로그인翌日、仕事に戻った真壁は、平静を保って業務をこなした。
否──
ある意味、仕事の効率は更に速度が上がったかもしれない。
とにかく、なにも考えたくない。 仕事に集中することで、思考に余剰を与えたくなかった。そうして、数日が過ぎた。
「真壁、いるか〜?」
再び、響野が顔を出す。
相変わらずノックもなく、扉はいきなり開いたが、笑顔にいつもの勢いはない。 空気を察したのか、もしくは真壁の〝異常〟を感じ取っていて、その空気を打ち破る術を求めたのか、西條は遮りもしなかった。「ひっどい顔だな、おまえ」
「僕の顔は、ずっとこうだ」「俺の知ってる真壁は、もっと健康的な顔色のイケメンだったんだが」「なんの用だ?」画面に視線を戻す真壁に、響野は肩をすくめる。
「先日の、続報だ」
そもそも、自分の出世にさほどの興味も無い真壁だが。
今や、そんなことはどうでも良かった。場所は、先日と同じ店の個室だ。 響野は前回同様、仲居の出入りが終わるまでは、肝心の話には触れなかった。「親父さんが、人事のツテを辿って、話を聞いてきてくれたんだがな」「篠原医官に、そんなことを頼むな……」「頼んじゃない。好意だ」「定年前に、篠原医官がクビになったら、シャレにならないぞ」「はあ〜、おまえが筋肉以外のことも、考えられるようになるとはなぁ」「そりゃ、こっちのセリフだ」 真壁の返しに、響野は頬を緩める。「お〜、真壁節が戻ったな」「……あ……。……すまん」 響野に気を使われたことに気付き、真壁は謝罪する。「構わんさ。それより、本題だ。密告は、実際にあった」「どんな?」「おまえが、訓練生時代に、教官とデキてたって内容だ」 真壁は、カッと顔が熱くなるのを感じた。 その様子に、響野はぶはっと笑う。「安心しろ! 若桐さんは関係ない。……てか、俺はおまえと若桐さんの関係は、カミングアウトしてもオッケーだと思うがな」「莫迦! そんな、守さんに迷惑を掛けるようなこと、出来るか!」 未だに真っ赤な顔をしている真壁を、響野はニヤニヤと笑って眺めている。「ともかく。そもそもおまえと若桐さんは、訓練生時代から付き合ってるわけじゃなし。てか、あの頃はトリムネとサバ缶のことしか、頭になかったって、俺が一番知ってるわな」 若桐との付き合いを響野が知ったのは、真壁がクリスマスに〝成人男性に贈るプレゼント〟の相談をしたのがきっかけだ。「おまえは、誤魔化し下手だからなぁ。訓練生時代から付き合ってたら、俺が知らんわけがない」「そんな話はいい! 密告したのは誰だ?」「親父さんの先輩で、今は嘱託で人事の資料管理を任されている人からの情報だからな。そこまではわからん。だが、これをもらってきた」 そういって、響野は鞄
翌日、仕事に戻った真壁は、平静を保って業務をこなした。 否── ある意味、仕事の効率は更に速度が上がったかもしれない。 とにかく、なにも考えたくない。 仕事に集中することで、思考に余剰を与えたくなかった。 そうして、数日が過ぎた。「真壁、いるか〜?」 再び、響野が顔を出す。 相変わらずノックもなく、扉はいきなり開いたが、笑顔にいつもの勢いはない。 空気を察したのか、もしくは真壁の〝異常〟を感じ取っていて、その空気を打ち破る術を求めたのか、西條は遮りもしなかった。「ひっどい顔だな、おまえ」「僕の顔は、ずっとこうだ」「俺の知ってる真壁は、もっと健康的な顔色のイケメンだったんだが」「なんの用だ?」 画面に視線を戻す真壁に、響野は肩をすくめる。「先日の、続報だ」 そもそも、自分の出世にさほどの興味も無い真壁だが。 今や、そんなことはどうでも良かった。「いらん」「息抜きも必要だぞ?」「いらんと言っている」「……おまえがそんなじゃ、職場の空気が悪いぞ」「どこか、問題があるか?」「そうだな……。西條の顔色が悪いのは、俺が来た所為だけじゃなさそうだ」 そのことに関しては、真壁も自覚があった。 先日の飲みの席で、真壁は『若桐が隊を辞めるかもしれない』話も、響野にしてある。 そちらで、なにか情報が掴めているかもしれない。 真壁は少し考え直して、頷いた。「わかった」 真壁は手元の書類を簡単にまとめると、すぐに上着を手に取った。
廊下の向こうに、若桐の姿が見える。『若桐さんっ!』 真壁は、呼びかけようとしたが、喉に声が引っかかって出てこない。 床に足が張り付いていて、走りだそうにも足が動かない。『若桐さんっ!』 声にならない叫びに、若桐がこちらを向いた。 歩み寄る気配に、微かな安堵を覚えるが……。 傍に立った若桐は、冷たい眼差しのままだ。「すみません、一佐。ご要件は、改めて」 笑みもなく、淡々と告げると背を向ける。 必死になって、動かぬ足を前に出し、真壁は叫んだ。『守さんっ!』 次の瞬間、真壁は空に放り出されている。 射出されたシートと、パラシュート。 空の彼方に消えてゆく、黒煙を上げる機体。『待って! 守さん! 行っちゃやだ!』 声は出ない。 手を伸ばし、必死になって真壁は叫んだ。「行かないでっ! 守さんっ!」 自分の叫びで、飛び起きた。 部屋は暗闇に包まれていて、音もない。(隣の響野は……) 考えて、そんなものはとうの昔にいないのだと思い出す。 全身に冷たい汗をびっしょりとかいていて、顔に手を当てると泣いていた。(守さん……) 思わずスマホを手に取ったが、番号を選ぶ直前で手が止まる。 部屋の暗さよりも、重く冷たい闇が、真壁の心にのしかかってきたような気がした。
午後の会議で、真壁は資料の数値を読み違えた。 執務室に戻ったあとも、パソコンの画面を見つめたまま、ぼんやりしている。 数字も、伝聞も、一切が頭に入ってこない。「一佐、どうかなさいましたか?」 西條の声に、我に返る。「なんでもない」 その場は取り繕った。 だが、いつもなら西條が追いつけないほど速やかに回される決済が滞り。 一部の下士官から、残業を一切許さないのに仕事量が尋常じゃないと噂される部署で、全く仕事が回ってこない事態が発生した。「あの、一佐……」「え……?」「どこか、お加減が悪いのではないですか?」 こちらを見る西條の心配げな顔に、真壁はふるふると首を振る。「まだ、終わってない」「ですが……、体調が優れないなら無理をせずに休んで、翌日取り戻せば良いと仰ってるのは、一佐ですよ?」 西條の指摘に、真壁はハッとした。(そうだ……。こんなに何も手につかないんじゃ、皆に迷惑を掛けるだけだ……) 真壁は、こくんと頷いた。「済まない。きみの言う通りだ」「こちらで回せるものは、やっておきます。このあとのスケジュールに、動かせないものはありません。お大事にしてください」「ありがとう」 身支度を整え、真壁は席を立つ。 しかし、西條への感謝の念は長く持たず。 心の中を占めるのは、あの廊下で若桐と交わした数秒のやりとりだ。(なぜですか、守さん。僕が、なにかをしましたか? ……辞めるという噂は、本当なんですか?) 疑問と不安が胸に満ちる。 だが、若桐からそれらを肯定する返事をされるのが怖くて、メッセージすら送れなかった。
午前の打ち合わせを終えて廊下を曲がった瞬間、真壁の視線を釘付けにするものが視界に飛び込んできた。 見慣れたフライトスーツではなく、公務の制服姿だが……、見まごうはずもない。 あれは、若桐の後ろ姿だ。 胸が高鳴り、歩く速度が自然と早くなる。 静浜で教官をしている若桐が、浜松基地に来るのは珍しい。(しばらく連絡が無かったのは、またなにかサプライズを企んでいたんですか?) 理由がなんであれ、なにより元気な顔が見られた嬉しさが先に立つ。「若桐教官!」 だが、こちらに振り返った若桐は……。 真壁が期待するような、いつもの笑みを浮かべてはくれなかった。「お疲れさまです、一佐」 すっと上げられた右手は、教科書通りの敬礼。 声音は堅く、事務的な挨拶のみ。「まもるさ……」 飛び出しそうになった言葉を飲み込む間に、視線は外された。 若桐と共に来たらしい、静浜で見慣れた教官たちが、がやがやと廊下を歩いていく。 集団と一緒に歩く若桐は、視線を無理やり固定しているかのように、視界に真壁を写さず……。 いくつもの足音が脇を抜けていく中で、自分の横を若桐が通り過ぎる。「わ……若桐教官!」 咄嗟に、真壁は若桐の二の腕を掴んでいた。(なんで、連絡をくれないんですかっ!?) どうしても問いただしたいその質問は、向けられた硬質な視線に押されて、声にならなかった。 若桐の視線が、ゆっくり落ちて、掴んでいる二の腕を見る。「すみません、一佐。ご要件は、改めて」 ギシッと、歯車が狂うような音が、頭の中に響いたような……。 若桐の言葉の意味が、理解できない。 だが、そっと当てられた手が、掴んだ真壁の手を除ける。 公共の場では、これは逸脱した行為だ。
若桐は、自分の部屋の机に向かい、ノートパソコンの画面に〝辞表〟のフォーマットを開いていた。 今日の午前、教官の控室には、時期的に恒例の〝人事の噂〟が流れてきた。 それは当人たちのもの……ではなく、皆が指導をした教え子たちの。 特に、佐官以上の人事は、常に話題のマトだ。 そこで、今度の将補の候補に、真壁の名前が上がっている……と。「若桐さん、嬉しいでしょう?」「そりゃあ、教え子が出世してるの見るのは、ねえ……」 適当に誤魔化したが。 正直、嬉しいなんてものじゃなかった。 誇らしい……ですらない。 自分でも浮かれすぎるほど浮かれ、有頂天になっていた……とすら思う。 だが、午後になって幕僚監部付の視察担当官が顔を出した。 浜松と静浜の連絡を受け持っている樋口一佐だ。 年齢は四十一で、若桐の教え子の一人でもある。 樋口との窓口は若桐の担当で、人事の話が出る頃合いは訓練生の卒業式も近付くので、頻繁に顔を出すのだ。「そういえば、真壁が将補の候補に上がったとか?」「ん? そうらしいな」 応接室で対面していた樋口が、業務を終えたところでその話題を切り出した。 若桐は、出来るだけ平静を装いつつ、答える。「でも……、雲行きが怪しいらしいですよ」「え、なんで?」 思わず素で答えた若桐に、樋口は「ふふっ」と笑う。「なぁんだ。やっぱり気にしてるんじゃないですか」「そりゃあ教え子の出世は、いつだって嬉しい話題だからな」「全く、あんたそういう意味じゃお人好しですよ」「そんなにか?」「だってそうじゃないですか。そもそも教え子が出世したからって、若桐さんの評価が上がるもんでなし。給料も同じで、階級も変わらず。なにがそんなに嬉しいんだが、あたしには全くわかりませんね」「教え子
佐藤にスマホを預けて、既に十日。 スマホの返却を頼むべきか、いっそ新規で購入すべきかを、若桐は悩んでいた。(つっても、俺だってそんなに給料もらってるわけじゃねぇし。ケータイは契約に縛りがあるから、買い替えとか気軽にやりたくねぇんだよ……) だからといって、返却を申し出たら、あのいろんな意味で堅そうな佐藤が、更にいらぬ疑惑を強めてこないとも限らない。(忙しくて、スマホを修理に持ってけないって言い訳も、そろそろ辛くなってきたしなぁ……) 日常生活では少々ボンク
デートプランを考えていた時には、あれほど〝真壁の情操教育のために、一般的なデートプランを〟と考えていたのに。 自分たちの事情を鑑みたところで、それが不可能だと気付いた。(そもそも掛川って、なんだかんだ同僚がいそうな土地だよな) 真壁のメッセージに、宿泊先のホテル名を送り、時間の指定は特にしなかった。 仕事の都合や交通事情で、到着時間が大幅に狂うことはままある。 若桐がホテルのフロントで名を告げた時、受け付けは「お連れ様は既にご到着です」と告げた。 部屋の扉をノックすると、扉が開く。「若桐さん
教官室に戻り、鍵の掛かる引き出しからスマホを取り出す。(業務連絡みたいなメールが、びっしり来てるな……) メッセージの着信画面には、休憩毎に真壁が送ってきた履歴が並んでいた。 流石に任務や訓練の内容はないが、水を何リットル飲んだかまで書かれている。 アドレス交換をした時に、都度の返信は出来ないし、こちらが送ったものにもする必要はないと言っておいたが……。(あのカタブツでも、恋愛に浮かれることがあるんだなぁ……) 謎の真壁理論で押し切られた……というよりは、自分は既にあの背中の色香に狂っているのだろう
熱が引いていく感覚に、若桐はゆっくりと真壁から体を離した。(ああ、全く……) 甘い余韻よりも先に来たのは、「やらかした」という後悔の念。 訓練生ではないが、教え子に手を出すことになるとは……。「若桐さん……」 若桐が起き上がり、体温が離れて気付いたように、真壁がこちらに意識を向ける。 その様子に、己の後悔より真壁への労りが先んじた。「待ってろ。今、ユニットバスに湯張ってやるから」 ベッドから離れようとした若桐を、引き止めるように真壁が手を取る。「おい……」「やっぱり、……若桐さんじゃないと駄目です」 真壁は、へにゃりと笑った。 端正な顔が、突然、少年のように見えた。