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死んでから、夫は私を愛し始めた

死んでから、夫は私を愛し始めた

By:  東流水木Completed
Language: Japanese
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私・黒井葵(くろい あおい)が死んで、初めて迎えた七日目の夜。 夫の遼(りょう)は、私たち夫婦の寝室で、初恋の相手である瀬島清花(せじま きよか)と情欲に溺れていた。 「これでやっと、あのホステス女の顔を見ずに済む」 念願が叶ったとばかりの、心底せいせいした表情。 妻が死んだことなど微塵も信じていない遼は、私の不在をそう嘲笑った。 ――それなのに。 後になって真実を知った遼は、私の遺品にすがりつき、泣き崩れて懺悔することになるのだ。 「葵……っ!なんで帰ってこないんだよ……!」 ねえ、遼。 すっかり忘れてしまったの? 私はとうの昔に、死に追いやられているのよ。 大切な清花を助けたい一心で、私に無理やり骨髄移植を強要した、あの凍えるような夜に。 私のお腹の中で息づいていた、小さな命と一緒にね――

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Chapter 1

第1話

少しだけふっくらしてきたお腹を、愛おしげに撫でる。

ここには今、愛する夫との間に授かった、小さな命が宿っているのだ。

ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。

ちょうど夫の遼にこの最高のニュースを伝えようとしていた矢先の出来事だった。

結婚して十年。ここまで絶妙なタイミングで帰ってくるなんて、初めてかもしれない。

「遼……!私ね、妊娠したの!」

弾むような声が出た。口元からこぼれる幸せな笑みが止められない。

ドラマのワンシーンみたいに、彼が私を抱きしめて、ぐるぐると嬉しそうに回ってくれるんじゃないか。

そんな甘い妄想すら抱いていた。

けれど――思い描いていた幸せな光景は、一瞬にして打ち砕かれた。

帰宅した遼は、ひどく疲れた様子で眉間を揉みほぐしていた。

その憔悴しきった姿に、私の胸がチクリと痛む。

「葵。――清花が、お前の骨髄を必要としている」

低く、ひどく思い詰めたような声。

隠しきれないその疲労感を見れば、夫が誰のためにそこまで心を砕いているのか、痛いほど分かった。

瀬島清花。

遼がずっと心に棲まわせている、決して手の届かない初恋の女だ。

清花は昔、貧乏だった遼を見下し、金持ちの男を作ってあっさり捨てたはずだ。

それなのに、一体どの面を下げて今更戻ってきたというのか。

思い出してよ、遼……

遼が起業したばかりで、喉から手が出るほど資金を必要としていたあの頃。

私は夜の街に立ち、ホステスとして働いた。

来る日も来る日も客の相手をして、酒を飲み続け、胃潰瘍で血を吐いて倒れたことだってある。

そうやって身を粉にして、ようやく事業資金を掻き集めたのだ。

「お前には、世界一綺麗なウェディングドレスを着せるからな」

あの時、遼は確かにそう誓ってくれたのに。

その後、事業が軌道に乗り、社会的地位を築いた遼は、私に夜の仕事を辞めさせて専業主婦にしてくれた。

言葉にこそしなかったけれど、私に無理をさせてしまったことを遼なりに悔やみ、大切にしてくれているのだと、ずっと信じて疑わなかった。

――なのに。

どうして今更、あの女がしゃしゃり出てくるの?

こみ上げてくる悔しさと悲しみに、私は思わず鼻をすする。

そして、もう一度だけ、すがるように言葉を紡いだ。

「ねえ、聞いてよ。私、妊娠したのよ……?それに、あの女がどれだけ最低な人間か、遼だって知ってるじゃない!」

私の必死の訴えを聞いた瞬間。

遼の顔に、あからさまな嫌悪と苛立ちが浮かんだ。

まるで、私がとんでもない罪でも犯したかのように、冷酷に言い放つ。

「葵、お前はただの元ホステスだろうが。今更、悲劇のヒロインでも気取っているつもりか?いいか、清花にはお前の骨髄が必要なんだ。下らない泣き言を聞いている暇はない」

……え?

私はただ、呆然と目の前の夫を見つめることしかできなかった。

いつだったか、私の手を両手で包み込み、涙ぐみながら言ってくれたじゃないか。

「葵、俺のために夜の世界に入ってくれたこと……絶対に忘れない。どんなことがあっても、お前を蔑んだりなんかしない」

あの優しい誓いは、全部嘘だったの?

「……嫌よ」

結婚して十年、私は初めて遼に逆らった。

自分のためじゃない。このお腹に宿る、愛しい我が子を守るために。

だが、私の拒絶を聞いた途端、遼の纏う空気が氷のように冷え切った。

隠そうともしない苛立ちをぶつけるように、怒鳴りつける。

「葵。今日という今日は、お前がどう泣き喚こうが関係ない。絶対に病院へ連れて行くからな!」

……

再び重い瞼をこじ開けたとき、私は手術台の上にいた。

四肢は冷たいベルトで無残に拘束されている。

ぼやける視界の先に、普段は滅多に見せないような穏やかな笑みを浮かべる遼と、その傍らでわざとらしく体を縮こまらせる清花の姿があった。

「遼さん……麻酔って、体に負担がかからないかな……?私が不甲斐ないせいで、葵さんにこんな辛い思いをさせちゃって……っ」

麻酔!?

無理やり私を気絶させて、ここまで運んだというの?

そのとき、下腹部を抉られるような激痛が走り、私は悲鳴を上げそうになった。ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。

「遼……っ!あか、ちゃん……私の子がっ!痛い……っ、お願い、やめて……!」

私の悲痛な叫びを聞いた清花は、いかにもか弱い被害者のようにふらりとよろめいてみせた。

「ごめんなさいっ……全部私のせいだわ!私が、葵さんを苦しめてる……っ」

今にも泣き崩れそうな彼女を、遼は甘い声で何度も何度もなだめる。その大きな手で、清花の目尻に浮かんだ嘘くさい涙をそっと拭いながら。

「清花。君は悪くない。絶対に君のせいなんかじゃないんだ」

ひとしきり清花を慰めた後、遼はようやくこちらを振り向いた。

結婚してから一度も向けられたことのないような、とろけるほど優しい表情だった。

「葵。医者からは、妊娠なんてしていないと聞いているよ。……だから、少しだけ我慢してくれ」

妊娠、していない?

嘘よ。じゃあ、お腹を引き裂かれるようなこの痛みは一体何?

混乱する私の耳元で、遼は悪魔のように甘い言葉を囁き続ける。

これまで一度も向けてくれたことのない、熱愛中の恋人を溺愛するような声色で。

「さあ、これが終わったら何が欲しい?欲しがっていたものは、何だって買ってやるから」

すぐ目の前にある、愛してやまない夫の顔。

私は薄れゆく意識の中で、どうしようもなく惨めで、ちっぽけな願いを口にした。

「遼……っ。これからも、少しだけでいいから……私を、愛してくれる……?」

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第1話
少しだけふっくらしてきたお腹を、愛おしげに撫でる。ここには今、愛する夫との間に授かった、小さな命が宿っているのだ。ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。ちょうど夫の遼にこの最高のニュースを伝えようとしていた矢先の出来事だった。結婚して十年。ここまで絶妙なタイミングで帰ってくるなんて、初めてかもしれない。「遼……!私ね、妊娠したの!」弾むような声が出た。口元からこぼれる幸せな笑みが止められない。ドラマのワンシーンみたいに、彼が私を抱きしめて、ぐるぐると嬉しそうに回ってくれるんじゃないか。そんな甘い妄想すら抱いていた。けれど――思い描いていた幸せな光景は、一瞬にして打ち砕かれた。帰宅した遼は、ひどく疲れた様子で眉間を揉みほぐしていた。その憔悴しきった姿に、私の胸がチクリと痛む。「葵。――清花が、お前の骨髄を必要としている」低く、ひどく思い詰めたような声。隠しきれないその疲労感を見れば、夫が誰のためにそこまで心を砕いているのか、痛いほど分かった。瀬島清花。遼がずっと心に棲まわせている、決して手の届かない初恋の女だ。清花は昔、貧乏だった遼を見下し、金持ちの男を作ってあっさり捨てたはずだ。それなのに、一体どの面を下げて今更戻ってきたというのか。思い出してよ、遼……遼が起業したばかりで、喉から手が出るほど資金を必要としていたあの頃。私は夜の街に立ち、ホステスとして働いた。来る日も来る日も客の相手をして、酒を飲み続け、胃潰瘍で血を吐いて倒れたことだってある。そうやって身を粉にして、ようやく事業資金を掻き集めたのだ。「お前には、世界一綺麗なウェディングドレスを着せるからな」あの時、遼は確かにそう誓ってくれたのに。その後、事業が軌道に乗り、社会的地位を築いた遼は、私に夜の仕事を辞めさせて専業主婦にしてくれた。言葉にこそしなかったけれど、私に無理をさせてしまったことを遼なりに悔やみ、大切にしてくれているのだと、ずっと信じて疑わなかった。――なのに。どうして今更、あの女がしゃしゃり出てくるの?こみ上げてくる悔しさと悲しみに、私は思わず鼻をすする。そして、もう一度だけ、すがるように言葉を紡いだ。「ねえ、聞いてよ。私、妊娠したのよ……?それに、あの女がどれだけ最低な人
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第2話
これまでは、遼だって少しは私のことを想ってくれていると信じて疑わなかった。でも、清花をあやすあの骨の髄まで甘やかすような態度を見せつけられた今。――もしかして、私は一度だって愛されてなんかいなかったんじゃないか。そんな悍ましい恐怖が、じわじわと胸を蝕んでいたのだ。「……馬鹿なことを言うなよ」鼓膜を震わせる低い声は、これまで聞いたことがないほど情に満ちていた。「俺は、お前の夫だぞ。愛していないわけがないだろう」ああ、よかった……その甘い言葉だけをすがるように抱きしめて、私は泥のような深い闇の中へと落ちていった。……――次に目が覚めたとき。私は、遼の優しい笑顔が見られるのだと本気で信じていた。ふわり、と。自分の体が宙に浮いているような、奇妙な感覚。ふと視線を落とした私の目に飛び込んできたのは、冷たい手術台の上で血の気を失い、ピクリとも動かなくなった自分自身の姿だった。……嘘でしょ?私、死んだの……?手術は無事に成功し、清花は生き延びたらしい。一方の私は――誰にも気づかれない、孤独な幽霊に成り果てていた。守りたかった、愛しい我が子すら道連れにして。まだ形にもなっていない小さな小さな命には、魂さえ宿っていなかったのだろうか。私一人だけが、未練がましくこの世に縛り付けられてしまった。今にして思えば、私の人生の運なんて、遼と出会った瞬間にすべて使い果たしていたのだ。だから冷たい手術台の上で死に絶え、その目で一度も世界を見ることなく逝った我が子を巻き込んでしまった。そう。私の体には、確かに新たな命が息づいていたのに!憎い。私と子どもを殺したあの人殺したちが。平然と真実を隠蔽した、血も涙もない悪徳医者たちが。憎くて、憎くてたまらない!ふと視線を向ければ、病室では遼が愛おしそうに清花の額にキスを落としていた。つい先ほど、私に「愛している」と囁いたことなど、とうの昔に忘却の彼方なのだろう。心臓のあたりが、ギリッと音を立てて痛む。おかしいな。もう死んでいるはずなのに、どうしてこんなに痛いんだろう。そこへ、義母の貴子(たかこ)が血相を変えて病室に駆け込んで来た。ドアの枠に寄りかかって荒い息を吐き、ハンカチで必死に汗を拭っている。……笑ってしまう。私と遼の結婚式
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第3話
ねえ、遼。縁起が悪いって……本気で言っているの?その白い布の下にいるのは、あんたの妻と、あんたの子供なのに!今すぐ飛び出していって、その胸倉を掴んで怒鳴りつけてやりたい。けれど、実体のない私には、ただ見つめることしかできない哀れな傍観者でしかなかった。ストレッチャーを押す医師が遼を引き止め、火葬の費用を支払うよう求めた。すると、真っ先に激昂したのは義母だった。「みなさん、聞いてくださいよ!この悪徳病院、また適当な名目で金を巻き上げようとしてるわ!善良な市民からぼったくる気よ!」そのみっともない金切り声に、遼の眉間がわずかにピクリと動いた。付き合いの長い私には痛いほど分かる。あれは、心底うんざりした時に見せる表情だ。まさか、身内を庇い続けてきた遼が、自分の母親を鬱陶しく思う日が来るなんて。今の遼にとって、火葬代程度の額は端した金でしかない。ただ面倒事を早く片付けたい一心で、ろくに相手の顔も見ず、財布から適当に紙幣を抜き出して医師に押し付けた。誰の火葬代か、なんて気に留めもしないまま。「黒井さん、お待ちください。葵さんが――」当然のように、遼はまたしても医師の言葉を遮った。「あの女のくだらないかまってちゃんアピールに付き合っている暇はない。いい加減にしろと伝えておけ」そう吐き捨てて立ち去ろうとした瞬間。遼の視線が、ストレッチャーのシーツからはみ出した遺体の手に止まった。青ざめた細い指には、結婚した時に遼が買ってくれた、四万円にも満たない安物の指輪が光っていた。私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。どうしようもなく惨めなことだと分かっているのに、心のどこかで卑しい期待が膨らんでしまったのだ。もしかして……あの指輪を見て、私だって気づいてくれるんじゃないか!?だが。「……安っぽい指輪だ」鼻で笑うようなその一言が、私の魂ごとズタズタに切り裂いた。……遼の会社が、創業以来二度目となる大規模な財務危機に陥ったらしい。ちなみに、一度目の絶体絶命の危機をもたらしたのは、他でもない私の父・沢木健一郎(さわき けんいちろう)だった。当時の遼は清花にこっぴどく振られた直後で、私はすかさずその隙に入り込み、プライドも何もかも捨ててホステスとして働き始めた。そんな私の転落ぶりに、実の父は
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第4話
ひとしきり暴れて怒りをぶちまけた後、遼は忌々しげに舌打ちをして、私のスマホに電話をかけた。「……今回だけは、特別に許してやる」一人でぶつぶつと、言い訳がましいことを呟きながら。天井の近くにふわりと浮かんだまま、私はその見苦しい醜態を冷ややかに見下ろしていた。胸の奥底から、どうしようもない苦みが込み上げてくる。ねえ、遼。24時間、いつだってあんたからの着信だけを待ち続けていた私のスマホは……もう二度と、応答することはないのよ。……遼は連日のように接待に追われ、清花からのディナーの誘いを幾度もすげなく断っていた。酒の席に集まるのは食えない狸親父ばかりで、のらりくらりと核心をはぐらかされて、肝心の取引は一向に進まない。「もう十時になりますよ。今日は奥さんから帰れのコールはないんですか?」取引先のひとりが、面白半分にからかってきた。周囲の人間も同調して笑う。遼の妻が、毎晩夜九時きっかりに電話をかけてくる口うるさい「山の神」だということは、この界隈の連中にはすっかり知れ渡っていたからだ。そんな話を聞かされて、空中に浮かぶ私は思わず自嘲気味に笑ってしまった。ええ、そうよ。あんな風に束縛ばかりしていれば、鬱陶しがられて当然だわ。だけど……だからって、お腹の赤ちゃんの命で償わなきゃいけないほど、私って罪深かったの?グラスを持っていた遼の手が、ピタリと止まった。当然あの忌々しい見張り電話を思い出して不機嫌になるかと思いきや……意外なことに、その顔に嫌悪の色は欠片もなかった。「……ちょっと、へそを曲げてるんですよ」ふっと。小さく笑みがこぼれたように見えたけれど、きっと私の見間違いだろう。その後、酒の席はすっかり「妻の機嫌の取り方」のレクチャー大会と化し、仕事の話なんて綺麗さっぱり消え失せてしまった。結局、遼は吐くほどに酒を飲まされ、取引の成果はゼロ。代わりに得たのは、世の夫たちのくだらないノウハウだけ。それなのに、店を出た遼に不機嫌な様子は一切なく、その足取りはどこか軽やかで、あろうことか学生街まで大きく回り道をして、あの有名な甘栗の屋台に立ち寄ったのだ。付き合っていた頃、私が「食べたい」とどれだけねだっても、面倒くさがって絶対に見向きもしてくれなかったあの甘栗を。「葵、ほら。栗
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第5話
忌々しげに私の父を罵る義母の言葉に、私の目の前は激しい怒りで真っ赤に染まった。だが、遼は止めるどころか黙って目を伏せ、義母が父に電話をかけるのをただ黙認したのだ。義母がスピーカー通話のボタンを押した瞬間。幽霊である私の意識は、遠く離れた実家へと引き寄せられた。父の古びたスマホが鳴り響く。その着信音は――私が十八歳の誕生日に、父に向けて無邪気に笑いかけていた時の録音音声だった。まさかお父さんが、あんな古い音声を切り取って、大切に着信音に設定していたなんて。私は胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。遼のために実家と縁を切り、父からの連絡もすべて無視して、この十年間ただの一度も電話をかけなかった親不孝な娘なのに。電話に出た父に向かって、義母は高圧的に言い放った。「葵さんに幸せな結婚生活を送ってほしいなら、今すぐ指定の口座に金を振り込みなさい」親の愛とは、どれだけ踏みにじられても無償で与えられるものなのだろうか。それから間もなくして、父は本当に会社へ大金を振り込んできた。そして、遼のスマホ宛てに、たった一言だけメッセージが届いた。【どうかあの子を、もう少しだけ愛してやってください】画面に浮かんだその不器用な文字を見た瞬間、私はもう堪えきれずに号泣した。この十年間、誰よりも私を想ってくれていた親を、一番残酷に裏切っていたのは私だった。一方の遼は、メッセージを見てさすがに少しは良心が咎めたのか、長い沈黙のあと、私宛てのチャットにボイスメッセージを吹き込んだ。低く、どこまでも傲慢で、命令を下すような響き。【葵。今回は特別に許してやる。お前とちゃんとやり直すことも、考えてやらないでもない】その言葉は、ズタズタに傷ついた私の心に、とどめの銃弾を撃ち込むようなものだった。ここまで人を踏みにじっておいて、何様のつもりでそんな施しを与えるような口が叩けるの?私が死んで初めて迎えた七日目の夜。初七日と呼ばれるその日、遼は持病の胃痛を起こしていた。「葵、いい加減にしろ!いつまで意地を張ってるんだ!」胃のあたりを押さえながら、遼はスマホに向かって怒鳴り声を上げる。ここ数日、遼は会社には行かず、ずっと自宅に仕事を持ち込んで引きこもっていたのだ。そこへ、絶妙なタイミングでチャイムが鳴った。やって
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第6話
きっと私の見間違いだ。あの遼が、私の帰宅を喜ぶはずがないのだから。「遼さん……私、やっぱり帰るわ。葵さんに変な誤解されたくないもの」無反応な遼を見て、清花はさらに揺さぶりをかける。すると遼はわずかに視線を泳がせ、慌てて清花を強く抱きしめ直すと、その額に安心させるようなキスを落とした。「怖がるな。あいつに何かできる度胸なんてないさ」自分が絶対的な優位に立っていると信じ切っているその態度に、幽霊の私でさえはらわたが煮えくり返りそうだった。ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。今度は私の方が固まる番だった。このマンションは、私たちが結婚した年に、父が買ってくれたものだ。娘が嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしないようにと、父が人生の半分をかけて貯めた老後の資金を切り崩してプレゼントしてくれた。だから、合い鍵を持っているのは私と遼、そして父の三人だけだ。私が死んでいる以上、今このドアを開けられるのは――お父さんしかいない!「やめて……っ、お願いだから!」私は無我夢中で、ベッドの上の遼を引き剥がそうと虚空を引っ掻いた。私がどんなに蔑まれようと、もうどうでもいい。でも、たった一人の大切な娘の家で、その夫が別の女とベッドにいるなんて。そんな残酷な光景を、年老いた父に見せるわけにはいかない!「……なんだ、義父さんか」寝室まで踏み込んできた相手の顔を見た瞬間。遼の顔からあからさまに失望の色が広がり、義父に対する敬意など微塵も感じられない冷ややかな声を出した。「葵は……葵はどこだ!!娘を連れて帰る!!よくもあの子をこんな目に遭わせてくれたな!!」父は肩で大きく息をしながら、ベッドにいる遼と清花を震える指で指差した。私はたまらず、父の足元に崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。この数年間、私がどれほど愚かな思い違いをしていたか、今になってようやく気づいたのだ。けれど、生者と死者の間には、決して超えられない壁がある。父に親孝行をする機会は永遠に失われ、それどころか、死してなお父の心をズタズタに引き裂こうとしている。「娘さんが家に帰ってこないことに対して、俺は何も文句を言ってませんよ」長年、人の上に立つ権力者として振る舞ってきた遼は、他人から指図されることなどとうに我慢できなくなっていた。すかさず、傍ら
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第7話
遼の会社は、再び激しい非難の的となり、世間の大バッシングを浴びていた。父が連日のように会社のエントランス前に立ち、「娘の命を返せ」と書かれたプラカードを掲げて抗議し、メディアが面白おかしくこぞって報道したからだ。「何度も言わせるな!いつもの店の弁当に変えろと言っただろうが!」社長室で、アシスタントが理不尽な怒声を浴びていた。あまりの剣幕に耐えきれなくなったのか、アシスタントはとうとう震える声で真実を口にする。「しゃ、社長……っ!以前召し上がっていたお弁当は……奥様が、葵様が手作りされていたものです!もうずっと、奥様はお見えになっていません……!」その瞬間、遼は言葉を失い、押し黙った。忌々しげに手を振り、アシスタントを部屋から追い出す。「……葵。お前は、いつまでこんなふざけた真似を続けるつもりだ」遼はまだ、私が死んだことを信じていない。どこまでも意地を張って、私が当てつけで嫌がらせをしているのだと固く信じ込んでいるのだ。遼は人を介して「一度会って話がしたい」と父に打診したが、当然のように、すげなく一蹴された。「ねえ、遼さん。葵さん……本当に死んじゃったのかな?」清花がわざとらしく上目遣いをしながら、遼の胸にすり寄る。すると、彼女の肩に添えられていた遼の手が、突然ギリッと力を込めて食い込んだ。清花が短く悲鳴を上げる。遼は慌てて力を緩め、取り繕うように適当に清花をあやした。そして、自分に言い聞かせるように呟く。「……ありえない。憎まれっ子世に憚るって言うだろう。それに、俺が生きているのに、あの女が勝手に死ぬわけがないんだ」引きつった笑顔を浮かべるその姿を見て、私はふと、この男が何を考えているのか全く分からなくなった。最近、遼は頻繁に家に帰るようになった。そしてなんと、家までついてこようとした清花を玄関先でシャットアウトしたのだ。「清花、中に入るのはやめておけ。葵がへそを曲げて帰ってこないんだ。……しばらくは、このままにしておこう」清花の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。信じられないといった顔で遼を見つめている。――無理もない。私だって信じられないのだから。あんなに溺愛していた初恋の女を、私のために拒絶しているとでも言うの?清花の返事を聞くこともなく、玄関のドアは無情にも閉じられた。
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第8話
あまりにも突然の凶行に、親族の誰も彼を止めることができなかった。祭壇に飾られていたのは、私が燃やされて残った無残な白い遺骨と、火葬の直前に外された遺品の数々だ。遼は血走った目で花をなぎ払い、遺品のトレイから小さな銀色の輪を拾い上げて、血が滲むほどギュッと握りしめた。――あの時、ストレッチャーからはみ出た私の指にはめられていた、四万円にも満たない安物の結婚指輪だ。ペアになっているもう一つの指輪は遼が持っているはずだが、「こんな安物、恥ずかしくてつけられるか」と鼻で笑い、結婚してからただの一度も身につけたことはなかった。指輪を握りしめたまま、遼は泣いているような、笑っているような異様な顔でその場にへたり込んだ。「……葵、お前は本当に残酷な女だ。まさか死なんていう方法で、俺に復讐するなんて……っ」……葬儀での遼の狂態は、瞬く間にネットで拡散された。それを境に、遼は自宅に完全に引きこもり、一切の面会を謝絶するようになった。――ボリッ、ジャリッ。誰もいないリビングで、不気味な咀嚼音が響く。遼は、かつて自分がゴミ箱にぶちまけた私の作り置きを這いつくばって拾い集め、機械のように口へと運んでいた。一緒に引っこ抜いた観葉植物の泥がベッタリとついているのに、全く気にする様子もなく、ボソボソと虚空に文句をこぼしながら。「葵……どうしてまだ帰ってこないんだよ。俺のメシ、作ってくれよ……」天井付近からその様を見下ろしながら、私はただ困惑するしかなかった。私が死んでからというもの、この男は突然、私を愛し始めたのだ。かつて忌み嫌っていた底辺ホステスは、今や彼の心臓に深く突き刺さり、片時も安らぎを許さない永遠の呪いへと変わってしまったらしい。それからというもの、遼は毎晩のように浴びるほど酒を飲み、とうとう胃穿孔を起こして救急搬送された。それなのに、ストレッチャーの上で激痛にのたうち回りながら、狂ったようにゲラゲラと笑っていたのだ。「あはは……っ、葵……やっと、お前と同じ痛みが分かったよ……!だから、もう帰ってこいよ……っ」顔をぐしゃぐしゃにして、空っぽの虚空に向かってすがるように哀願する。「なぁ、葵……なんで……こんなに飲んでるのに、お前の幽霊すら見えないんだよ……」トップの異常行動により、会社の株価は暴落
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第9話
「母さん、やめてくれ!葵には俺が悪いんだ、これ以上何も言わないでくれ!!」一体どういう風の吹き回しだろう。突然「良心」というものが芽生えたのか、遼は義母の腕を強引に引っ張って実家から逃げるように立ち去った。二人が自宅へ戻ると、そこにはすでにすっかりこの家の女主人を気取っている清花の姿があった。私が残していった私物はすべて捨てられ、代わりにクローゼットには清花の派手な服がぎっしりと詰め込まれている。「あ、遼さん!あのホステスの荷物、全部片付けておいたわ!これからは、私とこの子が、ずっと遼さんのそばにいるからね」その言葉を聞いた瞬間。遼は突如として激高し、歩み寄って清花の頬を思いきりビンタした。パァンッ!!「……っ!?り、遼さん……?」「お前が、俺の妻の物に触る資格なんてない!!」あまりの剣幕に、清花も義母もその場に凍りついたように立ち尽くした。誰も止めることすらできない。遼はクローゼットの扉を乱暴に開け放つと、清花の服を次々と床に投げ捨て始めた。そして血走った目で彼女を睨みつけ、私の荷物をどこへやったのかと問い詰める。「ちょっと遼!清花ちゃんのお腹には、あんたの子どもがいるのよ!?」初孫の身を案じた義母がたまらず口を挟むが、今の遼には全く響かない。「俺が欲しいのは、葵との間にできた子どもだけだ!そんな私生児なんかどうでもいい!!」遼はリビングのテーブルにあった物を手当たり次第に床へ払い落とし、肩で息をしながら狂ったように喚き散らした。清花は目を真っ赤にして、今にも泣き出しそうに震えている。だが、遼の目に彼女への同情や愛情は、もはや欠片も残っていなかった。恐れをなした清花と義母は、這々の体で家から逃げ出していった。静寂が戻った部屋で。遼は狂ったように引き出しや棚をひっくり返し、何かを必死に探し始めた。その目からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。「……どこだ……葵の指輪は……どこにある……」ようやくあの四万円の安い指輪を見つけると、彼は泣きながら、笑いながら、その冷たい銀の輪に何度も何度もキスを落とした。「葵……許してくれるよな?なぁ、もう一度、俺と結婚してくれよ……」誰もいない部屋の真ん中で。彼は虚空に向かって片膝をつき、まるでプロポーズをするように指輪を差し出した。
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第10話
深呼吸をして落ち着きを取り戻した遼は、愛想笑いを浮かべて担当医に頭を下げた。病院を出る時、足元が大きくふらついたこと以外は、すっかり普段の「冷徹な社長」の顔に戻っていた。そして再び、狂ったようにアクセルをベタ踏みして、父の家へと車を走らせた。しつこく付きまとわれた父もとうとう折れ、彼を私の墓へと案内した。墓前に立つなり、遼は私にプロポーズした時よりも素早く、地面に膝を突いた。その目には、いっぱいの涙が溜まっている。「……葵、待っていてくれ。全部……俺が全部終わらせたら、必ずお前のところへ行くから!」傍らに立つ父は、パタパタと団扇を扇ぎながら、ただ冷ややかに男の醜態を見下ろしていた。――その後、権力と金を使って真相を調べ上げた遼は、当然のようにすべてを知った。私が本当に妊娠していたこと。清花と悪徳医者が結託して、私に麻酔を打ち、子どもごと殺したこと。その事実を知った遼は、泣きながら、笑いながら、何度も何度も床に額を打ちつけて「許してくれ」と叫び続けた。手遅れになってから気づく愛なんて、ただの残酷な自己満足でしかないのに。「……母さん。結納の準備をしてくれ。俺は……清花と結婚する」スマホを握りしめる彼の手には、血管が青々と浮き出ていた。すぐに清花から電話がかかってきた。その声は、猫撫で声のように甘く、喜びで弾んでいた。「遼さんっ!やっぱり、私のこと愛してくれてたのね!」これまで清花の言葉には必ず甘く返していた遼が、この時ばかりは沈黙した。そして、暗闇の底から響くような、低く冷たい声で笑った。「ああ……俺が誰を愛しているか、ようやく分かったよ」結婚式の準備が進む中、遼はすべてをスタッフに丸投げし、一切関わろうとしなかった。清花が不満げに小言を漏らしても、遼は冷たい一言で彼女を黙らせた。「葵は、そんなワガママを言ったりしなかった」確かにその通りだ。あの頃の私は、愛する遼のお嫁さんになることが人生のすべてで、文句をつける余裕なんてあるはずがなかったのだから。遼は眉間にしわを寄せながらタバコをふかし、あの安物の結婚指輪を愛おしそうに指の腹でなぞる。そして、今まで見たこともないような優しい顔で呟いた。「葵……もう少しだけ、待っていてくれ」――馬鹿みたい。今更、あんたなんかの
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