ログイン『広くて快適な檻を用意する』
『檻の中でなら自由にしていい』
それら冬弥の言葉は、耳触りのいい部分だけを拾えば穏やかなものだった。
けれど、その実――“そこから出るな”という、逃げ道を完全に塞ぐ宣告に他ならない。
(やはり、物騒ね)
あやめは内心で小さく息をついた。
『柊謙一の娘』というだけでも、十分に標的になり得る立場。そこへ『神崎冬弥の妻』という肩書きが重なる。危険は足し算ではなく、掛け算で膨れ上がることは簡単に予測できる。
(できるものなら、ごめん願いたい状況だけれど……)
だが、それが叶わないことも、もう分かっている。逃げ場はない。あやめを逃がす気が、誰にもない。
「私に、選択肢はないのですよね」
問いかけた先は冬弥だった。
けれど、答えたのは――隣に座る父、謙一だった。
「そうだ」
一切の間を置かない、即答。あやめは軽く肩を竦めた。
謙一の声音には、迷いも、逡巡も、情もない。まるで、すでに答えが決まっている設問に対する確認のような声音だった。
(少し大袈裟に言えば、私はこれから行く先は戦地だというのに)
それなのに、謙一は「行け」と迷わず言う。それが、彼が一番に思う日本のためだからだ。
(『柊謙一』という政治家は、いつだってこうだわ)
あらゆる選択を、損得と合理で裁断する。そこに感情が入り込む余地はない。そして一度出した答えに、決して揺らぐことはない。
(だからこそ優秀なのだろうけれど……)
『父親としては』
その言葉は、胸の奥に沈んだまま、口には出さなかった。
.
「婚姻届は明日に提出する。記者会見は来週だ。準備しておきなさい」
あやめが何かを感じ取る前に、話はもう次の段階へと進んでいた。
まるで、通常業務の延長のようなやりとりだった。
「分かりました。それでは予定の調整を――」
反射的に口をついて出た言葉。だが、謙一はその続きを手で制して止めた。
「それはもうお前の仕事ではない」
いままでの行動を躊躇いなく遮られたことに、あやめはを口を噤んだ。
「お前には今日、このあと神崎家に行ってもらう。いまこの瞬間から、神崎家の人間として振る舞うんだ」
『いまこの瞬間から』。
その言葉が、静かに、しかし確実に、あやめの立場を切り替えた。
「……承知、しました」
入籍は明日。だから、正確には明日なのだが、今この瞬間にあやめは神崎家に嫁いだ。
(お嫁入り……)
ほんの一時間前までは、影も形もなかった未来だった。
あやめの胸の奥で何かがせり上がる。言葉にすれば崩れてしまいそうな、様々な感情。悔しさも、戸惑いも、恐れも――すべてを、あやめは飲み込んだ。
そして、無意識に開いていた分厚い手帳を閉じた。
パタン
やや大きめに立てた音が、静かな室内に響いた。その音だけが、あやめの矜持、ほんのわずかな抵抗だった。
対してあやめ自身は、静かに、丁寧に頭を下げる。そこに音はない。
怒鳴らない。泣かない。拒まない。従う。その代わりに――自分の内側だけは、誰にも渡さない。
(この責任は、私自身が負う)
指示された道であるけれど、歩くと決めたのは自分であることを、あやめは示した。
「これからどうしてほしいのか」を、言われるのは構わない。でも「これからどうするのか」を決めるのは、あやめ自身だ。
.
「冬弥君。あやめを頼む」
謙一の声は、重要書類を引き渡すかのような慎重さはあったものの、簡潔な依頼のような言葉だだた。
「了解した」
返ってきたのは、短く、無駄のない言葉。その声音は硬質で、どこか規律に縛られた軍人のようですらあった。
そこに感情の揺れは、一切感じられなかった。
あやめは、謙一の隣から――いつの間にか自分の隣へと移動してきていた冬弥を見上げた。
整いすぎた横顔。彫刻のように無機質で、美しかった。
(でも……)
そこにあるのは“完成された形”であって、“人間らしさ”ではない。
(……さっき、少しだけ笑ったのに)
あの一瞬を見てしまったせいで、余計にそう感じた。
あれが幻だったかのように、いまの冬弥は冷え切っている。そのことが残念だと思う自分に気づき――あやめは小さく息を飲み込んだ。
「出るぞ」
「あ……」
あやめの返事を待たず、冬弥は立ち上がり、歩き出す。迷いのない背中。振り返ることすらなかった。
あやめは一拍遅れて立ち上がり――かつての雇い主に一礼する。
「……失礼いたします」
その言葉に、返事はなかった。
いつも通りのそれが、終わりの合図のようにも感じられた。
(これで、終わりか)
胸の奥で、何かが静かに区切られた。
柊家の娘としての自分。秘書としての自分。それらすべてに、区切りがついたような感覚だった。
廊下へ一歩踏み出した瞬間、あやめの足がわずかに止まる。ほんの一瞬。それでも、確かに。
「どうした?」
低い声。顔を向けると、先を歩いていたはずの冬弥が足を止め、あやめを見ていた。
(……待っていた?)
その事実が、わずかに意外で。
「いいえ、なんでもありません」
あやめはすぐに表情を整え、静かに首を振った。
冬弥の背を追いながら、心の中でひとつだけ、整理をつけた。
(秘書をクビになったと思おう)
そして――
(転職先で……永久就職、ね)
自嘲気味に浮かべたその言葉が、やけに現実味を帯びて胸に沈んだ。
『面白い女だな』宗一郎の口から漏れたのは、明確な興味の表明だった。それは決して性的な意味ではない。目の前にいる存在を、“子ども”ではなく“女”として認識した上での、人間としての評価。その一言で、場の均衡が決定的に変わった。そして宗一郎は、金額を提示することも、交渉を続けることもせず、まったく別の方向へと話を転がす。『うちに来るか?』それは突飛で、常識的には拒絶されるべき提案だった。周囲を取り巻く空気だけでも、明らかに堅気ではない。それでも早苗は、迷う素振りすら見せなかった。『条件次第で』即答だった。金かと問われれば、『弟を一緒に連れていきたい』と返す。その答えに、鷹見は思わず目を見開いた。自分のためではない。まず出てきたのが他者だったことに、わずかな引っかかりを覚える。だが宗一郎にとっては、その程度は問題にもならない。子ども二人を養うことなど、神崎家にとっては誤差の範囲だ。宗一郎はあっさりと条件を飲み、そして鷹見に視線を向けた。「連れてこい」という無言の指示。それだけで役割は決まった。.案内されたのは、街の外れにある古びたアパート。外灯も心許なく、廊下は薄暗い。部屋の扉を開けた瞬間、さらに濃い闇が広がった。思わず眉をひそめ、「なぜこんなに暗い」と問えば、早苗は肩をすくめるようにして答える。『電気代が払えないから』あまりにもあっさりとした口調。惨めさも、恥もない。ただ事実を述べただけという声音だった。『暗くても死なない。水道代のほうが大事』その一言に、鷹見は言葉を失った。価値基準が違いすぎる。だが同時に、その選択は合理的だった。生きるために必要なものを優先する。それだけのことだ。部屋の中はほとんど何もなかった。家具と呼べるものは見当たらず、生活の痕跡も最低限。それでも中央に置かれた布団だけは、妙に存在感を持っていた。その上に、小さな包みがあった。恐る恐る
その日も、特別なことは何もないはずだった。神崎宗一郎の外出に随行し、繁華街を見回る。周囲にはいかにも堅気ではない男たちが付き従い、自然と人の流れが避けていく。その中心を歩く宗一郎は、威圧と風格を同時に纏っていた。普通の人間なら、視線すら合わせない。そんな中で、不意に空気を切り裂くような声が響いた。『ねえ、おじさん』思わず足が止まりかける。そんなインパクトのある言葉。声をかけられた宗一郎本人ですら、一瞬反応が遅れたほどだ。組員たちの視線が、同じ方向に向く。視線の先にいたのは、一人の少女。まだ中学生と思しき年頃で、セーラー服の上に無造作に羽織った上着はくたびれ、靴も擦り減っている。全体としては貧相で、どこにでもいる“落ちた子供”に見えた。だが、ただ一点、目だけが異様だった。濁りのない光が、まっすぐに宗一郎を射抜いていた。『おじさん。ねえ、聞こえている?』臆する様子も、怯えもない。その無遠慮さに、周囲の空気が一瞬で張り詰める。普通なら、その場で排除されてもおかしくない。しかし少女は構わず言葉を重ねた。『援助交際、してくれない?』あまりにも軽く、日常の延長のように告げられたその一言は、場の常識を完全に破壊した。あの瞬間の衝撃を、鷹見は今でも鮮明に覚えている。怒りでも呆れでもない、純粋な“興味”が胸に生まれたのは、あれが初めてだった。常識を知らないのではない。知った上で踏み越えている。その確信があった。宗一郎ですら言葉を失った一瞬の隙を、彼女は迷いなく踏み込んできたのだ。あのときの自分は、初めて「何か」を見つけた気がした。退屈で均一だった世界に、明確な“異物”が混ざった感覚。それが、早苗との出会いだった。.早苗の無遠慮な提案に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。護衛たちの視線が鋭くなり、いつでも排除に動けるようにと気配が張り詰める。だが、その中心にいた神崎宗一郎は、そんな緊張をまるで意に介さないかのように
「まさか、早苗さんと鷹見さんがそういう関係だったとは」あやめは湯気の立つハーブティーを両手で包み込むように持ちながら、しみじみと呟いた。妊婦用に調整された穏やかな香りが部屋に広がり、その柔らかな空気の中で、彼女の声音はどこか愉しげに弾んでいる。隣で控える瑛心も、主に同調するように静かに頷き、視線だけで鷹見に続きを促した。向かいに座る鷹見は、明らかに居心地の悪そうな顔をしている。「あの……恋バナをするなら、早苗のほうが良いのでは? 女ですし」遠慮がちに言えば、あやめは即座に首を横に振った。「あら、鷹見さん。今の時代は男女平等ですよ。冬弥さんも男性の愛人がいるではありませんか」「……姐さん、本心は?」「恋バナの醍醐味は、揶揄って慌てさせて、それを見て楽しむことなのです。早苗さんが慌てるとでも?」にっこりと微笑むその顔に、冗談の余地はない。「姐さんの為ならなんでもしますよ」「同情して慌ててもらっても楽しくありません」ぴしゃりと切り捨てられ、鷹見は観念したように肩を落とした。あやめは小さく息を吐く。『すでに楽しい。胎教にいい気がします』満足げに呟くあやめの隣で、瑛心も満足気に微笑む。『私もです。えっと、こういうときは二人の出会いから聞くのですよね』瑛心はどこかぎこちない知識を披露する。「恋バナにハウツーなんてないでしょうけれど……」あやめの視線が逃げ場を失った鷹見に突き刺さる。「二人の出会い……その響きだけで、胎教によさそうだわ」あやめは笑い、完全に逃げ道は塞がれた。妊娠は二度目であるあやめにとって、胎教という言葉は半ば方便のようなものだった。真剣さよりも、今この時間を楽しむための口実として使っている節がある。それを理解しているからこそ、鷹見はなおさら抗えない。「出会い&helli
「ほっこりしているところを申しわけありません」穏やかな空気を壊さぬよう配慮した声音で、早苗があやめの前に進み出た。差し出されたのは小さな紙袋。見覚えのないそれに、あやめは一瞬だけきょとんとする。何か頼んだ覚えはない。視線で問いかけるように冬弥を見ると、『開けてみたらどうだ』と返事がきた。あやめは小さく息をつき、紙袋の口を開く。中を覗いた瞬間、思わず息を呑んだ。身体が固まったあやめに、冬弥が怪訝そうに首を傾げながら紙袋の中身を覗き込む。だが彼にはそれが何なのか、すぐには理解できなかった。「これは?」率直な問いに、あやめは一瞬言葉を探し、それから観念したように答える。「……妊娠の、判定薬です」「は?」あまりにも予想外の単語に、冬弥の声が素っ頓狂に上ずる。思考が追いつかなかった。しかし、次の瞬間には現実が追いかけてくる。昨夜のことを含めて、最近の行為が脳裏に浮かぶ。どれも避妊はしていない。可能性は、ある。十分にある。「……昨夜、は……」「はい……」曖昧な言葉の応酬。だがそこで終わらないのが冬弥だった。歯に着せた衣をはぎとり、白黒はっきりしないといやな性格。「回数もそうだが……久しぶりで気が昂って、かなり奥まで強――ぶっ」言い切る前に、乾いた音が響いた。ベチン、と小気味よい音とともに、あやめの手が冬弥の頬を叩き、そのまま口を塞ぐ。「大丈夫か、だけで十分です!」あやめの顔は真っ赤だった。羞恥と焦りと怒りが混ざった色。ちらりと周囲を見ると、早苗はまるで何も聞いていないかのような完璧な無表情を保っている。沈淵と瑛心も完全ではないが、視線を逸らし「聞いていません」という大人の態度を貫いていた。「かーさまが、とーさまたたいたー」「あねしゃま、さいきょうでしゅ」――ただし、子どもたちは例外だった。普段とは違う両親の様子がよほど面白いのか、楓はきゃっきゃと笑いながら二人の周りをぐるぐると回る。それを追うように雪兎も回り、
『冬弥!』ダイニングに足を踏み入れた瞬間、沈淵の声が響いた。室内には朝の光が差し込み、整えられた食卓と静謐な空気が広がっている。その中心で、冬弥は既に上座の椅子に座っていた。きっちりと着こなされた服装、背筋の伸びた姿勢、そしてわずかに湿った髪―――朝の稽古を終え、シャワーを浴びてきたのだろう。整然としたその佇まいは、場の主としての風格すら感じさせる。『どういうつもりだ』沈淵は両脇に抱えていた楓と雪兎を床に下ろしながら問いただした。ここまで来る道中、ほとんど駆けるような速度だったため、楓はすっかり上機嫌で、雪兎も頬を緩めている。子どもたちの楽しげな様子に、冬弥は一瞬だけ口元を緩めた。しかしすぐに表情を引き締め、呆れたような視線を沈淵へと向ける。『主語を言え』『楓に瑛心と結婚してもいいと言ったんだって?』その言葉に、冬弥は軽く首を傾げた。『少し違うな。楓があやめと結婚したいと言ったとき、あやめは俺と結婚しているから無理だと説明した。それで楓が瑛心小姐はどうかと聞くから、彼女は独身だから結婚できると教えただけだ』淡々とした説明だったが、その理屈はあまりにも直線的で、余計な配慮が一切ない。『年の差を考えろよ』沈淵が眉をひそめると、冬弥は即座に切り返す。『そんな根拠のない理屈では楓は納得しない。年の差のある夫婦はいくらでもいる』理屈としては正しい。しかし、今この場で求められているのは正しさではなく、現実的な線引きだった。沈淵は思わず言葉を失う。『いほー、だめ、ぜったい』楓が口を挟む。何を言ったのか分からず沈淵が視線を向けると、冬弥は小さく息をついて中国語に訳した。『違法は絶対にだめ、だそうだ』『きちんと教えられているな』『違法でなければいいんだ。重婚は違法だが、年の差婚は違法ではない』『そういう問題では……』あまりにも合理的すぎる冬弥の思考に、沈淵は肩を落とす。理屈では反論しづらいが、納得はで
『まさか、早苗さんと鷹見さんがそういう関係だったとは』『でも、お似合いですよ』妊婦用にと用意されたハーブティーを飲みながらあやめが呟き、瑛心がつき従うように頷く。その二人の向かいに座るのは、鷹見だった。「あの……恋バナをするなら、早苗のほうが良いのでは? 女ですし」「あら、鷹見さん。今の時代は男女平等よ」「……姐さん、本心は?」「恋バナの醍醐味はね、揶揄って慌てさせて、それを見て楽しむことなの。早苗さんが慌てるとでも?」「姐さんの為ならなんでもしますよ」「同情して慌ててもらっても楽しくないのよ」あやめは、ふうっとため息を吐いた。『すでに楽しいわ。胎教にいい気がする』『私もです。えっと、こういうときは二人の出会いから聞くのですよね』『恋バナにハウツーなんてないでしょう』喚く鷹見を、あやめはジッと見る。『二人の出会い……その響きだけで、胎教によさそうだわ』妊娠は二回目のあやめ。胎教をネタに楽しむ程度の“慣れ”があった。『出会い……ですか……』鷹見は観念したように肩を落とし、しばし視線を彷徨わせた。逃げ場はないと悟ったのか、やがて小さく息を吐く。「……話すと長いですよ」「構わないわ。むしろ長いほどいいの」「この通りそこまで堪能じゃないので、日本語の説明になりますよ」「通訳するから、大丈夫」あやめが即答し、あやめから説明を受けた瑛心も期待に満ちた目で頷く。鷹見は天井を仰ぎ、「どうしてこうなった」とでも言いたげな表情を浮かべたあと、ゆっくりと語り始めた。.*.早苗と出会ったときの鷹見は、十七歳。思い返すと、自由気ままで、甘やかされた『お坊ちゃま』だった。