜に入った巨大な胎児が中を覗いているのが分かった。
窓を破られたら一瞬で終わると思いながら、紫野は筺を抱きしめる腕に力を込め直す。すると……抱えていた筺が、振動を始めたのだという。
結局眠るのなど不可能で、朝まで紫野は喋らず、聞かないふりと見ないふりをして過ごした。
「で、朝になってさ、じいちゃんが入ってきたんだ。そして、言うんだよ」
「なんて?」 「サカイにハットウ様を捨ててこい。それからゴキアライして帰れ。二度と来ちゃならん」紫野は意味が分からなかったそうだが、サカイに行き、昨日からずっと持っている筺の蓋を、指示された通りに開けた。そして中に入っていたお茶碗を水洗いしてから、筺に戻して、祖父の家へ帰ると――既に出発のための車が外に待っていたそうだ。そのまま実家まで車で帰ったのだという。
「ゴキってその時知ったんだけど、御器なんだってな。それとあの辺に多い名字の平野(ひらの)は――『たいらの』から来てるんだって。平将門とかの、平。元をたどると平安の頃に逃げ延びてきた血筋みたいなんだわ。じいちゃん家の周辺」
「結局ハットウ様って何だったの?」 「検索した事あるけど、F県H村の郷土料理しか出てこなかったな……まぁ、言葉は一緒なのかもな。『御法度』様なんじゃね? ただ、『神様以外は御法度』なのか『見るのは御法度』なのかは、よく分からないけど――見たら、とにかく、御器洗いをして、汚れごとサカイに捨てなきゃならないらしい。サカイからハットウ様は、基本的には出られないっても話してた。だからたまぁに、俺みたいに連れ出しちゃう奴がいると、大騒ぎなんだってさ。急いで帰ったから気づかなかったし、夜はずっと離れにいたから分からなかったんだけどな、あの夜は村中の家が火を焚いて、どの家も、御器の入る筺をひっぱりだしてたらしい」 「実害あるの?」 「二度と行っちゃ駄目って事になったから、俺も詳しい話は、じいちゃんに聞けてないんだよな。お前、ホラー話を集めるんだろ? 調べといてくれ。未だにアレがなんだったのか分からないんだ。何なら寧ろ、今度行ってみてくれ」 「いや行かないけど……」――サカイという地名は、あの世とこの世の境目だとか、神の土地との境目だとか言う理由で名付けられている場所が多いというのは、俺も聞いた事がある。
しかし、恐い部分があまりよく分からなかった……大体紫野もあんまり淡々と話すものだしな……俺はひとまずパソコンをスリープにする事にした。
すると丁度その時、時島のボンゴレが完成した。
時島も料理しながら、こちらの話を聞いていたようだった。だから俺は、視線を向ける。「時島はどう思う?」
「ちょっと塩が少なかった」いや……味の話じゃないんだけど。そう思いつつも、まぁ実体験した怖い話などこんなものかと俺は思ったのだった。
さて――紫野の家に誘われたのは、俺がぐるぐると時島について考えていた頃の事だった。時島は俺を「愛している」と言ったが、あれが本心なのか……未だに分からない。時が経てば経つほど、からかわれているのではないかという思いが強くなってきたのだ。だが、仮に時島が本気だとしても……そもそも、俺は――時島を友人だと思っているのだ。 どうすれば良いのだろう? 一瞬、紫野に相談しようかとも思った。紫野も男が好きだと言っていたからだ。けれど紫野の想い人が時島だとすると、それは出来ない。紫野と気まずくなりたくない。三角関係なんて絶対嫌だ。だが、俺と時島の共通の友人は紫野だけだ。相談出来ないのが、もどかしい。 そんな感覚を持ったまま、初めてお邪魔した紫野の家は、よく整理された十畳だった。広い。お香の匂いがする。「まぁ、飲んでくれ」 座った俺に、紫野が濃い濁ったお茶を差し出した。 紫野はカフェラテを飲んでいる印象が強かったから、緑茶が出てきたのを、少しだけ意外に思った。濁っているが、緑色だし、急須を使っていた。苦そうに三重たのだが、思いの外飲みやすい。「時島と旅行してきたんだってな。俺の事も誘ってくれよ」 「悪い。次は絶対誘う」 「うん。左鳥には危機感が足り無さすぎる」 確かに憑かれやすいのだろうとは思うから、苦笑してしまった。「何で俺って憑かれるんだろう」 「そう言う意味じゃない――まぁ憑かれやすいっていうのは……俺には何も言えないけど」 「? じゃあどう言う意味だ?」 「もう分かってるだろ、俺が左鳥の事を好きだって。そんな相手の家に、一人で来るなんてどうかしてる」 溜息をつきながら紫野が言った。俺は目を見開いた。「え、お前の好きな奴って、時島じゃないのか!? だから俺、悪い事したなって思って」 「悪いこと、ね。それは根に持つかもな。ただ、時島のはずがないだろ。お前だお前。本当、鈍いのな」 それほど俺は、自分が鈍いとは思わない。「しかも一回、俺の薬飲んで弄られてるのに、何の不信感もなく、そのお茶も飲むし」 「――
次第に夏の気配が近づいてきた。 この日俺の食欲は、おかしかった。今日は時島がいない。俺はエビカツパンとヒレカツパンを買ってきた。紫野も遊びに来ないという。二つのパンを食べてお腹がいっぱいだと思うのに、俺はさらにオムライスを作った。それも食べた。その後はパスタを食べた。 ――気づけば俺は、冷蔵庫の中身が空になるまで食べていた。 我に返ったのは、帰ってきた時島に肩を叩かれた時の事である。「あ、俺……」「つかれてるんだよ」 思わず頭を抱えた時、不意に嘔吐感が襲ってきた。気持ち悪い。勿論、食べ過ぎだ。俺は全てを吐いてしまいたくなり、気づくとトイレに走っていた。 ――出てきたモノを見て、俺は目を見開いた。 そこには大きな溝鼠がいたのだ。「時島、時島!!」 すぐさま引き返すと、時島が立っていた。そして俺へと歩み寄る。俺はトイレの中を指差した。「これ、これ!!」「鼠だな」 そんな事は分かっていた。問題はそれが俺の口から出てきた事だ。 何事も無いように、時島はトイレの水を流す。呆然と俺はそれを見守っていた。 それからコタツのある部屋へ戻り、時島が大量の食材が入ったビニール袋を見た。買って帰ってきたらしい。それを手に、時島が冷蔵庫へと向かったので、俺も後を追う。「俺が食べちゃうって、予測してたのか……?」「昨日の野菜炒めで、冷蔵庫の中身は空になっただろう」「あ」 では、俺は何を食べていたのだろうか……? 全身に怖気が走った。気づけば俺は座り込んでいた。再び気持ちが悪くなってきた。「何も憑くのは、人ばかりじゃないからな」「え?」「本当、左鳥はどうして、そんなに取り憑かれやすいんだろうな」 淡々と言いながら、時島が食材を冷蔵庫にしまい始める。直接憑きやすいと言われたのは、久しぶりの事だった。「本来なら、こういう時こそ、紫野の薬が効くんだ」「そうなんだ……」「すぐに呼んだ方が良いと言いたい……ただな」 不意に時島が、俺の正面に座った。そして両手で俺の頬に触れた。 少し上を向かされて、顔を覗き込まれる。「お前と紫野を二人にしたくない」「え……?」 真剣な顔でそう言われた。黒い時島の瞳に、俺が映っているようだった。 ――あ、キスされる。 そう思った瞬間、インターフォンが鳴った。 慌てて立ち上がってから、俺は、片手で両目
東京に戻ってきてから、俺は――ここ数日の出来事を考えた。時島は確かにあの時、俺のことを「愛している」と言った。 だけど……なんで? いつから? 俺には好きになってもらう要素があるのだろうか……? 消しゴムと聞いたが……一番は、「一緒に暮らす内に」だと話していたな……。「俺は……時島の事を、どう思ってるんだろう……」 それがよく分からない。ただ、時島と二人きりでいても、恐怖を感じる事が無いのは分かっている。 ちなみに、分からないことはもう一つある。 ――紫野はどうしてあんな事をしたのだろう。好きな相手の代わりだったとか? 所謂、練習という奴だろうか。ただ紫野は、そう言う事はしない気がする。そして俺は、薬のせいもあったのか、現在……紫野にも恐怖や嫌悪感が無い。 そうすると、嫌な仮定が一つ浮かんでくる。 俺の体は、男を相手に感じてしまうのかもしれない。しかも性的な接触を持つと、安心感を得るようだ。仮にそうだとしたならば……その契機は? 今では強姦された事は曖昧な記憶になっていて、滅多に思い出さなくなって来た。だが――あの一件しかないだろう。講義でも習った。過度な嫌悪を抱く場合、本当はそう言う願望が自分にある事もある、と。俺は、同性に対して、以上に恐怖し嫌悪しているわけだが……まさか。 暫くして……もう、そう言う事を考えたくなくなった。だから俺は久方ぶりに、実家に帰省した。そして泰雅を呼び出し、弟と三人でN県のN市に遊びに行く事にした。 ――この当時、右京は高校生だった。 峠を越える事になったのだが、頂上付近が工事中だった。スノーシェッドの前には信号機がある。五分単位で、信号の色が変わる代物らしい。 F県側から抜けた所には、緑色の公衆電話があった。この頃はまだ、珍しい存在では無かった。
山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。 何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。 俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。「長かったな。料理が来てるぞ」 時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。 二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。 それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。 即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。 ――総髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」「何故?」「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」「……夢だと言っただろう?」 ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。「その夢の感覚がするんだよ」「――……そうか。だろうな」「え?」 ――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。「いかないで下さい……」 今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。 自分
――その頃からだった。 段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。「そうだな……いるな」 朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。「だろ?」 俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」 そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。「力、抜けてきただろ?」「ん……」 その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。 そして――……次に気づいた時、俺の後孔には、紫野の指が入っていた。「ンあ」 思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。「そんな所、汚――ッ、ああっ」 指がその時二本に増えた。その感触だけに意識が集中していて、不思議と恐怖は無い。 俺は前に、きっと同じような事をされて、怖くなったはずなのに。「あ、うッ」「左鳥の中なら汚いと思わない」「フぁ……ァ……――!!」 紫野の指がその時、俺の内部のある箇所を刺激した。目を見開いた。俺は、その刺激で射精しそうになっていたからだ。「あ、あ、ッううァ、止め、止めろ、そこ、ア」「ここか?」「ンあ――――!! 何だよこれッ」「多分、前立腺」 涙が零れてくる。俺は舌を出して大きく息を吐いてから、力の入らない体を叱咤して、何とか紫野を見た。すると紫野が、微苦笑していた。「色っぽすぎ」「ああっ、ン……ッ、う……出、出る、出るから……ッ、あ、前」「うん、出せよ」 紫野はそう言うと、俺の前を扱いた。そして呆気なく俺は射精した。 まだ息が苦しい。解放感に、クラクラした。 紫野は、ウェットティッシュで俺の下腹部や、後孔を拭いてくれる。「何でこんな事……」「これからは、こっちを思い出せよ」「答えになってない」「……善く無かったか?」「ッ」 多分俺は、気持ち良いと思ってい
それから、五日が経過した。 ――最近は、お腹の調子が良い。 そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。「紫野が来ると言っていた」「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」 俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。 それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」 ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」 確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」 強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。 俺の表情に、紫野は察したようだった。「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」「だよな」 俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」「ん? 何?」「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」「ああ……」 紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。 ――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ