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1話

作者: Amy
last update 公開日: 2026-08-14 13:43:29

結婚10周年の夜、夫は別の女を妻と呼んだ。

私の名前は佐原紗季(さはら さき)。陶磁器の修復を仕事にしている。

そのとき私は、舞台袖で1枚の皿を支えていた。

直径40センチほどの白い大皿には、枝からこぼれる椿が描かれている。半年前、2つに割れた状態で持ち込まれ、私が漆でつないだ。

継ぎ目に薄く漆を塗り、乾ききる前に金粉を蒔いて仕上げる。そうして生まれた金の線が、舞台の照明を受けて細く光っている。

「佐原さん、展示台へ運びます」

助手の小暮千夏(こぐれ ちなつ)が、白い手袋をはめた両手を差し出した。

「待って。右の留め具が少し浮いてる」

皿を片手で支え、展示台の金具を締め直す。会場から拍手が起こった。

黒い幕の隙間から、照明に浮かぶ壇上と、そこへ向けて並ぶ客席の端が見えた。

招待客が席を埋め、壁際には継景が手がけた器がガラスケースに並んでいる。

株式会社継景の創立7周年記念イベント。

会場は、都内ホテルの大宴会場だった。正面に設けられた舞台を囲むように丸テーブルが並び、取引先や顧客、メディア関係者が席を埋めている。

壁際には、継景が手がけた器がガラスケースに収められ、照明を受けて静かに輝いていた。

壊れた器を継ぎ、そこに残る暮らしの景色を未来へ渡す。

その思いを込め、夫の佐原直哉(さはら なおや)が「継景(つぐけい)」を立ち上げてから7年になる。

そして今日は、私たちの結婚記念日でもあった。

継景の開業日をこの日に決めたのは、直哉だった。

「夫婦で始める会社なんだから、記念日も同じでいいだろ」

7年前、彼はそう言って笑った。

朝、直哉はネクタイを締めながら言った。

「会社も夫婦も節目だ。今夜は、今まででいちばん大事な日になる」

その意味を、私は取り違えていたらしい。

「ここまで継景を育ててこられたのは、私ひとりの力ではありません」

直哉の声が、スピーカーから滑らかに流れてくる。

舞台袖のモニターには、壇上に立つ夫が映っていた。濃紺のスーツに、私が誕生日に贈った銀色のタイピン。ライトを浴び、穏やかに笑っている。

「器に残された思いを見つけ、今の暮らしに届く物語へ変えてくれた人がいます」

客席の視線が、壇上の脇へ集まった。

深い緑のドレスを着た野口麻里奈(のぐち まりな)が歩み出る。

継景の広報責任者で、2年前に入社してから、いつも直哉のすぐ隣にいた女性だ。

仕事の話が長引いた。

地方撮影から戻れなくなった。

会食のあと、具合の悪い麻里奈を家まで送った。

この1年、直哉が帰らない夜につけた理由には、ほとんど彼女の名前があった。

それでも私は、疑うより先に自分を納得させてきた。会社が大きくなれば、人と会う時間も増える。私には分からない仕事があるのだと。

モニターの画面が客席へ切り替わった。丸テーブルを埋めた招待客たちは、グラスや資料を手にしたまま、壇上のふたりを見上げている。

直哉は麻里奈を舞台の中央へ招き寄せ、その腰へ自然に手を回した。

麻里奈は客席ではなく、すぐ隣にいる直哉を見上げた。仕事相手に向ける笑顔ではない。触れられることにも、その隣に立つことにも慣れきった、やわらかな笑みだった。

「紹介します。私の妻であり、継景のクリエイティブを支えてきた野口麻里奈です」

前列の客が、戸惑ったように隣の人と顔を見合わせた。だが、やがて誰かが手をたたくと、拍手は次々に後ろの席へ広がっていった。

舞台袖まで届いた大きな拍手を聞きながら、私はモニターの中のふたりを見つめていた。

私の手から、磨き布が落ちた。

千夏の手が止まった。

「佐原さん……今、妻って」

大皿の縁へ両手を添え直した。指先に力を入れすぎれば、せっかくつないだ器へ負担がかかる。

「先に、これを台へ載せよう」

自分の声が聞こえた。思っていたより、落ち着いていた。

ふたりで皿を持ち上げる。千夏の手が震えていたので、重さをこちらへ寄せた。

舞台では、麻里奈のスピーチが始まっていた。

「直哉さんが最初に見せてくれたのは、割れた白い茶碗でした。傷を隠さず、美しさに変える。その考えに触れて、私は継景の物語を作りたいと思ったんです」

背後のスクリーンに、白椿の茶碗が大きく映った。

母が使っていた茶碗だった。

私が修復師を目指したきっかけであり、初めて自分の手でつないだ器だ。継ぎ目は太く、今の私なら選ばない金の蒔き方をしている。

それでも母は、少し不揃いな線を指でなぞり、「紗季が直してくれたから、前より好き」と笑った。

その写真を撮ったのも、説明文を書いたのも私だった。

スクリーンの端には、こう記されている。

【Creative Direction 野口麻里奈】

私の名前はなかった。

写真が切り替わる。どれも私が預かり、状態を調べ、持ち主と相談して直した器だった。麻里奈が「私たちの作品」と呼ぶたび、客席から拍手が返る。

呼吸をするたび、みぞおちのあたりが鈍く痛んだ。それでも涙は出なかった。

その代わり、目に入るものだけが妙にはっきりしていた。直哉の左手には、私との結婚指輪がない。

指の根元に、外した跡だけが白く残っていた。その隣では、麻里奈が当然のように彼と肩を並べ、マイクを握っている。

壇上のふたりは、私が存在しない場所で、もう夫婦になっていた。

「すみません、撮っていただけますか」

会場スタッフの女性が、私へスマホを差し出した。

「社長ご夫妻の記念写真を残したくて。スタッフが一緒に写るわけにはいかないので」

彼女に悪意はなかった。私が直哉の妻だと知らないだけだ。

断ればよかった。

けれど、その場で説明すれば、スタッフは謝り、周りにいた人たちは事情を聞きつける。壇上のふたりが作った物語を壊した女として、私の顔だけが広まるだろう。

スマホを受け取り、カメラを向けた。

直哉は麻里奈の肩を抱き寄せた。麻里奈は彼の胸元へ手を添える。画面の中では、疑う余地もないほど自然な夫婦だった。

撮影ボタンを押す。小さな電子音が鳴った。

結婚10周年の写真に、私は写らなかった。

撮ったのが私だということさえ、写真には残らない。

イベントが終わるまで、私は展示品のそばにいた。

来場者が皿をのぞき込み、「この金の線、きれい」と話す。そのたびに礼を言った。誰が直したのかと尋ねられることはなかった。

説明札にもパンフレットにも、職人の名前は載っていない。

午後8時を過ぎ、最後の来場者が出ていった。

千夏が展示ケースの鍵を閉めながら、何度も私を見た。

「私、片づけます。佐原さんは……」

「状態写真を撮ってから。一度動かしたものは、最後に確認しないと」

「でも」

「今だから、いつもどおりにやるの」

器まで巻き込んで壊すわけにはいかなかった。

控室へ戻ると、直哉がネクタイを緩めていた。麻里奈の姿はない。

テーブルには飲みかけのシャンパンが2つ並んでいる。

私を見ても、驚きはしなかった。

「お疲れ。展示、評判よかったぞ」

「妻って、どういう意味?」

直哉はグラスへ伸ばした手を止めた。

「そこからか」

「ほかに、どこから聞けばいいの」

「イベント上の見せ方だ。麻里奈はブランドの顔で、俺のパートナーでもある。あの場で関係を細かく説明する必要はないだろ」

「法律上の妻は別にいる、とは言いにくかった?」

直哉は小さく息を吐いた。困らせるな、と言いたげな顔だった。

「紗季は顔を出すのが嫌いだったじゃないか。職人は作品で評価されればいいって、前に言ってたよな」

「顔を出さないことと、いなかったことにされるのは違う」

「大げさにするなよ。継景が伸びれば、修復室の仕事も増える。俺たちは同じ船に乗ってるんだ」

7年前、ふたりで決めた言葉だった。

直哉が会社を作り、私は修復室を開く。役割は違っても、古い器をもう一度暮らしへ戻す仕事を、一緒に育てようと約束した。

いつから、船に乗っているのが私だけになったのだろう。

「麻里奈さんとは、いつから?」

「今、話すことか?」

「今まで話さなかったのは、あなたでしょう」

廊下でスタッフの声がした。直哉は扉へ目をやり、私の肩に手を置いた。

「家で話そう。今日は疲れてる。お互い、感情的にならないほうがいい」

話を終わらせるとき、直哉はいつもこうする。

肩へ置かれた手を見た。以前は、触れられるだけで安心した。その手が今は、私を所定の位置へ戻すための重しに思えた。

私は何も言わず、直哉の手を外した。

テーブルの端に、今日配られたパンフレットが積まれている。1冊取り、ページをめくった。

【修復監修 野口麻里奈】

【写真・工程記録提供 株式会社継景】

佐原修復室の名は、最後までなかった。

パンフレットの下から、角形の封筒がのぞいていた。表には私の名前と、【年間業務委託契約 更新書類】の文字がある。

「それ、来月までに署名しておいてくれ。内容は前とほとんど同じだ」

直哉はスマホを見ながら言った。

画面に表示された名前を、私は見てしまった。

麻里奈。

メッセージの冒頭には、ハートの絵文字があった。

封筒を手に取る。

妻の名前を捨てた次は、職人の名前まで捨てるつもりらしい。

それでも私が署名すると、直哉は信じていた。

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