تسجيل الدخول桐ヶ丘――。
山と川に囲まれたこの街は、静かで穏やかな地方都市だ。駅前には昔ながらの商店街と、少し場違いなほど立派な図書館。休日になれば、子供たちの笑い声と、年配の人たち の世間話がそこかしこで聞こえる。 便利すぎるわけじゃないが、不便でもない。そんな、よくある住みやすい街。 けれど、この街には一つだけ特別があった。 ――桐ヶ丘学園。 桐ヶ丘学園は、長い歴史と伝統を誇る、落ち着いた学び舎だ。その入学は非常に狭き門で、全国から優秀な生徒が集まる難関校として知られている。ここに合格するだけでも称賛の対象となり、卒業すれば桐ヶ丘ブランドとして社会的な評価を得られる――そんな学校である。整備された校舎には、現代的な設備と歴史的な趣が調和しており、生徒たちはその環境の中で、のびのびと日々を過ごしている。 教師と生徒会は、互いに信頼と責任を持って学園を支え合う存在だ。生徒会が行う自治活動も活発で、教師陣との連携は良好そのもの。生徒の手でより良い学園を作るという理念が、しっかりと根付いている。 旧校舎や理科室のように、⻑い歴史を感じさせる場所も点在しているが、それもまた、この学園の⼀つの魅力として生徒たちに親しまれていた。 穏やかな時間が流れ、誰もが当たり前のように平穏を享受している――。ここには、不安や恐れなど存在しない。 桐ヶ丘学園は、誰もが口を揃えて居心地の良い学校だと言うだろう。少なくとも、表向きは。 ――推理部。 この閉ざされた世界の中で、俺たちだけが自由に真実を追いかける部活。 くだらない噂も、誰かが隠した秘密も、時には教師の不祥事すらも――俺たちの前では隠し通せない。 そんな日々の中で、あの事件が始まった。 六月の風が、湿り気を帯びて肌にまとわりつく昼下がり。桐ヶ丘学園は、どこにでもある普通の高校に見えていた。 チャイムが鳴り響き、昼休みの喧騒が一気に広がっていく。廊下には生徒たちの笑い声、購買のパンを巡る小競り合い――どこにでもある普通の高校の風景だ。 そんな日常の中、俺――朝倉悠真(あさくら ゆうま)は鞄を肩に引っかけながら歩いていた。 桐ヶ丘学園二年生。 そして、この学園でも少し風変わりな存在、「推理部」の部長をしている。 校則違反の調査依頼から、教師の失せ物探しまで――探偵ごっことも揶揄されるが、俺たちなりに忙しい毎日を送っている。 「悠真、ぼーっとしてんじゃねぇよ。昼飯逃すぞ?」 背後から軽快な声が飛んできた。 振り返るまでもなく分かる――早瀬陸(はやせ りく)だ。 陸は、俺とは対照的な性格をしている。明るく、行動力があり、空気を読まない冗談を平気で飛ばす。そのわり妙に人懐っこく、誰とでも自然に打ち解けるのだから不思議だ。 茶色がかった髪は軽く跳ね、寝ぐせなのかスタイリングなのかは判別しづらい。制服もネクタイは緩められ、シャツの袖はラフにまくり上げられていた。きちんとした着こなしとは言いがたいが、それがかえって彼らしい気安さを生み、周囲には不思議と嫌味に映らない。 ……そして、ふざけたように見えて、いざという時には誰よりも頼れる男だ。だから俺は、彼のそういうところを信頼している。 「ああ……わかってる……。それにしても、澪が弁当なんて珍しいな」 俺がそう言うと、陸はニヤリと笑う。 「そこなんだよ。あいつが用意したってだけで事件レベルだろ?」 その事件レベルの本人――桐島澪(きりしま みお)は、俺たちの少し前を淡々と歩いていた。 澪は、黒髪のセミボブをきれいに整えた、小柄でスリムな体格の少女だ。表情は常に抑えめ、余計な感情を表に出すことはほとんどない。そのせいか、何を考えているのか読めないようなクールな眼差しが印象に残る。 この日も、片手にはタブレット、もう片手にはきちんと詰められたコンパクトな弁当箱を持っていた。 動作には一切の無駄がなく、どこか静かな機能美すら感じさせる。その表情もまた、いつも通り淡々としていて、わずかなまつげの動きだけが彼女の思考の深さを物語っていた。 「……効率重視。それだけ」 澪は俺たちの会話を聞きながらも、淡々と答えた。 感情を挟まず、必要だからやる――そんな姿勢が澪らしい。 だが俺は知っている。この無愛想な合理主義者が、時折見せる仲間思いな一面を。 陸が肩をすくめながら笑った。 「ま、澪が用意してくれるなんてありがたく頂かないとな。毒は入ってないよな?」 「入れたら、まず陸に食べさせる」 澪が即答する。 「ひでぇ!」 俺は二人のやり取りに苦笑しながら、歩調を合わせた。 この何気ない日常――陸の軽口と、澪の冷静なツッコミ。三人のこの空気が、俺は結構気に入っている。 俺たちは新校舎の隅にある部室棟へと向かった。 正式な文化部でもなく、かといって廃部にされるほどでもない。そんな絶妙な立ち位置の推理部は、この校舎の片隅にひっそりと居場所を持っていた。 扉を開けると、四畳半ほどの狭い部室。机と椅子、それにホワイトボードと資料棚があるだけの質素な空間だ。 でも、この場所が俺たちにとっては心地いい。 「で、今日の議題は?」 陸が弁当を広げながら尋ねる。 「いつも通り、依頼待ちだな。最近は教師の落とし物探しばかりだ」 俺は椅子に座り、適当にペンを回しながら答えた。 澪はタブレットを操作しながら呟く。 「今週の依頼はゼロ。つまり暇。……だけど、情報整理はしておく」 「ホント、働き者だな、澪は」 「陸も少しは見習え、副部長だろ?」 「……言っとくけど、俺がいないとこの部活、地味な作業だけで終わるからな?ちゃんと盛り上げ役ってのが必要なんだよ」 「はいはい」 そんな他愛ないやり取りが、いつもの俺たちの日常だった。「……君のお姉さんは、佐倉美月先輩だったかな? 三年の……先月、自殺したって……」 俺の声は、少しだけ固くなっていた。佐倉は首を振る。 「違います。姉は自殺なんかしてません。誰かに殺されたんです」 その瞳には、確信に満ちた光が宿っていた。 沈黙が落ちる中、陸が慎重に口を開く。 「警察は、事件性なしって判断したんだろ? 屋上からの飛び降り……状況証拠も揃ってたって」 「……そうです。でも、おかしいんです。姉は最後の一週間、別人みたいに無口で……スマホの中身は全部消されていました。それに……屋上に行けるはずがないんです。鍵が必要なのに……」 澪が冷静に問いかける。 「お姉さんは鍵を持っていなかった?」 佐倉は、小さく頷いた。 「姉は……鍵を持っていませんでした……だけど屋上の鍵は空いていたんです……」 「佐倉さん……」 続きを言いかけたとき、彼女が静かに口を開いた。 「……あの、わたしのほうが後輩なので、呼び捨てで構いません」 言い切る声は小さかったが、どこかはっきりしていた。 彼女の性格が、少しだけ見えた気がした。 「わかった、改めて——佐倉、そのことを……他に知っている人間は?」 俺が慎重に問いかけると、佐倉はわずかに首を傾け、考えるように視線を落とし答える。 「他には……誰にも伝えていません。知っているのは、警察の方と……私たち家族だけだと思います」 その言葉に俺は小さく頷いた。 「……なるほど」 彼女は机の上にノートをそっと置く。 「これが、家にあった姉のノートです。最後のページに、これが……」 俺たちは身を乗り出して覗き込む。 そこには、震えるような文字でこう書かれていた。 ——『知恵を絡め取る蒼き影。その牙の奥に、扉を開く手がかりは眠る。』——。 陸がノートを覗き込み、頭をかきながら視線を彷徨わせる。 「……これ、暗号なのか?」 疑念と興味が入り混じった声だった。 「あるいは、何かの隠し場所を示すサインかもね」 澪はタブレットを操作しながら返す。 「どちらにせよ、普通のメモじゃないことは確か……」 「いやいや、そもそも俺たちに依頼するレベルの話か?」 陸が顔を上げ、佐倉に視線を向ける。 「これがマジで殺人絡みなら、警察案件じゃね?」 その言葉に、佐倉
チャイムが鳴り、校舎に放課後の空気が広がる。 授業を終えた生徒たちの声が、廊下を賑やかに満たしていく。 部室の窓を開けると、遠くから生徒たちの話し声がかすかに聞こえ、グラウンドで運動部が声を上げていた。 穏やかな陽射しが差し込むこの部室に――「死」と「嘘」にまみれた事件が舞い込んでくるとは、この瞬間まで、誰も予想しておらず、俺たちはまだ平穏の中にいた。 ――そのはずだった。 陽が傾き始めた部室で、俺たちは他愛もない会話を続けていた。 陸はホワイトボードにいたずら書きをし、澪は無言でタブレットを操作し続ける。 コンコン――不意に部室の扉を叩く音が響いた。 「珍しいな、こんな時間に訪問者か?」 陸が言い、俺が「どうぞ」と声をかける。 ゆっくりと扉が開き、そこに現れたのは、まだ着慣れていない様子の制服姿――胸元には、この学校で一年生を示す明るいグレーのネクタイが揺れていた。 三年生は濃紺、二年生はエンジと、学年ごとにネクタイの色が分けられているなかで、彼女のそれは明らかに見慣れない色だった。 「失礼します……」 澪と同じくらいの背丈の少女は、セミロングの黒髪が肩にかかり、整った制服を着ていた。乱れひとつない身なり。けれど、第一印象は自信のなさだった。どこか不安げに縮こまった立ち姿、内に入り気味の肩。そして、目元にはわずかな影。疲れているのがわかった。 目の下には薄くくまが浮かび、声はどこか震えている。その表情には怯えの色が混じりつつも、どこかに決意のようなものが宿っていた。 今にも崩れそうな儚さと、それでも踏みとどまろうとする意志――その矛盾が、彼女という存在の輪郭を際立たせていた。 「ご用件は?」 俺が声をかけると、少女は深く頭を下げた。 「一年の……佐倉優衣(さくら ゆい)です。お願いがあって……ここに来ました」 その名前に、澪の指が止まる。 「佐倉……?」 陸も眉をひそめた。 「君は……佐倉美月先輩の妹か?」 佐倉は静かに頷き、鞄から一冊のノートを取り出した。 「姉の死の真相を……調べてください」 その言葉に、部室の空気が一変する。 陸そして澪も、一瞬だけ動きを止めた。俺は佐倉の震える声を聞きながら、頭の奥であの日のことを思い出していた。 ——桐ヶ丘学園に、重たいニュー
桐ヶ丘――。 山と川に囲まれたこの街は、静かで穏やかな地方都市だ。駅前には昔ながらの商店街と、少し場違いなほど立派な図書館。休日になれば、子供たちの笑い声と、年配の人たち の世間話がそこかしこで聞こえる。 便利すぎるわけじゃないが、不便でもない。そんな、よくある住みやすい街。 けれど、この街には一つだけ特別があった。 ――桐ヶ丘学園。 桐ヶ丘学園は、長い歴史と伝統を誇る、落ち着いた学び舎だ。その入学は非常に狭き門で、全国から優秀な生徒が集まる難関校として知られている。ここに合格するだけでも称賛の対象となり、卒業すれば桐ヶ丘ブランドとして社会的な評価を得られる――そんな学校である。整備された校舎には、現代的な設備と歴史的な趣が調和しており、生徒たちはその環境の中で、のびのびと日々を過ごしている。 教師と生徒会は、互いに信頼と責任を持って学園を支え合う存在だ。生徒会が行う自治活動も活発で、教師陣との連携は良好そのもの。生徒の手でより良い学園を作るという理念が、しっかりと根付いている。 旧校舎や理科室のように、⻑い歴史を感じさせる場所も点在しているが、それもまた、この学園の⼀つの魅力として生徒たちに親しまれていた。 穏やかな時間が流れ、誰もが当たり前のように平穏を享受している――。ここには、不安や恐れなど存在しない。 桐ヶ丘学園は、誰もが口を揃えて居心地の良い学校だと言うだろう。少なくとも、表向きは。 ――推理部。 この閉ざされた世界の中で、俺たちだけが自由に真実を追いかける部活。 くだらない噂も、誰かが隠した秘密も、時には教師の不祥事すらも――俺たちの前では隠し通せない。 そんな日々の中で、あの事件が始まった。 六月の風が、湿り気を帯びて肌にまとわりつく昼下がり。桐ヶ丘学園は、どこにでもある普通の高校に見えていた。 チャイムが鳴り響き、昼休みの喧騒が一気に広がっていく。廊下には生徒たちの笑い声、購買のパンを巡る小競り合い――どこにでもある普通の高校の風景だ。 そんな日常の中、俺――朝倉悠真(あさくら ゆうま)は鞄を肩に引っかけながら歩いていた。 桐ヶ丘学園二年生。 そして、この学園でも少し風変わりな存在、「推理部」の部長をしている。 校則違反の調査依頼から、教師の失せ物探しまで――探偵ごっことも
五月九日、火曜日、夜の校舎。 静まり返った廊下を、少女の影がひとつ、ふらつくように歩いていた。 その手には、屋上の鍵。制服の袖は乱れ、足取りは重い。 まるで誰かに追い詰められたかのように、彼女はただ前へ進むしかなかった。 扉の前で立ち止まり、震える手で鍵を差し込む。 カチリ——と乾いた音が響いた。 *** 佐倉美月の瞳には、既に生気はなかった。屋上の冷たい風が、無言で彼女を迎える。 美月はゆっくりと縁へ向かうが、その背中には、まるで見えない誰かの影が重なっているようだった。 美月は足を止めた。 そして、わずかに振り返る――誰もいないはずの暗闇を、恐れるように見つめる。 その視線は、確かに誰かを意識していた。 次の瞬間、風に押されるように、一歩、前へ。 静寂の中、制服の裾がふわりと舞い上がり、少女の姿は闇に消えた。 *** 屋上の静寂を破ることなく、夜はそのまま更けていく。 だが、校舎の離れた場所では、一つのスマホの画面がぼんやりと光っていた。 そこに表示されていたのは、短いメッセージ。 ——『終わらせます』——。 画面の送り主の名前は表示されていない。 ただ、メッセージを見つめる人物は、ゆっくりと満足げに頷く。 その指先が、もう一つのメッセージを開いた。 ——『これで問題ありませんよね?』——。 その言葉に、誰ともなく小さく笑う声が漏れる。 まるで、すべてが計画通りに進んだことを確認するかのように。 やがて、スマホの画面は消え、闇に溶けていった。 誰が、誰に報告していたのか。 その答えは、まだ誰にも分からない。 ただ一つ確かなのは——。 この夜、佐倉美月が命を落としたという事実だけだった——。 この夜、桐ヶ丘学園は、ひどく静かだった。 わずかに吹き込む風の音と、遠くで軋む窓枠の音だけが響いていた。 そんな静寂の中——。 二つの影が、ゆっくりと校舎を後にする。 一つは、規則正しい足音を響かせながら、迷いのない歩みで進む。 その背中からは、既に終わったことへの満足すら漂っていた。 まるで、全てが予定通りに運んだと言わんばかりに。 もう一つは、足音を殺すように、息を潜めながら進む。 顔を上げたその瞳には、消しきれない痕跡が







