LOGIN「え?」理紗は胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。「また何かあったんですか?こんな朝早くに、一体どうしたんです?」三久はビルの前に立ち、上を見上げていた。「終わったら話すから」電話を切ると、彼女はビルへ入っていく。オフィスにはまだ誰もいない。人目につく前に最上階へ向かうため、あえて早く来たのだった。だが思いがけず、由樹はすでに出社していた。ほどなくして、由樹のオフィス。三久は部屋の中央に立っていた。来る前には何をどう話すか頭の中でしっかりと組み立て、何度も練習してきたはずだった。だが実際に由樹を前にすると、ひと言も出てこない。由樹は右側の引き出しを開け、退職合意書を取り出すと彼女のほうへ差し出した。「サインしてくれ」三久は思わず言った。「まだお返事、していませんが」「お前はずっと去りたがっていた。もうここに留まる理由はないだろう」簡潔な言葉が、一語一語、的確に痛いところを突いてくる。「どうした?まさか本当に辞められるとなったら、未練が湧いたとでも言うつもりか」由樹の細長い瞳がわずかに細められ、探るような眼差しが彼女へ向けられる。三久はその書類に目を落とした。穏やかな表情の奥に、複雑な感情がわずかに滲んだ。小さく息を吸い込むと、バッグから一本の黒いボールペンを取り出し、迷わず最後のページを開いてサインした。【早坂三久】。その筆跡は柔らかくも力強く、どこか鋭さを帯びている。最後の一筆を書き終えた瞬間、由樹の視線が引き戻された。「会社の規定では、社内機密が漏洩した場合、お前は徹底的な調査を受け、しかも真っ先に調査対象となる。もしお前が関与していたと判明すれば、会社が被った損失の倍額を賠償してもらうことになる」由樹は淡々とした声で、退職合意書の条項を告げた。三久はペンにキャップをはめ、契約書の脇に置く。「わかりました」「条項は確認しなくていいのか」由樹は最後まで目を通すよう促した。三久は首を横に振る。「社長を信じていますから」由樹は思わず苦笑した。喜んでいいのかそうでないのか、自分でもわからない。「退職手続きは二営業日以内に終わる。その時になったら人事から連絡が行くはずだ」「手続きの流れは承知しております。ご説明には及びません」三久は頷い
それに、もし神崎家までこの子を洲人の子だと思い込んだら、きっと向こうの家族が押しかけてくるに決まっている。酒井家を振り払ったと思ったら、今度は神崎家を迎え入れることになる。一難去ってまた一難だ。そんな危ない橋を次々渡るほど、自分は命知らずではない。どちらの側にも恨まれかねない。「三久、酒井家に対して、この子が酒井の子じゃないって証明するのは、ものすごく難しいだろ。でも、うちの神崎家に対して、この子が俺の子じゃないって証明するのは、簡単なことだ」洲人は真面目な顔で分析してみせる。「うちの親父たちなら、この秘密は絶対に外へは漏らさない。俺が大勢の前で君を引き抜いたのは、酒井の面目を潰したってことだからな。親父は喜びこそすれ、怒りゃしないさ」三久が神崎家に対して、子どもが洲人の子ではないと証明できさえすればいい。神崎家はこの噂を揉み消したりしないだろう。噂のひとつひとつが、酒井家への痛烈な一撃になるのだから。こうした状況は、洲人だけでなく由樹にも見えているはずだった。それでも彼は、三久自身に決めさせることを選んだのだ。三久の胸は張り裂けそうなほど苦しくなり、胸の奥がきゅっと締めつけられるような痛みに襲われ、息をするのも難しかった。「こういう状況じゃ、俺にはこういうやり方で君を守ることしかできない。もし嫌なら断ってくれていい。ただ、よく考えてほしいんだ。断れば、酒井家への説明はますますつかなくなる」洲人はエンジンをかけ、車を家路へと走らせた。由樹が三久を守ろうとしていることに、洲人はもう気づいている。そして三久を守ることは、いつしか自分にとっても本能のようなものになっていた。三久は誰に守られることを選ぶのだろうか。彼女がどちらを選ぶかで、理性と感情のどちらを選ぶのかがわかるのかもしれない。洲人の車を降りると、三久は両腕を抱え込むようにして家へと歩き出す。数歩も行かないうちに、肩に一枚のジャケットがかけられた。車を降りて追いかけてきた洲人が、そっと羽織らせてくれたのだ。「もし俺のこのやり方がまた余計な面倒を君にかけることになったなら、悪かった。皆にはちゃんと自分から説明するつもりだ。でも、本当によく考えてほしい。俺は自分のやり方は間違ってないと思うから」三久はその場に立ち尽くし、どこか焦点の定まらない
「俺と酒井社長、二人で君を呼んだんだ」洲人が歩み寄ってきて彼女の隣に立ち、見下ろすように言った。「うちの九洲グループに来て働かないかと思ってな。酒井社長は、君自身に決めさせるとさ」三久の目が驚きに震えた。信じられないというように洲人を見て、それから由樹へ視線を移す。由樹は微動だにせず立ち、周囲を圧するような気配を漂わせている。洲人は三久自身に決めさせると言っているものの、最終的な決定権は由樹にあることを、三久ははっきりと悟っていた。「神崎社長、ご冗談を。私、今は産休中ですよ」「有能な人材は惜しいもんでな」洲人はすかさず言った。「君が頷くならすぐにでも入社手続きをするし、産休はそのまま取ってもらって構わない。給料もきちんと払うぞ」その表情はいたって真剣で、大勢の前でそう口にする以上、本気のようだった。三久には、この短い数分のあいだに一体何が起きたのかまるで理解できない。傍らでは、紫織が険しい顔で洲人をまっすぐに睨みつけていた。「……社長」三久は迷いながらも由樹へ目を向けた。何が起きているのか知りたかったのだ。由樹はわずかに身じろぎすると、薄い唇を開く。「神崎社長がお前を評価している。決めるのはお前自身だ。明日、会社で返事を聞かせてくれ」三久が何かを言う間もなく、由樹は身を翻して立ち去った。これは紛れもなく、三久の転職を認めるという意味だ。遠ざかっていくその背中を見送る三久の胸はぎゅっと締めつけられ、不意に息苦しさを覚えた。「ふん。三久、大したものね。まさかあの人まで手玉に取るなんて」紫織は冷笑した――そういうことか、三久のあの子は由樹の子ではなく、洲人の子だったのだ。スマホで千歳へこの朗報を伝えながら、身を翻して去っていく。周囲の人々も次第に散っていった。その場には、三久と洲人だけが残される。「どういうこと?」頭の中がまだ整理できないまま、三久は訊ねる。「一体、何があったの」洲人は彼女の肩を軽く叩いた。「車の中で待ってろ。五分もかからず戻る」そう言うと、人混みをかき分けて由樹が去った方向へと歩いていく。ホテルの入り口で、由樹は車を待っていた。立て続けにタバコを深く吸い込み、あっという間に半分近くまで灰にしている。「おい酒井」追いついてきた洲人
「あなた、一体何様のつもりよ!」紫織は口を挟んだ男を遮り、由樹へ向き直った。「千歳のために説明を求めているだけよ。困らせるつもりなんてないわ。もし三久のお腹の子があなたの子じゃないって言うなら、じゃあ訊くけれど、父親は誰なの?上司なんだから、事情を知っていてもおかしくないでしょう」「俺を困らせる、か」由樹は唇の端に冷ややかな笑みを刻む。「お前に俺を困らせる資格もなければ、彼女を困らせる資格もない」紫織の顔がさっと曇る。由樹は今、大勢の前で三久を庇ったのだ。「それって、遠回しに三久のお腹の子は自分の子だって、認めてるってことかしら?」由樹は鷹を思わせる切れ長の目をわずかに細め、紫織を見据えた。まるで、まとわりついて離れない厄介者でも見るような眼差しだった。心底、疎ましい。だがよりによって、この件は三久のお腹の子に関わることだった。彼女の体面を守ろうとすれば、身動きが取れない。「あいつの腹の子が誰の子だろうと、あんたに何の関係もないさ」洲人が人混みをかき分けて歩み出ると、紫織を値踏みするように見た。「自分の腹の子のために、少しは口を慎んだらどうだ。暇があるなら少しは頭を使えよ。そんな頭じゃ、あんたそっくりの子が生まれちまうぞ!」高崎家といえば深川でも名の知れた家柄であり、これまで彼女にこんな口をきく者などいなかった。紫織の顔はみるみる怒りで朱に染まる。彼女がさらに何か言い返すより早く、洲人はもう由樹のほうへ視線を移していた。「こんなところで会うとはな。ちょうどいい、ひとつ厚かましいお願いがあるんだが」由樹は深い瞳に冷ややかな気配を纏わせながら、洲人へ視線を向ける。だが何も答えない。「うちに一人、譲ってもらいたいんだ」洲人はそう言った瞬間、妙な既視感を覚えて思わず吹き出した。「これで二度目だな。公の場で人を譲ってくれって頼むのは。しかも相手はまた同じ、早坂三久だ」一度目は西戸、二度目はここ深川で。まるで由樹を追いかけ回して三久を求めているかのようだった。ひとりで愉快そうに軽口を叩いてから、さらに続ける。「三久の腕は本当に買ってるんだ。仕事の腕は確かだし、さすが酒井社長が目をかけただけのことはある。ただ、惜しいだろうが、あいつを俺に譲ってくれるかどうかだよなあ」「あいつを譲る」という
「わかった」申し訳ないとは思いつつも、三久は立場を考えて席を外すことにした。身を翻し、会場の外へと向かう。人混みの中でひときわ目立つ男の視線が、ふいにこちらを向いた。三久のなめらかで華奢な後ろ姿に、その目が留まる。由樹はほとんど一目でそれが誰なのか気づいていた。洲人と一緒に来ていたのか。由樹の顔つきに、抑えきれない不機嫌さがいくらか翳を落とした。話していた相手は、わけもなく背筋が冷えるのを感じ、話の途中で口をつぐんだ。何人かが由樹の視線を追ったが、そこに見えたのは洲人の姿だけだった。由樹と洲人が犬猿の仲だという噂は、どうやら本当らしい。ただ、洲人の姿を見ただけで由樹が真っ先に顔色を変えるほどとは、誰も思っていなかった。「失礼、少し外します」由樹はグラスを置くと、吹き抜けに面した手すり際へと足を向けた。会場は三階にあり、中央が吹き抜けになった造りのため、一階ロビーの様子が見下ろせるようになっている。会場を出た三久は、エレベーターを降りてロビーのソファに腰掛けていた。一枚のガラス越しに、その姿がやけにくっきりと見えた。由樹の視線は、自然とそこへ吸い寄せられた。コツコツと硬質なヒールの音が近づき、彼の背後で止まった。由樹は視線を戻し、身体をそちらへ向ける。「酒井社長、あなたほど薄情な人、見たことないわ」紫織が背後に立ち、いかにも腹立たしげな顔で言う。「千歳を怒らせて追い返しておいて、宥めにも行かないなんて。もうすぐ結婚するっていうのに、そんな仕打ち、ひどくない?」由樹の瞳が冷ややかに光った。「暇なんだな。人のことに首を突っ込むのが好きらしい」「千歳とは仲がいいのよ。彼女のために言ってあげてるの、報われないじゃない!」紫織は一歩前へ出て、なおも言い募ろうとする。海外にいた二年間、千歳と一緒に過ごすあいだ、彼女の口から出る言葉はいつだって由樹のことばかりだった。そう語ってやろうとしていた。ノートいっぱいに、由樹の名前を書き連ねている千歳の姿を見たこともある。だがふと一階の三久の姿が目に入り、その目が険しく細まった。「またあの女?あなたの子を身ごもってるのをいいことに、あなたを独り占めして千歳を無言で挑発してるってわけ。あの女もいい度胸してるけど、あなたもいい加減
パーティーは午後六時からだった。三久は蒼汰を連れて帰り、昼食を済ませて少し休んでから支度に取りかかった。黒い服はお腹の膨らみをそれほど目立たせず、白い肌をいっそう際立たせている。化粧をしなくてもやつれた様子はなく、少し体重が増えたせいか、むしろ血色がよく見えた。バッグを提げて外へ出ると、洲人はすでにロールスロイスで玄関先に来て待っていた。車体に寄りかかり、うつむいてスマホをいじっている。ドアの開く音に気づいて一瞬目を上げたものの、すぐにまた画面へ視線を戻した。だが、そのまま数秒固まったかと思うと、はっと顔を上げてこちらを見た。夕暮れの陽が斜めに差し込み、三久の白い肌を淡い黄金色に染めている。艶やかな黒髪をひとつに束ね、毛先が肩口に垂れていた。その清楚な佇まいは、まるで高校生のようにも見えた。「行こっか」三久が近づいてドアハンドルを引いたが、開かない。顔を上げて洲人を見ると、その漆黒の瞳と真正面からぶつかった。眉をひそめる。「何ぼうっとしてるの」「……?」洲人は我に返り、スマホをポケットに突っ込むと、運転席側から回り込んでドアを開けようとする。ハンドルを引いても開かず、そこでようやく鍵がかかったままだったことを思い出す。ばつが悪そうに笑いながらキーを取り出して解錠し、もう一度ドアを引いた。視線は何度も三久のほうへ吸い寄せられては、すぐに逸らされることを繰り返している。三久は、今夜は夕食に行けないと、梨々香へ連絡するのを忘れていたことに気づいた。うつむいてメッセージを打つのに気を取られ、洲人の様子がどこかおかしいことには気づかない。打ち終えて顔を上げたときには、車はすでにマンションを出ていた。夕陽はまだ濃く、重なる山並みの向こうへ沈もうとしている。吹き込む夜風にはうっすらと涼しさが混じっていた。三久は花鳥柄のショールを肩に羽織る。「神崎家って、深川にも取引先があるの?」彼女は洲人に訊ねた。「あ?」洲人は慌てて彼女を一瞥し、すぐに視線を戻した。「大昔に親父がこっちに来たことがあってさ。どんな取引先なのかは俺もよく知らねえんだ。とにかく来たついでに一度顔合わせておけって話で」三久は小さく頷いた。「そうよね、ビジネスの世界って付き合いが大事だから」洲人もつられるよう
宴会場では、由樹が動くたびに自然と人の輪ができた。財界の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながらも、次々と彼のもとへ挨拶に訪れる客が途切れることはない。「由樹さん」千歳が横に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。由樹の腕が一瞬だけわずかに固まったが、すぐにふっと力が抜けた。「ちょうどよかった、紹介しよう。こちらは金子(かねこ)会長だ」千歳は由樹にぴたりと寄り添いながら、愛くるしい笑顔を向けた。「金子様、父からお噂はかねがね伺っております。今日ようやくお会いできて光栄です」「千歳ちゃんが小さい頃、抱っこさせてもらったことがあるんだよ……」金子会長は千歳と和やかに言葉を
三久は足を止めた。静かに息を飲み込んで、表情が少しずつ固まっていく。「どういうことですか?」哲朗には事情がまったくわからない。「早坂さんが本社に戻りたいってことじゃなかったんですか?」三久はかぶりを振った。「違います。退職を申し出に来たんです」哲朗が目を丸くした。「退職?なぜですか!」「個人的な理由です」三久は端的に答えた。「本社への異動、撤回できますか?」「撤回するにも社長の許可が必要ですし……」哲朗は困り顔だ。三久はこめかみを指で押さえた。じわじわとした絶望的な無力感が込み上げてくる。哲朗がなだめるように言った。「年末は会社が一番
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべき







