ログイン安人は桜に教わったとおり、餅をゆっくりとくっ付かないように動かしてみた。そして餅の数が、たったの四つだと気が付いた。「君は2つで足りるのか?」安人は桜に訊いた。「私はそれでいいけど、安人さんは2つで足りますか?」桜は彼が遠慮しているんじゃないかと思って、こう付け加えた。「この餅、すごく美味しいんですよ。それに、これがお昼ですし、お正月だから町のレストランはどこも閉まっているんです。もしこのあとお腹をすかせても、夜に康弘さんが帰ってくるまで我慢するしかないんですよ」安人は餅をそっと動かしながら言った。「朝のそばが、まだ胃の中で増え続けてる感じなんだ」それを聞いて、桜は思わず言葉を失った確かに、朝のそばはすごい大量だった。安人はきっと、お腹が苦しかったんだろう。でも、安人みたいな雲の上の存在が、うちの康弘が作ったそばを食べすぎたせいで、お腹がはち切れそうになってるなんて。そう考えたら、桜はなんだかおかしくてたまらなくなった。すると、彼女は思わずぷっと吹き出してしまったが、慌てて口を押さえて笑いをこらえた。一方、安人は彼女を見ながら、片眉を上げて訊いた。「何を笑ってるんだ?」「なんでもない!」桜は必死に唇を噛みしめて、笑いを堪えた。それを見て、安人はかすかに口角を上げた。彼が何か言おうとした、その時。ポケットのスマホが震えだした。「ちょっと、見ててくれるか。電話に出てくるから」「うん」それから安人はスマホを手に、キッチンを出て行った。電話は、海外の取引先からだった。プロジェクトで少し問題が起きたらしく、安人が直接現地へ行かなければならなくなったのだ。電話を切ると、彼はすぐに新太に電話をかけ、M市から出発する便の航空券を予約するように指示した。「いつの便をお取りしましょうか?」新太は尋ねた。安人はちらりとキッチンの方に目をやり、少し考え込むように唇を引き結んでから、答えた。「今夜だ」……一方、桜は温まった餅をお皿に乗せると、きな粉をたっぷりまぶした。そして、それを運ぼうとしたところで、ちょうど安人が入ってきた。「俺が運ぼうか」そう言って、彼はそのままお皿を一つずつ手に取ると、部屋を出て行った。桜も、彼の後を追ってキッチンを出た。二人は食卓について席に座った。桜は安
そう思っていると、黒い高級車が次第に、村の入り口にある大きなガジュマルの木の下に停まった。安人は、目を閉じている桜のほうに顔を向けた。彼女が眠っていないことに、彼は気づいていた。どう彼に顔を向けたらいいかわからず、こうして知らないふりをしているだけなんだろう。「桜」安人は優しく声をかけた。桜はゆっくりと目を開けた。顔を向けると、彼の深い眼差しと目が合った。その瞳は澄んでいて、少しも眠そうではなかった。安人はそれに気づかないふりをして、ただ「着いたよ」とだけ言った。「あ、うん」桜はうつむいてシートベルトを外し、ドアを開けて車から降りた。ドアを閉めた桜は、薬の入った袋を取ろうと、後部座席の方へ回った。しかし、彼女が後部座席のドアを開けると、安人も反対側のドアを開けていた。「ちょっと重いから、俺が持つよ」それを聞いて、桜のまつ毛が少し震わせて言った。「はい、ありがとうございます」それを聞いて、安人は彼女をちらっと見たが、結局何も言わなかった。彼は薬の袋を持つと、ドアを閉めた。そして、二人は並んで、細い路地を歩いた。家に着くと、康弘はいなかった。桜は「康弘さんなら、三浦さんのおうちで麻雀をしてるんだと思う」と説明した。「うん」安人は漢方薬の袋をダイニングテーブルの上に置いた。「薬、ここに置いておくから、今度こそ忘れないで飲むんだよ」「うん」桜は頷いた。壁の時計を見て、少し驚いたように言う。「もう一時近くだ。きっと私たちがお昼までには帰らないと思って、康弘さんは三浦さんの家でご飯食べてるんでしょうね。……安人さんは何が食べたいものありますか?私が作りますよ」本当のところ、安人はあまりお腹が空いていなかった。朝に食べ過ぎたうえ、車で往復二時間以上座りっぱなしだったので、全然消化できていないのだ。だが、桜はお腹が空いているはずだ。「俺はなんでもいいけど、君は料理できるの?」そう言われ、桜は言葉に詰まった。彼女は少し考えると、ぱっと顔を輝かせた。「そうだ、確か冷蔵庫にこの前搗き立てお餅があるはずです。地元の組合で私と康弘が一緒に搗いたものです。少し日は経ってしまったけど温めてきな粉をまぶしたらすごく美味しんです……安人さん、食べてみませんか?」桜が生き生きと話すのを見て、安人は口角を
だから桜も、これまで安人と恋愛関係になるなんて、一度も考えたことがなかった。恐れ多くて、そんなこと考えられもしなかった。できるはずが、なかった。恐れ多くてできなかった。自分、ただの臆病者だから。……一方、安人は薬袋を受け取ると、車に戻り後部座席に置いた。それから車に乗り込み、シートベルトを締めた。片や桜は、助手席でじっとしているまま動けないでいた。さっきの会話が途切れたままなので、車内に少し重々しい空気が漂っていた。安人は、うつむいて黙りこくっている彼女を一瞥し、どうやら、自分の顔を見ることさえためらっているようだと感じた彼は、そっとため息をついた。やっぱり、少し焦りすぎたかな。彼女の心の準備がまだできていないと分かっていたのに、気持ちを伝えてしまった。この子は純粋すぎるから、自分の気持ちの整理も苦手だし、感情を隠すこともできないいるのだ。これでは、今後自分と顔を合わせるだけでも、すごく気まずく感じてしまうだろう。安人は桜にプレッシャーを与えたくなかったので、さっきの話はもうやめにした。「これから湊里村に戻るかい?」桜は少し間をおいてから、こくりと頷いた。「うん、帰りましょう」「分かった。シートベルト、ちゃんと締めて」そう言われて、桜は慌ててシートベルトに手を伸ばした。安人は彼女がバックルを留めるのを確認してから、ゆっくりと車を発進させた。こうして、黒塗りの高級車が、湊里村へと向かっていった。道中、二人はどちらも口を開かなかった。そして、桜があまりに緊張しているのを見かねて、安人は途中で車内のオーディオをつけた。閉ざされた車内に、ゆったりとした音楽が流れ始めた。桜は窓の外を眺めながら、きゅっと胸が痛むのを感じていた。安人との関係では、自分が陰からそっと想いを寄せる側なのだと、ずっと思っていた。だから、気持ちに気づいてもらえなくても、受け入れてもらえなくても、当然だと思ってた。そして約束の期間が終われば、彼の人生から静かに消える覚悟もしていた。でも、今の状況は、まったくの想定外だった。「安人に好かれていない」という事実より、「安人に好かれている」という今の状況の方が、桜は不安に感じていた。彼の気持ちが、ただの一時的なものだったらどうしよう。もしかしたら、同情
彼女の声は次第に小さくなっていき、ほぼ聞こえなくなるほどだった。安人は唇を真一文字に結んで、静かに彼女を見つめた。心の準備はできていた。でも、いざ彼女が引いてしまうのを見ると、さすがの安人も心を乱された。多分これが、恋に悩むということなのかもしれない。いつもは冷静な彼も、今は思わず声に感情が出るようになった。「桜、もう一つだけ聞くから。顔を上げて、俺のを見て答えろ」桜は一瞬ためらった後、ゆっくりと顔を上げた。視線が合った瞬間、桜は息をのんだ。それは安人と知り合ってから、初めて彼がこんなに真剣な表情をするのを、目にしたから。「な、なんでしょう」彼女の目をまっすぐに見つめながら、安人は低い声が車内に響いた。「もし昨夜、俺が理性を失って、最後までしてしまったら、それでもさっきと同じことを言うつもりだったのか?」桜の瞳が震え、その綺麗な目が大きく見開かれた。彼女のその言葉に衝撃を受けたのと同時に、少し恥じらいているようだった。まつ毛を小刻みに震わせ、口をパクパクさせながら、なかなか言葉が出てこない。無言で見つめ合う二人。先に視線をそらしたのは、桜のほうだった。彼女は目を伏せ、うつむいた。「起きてないことだから、そんなの聞かれても答えられません」それでも安人は、彼女に答えをせがんだ。彼の大きな手がそっと彼女の頬を包み、無理やり顔を上げさせて、自分と視線を合わせさせた。「さあ、言ってみろ。もし俺たちがそうなっていたら、それでもなかったことにするなんて言うつもりか?」そう言われ、桜の胸は、高鳴り、鼓動が速まっていく一方だった。だって彼女は安人とどうこうなるなんて、考えたこともなかった。昨日の夜のことは、全くの予想外だった。安人はこんなにも完璧で、輝いた存在で、自分とは住む世界が違いすぎるから。彼とどうにかなるなんて、そんなおこがましいことは考えられない。彼に相手にされないからじゃなくて、自分があまりに彼に不釣り合いだからだ。「身の程を知りなさい」13歳の時から、桜はずっと周りの大人たちにそう言われ続けてきた。自分は生まれながら、疎まれてきたから。実の父親にすら認めてもらえない存在だから。そして世間からも、いつもスキャンダルを叩かれる存在であるから。こんな自分が、安人に釣り合うはずが
車内はとても静かだった。気まずい空気が流れるなか、桜はスマホを取り出してラインを開いた。すると、寧々からメッセージが何件も届いていた。写真付きのものもあれば、実家に帰ったら親にお見合いをせかされたという愚痴もあった。桜はそれを見て、なんとも言えない気持ちになった。小林家は兄妹が多く、四人姉妹に弟が一人いる。寧々は三女で、上の姉二人はもう結婚していた。寧々は年が明けると24歳になる。この地方では、大学に行かなければこの歳にはもう親が決めた相手と結婚させられているのが一般的だった。もちろん、寧々には桜のアシスタントという仕事が、格好の言い訳になっていた。だから、桜はここ数年ほとんど稼ぎがなかったが、たとえ自分の愛車を売るようなことになっても、寧々に給料を払わなかったことは一度もなかった。寧々もまた毎月、給料の半分を実家に仕送りしているのだ。親孝行だと言っているけれど、実のところ、そのお金で自由を買っているようなものだった。寧々の両親もお金をもらっている手前、ここ数年は寧々に無理やり結婚を迫ることはなかった。しかし、毎年お正月に実家へ帰ると、寧々は決まって結婚の催促をされていた。そして結婚の催促とはいっても、実際には寧々の両親が桜をだしにして、プレッシャーをかけているだけなのだ。彼らは、桜と寧々の仲が良いことを知っていた。だから寧々が無理やり結婚させられるのを、桜が黙って見ているはずがないだろうと思っていた。そして桜もまた、彼らが寧々に結婚を催促するたびに、立派な手土産を持って家を訪ねていった。その上、彼ら家族にも桜は毎年、新年の挨拶という名目で多額のお祝い金もあげていた。その金額は、寧々の一年分の給料に匹敵するほどだった。しかし、桜はそうやって余分にお金を渡していることを、決して寧々には知らせなかった。それは、桜と寧々の両親だけの秘密だった。寧々の両親も、娘に知られたいとは思っていなかった。寧々がどれだけ桜を大切に思っているか知っていたからだ。もし、自分たちが彼女に隠れて桜から多額のお金を受け取っていたと知れば、寧々は結婚を選んででも、桜のもとで働くのをやめてしまうだろう。どうせ桜はいずれ嫁に行くのだから、もう2、3年家に残って、家の負担を少しでも軽くするのも、娘としての務めだと彼らは考えていたのだ。…
そう聞かれて、桜はトラちゃんの頭を撫でて言った。「友達も一緒だからお世話はできるんだけど、昼間はホテルに閉じ込めておくしかないの。ホテルの方が毎日掃除に来るから、逃げたりパニックになったりしないようにケージに入れるんだけど、この子はそれが嫌いでずっと鳴いたりするのよ。そう思うとトラちゃんがなんだか不憫でしかたないの。だからいっそ実家に預けておこうかなって。北城に戻る時にまた迎えに来ればいいし。」それを聞いて、安人は言った。「田舎の猫はみんな野良みたいなもんだろ。こんなに臆病じゃ、ここにいたら毎日いじめられるようになるんじゃないのか?」すると、トラちゃんは安人の言葉を不満に思ったようで、彼に向かって一声鳴いた。「ニャーッ!!」それに気づいて安人はちらっと猫に目をやり、桜に向き直った。「だったら、うちで預かろうか。君が北城に戻る時に、迎えに来ればいい」しかし、それを聞いた途端、桜が返事をするより早く、トラちゃんはまるで言葉がわかったかのように桜の腕の中に飛びつき、丸い頭を彼女のあごにすり寄せた。ご主人様、こんなに可愛くてふわふわなボクを置いていかないで!あの腹黒男は嫌だ、ボクはご主人様と一緒にいたいんだ、とでも言いたげのようだった。トラちゃんにすり寄られてくすぐったかったのか、桜は思わず笑ってしまった。「もう、どうしたの……」一方、安人は、桜の腕の中で甘える猫を見て、目を細めて思った。なかなかの、あざとい猫じゃないか?彼は冷ややかに口角を上げたが、口調はあくまでも穏やかだった。「トラちゃんも嬉しそうだ。どうやら俺のことが気に入って、うちに来たいらしい」すると、甘えていたトラちゃんは驚いたかのように、動きがぴたりと止まり、勢いよく安人の方を振り返った。「ニャーッ!」トラちゃんは安人に向かって大きく鳴いた。まるで、この腹黒男!勝手なこと言うな!とでも言っているかのように。その様子を見た安人の瞳に、いたずらっぽい光が宿った。彼はにっこり笑って続けた。「ほら、すごく興奮してる。どうやらトラちゃんもそう思っているようだな」一方で、トラちゃんは言葉を失った。「ほんと?じゃあ、お願いしようかな」桜はトラちゃんを抱き上げて立ち上がると、安人に微笑んだ。「あなたなら安心して任せられるわ。トラちゃんがあなたに懐くなんて、珍
誠也はあまり眠気はなかったが、綾がしっかり休めるように、昼休憩の間中、同じ体勢を保っていた。2時になると、スマホのアラームが鳴った。綾が目を覚ました。目を開けると、誠也がじっと自分を見つめていることに気づいた。彼女は少し間を置いてから尋ねた。「寝てなかったの?」「眠くない」昨夜一睡もしていない誠也は、本当は疲れていた。しかし、綾を抱きしめていると、心がうずうずして、どうにも眠れなかった。「2時半から会議があるから、起きないと」誠也は彼女を解放した。綾は起き上がり、洗面所へ顔を洗いに行った。洗面所にも、化粧品セットが置いてあった。顔を洗って軽く化粧をした綾
大輝とはそういう男だ。口が達者で、名家に生まれ、立響グループを率いる彼は、上位者の立ち振る舞いが板についている。機嫌が良い時は紳士的でユーモアもあり、女性を惹きつける魅力がある。しかし、それは表面的なものに過ぎない。この男は、根から強引で、少しでも彼の気に障ることがあれば、その仕返しに、冷酷で棘のある言葉を浴びせ、相手を深く傷つけるのだ。真奈美は以前からそれを知っていた。しかし、今、大輝の妻である自分が、ただ彼の要求通り娘を産みたくないと言っただけで、こんなにも酷い言葉を投げつけられるとは真奈美は夢にも思わなかった。やっぱり、愛されてないんだ。もし愛しているなら、少しは優し
5年ぶりに誠也は、ようやく綾と再び体を重ねることができた。誠也は彼女優しく綾をリードしたが、自分はというとそそくさと済ませた。全部でものの30分もかからなかった......綾は少し驚いた。これが誠也の実力のはずがない。女はとかく繊細なものだ。ましてや、以前の誠也は、こういう時はいつも強引だった。今夜は、我慢できないながらも、セーブしているのが手に取るように分かった。「誠也、一体どうしたの?」「何でもない」誠也は綾にキスをしてから、尋ねた。「疲れたか?何か不具合はないか?」「大丈夫よ」綾は少し間を置いてから、付け加えた。「30分じゃ、疲れないわよ」誠也は何
夕食後、大輝と真奈美は哲也を連れて帰っていった。玄関先で、綾と誠也は車が遠ざかるのを見送っていた。夜のとばりが辺りを包み込んでいた。綾はため息をついた。誠也は綾の細い腰に腕を回し、頭を下げて彼女の髪に優しくキスをした。「どうしたんだ?」「石川さんは、今夜何か話してた?」「いや、別に。俺たちはそんなに親しくないからな」誠也は低い声で言った。「それに、彼は前にお前を奪おうとしてたろ。俺は根に持つタイプなんだ」綾は彼をちらりと見て、「幼稚なんだから」と呟いた。誠也は軽く笑い、「もう9時だ。そろそろ子供たちを寝かしつけに上がろうか?」と言った。綾は頷いた。二人は