Mag-log in結婚10周年の夜、夫は別の女を妻と呼んだ。
私の名前は佐原紗季(さはら さき)。陶磁器の修復を仕事にしている。
そのとき私は、舞台袖で1枚の皿を支えていた。
直径40センチほどの白い大皿には、枝からこぼれる椿が描かれている。半年前、2つに割れた状態で持ち込まれ、私が漆でつないだ。
継ぎ目に薄く漆を塗り、乾ききる前に金粉を蒔いて仕上げる。そうして生まれた金の線が、舞台の照明を受けて細く光っている。
「佐原さん、展示台へ運びます」
助手の小暮千夏(こぐれ ちなつ)が、白い手袋をはめた両手を差し出した。
「待って。右の留め具が少し浮いてる」
皿を片手で支え、展示台の金具を締め直す。会場から拍手が起こった。
黒い幕の隙間から、照明に浮かぶ壇上と、そこへ向けて並ぶ客席の端が見えた。
招待客が席を埋め、壁際には継景が手がけた器がガラスケースに並んでいる。
株式会社継景の創立7周年記念イベント。
会場は、都内ホテルの大宴会場だった。正面に設けられた舞台を囲むように丸テーブルが並び、取引先や顧客、メディア関係者が席を埋めている。
壁際には、継景が手がけた器がガラスケースに収められ、照明を受けて静かに輝いていた。
壊れた器を継ぎ、そこに残る暮らしの景色を未来へ渡す。
その思いを込め、夫の佐原直哉(さはら なおや)が「継景(つぐけい)」を立ち上げてから7年になる。
そして今日は、私たちの結婚記念日でもあった。
継景の開業日をこの日に決めたのは、直哉だった。
「夫婦で始める会社なんだから、記念日も同じでいいだろ」 7年前、彼はそう言って笑った。朝、直哉はネクタイを締めながら言った。
「会社も夫婦も節目だ。今夜は、今まででいちばん大事な日になる」
その意味を、私は取り違えていたらしい。
「ここまで継景を育ててこられたのは、私ひとりの力ではありません」
直哉の声が、スピーカーから滑らかに流れてくる。
舞台袖のモニターには、壇上に立つ夫が映っていた。濃紺のスーツに、私が誕生日に贈った銀色のタイピン。ライトを浴び、穏やかに笑っている。
「器に残された思いを見つけ、今の暮らしに届く物語へ変えてくれた人がいます」
客席の視線が、壇上の脇へ集まった。
深い緑のドレスを着た野口麻里奈(のぐち まりな)が歩み出る。
継景の広報責任者で、2年前に入社してから、いつも直哉のすぐ隣にいた女性だ。
仕事の話が長引いた。
地方撮影から戻れなくなった。
会食のあと、具合の悪い麻里奈を家まで送った。
この1年、直哉が帰らない夜につけた理由には、ほとんど彼女の名前があった。
それでも私は、疑うより先に自分を納得させてきた。会社が大きくなれば、人と会う時間も増える。私には分からない仕事があるのだと。
モニターの画面が客席へ切り替わった。丸テーブルを埋めた招待客たちは、グラスや資料を手にしたまま、壇上のふたりを見上げている。
直哉は麻里奈を舞台の中央へ招き寄せ、その腰へ自然に手を回した。
麻里奈は客席ではなく、すぐ隣にいる直哉を見上げた。仕事相手に向ける笑顔ではない。触れられることにも、その隣に立つことにも慣れきった、やわらかな笑みだった。
「紹介します。私の妻であり、継景のクリエイティブを支えてきた野口麻里奈です」
前列の客が、戸惑ったように隣の人と顔を見合わせた。だが、やがて誰かが手をたたくと、拍手は次々に後ろの席へ広がっていった。
舞台袖まで届いた大きな拍手を聞きながら、私はモニターの中のふたりを見つめていた。
私の手から、磨き布が落ちた。
千夏の手が止まった。
「佐原さん……今、妻って」
大皿の縁へ両手を添え直した。指先に力を入れすぎれば、せっかくつないだ器へ負担がかかる。
「先に、これを台へ載せよう」
自分の声が聞こえた。思っていたより、落ち着いていた。
ふたりで皿を持ち上げる。千夏の手が震えていたので、重さをこちらへ寄せた。
舞台では、麻里奈のスピーチが始まっていた。
「直哉さんが最初に見せてくれたのは、割れた白い茶碗でした。傷を隠さず、美しさに変える。その考えに触れて、私は継景の物語を作りたいと思ったんです」
背後のスクリーンに、白椿の茶碗が大きく映った。
母が使っていた茶碗だった。
私が修復師を目指したきっかけであり、初めて自分の手でつないだ器だ。継ぎ目は太く、今の私なら選ばない金の蒔き方をしている。
それでも母は、少し不揃いな線を指でなぞり、「紗季が直してくれたから、前より好き」と笑った。
その写真を撮ったのも、説明文を書いたのも私だった。
スクリーンの端には、こう記されている。
【Creative Direction 野口麻里奈】
私の名前はなかった。
写真が切り替わる。どれも私が預かり、状態を調べ、持ち主と相談して直した器だった。麻里奈が「私たちの作品」と呼ぶたび、客席から拍手が返る。
呼吸をするたび、みぞおちのあたりが鈍く痛んだ。それでも涙は出なかった。
その代わり、目に入るものだけが妙にはっきりしていた。直哉の左手には、私との結婚指輪がない。
指の根元に、外した跡だけが白く残っていた。その隣では、麻里奈が当然のように彼と肩を並べ、マイクを握っている。
壇上のふたりは、私が存在しない場所で、もう夫婦になっていた。
「すみません、撮っていただけますか」
会場スタッフの女性が、私へスマホを差し出した。
「社長ご夫妻の記念写真を残したくて。スタッフが一緒に写るわけにはいかないので」
彼女に悪意はなかった。私が直哉の妻だと知らないだけだ。
断ればよかった。
けれど、その場で説明すれば、スタッフは謝り、周りにいた人たちは事情を聞きつける。壇上のふたりが作った物語を壊した女として、私の顔だけが広まるだろう。
スマホを受け取り、カメラを向けた。
直哉は麻里奈の肩を抱き寄せた。麻里奈は彼の胸元へ手を添える。画面の中では、疑う余地もないほど自然な夫婦だった。
撮影ボタンを押す。小さな電子音が鳴った。
結婚10周年の写真に、私は写らなかった。
撮ったのが私だということさえ、写真には残らない。
イベントが終わるまで、私は展示品のそばにいた。
来場者が皿をのぞき込み、「この金の線、きれい」と話す。そのたびに礼を言った。誰が直したのかと尋ねられることはなかった。
説明札にもパンフレットにも、職人の名前は載っていない。
午後8時を過ぎ、最後の来場者が出ていった。
千夏が展示ケースの鍵を閉めながら、何度も私を見た。
「私、片づけます。佐原さんは……」
「状態写真を撮ってから。一度動かしたものは、最後に確認しないと」
「でも」
「今だから、いつもどおりにやるの」
器まで巻き込んで壊すわけにはいかなかった。
控室へ戻ると、直哉がネクタイを緩めていた。麻里奈の姿はない。
テーブルには飲みかけのシャンパンが2つ並んでいる。
私を見ても、驚きはしなかった。
「お疲れ。展示、評判よかったぞ」
「妻って、どういう意味?」
直哉はグラスへ伸ばした手を止めた。
「そこからか」
「ほかに、どこから聞けばいいの」
「イベント上の見せ方だ。麻里奈はブランドの顔で、俺のパートナーでもある。あの場で関係を細かく説明する必要はないだろ」
「法律上の妻は別にいる、とは言いにくかった?」
直哉は小さく息を吐いた。困らせるな、と言いたげな顔だった。
「紗季は顔を出すのが嫌いだったじゃないか。職人は作品で評価されればいいって、前に言ってたよな」
「顔を出さないことと、いなかったことにされるのは違う」
「大げさにするなよ。継景が伸びれば、修復室の仕事も増える。俺たちは同じ船に乗ってるんだ」
7年前、ふたりで決めた言葉だった。
直哉が会社を作り、私は修復室を開く。役割は違っても、古い器をもう一度暮らしへ戻す仕事を、一緒に育てようと約束した。
いつから、船に乗っているのが私だけになったのだろう。
「麻里奈さんとは、いつから?」
「今、話すことか?」
「今まで話さなかったのは、あなたでしょう」
廊下でスタッフの声がした。直哉は扉へ目をやり、私の肩に手を置いた。
「家で話そう。今日は疲れてる。お互い、感情的にならないほうがいい」
話を終わらせるとき、直哉はいつもこうする。
肩へ置かれた手を見た。以前は、触れられるだけで安心した。その手が今は、私を所定の位置へ戻すための重しに思えた。
私は何も言わず、直哉の手を外した。
テーブルの端に、今日配られたパンフレットが積まれている。1冊取り、ページをめくった。
【修復監修 野口麻里奈】
【写真・工程記録提供 株式会社継景】
佐原修復室の名は、最後までなかった。
パンフレットの下から、角形の封筒がのぞいていた。表には私の名前と、【年間業務委託契約 更新書類】の文字がある。
「それ、来月までに署名しておいてくれ。内容は前とほとんど同じだ」
直哉はスマホを見ながら言った。
画面に表示された名前を、私は見てしまった。
麻里奈。
メッセージの冒頭には、ハートの絵文字があった。
封筒を手に取る。
妻の名前を捨てた次は、職人の名前まで捨てるつもりらしい。
それでも私が署名すると、直哉は信じていた。
10月8日、見覚えのない証明書が届いた。差出人は、継景と取引のある老舗ホテルの購買担当者だった。私は古い町家の2階に借りた仮作業室で、応募用の作品記録を整理していた。机が狭く、撮影板を置けばノートパソコンを端へ寄せなければならない。それでも、継景の社内を通らずに仕事ができるだけで、呼吸が楽だった。メールの件名には、【修復証明書の記載内容について】とある。宛先は、佐原修復室の業務用アドレスだった。添付ファイルを開く。ホテルの客室に飾る大皿の修復証明書だった。作業日は10月3日。修復責任者の欄には、佐原紗季。問い合わせ先にも、佐原修復室のアドレスが記載されている。ページの下に、私の署名が入っていた。けれど、私はこの皿を見たことがない。写真を拡大する。藍色の波模様。縁から中央へ伸びた割れに沿って、金色の線が走っている。署名だけは、確かに私の字だった。自分の右手を見る。誰かが、私と同じ署名を書けるはずはない。そう思ったあと、2年前の状態報告書を開いた。署名の形が一致する。「紗季」の「季」の最後に、インクが小さくにじんでいるところまで同じだった。手書きした署名を画像として切り取り、新しい書類へ載せている。ホテルからの本文を読み直した。【納品された皿の接合部分に浮きが見られたため、作業内容をご確認いただけますでしょうか。証明書に記載された修復責任者様へ直接伺うよう、担当部署から案内を受けました】喉が渇いた。返信画面を開き、指を置く。この書類は偽物です。夫が私の署名を使いました。そう書けば、すぐに直哉を追い詰められる。けれど、書類を作った人間も、作業した人間も、私は知らない。直哉が直接指示したのかも分からない。分からないことまで怒りで埋めれば、私も直哉と同じになる。電話を取り、弁護士の森下絵里(もりした えり)へ連絡した。離婚と契約終了の交渉を頼んでいる代理人だ。事情を話すと、森下はメールと添付ファイルを、受け取った状態のまま転送するよう言った。30分後、オンラインで画面をつないだ。森下は証明書と、2年前の状態報告書を見比べた。「まず、届いたメールと添付ファイルは、そのまま保存してください。佐原さんが確実に言えることは、3つです」「この皿を見ていない。作業していない。この証明書を発行していない」「はい。それだけ
月曜日、修復室は返却用の箱で埋まった。机の上に6箱。壁際に4箱。乾燥棚には、作業を終えるまで動かせない器が7点残っている。私は保管台帳を開き、千夏が読み上げる管理番号と照合した。「K-2417。青磁の鉢。修復前の状態写真、12枚。修復作業は未着手です」「返却理由は、業務委託契約の終了に伴う修復担当の変更。継景から持ち主へ連絡済み?」「昨日、継景の受付担当が会社のアドレスから送りました。返信も案件管理システムに共有されています。修復せず返却を希望です」「分かりました。箱を閉じてください」器を包む薄紙の音だけが続く。茶碗が壊れた翌日、私は直哉へ書面を送った。10月31日で年間契約を終了し、更新しないこと。同日付で修復室の賃貸契約も終了し、部屋を明け渡すこと。新しい依頼は受けないこと。作業中の器は持ち主の希望を確認し、期限までに完成させるか、未修復のまま返却すること。夫婦のことは、代理人を通して話したいとも書いた。返事は1行だった。【勝手な行動で顧客に迷惑をかけるな】その言葉に従い、迷惑をかけないための作業をしている。昼前、1階受付から内線が入った。私は小さな花器の箱を持ち、エレベーターで1階へ下りた。持ち主は、60代の男性だった。亡くなった姉が作った花器で、底にひびがある。まだ状態を調べただけで、修復には入っていない。「会社から、担当者の都合で返すと連絡がありましてね」男性はそう言い、私の顔を見た。「あなたが担当の佐原さん?」「はい。私個人の都合ではなく、継景との委託契約が終了するためです。それでも、途中でお返しすることになり、申し訳ありません」花器を箱から出し、預かったときから状態が変わっていないことを一緒に確認した。修復前の写真と撮影日、いま撮った返却時の写真も見せた。「ここまで調べてあるなら、このままお願いできませんか」「契約終了までに仕上げられるとお約束できないため、未着手の器はお返ししています。別の修復先は、継景からご案内できます」「会社じゃなくて、あなたに頼んだつもりだったんだけどなあ」男性は困ったように笑った。その一言が、痛かった。うれしいと感じてしまったからだ。仕事を失う怖さの中で、私の手を選んでくれる人がいる。それでも、その気持ちを利用して顧客を連れていくわけにはいかない。「こちらから個別
通知を見て、私はすぐに家を出た。自宅から継景本社ビルまでは、電車と徒歩で25分ほどかかる。駅からの道をほとんど走った。向かっていることは、直哉にも麻里奈にも伝えていない。白椿の茶碗を自宅へ持ち帰る。私物を会社の建物に置いておく理由は、もうなかった。午前10時を少し過ぎた継景本社ビルは、平日より静かだった。受付の照明は消え、廊下に人の姿もない。第2スタジオのある4階でエレベーターを降りると、廊下の奥から声が聞こえた。「もう少し手元を寄りで。古い継ぎ目が外れるところ、絶対に使いたい」麻里奈の声だった。駆け出し、第2スタジオの扉を開けた。白い背景紙の前で、母の茶碗は再び2つの破片に分けられていた。金の線は削り取られ、白い断面に薄い跡だけが残っている。麻里奈が白い手袋をはめ、片方の破片を回転台へ載せた。回転台には、保護用の布も、破片を支える台もない。その横で、直哉がモニターを見ていた。破片の丸い底が、ぐらりと傾いた。「やめて!」声が部屋に響いた。麻里奈がこちらを向く。その間にも破片は回転台の上を滑った。手袋の指先が縁をかすめたが、止められない。回転台の縁へ当たり、床へ落ちる。乾いた音がした。白い破片が、さらに3つに割れた。縁の薄い部分が砕け、小さな欠片が背景紙の上へ散った。誰も動かなかった。私だけが、床へひざをついた。「触らないで」近づこうとしたスタッフを止める。大きな欠片から、1つずつ拾った。母が親指でよくなぞっていた場所は、細かく欠けていた。金の線は剥がされ、薄い跡だけが白い断面に残っている。布がない。持ってきたハンカチを床へ広げた。「紗季、手を切るぞ」直哉が私の腕をつかもうとした。「触らないで!」自分でも驚くほど強い声が出た。直哉の手が止まる。床の上に、かすかな金色が散っている。私が初めて蒔いた金粉。母が10年以上、洗うたび、使うたびに触れてきた線の一部だ。母は亡くなる前の冬まで、この茶碗を使っていた。食欲が落ちてからも、朝になると少しだけおかゆを入れた。私が別の器へ替えようとすると、「これが手になじむから」と首を横へ振った。最後に私が洗った日、金の線の一部が薄くなっていることに気づいた。金の線を直そうかと尋ねると、母は笑った。「紗季と私が、ここまで使ってきた跡でしょう。そのままでいいよ」だから私
白椿の茶碗は、修復室にはなかった。保管台帳を閉じ、千夏と一緒に継景本社ビルを探した。1階の展示棚、2階の広報部資料室、修復室と同じ3階にある第1スタジオ。どこにもない。午前10時を過ぎたころ、撮影担当の社員が教えてくれた。「白い茶碗なら、4階の第2スタジオにありましたよ。昨日のイベント前に、野口さんが持ってきたと思います」千夏とエレベーターで4階へ上がった。廊下の突き当たりにある、第2スタジオの扉を開ける。天井近くまで引き上げられた白い背景紙の前に、茶碗が置かれていた。柔らかな布も、転倒を防ぐ台もない。細いアクリル板の上で、照明を浴びている。横には、撮影用のドライフラワーが並べられていた。千夏が茶碗へ近づき、ラベルを読み上げる。「白椿茶碗。佐原紗季さん個人所蔵。撮影移動の記録、なし」「戻そう」照明の電源を切り、両手で茶碗を持ち上げた。器の表面は冷たかった。金の線へ傷はない。高台にも欠けはない。息を詰めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。「何をしているんですか?」背後から、麻里奈の声がした。振り返ると、タブレットを抱えた彼女が立っていた。今日は黒いパンツスーツだった。「私の茶碗を戻します」「今日も撮影があります。終わったら戻しますから」「私は貸していません」麻里奈は、困った子どもをなだめるように笑った。「昨日の映像、すごく反応がよかったんです。この茶碗は継景の原点でしょう?大切にしまっておくより、たくさんの人に見てもらったほうがいいと思いませんか」「誰に聞きました?」「直哉さんです。会社を始めるきっかけになった器だって」「これは母の遺品です。会社の所有物でも、広告用の備品でもありません」「でも、会社の成り立ちと切り離せないですよね」言葉を返す前に、千夏が口を開いた。「野口さん。私物を移動するときも、保管台帳への記入が必要です。昨日の移動時刻と、運んだ方のお名前を教えてください」「社内撮影でしょう。そこまで必要?」「必要です」千夏の返事は短かった。麻里奈の笑みが消えた。タブレットの端を指でたたき、私を見る。「佐原さん。昨日のことは驚かせたと思います。でも、仕事に私情を持ち込むのはやめませんか」私情。夫が愛人を妻と呼んだことも、母の遺品を無断で持ち出されたことも、彼女にとっては私情らしい。「仕事として言っ
帰宅したのは、午後11時を回ってからだった。ダイニングの照明をつけると、テーブルに白い花束が置かれていた。10本のバラに、金色の数字をかたどった飾り。朝にはなかったものだ。【結婚10周年おめでとう】小さなカードには、直哉の字でそう書かれている。昼間なら、喜んで花瓶を選んだかもしれない。今は、壇上で麻里奈の腰を抱いていた手が花屋でこれを受け取る姿しか浮かばなかった。花束には触れず、契約書の封筒をテーブルへ置いた。直哉は30分ほど遅れて帰ってきた。玄関で靴を脱ぎ、リビングに私がいるのを見ると、少しだけ眉を上げた。「起きてたのか」「話すんでしょう」「明日でもいい。疲れただろ」冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、立ったまま半分ほど飲む。イベントが成功した夜の顔をしていた。頬にわずかな赤みがあり、口元にはまだ笑みの名残がある。「麻里奈さんとは、いつから?」直哉はペットボトルのふたを閉めた。「仕事の関係なら、入社したときからだ」「壇上で妻と呼ぶ関係」「言葉尻をつかむなよ」椅子を引き、私の向かいへ座る。視線だけは外さなかった。営業先で不都合な質問を受けたときと同じ顔だ。「麻里奈には発信力がある。器に興味のない人間にも、継景の価値を届けられる。今日だって、彼女を前に出したから取材が集まった」「私が聞いたのは仕事の評価じゃない」「仕事と私生活を切り離せない時期があった。それだけだ」「今も続いてる?」数秒待っても、答えはなかった。直哉が答えないことが、そのまま答えになった。ひざの上で両手を組む。指が冷たかった。怒鳴りたいわけではない。泣いて謝らせたいわけでもない。ただ、10年間一緒に暮らした相手の口から、事実を聞きたかった。「いつから?」「1年半くらい前だ」数字があまりに簡単に出てきて、息が止まりそうになった。1年半。私が母の一周忌を終えたあと、仕事へ戻れずにいたころだ。直哉は毎朝コーヒーを入れ、無理をしなくていいと言った。夜になると、広報戦略の会議だと言って出かけていた。「離婚するつもりだった?」「そこまでは決めてない」「麻里奈さんには?」「紗季」直哉は私の名を低く呼び、テーブルの上へ手を置いた。「今夜のことと、俺たちの10年は別だ。会社も家庭も、感情だけで切れるほど単純じゃない」「別にしたのは、あなたでし
結婚10周年の夜、夫は別の女を妻と呼んだ。私の名前は佐原紗季(さはら さき)。陶磁器の修復を仕事にしている。そのとき私は、舞台袖で1枚の皿を支えていた。直径40センチほどの白い大皿には、枝からこぼれる椿が描かれている。半年前、2つに割れた状態で持ち込まれ、私が漆でつないだ。継ぎ目に薄く漆を塗り、乾ききる前に金粉を蒔いて仕上げる。そうして生まれた金の線が、舞台の照明を受けて細く光っている。「佐原さん、展示台へ運びます」助手の小暮千夏(こぐれ ちなつ)が、白い手袋をはめた両手を差し出した。「待って。右の留め具が少し浮いてる」皿を片手で支え、展示台の金具を締め直す。会場から拍手が起こった。黒い幕の隙間から、照明に浮かぶ壇上と、そこへ向けて並ぶ客席の端が見えた。招待客が席を埋め、壁際には継景が手がけた器がガラスケースに並んでいる。株式会社継景の創立7周年記念イベント。会場は、都内ホテルの大宴会場だった。正面に設けられた舞台を囲むように丸テーブルが並び、取引先や顧客、メディア関係者が席を埋めている。壁際には、継景が手がけた器がガラスケースに収められ、照明を受けて静かに輝いていた。壊れた器を継ぎ、そこに残る暮らしの景色を未来へ渡す。その思いを込め、夫の佐原直哉(さはら なおや)が「継景(つぐけい)」を立ち上げてから7年になる。そして今日は、私たちの結婚記念日でもあった。継景の開業日をこの日に決めたのは、直哉だった。 「夫婦で始める会社なんだから、記念日も同じでいいだろ」 7年前、彼はそう言って笑った。朝、直哉はネクタイを締めながら言った。「会社も夫婦も節目だ。今夜は、今まででいちばん大事な日になる」その意味を、私は取り違えていたらしい。「ここまで継景を育ててこられたのは、私ひとりの力ではありません」直哉の声が、スピーカーから滑らかに流れてくる。舞台袖のモニターには、壇上に立つ夫が映っていた。濃紺のスーツに、私が誕生日に贈った銀色のタイピン。ライトを浴び、穏やかに笑っている。「器に残された思いを見つけ、今の暮らしに届く物語へ変えてくれた人がいます」客席の視線が、壇上の脇へ集まった。深い緑のドレスを着た野口麻里奈(のぐち まりな)が歩み出る。継景の広報責任者で、2年前に入社してから、いつも直哉のすぐ隣にいた女性だ。仕事の







