LOGIN夕凪は拳を握りしめた。怒りが一気にこみ上げ、頭に血が上っていく。堂島さんは、何十年もおじい様に仕えてきた。おじい様だけじゃない。お母様のことも、私のことも、三代にわたって支えてくれた人だ。瀬戸家のために人生の大半を捧げ、身を粉にして働いてくれた。その堂島さんを、慎一郎はどうして追い出せたの?あまりにも冷酷だった。私が瀬戸グループの次期社長になるのを阻むためだけに、そこまでするの?その時、夕凪は突然悟った。幼い頃から、自分を大切にしてくれた祖父、気にかけてくれた母、そして、優しかった父。けれど父だけは、自分が信じてきたような人ではなかったのかもしれない。先日の静江の誕生パーティーで、慎一郎が自分に手を上げた時も、志織を心配するあまり我を忘れただけだと必死に言い聞かせていた。だが今なら分かる。あれこそが、慎一郎の本当の姿だったのだ。司の顔に、同情の色が浮かんだ。「夕凪、もう一つ教えてやる。感動してもいいが、泣くなよ。俺は女に泣かれるのが一番苦手なんだ」司は前置きをしてから、続けた。「昨日、堂島がお前から逃げるように立ち去ったのは、もう会いたくないからじゃない。真相を知られたくなかったんだ。お前を悲しませたくない。自分のことで、お前と父親の仲を壊したくない。あいつが願っているのは、ただお前が幸せに暮らすことだけだ。お前さえ幸せなら、それで十分だと……堂島の奥さんが、そう教えてくれた」その言葉に、夕凪は胸をえぐられるような鋭い痛みを覚えた。涙が一気にあふれ出した。だからだったのか。堂島さんは私との再会をあれほど喜び、感情をあらわにしていたのに、連絡先を残そうとはしなかった。今なら堂島さんの気持ちが痛いほど分かる。どれほど迷い、どれほど苦しかったことだろう。すべて、慎一郎のせいだ!胸を締めつけていた悲しみと苦しみが、次第に怒りへと変わり、激しく渦を巻き始めた。先日の誕生パーティーで、慎一郎たちから受けた屈辱も痛みも、まだ何一つ償わせていない。そこへ、さらにこの事実まで突きつけられたのだ。彼らは、私が何をされても黙って耐えるとでも思っているのか。堂島さんにも、どんな仕打ちをしても許されると思っているのか。慎一郎は、もともと瀬戸家の娘婿にすぎなかった。祖父が自ら涼崎市の財界へ導き、一から仕事を
どうやら司は本当に自分の頼みを気にかけ、すぐに動いてくれていたのだ……司は片眉を上げ、腕を組んだままデスクに軽くもたれた。気負いのない、ゆったりとした仕草だった。「堂島の携帯の番号は、後で送ってやる」夕凪は感謝の言葉を口にしてから、尋ねた。「ありがとうございます……それで、堂島さんは今、どんな生活をしているんですか?どうしてあんな姿に……」「いや、かなり苦しい生活を送っている。瀬戸グループを辞めてから、どんな仕事に応募してもことごとく採用を断られたらしい。それでも妻子を養わなければならず、道路清掃員になるしかなかった。その仕事を、もう5年も続けているんだ」司は淡々と語った。夕凪の表情が痛ましげに歪んだ。「堂島さん……」もし、世間が言うように剛造が本当に会社の金に手をつけていたのだとすれば、今の境遇も自分で招いた結果なのかもしれない。しかし――司は意味ありげに目を細めた。「驚くのはまだ早い。もっととんでもない話がある」「何ですか?」「堂島が会社の金を横領したという話は、まったくの事実無根だった。誰かがあいつを罠にはめたんだよ。瀬戸グループから追い出すためにな」司はゆっくりと告げた。夕凪は呆然とした。「堂島さんを瀬戸グループから追い出すためですか?どうして……いったい誰がそんなことを?」訳が分からなかった。剛造は、ほかの株主と何か揉め事でも起こしていたのだろうか。「そいつが堂島を追い出したかったのは、堂島がずっと、あることを実現しようと動いていたからだ」「あること、ですか?」「株主全員を説得し、新しく就任した社長に、ある書類に署名させようとしていた。お前を瀬戸グループの次期社長に指名するという書類だ」夕凪は言葉を失った。目を大きく見開き、信じられない思いで自分を指差した。「私、ですか?」「そうだ」「そんなのあり得ません。どうして私なんですか?私にできるはずがないのに……」考えるより先に、言葉が口をついて出た。あまりにも現実離れした話だった。確かに夕凪は祖父の唯一の孫娘であり、母の唯一の娘でもある。だが、自分が瀬戸グループの社長の座を継ぐなど、考えたこともなかった。自分にはその器はないし、経営に興味を持ったこともない。もし自分が瀬戸グループを引き継いだら、会
そんな感情は馬鹿げている。そう自分に言い聞かせるように、峻はソファに置いてあった上着をつかみ、電話をかけた。「二十分後、K2バーに来い」低く沈んだ声で、用件だけを告げた。ところが、電話の向こうから返ってきたのは、あくび交じりの男の声だった。「何だよ、こんな真夜中に」峻は少し黙った後、重い声で言った。「今日、離婚した」今度は相手が黙り込んだ。やがて、ぼそりと呟く声が聞こえてくる。「俺は夢でも見てるのか?それとも幻聴か?あの『御堂グループのトップ』が、そんなことを言うなんてあり得ないだろ」男はスマホの画面を確かめたらしく、また独り言のように続けた。「いや、番号は合ってる。間違いなく『御堂グループのトップ』だ……」少し間を置いてから、男は尋ねた。「なあ、天下の『御堂グループのトップ』さんよ。離婚した後になってやけ酒を飲みたくなるのは、どんな奴だか知ってるか?」峻が黙ったまま先を促すと、男は得意げに言い放った。「女だよ!離婚して落ち込み、悲しくてたまらず、バーに駆け込んでやけ酒をあおる。そんなことをするのは女だけだ!男なら嬉しくて仕方ないだろ。仲間を全員集めて、自由になった祝いにどんちゃん騒ぎをするところだ!」すると、傍らにいるらしい女が、あくび交じりに口を挟む声が電話越しに聞こえてきた。「でも、向こうからあなたを飲みに誘ってきたんでしょ?」男は女に向かって鼻で笑った。「聞こえなかったのか?あの覇気のない声のどこが嬉しそうなんだよ」それから再び電話口に戻ると、峻に向かって言葉を継いだ。「なあ、さっきのは普通の男の話だ。でも、お前は天下の『御堂グループのトップ』だろ。涼崎中の女が放っておかない男が、女一人失ったくらいで、何をそんなに落ち込んでるんだ?」峻の低い声が、一気に冷たくなった。「来るのか、来ないのか」それでも相手は、ぶつぶつと文句を言う。「行くかよ!こんな真夜中に、酒なんか飲めるか。嫁を抱いて寝てるほうが、よっぽど温かい」玄関先で、峻はぴたりと足を止めた。端整な顔が、見る見る険しくなった。怒ったのだ。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻の怒りは、もちろん普通の男のそれとは違う。峻は冷ややかに言い放った。「お前の親父に伝えておけ。来週の入札には参加しなくていい。親父の会社の入札資格は、今
眉間には深いしわが刻まれ、薄い唇も固く引き結ばれていた。夕日を受けた端整な横顔に、気品と冷厳さをたたえた顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。詩乃の体が、びくりと震えた。気配を感じた峻は顔を上げ、張り詰めていた表情をふっと緩めた。「目が覚めたか?」胸につかえていた重石が、ようやく取れた。詩乃が意識を失った時、峻は胸騒ぎを抑えられなかった。亡き清音と瓜二つの顔を見ていると、現実と記憶の境目が揺らぎ、彼女こそ清音なのではないかと錯覚してしまったほどだ。病院へ運び、医師の診察を受けたところ、強い恐怖で一時的に心拍が乱れ、そのまま失神しただけだと告げられた。今はもう落ち着いており、少し休めば目を覚ますという。峻は安堵の息をついた。初めは柊吾に電話をかけ、誰かを詩乃の付き添いに寄こさせるつもりだった。だが、スマホを取り出したところで思い直した。怜司の調べでは、今日の事故に夕凪は関与していないとの結論が出ていた。それでも峻は、まるで信じていなかった。幼い頃から夕凪を知り尽くしているうえ、三年前の一件もある。今回も夕凪の仕業に違いないと、峻は決めつけていた。だから、今日詩乃の身に起きたことも、夕凪と無関係なはずがない。もし詩乃が目を覚まさなかったり、何か後遺症でも残ったりすれば、夕凪はもう終わりだ。そう考えると人任せにはできず、峻は自分で残って様子を見ることにしたのだ。詩乃は今、ベッドの隅で両膝を抱え、うつむいて小さくなっていた。峻と目を合わせることさえ恐れているように見えた。少しでも彼から離れようとしているかのようだった。「どうした?」峻はようやく様子がおかしいことに気づき、再び眉をひそめた。「私は大丈夫……もう、帰って」詩乃は低く抑えた声で答えた。その目はすでに赤く、涙がにじんでいた。峻は息をのんだ。詩乃と出会ってから、彼女がこんなふうに感情を押し殺した声で話してきたことは一度もなかった。そんな話し方をするのは、清音だけだった。心臓が激しく早鐘を打つ。峻は勢いよく立ち上がると、詩乃を真っ直ぐに見据えた。「お前……本当は誰なんだ?」声がかすかに震えていた。彼女は詩乃なのか。それとも……清音なのか。しかし、詩乃は何も答えなかった。顔を深く膝に埋めたまま、華奢な背中だけが小刻みに震え
「どうしてここへ来たんだ?」司はすぐにいつもの調子を取り戻した。整った目元に、いつもの読めない光が戻っている。夕凪は尋ねた。「一つ、聞きたいことがあるんです」「言ってみろ」「瀬戸グループの前の社長……つまり私の母方の祖父のそばに、堂島剛造という補佐役がいました。何十年も祖父に仕えていた人です。祖父が亡くなった後、堂島さんがどうなったかご存知ですか?」夕凪は、だめでもともとのつもりで尋ねただけだった。司が必ず知っているとは思っていない。剛造は、あくまでも祖父の一介の補佐役に過ぎなかったからだ。けれど、夕凪が言い終えるや否や、司は片眉を上げて即答した。「ああ。彼なら、とっくに瀬戸グループを離れてるぜ」夕凪は限界まで目を見開いた。「知っているんですか!?じゃあ、どうして瀬戸グループを辞めたのか、その後どこへ行ったのかも……?」司はソファに深く腰掛け、組んだ長い脚をテーブルの上に投げ出していた。つま先がゆっくりと揺れている。ひどくだらしなく見えるのに、不思議と場を圧倒し支配するような姿勢だった。「細かいところまでは知らないな。ただ七年前、瀬戸グループの古参である堂島が、莫大な事業資金を横領したって報道が出た。額が額だったから、本来なら数年は塀の中に入ってもおかしくない話だったんだ」司は指先でソファの肘掛けをトン、トンと軽く叩いた。「ところが、新しく社長になった男がずいぶん寛大でな。堂島が自分の金で横領の穴を埋めること、会社を自主退職すること、そして持っていた株をすべて手放すこと。その三つの条件を受け入れれば、法的責任はそれ以上追及しないって形に収めたらしい。その後の足取りまでは、さすがの俺も知らない」司は夕凪の顔を覗き込んだ。「急にどうした?まさか、その堂島に会ったのか?」夕凪は険しく眉を寄せたまま、無言でうなずいた。七年前。それは、母が亡くなった時期とぴたりと重なる。母が亡くなった後、遺言によって、母は祖父から自分に遺されていた全ての株式を、自身の夫である慎一郎に譲った。その結果、慎一郎はごく自然な流れで瀬戸グループの社長の座に就いたのだ。けれど、夕凪にはどうしても納得できなかった。祖父が生きていた頃、剛造が会社に背くような不義理を働いた記憶など一度もない。祖父が亡くなった途端、あの実直な
剛造は、母方の祖父の右腕であり、瀬戸グループを古くから支えてきた重鎮だった。幼い頃、祖父と母、そして静江を除けば、夕凪を誰よりも可愛がってくれたのが剛造だった。けれど、どこかおかしい。夕凪の記憶にある剛造は、祖父の片腕とも言える存在だった。祖父も剛造を厚く遇していたため、身につけるものも暮らしぶりも自然と上等で、立ち居振る舞いにも人目を引くような品格があった。だが、目の前にいる清掃員は、髪がすっかり白髪になり、顔には深いしわが幾重にも刻まれている。肌は日に焼けてどす黒く、身につけた作業服はひどく汚れ、擦り切れて古びていた。夕凪には、目の前にいるみすぼらしい清掃員と、記憶の中の洒脱で活力に満ちていた剛造の姿が、どうしても結びつかなかった。「堂島さん……?本当に、堂島さんなんですか?」夕凪は戸惑いながら尋ねた。誰かが剛造になりすましているのではないか。そんな考えすら頭をかすめた。「はい、お嬢様。私です。堂島でございます。……お忘れですか?小さい頃、お嬢様がいちばんお好きだったお菓子は、瀬戸グループのビルの近くで年配の女性が売っていた栗の焼き菓子でした。お嬢様が社長に会いにいらっしゃるたびに、私がよく買いに走ったものです」剛造は懐かしい昔の思い出を口にしながら、その濁った目に涙を浮かべた。その一言で、夕凪はようやく確信した。間違いない。本当に剛造だ。「堂島さん……!本当に、堂島さんだったんですね!」夕凪の目も熱くなった。胸の奥に熱いものがこみ上げ、思わず剛造に抱きつこうと身を乗り出した。幼い頃、剛造に会うたび、夕凪は小さな体でよくその胸に飛び込んでいた。瀬戸グループへ祖父に会いに行っても、祖父はたいてい仕事で忙しく構ってくれなかった。それでも夕凪が退屈しなかったのは、いつも剛造が優しい遊び相手になってくれたからだ。けれど今、剛造は夕凪の腕を慌てて避けるように、深く身を引いた。「お嬢様、いけません。あなた様のお召し物が汚れてしまいます」夕凪はピタリと固まった。伸ばした腕が、行き場を失って宙に浮いたままになる。夕凪は胸の痛みをこらえ、ゆっくりと腕を下ろした。その時、ふと別の大きな疑問が頭に浮かんだ。「堂島さん。祖父が亡くなった時、あなたは会社の中核を任されて、会社の株も少し譲り受けたはずですよ
だが、夕凪はすぐに飛びつくことはしなかった。不安げに眉を寄せる。「でも……」言いかけて、口をつぐんだ。桐生家と御堂家は商売敵だ。この男の厚意を素直に受け取っていいものか。司はにやりと笑った。「そんなに警戒するなよ。大荷物抱えて仕事を探し回ってるってことは、行く当てがないんだろ?俺はただ、困ってる人間に手を貸してやろうってだけだ」それでも夕凪の警戒は解けない。司はその様子を見て、声を上げて笑った。「あんたを利用するつもりなら、今すぐ御堂さんに電話してるさ。わざわざこんな地味な仕事を回す必要がどこにある?まあ、働くか出ていくかはあんたの自由だ。好きにしろ」そう言い残
嫁ぎ先には怖くて戻れない。実家にも帰れない。――行き場が、どこにもない。夕凪はあてもなく、身を切るような寒風の中を歩き続けていた。鼻先は真っ赤で、体の震えが止まらない。ふと、子どもの頃に読んだ「マッチ売りの少女」を思い出した。寒くて、腹が減って、一文無しで――今の自分は、まさにあの少女そのものだ。足が止まった。目の前に、二十四時間営業の看板を掲げたファストフード店がある。窓越しに見える店内には、夜を明かすホームレスたちの姿があった。もう、ここしかない。夕凪は歯を食いしばり、迷惑を承知で店に入った。隅の席を見つけ、テーブルに突っ伏す。外で凍え死ぬよりはマシだ。けれ
二十分後。忠はアクセルを踏み抜かんばかりの勢いで車を飛ばし、ようやく最短時間で峻を本家へ送り届けた。玄関をくぐるなり、御堂グループの次期総帥ともあろう峻が、またしても祖母にこっぴどく叱り飛ばされた。峻は一言も言い返さず、黙って叱責を浴びていた。が、頭の中では別のことを考えていた。御堂家の先代当主と夕凪の外祖父――瀬戸グループの創業者は、血の繋がりこそないが義兄弟の契りを結んだ仲だ。夕凪は幼い頃からしょっちゅう本家に遊びに来ていた。静江には三人の息子と一人の娘がいて、孫も五、六人、さらに外孫娘もいる。けれど昔から誰よりも可愛がっていたのは、血の繋がりのない夕凪だった。御堂家の
刑務所を出た夕凪が真っ先にしたことは、銭湯へ行って湯につかることだった。まずはこの身にまとわりついた穢れを、きれいさっぱり洗い流したかったのだ。浴槽に足を踏み入れ、熱い湯の中にゆっくりと体を沈めていく……ああ、気持ちいい。思わず目を閉じて、浴槽の縁に頭をもたせかけた。あまりにも穏やかで、あまりにも安らかで――ずっと張り詰めていた糸がふっとほどけた途端、記憶の底に沈めていたものが、ひとりでに浮かび上がってきた。六年前、御堂グループは突如として経営危機に陥った。窮地を脱するため、峻は自ら夕凪のもとを訪れ、プロポーズした。瀬戸グループに支援させるための政略結婚だった。父は反対して







