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日没の頃、愛は消える

日没の頃、愛は消える

By:  七月金Completed
Language: Japanese
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「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」 窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。 「それに、システムによると、一ノ瀬智也(いちのせ ともや)さんは半月前に朝倉澪(あさくら みお)という女性とすでに婚姻届を提出しています」 6年間付き合ってきた恋人が、彼女に何も告げず、ずっと好きな初恋の子とひそかに結婚していた―― その事実を聞いても、綾音はさほど驚かなかった。 「わかりました。お手数をおかけしました」

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Chapter 1

第1話

「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」

窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。

「それに、システムによると、一ノ瀬智也(いちのせ ともや)さんは半月前に朝倉澪(あさくら みお)という女性とすでに婚姻届を提出しています」

六年間付き合ってきた恋人が、彼女に何も告げず、ずっと好きな初恋の子とひそかに結婚していた――

その事実を聞いても、綾音はさほど驚かなかった。

「わかりました。お手数をおかけしました」

そう言うと、彼女は偽造の結婚証明書をカバンにしまい、サングラスをかけてその場を立ち去った。

市役所の前で、彼女は先輩にメッセージを送った。

【先輩、私も一緒に海羽市へ行って起業します】

あちらは忙しいのか、すぐには返信が来なかった。

綾音はスマートフォンをポケットにしまい、通りかかったタクシーに乗り、運転手に一つの住所を伝えた――

日が暮れる頃になって、ようやく疲れ切った身体で家へ戻った彼女が鍵を取り出した瞬間、背後から「ピン」というエレベーターの音がした。

智也がエレベーターから現れ、笑顔で声をかけてきた。

「綾音、どこ行ってたの?」

彼の笑顔を見て、綾音は一瞬、言葉を失った。

「私たちが婚姻届を出した場所に行ったわ。記念写真を撮り直そうと思ったけど、そこは更地になってたの。理由、知ってる?」

そう言いながら、彼女は一瞬たりとも目をそらさず、彼の顔に罪悪感の色が浮かぶのを探した。

だが、智也は一瞬だけ動揺したものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。

「きっと場所を間違えたんだよ。結婚証明書はちゃんと手元にあるし、写真ならまた今度でもいいだろ?君の好きなマカロンを買ってきたんだ。新作みたい。あとで食べてみて、気に入ると思うよ」

そう言いながら、彼は手にした紙袋を彼女に渡し、ドアを開けてバスルームに向かっていった。

綾音は視線を落とし、力なく口元を歪めた。

「一ノ瀬智也、私たちに『これから』なんて、もうないわ」

彼女は黙って書斎へ入り、偽の結婚証明書を金庫に戻した。

三日前、結婚証明書を受け取った時、智也は彼女にちらっと見せただけで、すぐ金庫にしまい込んだ。

当時の彼女は、彼が結婚を大切に思ってくれているのだと、甘く考えていた。

だが、昨夜――

水を飲みに起きた彼女は、偶然ベランダで電話している彼の声を耳にした。

「智也、お前また朝倉と付き合ってんのか?あの女のこと三年も追いかけたくせに、ようやく付き合えたと思ったら、すぐに他の男と駆け落ちして海外に逃げたんだぞ?あの女に散々弄ばれたのに、まさかまだ好きだなんて言うなよ?」

智也は数秒沈黙し、それから静かに言った。

「半月前に澪と入籍したんだ。彼女の両親がかなり年上の男との結婚を強要してきて……彼女をそんな目に遭わせたくなくてさ」

綾音はその場に立ち尽くし、氷の中に落ちたような感覚を覚えた。

電話の相手も、彼女も知っていた。

智也の気持ちは単なる「可哀想」なんかじゃないんだ。

彼は彼女に対する想いを今も捨てきれていないのだ。

六年もの歳月をかけて、ようやく願いが叶い、愛する人と末永く一緒になれると思っていたのに。

だが結局、彼女は智也の心の中に、最初から存在していなかった。

市役所も偽物、結婚証明書も偽物――

六年間の愛も、すべてが偽物だったのだ。

なんと哀れで、なんと滑稽なのだろう。

智也が既に朝倉澪と結婚しているのなら、彼女がここにいて恥をかく必要もない。

彼女のこれからの人生に、智也の姿は存在しないのだ。
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第1話
「篠原さん、この結婚証明書は偽物です……」窓口の職員は、篠原綾音(しのはら あやね)を見つめながら、どこか同情の色を浮かべていた。「それに、システムによると、一ノ瀬智也(いちのせ ともや)さんは半月前に朝倉澪(あさくら みお)という女性とすでに婚姻届を提出しています」六年間付き合ってきた恋人が、彼女に何も告げず、ずっと好きな初恋の子とひそかに結婚していた――その事実を聞いても、綾音はさほど驚かなかった。「わかりました。お手数をおかけしました」そう言うと、彼女は偽造の結婚証明書をカバンにしまい、サングラスをかけてその場を立ち去った。市役所の前で、彼女は先輩にメッセージを送った。【先輩、私も一緒に海羽市へ行って起業します】あちらは忙しいのか、すぐには返信が来なかった。綾音はスマートフォンをポケットにしまい、通りかかったタクシーに乗り、運転手に一つの住所を伝えた――日が暮れる頃になって、ようやく疲れ切った身体で家へ戻った彼女が鍵を取り出した瞬間、背後から「ピン」というエレベーターの音がした。智也がエレベーターから現れ、笑顔で声をかけてきた。「綾音、どこ行ってたの?」彼の笑顔を見て、綾音は一瞬、言葉を失った。「私たちが婚姻届を出した場所に行ったわ。記念写真を撮り直そうと思ったけど、そこは更地になってたの。理由、知ってる?」そう言いながら、彼女は一瞬たりとも目をそらさず、彼の顔に罪悪感の色が浮かぶのを探した。だが、智也は一瞬だけ動揺したものの、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。「きっと場所を間違えたんだよ。結婚証明書はちゃんと手元にあるし、写真ならまた今度でもいいだろ?君の好きなマカロンを買ってきたんだ。新作みたい。あとで食べてみて、気に入ると思うよ」そう言いながら、彼は手にした紙袋を彼女に渡し、ドアを開けてバスルームに向かっていった。綾音は視線を落とし、力なく口元を歪めた。「一ノ瀬智也、私たちに『これから』なんて、もうないわ」彼女は黙って書斎へ入り、偽の結婚証明書を金庫に戻した。三日前、結婚証明書を受け取った時、智也は彼女にちらっと見せただけで、すぐ金庫にしまい込んだ。当時の彼女は、彼が結婚を大切に思ってくれているのだと、甘く考えていた。だが、昨夜――水を飲みに起きた彼女
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第2話
智也のスマートフォンが、リビングのテーブルの上で突然鳴り出した。静まり返った部屋に、彼が特別に設定した専用着信音がひときわ響いた。綾音は一瞬ためらったが、やはりテーブルへと足を運ぶことにした。しかし、テーブルにたどり着く前に、蒸気をまとった人影が突然彼女にぶつかってきた。鋭くとがったテーブルの角にすねを思いきりぶつけ、激しい痛みに目頭が熱くなった。だが、すべての元凶である智也は、それにまったく気づいていなかった。彼はスマートフォンをつかむと、さっさと浴室へと戻っていった。綾音は痛みに耐えながら、足を引きずるようにしてソファへと向かった。ようやく腰を下ろしたそのとき、浴室の中から聞こえてきたのは、緊張を隠せず、それでも無理に落ち着いた優しい口調で、誰かを宥めている声だった。「怖がらないで、部屋の中に隠れてて。今すぐそっちに行くから」綾音の胸の奥に、じわじわと苦しさが込み上げてきた。六年間付き合ってきた彼は、彼女の前では常に冷静で理性的だった。でも、たった一本の電話でこれほど慌てふためく姿を見たのは、初めてだった。結局、彼は冷めた性格なんかじゃないわ。ただ、私には愛がなかっただけ。智也は焦った様子で浴室から出てきた。彼女の横を通り過ぎる時も足を止めることなく、ただ「会社で急用ができた。待たなくていいよ」と一言だけを言い残した。でもそんな彼は気づかなかった。以前なら、彼が出かけるたびにコートを手渡し、「早く帰ってきてね」と声をかけていた綾音が、今日は何も言わず、ただうつむいたままだったことに。綾音はソファに座ったまま、じっと時を過ごした。やがて脚の痛みが和らいできた頃、ようやく立ち上がって寝室へ向かい、荷物の整理を始めた。ずっと前に買ったのに、智也が一度も使わなかったペアマグ。自作したが、まだ渡せていなかったペアリング。二人の結婚式のために編んだ同心結。丁寧に一筆一筆描いた二人の似顔絵。それらすべてを、彼女は一切の迷いもなくゴミ袋に詰め込んだ。まる二時間かけて、部屋は半分が空っぽになった。綾音がほっと一息ついたその時、スマホが鳴り響いた。先輩の興奮した声が電話越しに飛び込んできた。「綾音ちゃん!今海外出張中なんだけど、起きたら君からのメッセージを見て本当に嬉しかったわ!
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第3話
智也の視線が、ずっとテーブルの上に留まっているのを見て、綾音は口にしかけた拒絶の言葉をそっと飲み込んだ。彼女はただ、静かにこの家を去りたかった。このタイミングで波風を立てるつもりはなかった。だから、彼女は何事もなかったかのように穏やかに言った。「早く休んで。明日は写真を撮りに行くんでしょ?」普段と変わらない綾音の表情を見て、智也もそれ以上は深く考えなかった。二人はそれぞれの想いを抱えたまま、背中合わせに眠りについた。翌朝、綾音は重たいゴミ袋を引きずるように持ち出し、階下のゴミ置き場に捨てようとしていた。すると、智也が自らそれを受け取り、不思議そうに聞いてきた。「なんでこんなに重いの?何が入ってる?」そう言いながら、彼は片手で袋の口をいじり、開けようとする仕草を見せた。綾音は思わずその手を押さえた。「いらないものばかりよ」ちょうどそのとき、エレベーターが到着した。その一瞬のやり取りで興味を失ったのか、智也はそれ以上追及することもなく、袋をそのままゴミ箱に投げ入れた。そんな彼を見て、綾音の心は少し軽くなった気がした。写真スタジオに到着すると、スタッフが撮影用の衣装を選ぶよう案内してくれた。目の前に並ぶさまざまなウエディングドレスを見て、綾音は「他にもっと普通の服はないか」と尋ねようとしたそのとき、智也はある一着のドレスの前で足を止めた。「綾音、これにしよう。前にこういうデザインが好きだって言ってたよね?」彼の言う華麗なドレスに、綾音は一瞬驚いた。半月前、彼女は確かに似たようなデザインのドレスを彼にシェアしたことがあった。もし――もし彼女がまだ朝倉澪の存在を知らなかったら、今ごろきっとその「覚えていてくれたこと」に、涙が出るほど感動していたはずだ。でも今は、何の感情も湧いてこなかった。選び直す気力もなく、彼に合わせる形でそのドレスを選んだ。数分後、スタッフが彼女の長い裾を整えながら、にこやかに話しかけてきた。「篠原さん、きっとお二人はとても仲が良いんですね。彼氏さんが選んだこのドレス、本当にお似合いですし、きっと写真の仕上がりも素敵になりますよ!」その言葉が終わらないうちに、別のスタッフが気まずそうに部屋へ入ってきた。「一ノ瀬様からお伝えがありまして……会社の急な用件で、今日は
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第4話
壁には、巨大なウェディングフォトが飾られていた。ビスチェドレスを着た澪が、智也の胸元にぴったりと身を寄せていた。二人の鼻先は触れ合い、まるで長年愛を育んできた恋人同士のように見つめ合っていた。そのとき、リビングから智也が追いかけてきた。「綾音、客室で休んでくれないか。澪は体が弱くて、この部屋は日当たりもいいから……俺の判断でここに泊まってもらうことにしたんだ……」言いかけたその瞬間、彼の視線が壁のウェディングフォトにとまった。一瞬動揺し、間を置いてようやく口を開いた。「この写真は……彼女の家族の無理な結婚の押し付けに対処するために撮っただけだ」結婚届は「助け」のため、ウェディングフォトは「対処」のため。冷たい目で彼を見つめる綾音を前に、智也の心には妙な焦りが生まれ、思わず彼女の腕に手を伸ばした。「綾音、誤解しないで。俺はただ……」だが次の瞬間、綾音は彼の手をすっと避けた。「触らないで」六年間付き合ってきて、彼女が初めて見せた拒絶の姿勢だった。智也の胸が、ズキリと痛んだ。何か言おうとしたそのとき、突然、澪が泣きそうな顔で部屋に駆け込んできた。「篠原さん、智也さんと喧嘩しないでください。悪いのは私だわ……私が引っ越してきたせいでご迷惑をおかけして、本当にすみません……すぐに出ていくから……」その言葉に、智也は慌てて彼女の前に立ちふさがった。「君は関係ないよ……」すると、澪の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「智也さんはもう十分すぎるほど私を助けてくれたよ。私のせいで篠原さんが不快な思いをするなら、それはきっと私の過去の過ちに対する罰なんだ。私はもう……運命を受け入れるわ……」涙に濡れた彼女の目と、未練がましいまなざしが、智也の心を深く刺した。彼は優しく彼女の肩を抱きながら言った。「心配するな。俺がいる限り、誰も無理やり結婚させたりしないさ。綾音だって怒ってるわけじゃない。どこにも行かなくていい。ここにいてくれ」その様子を見ていた綾音は、かすかに口角を引き上げた。「……そうね。私が怒る理由なんてないもの。どうせ、ここはもうあなたの家になるんでしょうから」そう言い捨て、彼女は寝室を出て行った。澪はすすり泣きながら、「篠原さん……まだ怒ってるんでしょうか……」と弱々しくつぶやいた。
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第5話
寝室の床は、見るも無惨なほど散らかっていた。薬を飲んだ綾音は、自分の荷物をまとめて客室に移った。床に散らばったガラスの破片の横を通り過ぎたとき、彼女はふと足を止め、しゃがんで写真の一枚を拾い上げた。それは彼女と智也が一緒に写った、唯一にして最後のツーショット写真だった。前回荷物を整理していたときには、どう処分すべきか決めかねていたが、まさか澪が決めてくれたとは、思ってもみなかった。綾音は唇の端をわずかに引き上げると、写真をビリビリに破ってそのままゴミ箱に投げ入れた。その夜、智也は帰ってこなかった。翌朝五時、キッチンから聞こえる音で綾音は目を覚ました。眠そうにキッチンに現れた彼女を見て、智也の目に一瞬だけ罪悪感の色が走った。「起こしちゃった?澪、昨夜あまり食べてなかったから、海鮮のお粥を作って持っていこうと思って。君も温かいうちに一杯どう?」綾音は、土鍋の中でぐつぐつ煮えているお粥を黙って見つめていた。澪が何年もいなくなっていても、智也は彼女の好みやアレルギーを今でも鮮明に覚えている。それに対して、六年間も毎日一緒に過ごした自分のことはどうか。彼女は昨日、自分が甲殻類アレルギーだと明言したばかりだった。だが彼は、まるで聞いていなかったかのような態度だった。それどころか、彼は料理ができるという事実すら、綾音は昨夜まで知らなかった。――愛する人と、愛されない人。その違いは、ときに一目で分かるほど明確だ。「食欲ないから、私の分は要らないわ」淡々と言い残し、彼女は寝室へ戻ろうとした。だがその背に、智也の声が追いかけてきた。「綾音、昨夜は澪が怪我して、俺もちょっと取り乱して……口を滑らせてしまったんだ。本気で気にしないでくれよ……」綾音は穏やかな表情で小さく頷いた。「うん、あのときは緊急だったから、理解してるよ」彼女のあまりにあっさりとした態度に、智也は少し驚いた。眉を伏せた彼女の顔を見て、胸の奥にちくりとした痛みが走った。「最近、ちゃんとデートもしてなかったし……澪のことが落ち着いたら、旅行でも行こう。気分転換に」綾音は軽く返事をした。どうせ、数日後にはこの家を出ていく身なんだから。肯定しても、否定しても、もう関係のない話だ。……三日後。友人とショッピングを終えて帰宅すると、思いが
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第6話
智也の体がぴたりと固まった。まるでこのとき初めて、綾音の存在を思い出したかのようだった。何かを言おうと口を開きかけたそのとき――「私は彼らの友人です」綾音は落ち着いた声で先に言った。その言葉に、智也は複雑な表情で彼女を見つめた。しかし、隣にいる澪に気を遣ったのか、結局それ以上は何も言わなかった。他の同級生たちは違和感を覚えつつも、深く詮索することはせず、綾音を席に招き入れた。久しぶりに顔を合わせた旧友たちは、時間を忘れてあらゆる話題に花を咲かせながら盛り上がっていた。智也は談笑しながら、自然な仕草で澪に料理を取り分け、彼女の嫌いなパクチーをそっと取り除く気遣いまで見せていた。一方、綾音は隣に座りながら、静かに「友人」という役を演じ続けていた。宴もたけなわの頃、彼女は一度トイレに立った。戻ってくると、個室の扉の前で中から聞こえる声に足を止めた。「智也、お前正直に言えよ。澪が留学してたあの数年……他の女を好きになったこと、あるだろ?」室内が一瞬で静まり返った。全員が彼の答えを待っていた。沈黙の中、彼の隣に座っていた澪が、先に口を開いた。「もう、みんなやめて……私が何年も海外にいたんだもの。智也さんが他の人を好きになったって、不思議じゃないよ……」そう言いながらも、彼女の目はうるみ、笑顔にもどこか痛々しい陰があった。その姿を見た智也の胸に、チクリとした痛みが走った。小さくため息をつくと、優しく彼女の背をなでながら囁いた。「ないよ。俺は……他の誰かを好きになったことなんて、一度もないよ」その瞬間、澪の表情はぱっと明るくなり、恥ずかしそうに彼の胸元に顔を埋めた。それを見た周囲から、歓声と冷やかしの声が飛び交った。個室の扉の外に立っていた綾音は、彼らの盛り上がりを邪魔する気になれず、そのまま一人でタクシーを拾って帰宅した。数時間後、智也は酒に酔った澪を抱きかかえて帰ってきた。そっと彼女をベッドに横たえると、彼女の白く細い腕が、ふわりと彼の首に巻きついた。「智也さん、行かないで……もしあのとき私が勝手に留学なんかしてなかったら、篠原なんて現れなかったんだよね……今結婚届を出したのは私なんだから、私たちこそ本当の夫婦でしょ?私を置いていかないで……」その言葉を聞いた智也の動きが、一瞬
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第7話
「同窓会で、君が自分はただの友達って言ったことも。俺が澪にキスされても何の反応もなかったことも。それに、俺に彼女の面倒を見てあげてって言ったことも……綾音、俺は君の彼氏だよ?どうして俺を、他の人に押し付けるの?」智也の問いに、綾音は数秒間沈黙した。すべてを打ち明けようと口を開きかけた、その時だった。寝室から突然、澪の悲鳴が響いた。智也の表情が一変し、何のためらいもなく寝室のドアを開けて駆け込んだ。ベッドの上で震える澪は、裸足のまま駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。「あの変態が……私を捕まえにきたの!智也さん、怖いよ……一人にしないで、お願い、どこにも行かないで……」その言葉が終わる前に、智也は彼女を抱き上げ、優しい声で囁いた。「大丈夫、俺がいるよ。誰にも君を傷つけさせない。二度と君を離したりしない……」澪は彼の肩に顔を埋め、綾音に向けた視線には、さっきまでの酔った様子など微塵もなく――明らかな挑発が込められていた。だから、智也。これが、答えなんだよ。私があなたを「押し付けた」んじゃない。あなたが、自ら彼女を「選んだ」んだ。何度も何度も、朝倉澪を。この夜、智也は澪のそばに一晩中付き添っていた。綾音は、もう何も気にしなかった。ちょうどその頃、先輩が予定より早く出張を切り上げ、明後日には帰国して彼女を迎えに来てくれることになった。その知らせに、彼女の心は少し軽くなった。翌朝、綾音が朝食をとっていると、智也のスマホがダイニングテーブルに置き忘れられているのに気づいた。画面いっぱいに仕事のメッセージが並んでいるのを見て、彼女は少し考え、スマホを持って主寝室の前へ向かった。だが、ノックしようとしたそのとき、扉が開いた。「篠原さん、昨夜智也さんはずっと私の面倒を見てくれて、まだ休んでるの。だから今は起こさないでね」そう言って澪はわざと襟を引っ張り、首筋に浮かぶ赤い痕を綾音に見せつけた。綾音は冷静な表情のまま、スマホを彼女の手に押し渡した。「じゃあ、彼に渡しておいて」背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、澪が彼女の腕を強く引いた。「ほんと、図々しいにも程があるわ。智也は最初からあなたなんか愛してないの。本当のこと、教えてあげるわ。私たちは、ただウェディングフォトを撮っただけじゃなく、婚姻届
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第8話
電話のコール音が何度も響き、切断される寸前、ようやく繋がった。「一ノ瀬智也、今すぐ朝倉澪を連れてこい。15分以内に彼女を連れて来なければ、お前の彼女にはもう二度と会えないと思え!」綾音の首元に突きつけられたナイフを見て、智也の顔色が一瞬で青ざめた。「彼女に手を出すな!お前は今どこにいる、すぐに行く!澪、佐藤明人(さとう あきと)が綾音を拉致した、彼に彼女を傷つけないよう頼んでくれ!」カメラが揺れ、画面の中に現れたのは澪の顔だった。「……明人?」ナイフを持つ男は彼女を貪るように見つめた。「そうだ、俺だよ、澪。お前は結婚してくれるって言ったじゃないか……俺はお前のために全てを捨てたんだ。だから、俺を捨てないで……」感情が高ぶった男の手元が揺れ、ナイフが綾音の首をかすめ、血がにじんだ。彼女は思わず痛みに声を上げた。その光景に、智也の心臓が一瞬止まりそうになった。「彼女に触れるな!綾音、怖がらないで、今すぐ助けに行く!」画面越しに必死な彼の表情を見て、綾音の目に涙が滲んだ。唇を噛みしめ、泣かないよう必死にこらえていた。しかし――その次の瞬間、澪の冷ややかな言葉が彼女の心を凍らせた。「智也さん、そんなに焦らないで。あの男は佐藤明人なんかじゃないよ。篠原さん、私と智也さんの間本当何もないのよ……本気でこんな茶番までして、彼の気持ちを試す必要は本当にある?」その言葉に、智也の眉間に皺が寄り、迷いが浮かんだ。綾音の心は、あっという間に深い奈落へと落ちていった。「……私、演技なんかしてないよ。智也、お願い、一度でいいから、私を信じて……一度だけでいいから……」命の危険すら感じるその状況で、綾音は首のナイフを気にすることも忘れ、ただ必死に彼に懇願していた。だが澪は、あきれたようにため息をついた。「ねえ、もう智也さんを責めるのをやめてよ。私が出ていけば、篠原さんもこんなことしないんでしょ?」――その瞬間、智也の表情が完全に冷え切った。「綾音、くだらない芝居に付き合ってる暇なんてない。仮に君が本当に拉致されたとしても、俺は澪を手放さないよ!」その言葉を残し、彼は電話を一方的に切った。スマホの画面を見つめながら、綾音は呆然としたまま動けなくなった。まるで氷の海に突き落とされたように、全身が冷たく凍
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第9話
一方その頃、病室では――窓の外は次第に暗くなり始め、智也はなぜか胸騒ぎを感じていた。その異変に気づいた澪は、一瞬だけ表情を曇らせた後、わざとらしく目を潤ませながら、わざとらしく弱々しく訴えた。「智也さん、今夜はここにいてくれない?……一人でいるのが怖いの。お願い、置いて行かないで……」そう言って彼女はすすり泣き始めた。まるで可憐な花が雨に打たれているかのようだった。その涙を見た智也は、反射的に頷きそうになった。だが口を開こうとした瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、綾音の青ざめた顔と、拉致されたとき、彼女の痛みに耐えて潤んだ目だった。なぜだろう、胸が針で刺されるようにチクチクと痛んだ。彼は眉間にしわを寄せ、澪の申し出を断った。「佐藤のやつはもう捕まった。だからもう心配しなくていいよ。綾音は今回の件で大きなショックを受けた。そばにいてやらなきゃ……もう遅いし、今日はゆっくり休んで。明日また来るから」その言葉に、澪の泣き声はぴたりと止まった。彼女は急いで彼の腕を掴み、無理に笑顔を作った。「わ、私も一緒に行ってもいい?篠原さんが拉致されたのは、私にも責任があると思うし……ちゃんと謝りたいの」智也がなぜ急に態度を変えたのか、彼女にはわからなかった。だが、今は何があっても彼と綾音を二人きりにさせるわけにはいかなかった。智也は特に疑うこともなく、彼女の申し出を受け入れた。なぜか、彼の胸にはずっと説明できない不安が渦巻いていた。とにかく、今すぐ綾音に会いたい――それだけが頭の中を支配していた。彼は急ぎ足で廊下を進みながら、遠くから声をかけた。「綾音、戻ったよ。今夜は何が食べたい?すぐに買ってくるよ……」だが――病室のドアを開けた瞬間、智也の顔から笑みが消えた。そこには誰もいなかった。「……綾音?篠原綾音?」信じられないというように彼は部屋へ駆け込み、彼女の名を必死に呼んだ。その騒ぎを聞きつけた隣の病室の看護師が顔を出した。「篠原さんは午後にはすでに退院されましたよ。あまり大声を出さないようにお願いします、他の患者様のご迷惑になりますので」その言葉に澪は内心で歓喜しつつも、表向きは困ったように肩をすくめた。「篠原さん、きっとまだ私のこと怒ってるんだよ……智也さん、私、本当にあの人が佐藤明人だっ
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第10話
言い終える間もなく、智也は勢いよく澪の手を振り払った。「俺は今すぐ綾音を探しに行くよ。これ以上、俺の足を引っ張らないでくれ」「それから――君は退院したら実家に戻ってくれ。あと、なるべく早く離婚届を出しに行こう」そう言い残すと、彼はもう何もかも振り切るように駆け出し、階段を飛び降りるようにしてタクシーに飛び乗った。車中、智也は狂ったように綾音の番号を何度も何度もかけ続けた。だが、返ってくるのは決まって冷たい自動音声だった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため……」彼はまだ希望を捨てきれなかった。綾音のスマホの電池が切れただけ、そうに違いない。きっと家に戻れば彼女に会える。今ならまだ間に合うんだ。「運転手さん、もっと飛ばしてください!」彼は何度もそう叫んだ。だが家のドアを開けた瞬間、彼はその場に凍りついた。見慣れたはずのリビングは、どこかよそよそしく、そして、空虚だった。ソファの上の綾音のクッションとひざ掛け。テーブルの上にいつも置いていた陶器のマグカップ。キャビネットに飾ってあった、彼女が大事にしていたフィギュアたち。彼女に関するものがすべて、なくなっていた。智也はふらつくようにキャビネットの前まで行き、震える手で扉を開けた。そこには、本来ならば綾音が二人の結婚のために準備していたものが収められていた。彼女が編んだ同心結、丹念に描かれた二人の似顔絵。どれも、彼女の結婚にかける想いそのものだった。しかし、何ひとつ残っていなかった。彼は必死に家中を探し回った。もしかしたら、どこか別の場所にしまっただけかもしれない。そう自分に言い聞かせながら――だが、探せば探すほど、胸のざわめきは増していった。ほんの数日で、綾音の存在はこの家から跡形もなく消されていた。代わりに目に入ってくるのは、家中に散らばる澪の私物だった。そして――主寝室のドアを開けた瞬間、彼は息が詰まるのを感じた。壁に巨大なウェディングフォトが、飾られていた。「違う……こんなの、違う……」ここは――本当は、綾音と二人で築いた家だったのに。その瞬間、ようやく彼は理解した。あの日、綾音がこの写真を見た時、どんな思いを抱いたのかを。でも、すべてが遅すぎた。綾音は、もういない。
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