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西風に散る暮雪、埋もれし初心
西風に散る暮雪、埋もれし初心
Author: 六月の猫

第1話

Author: 六月の猫
九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。

澪がバイオリンを好めば、彼は仕事をすべて脇へ置き、海外まで同行して彼女の音楽留学に付き添った。株で十数億の損失が出ても、まるで気に留めなかった。

彼は愛を示すために、豪奢な贈り物を車に積んでは次々と彼女の前に運ばせ、さらには九百九十九日ものあいだ連続で配信を行い、告白と求婚を続けた。

彼女を妻に迎えるために、彼は三日間にわたって、家の厳罰に耐え抜き、ついに門地の釣り合いという壁を打ち破った。念願かなって、彼女に夢のような幻想的な結婚式を与えた。その日、彼女は誰もが羨むお姫さまになった。

それほどまでに彼女を愛した男が、いまは、出会ってまだ半年ほどの愛人の芹沢梨紗(せりざわ りさ)のために、薄い寝間着姿の澪を雪の上に跪かせている。

すべては澪があの女を追い詰め、彼の連絡先をブロックさせ、挙げ句に愛人を身を隠させたのだと、彼が思い込んでいるからだ。

「澪、教えて。お前は梨紗に何を言った?」

司は澪の向かいに腰を下ろし、ワイングラスを指先で転がしながら、気のない視線で彼女を見つめる。

そのまなざしは吹きすさぶ風雪よりも冷たかったが、声だけは驚くほど穏やかだった。まるで雪の景色の美しさを訊ねているかのように。

凍えで感覚を失った澪は、唇を震わせながらかろうじて言葉を絞り出す。

「司、私は……梨紗には会っていない」

司は唇の端をわずかに上げた。

「澪、いい子じゃないな」

彼が指先を軽く動かすと、護衛が身をかがめてスマホを差し出し、司は映像を再生した。

映像に映っているのは、危篤状態の澪の弟の高宮優斗(たかみや ゆうと)だ。呼吸器が引き抜かれ、酸素を奪われた顔は紫色に染まり、全身が止めどなく痙攣している。

「司、あの子は私に残った唯一の家族なの。お願い、傷つけないで」

澪は瞬く間に涙で顔を濡らし、司の脚にしがみついた。

「信じて。私は本当に何も言っていない。彼女がどこへ行ったのかも知らないの」

司は身を屈め、澪の涙の跡を指先でなぞった。

「言ったはずだ。梨紗も、俺には大事だと」

「いい子だろ。あと五十秒だ。酸素が途絶えた状態では、お前の弟は二分しか持たない」

司は背筋を伸ばし、一本の指でスマホの画面をコツコツと叩きながら、苛立ちを隠そうともしなかった。

澪の体は大きく震え、胸の奥に重い衝撃が落ちたような痛みが走る。

司は確かに梨紗のことは大事だと言っていた。けれど、澪はずっと信じようとしなかった。かつて、あれほど自分を愛してくれたのだから。

けれど今になって、澪は自分がどれほど可笑しかったかに気づいた。自分は彼にとって替えの利かない存在だと、信じ込んでいたなんて。

じつのところ、これまで、澪が梨紗に会ったのは一度だけだ。あの日はオークション会場で、彼女はコンパニオンを務めていた。

あの時、梨紗は休憩室に向かう澪を遮り、顎をわずかに上げて告げた。

「奥様、彼が嫌いだとは何度もお伝えしました。ご主人のせいで、もう私の生活にまで支障が出ています」

そのとき初めて、司が口にしていた面白い子猫ちゃんが梨紗のことだと、澪は知った。

梨紗は生まれつき左目に弱視を抱えながらも、きわめて高い美術の才に恵まれている。

「障がいを抱えながらも前へ進む天才少女画家」という姿がネットで話題となり、一躍人気を博した。

けれど彼女は配信で稼ぐことはせず、あくまで普通の学生のようにアルバイトで暮らしを支え、各種の宴会で給仕として働いていた。

誇り高く、自信にあふれ、眩しいほどに華やかな梨紗。瞬く間に、投資家の司を強く惹きつけた。

彼女が拒むほど、司の心は燃え上がる。追いかける姿は話題となり、ついには帝都の誰もが知る騒ぎとなった。

その日のうちに澪は司を問い詰めたが、彼は否定しなかった。ただ彼女を抱き寄せ、軽い調子で言った。

「ただの遊びだよ。仲間だってみんなやってる。俺はただ、いくらで彼女を靡かせられるか知りたいだけさ。安心しろ、澪。俺が一番愛しているのは、いつだってお前だ」

澪はなおも聞いた。

「もし、私が受け入れなかったら?」

司は澪の髪をそっと撫で、優しい眼差しに彼女の蒼白な顔を映した。

「澪、いい子でいろ。いい子でいれば、お前はずっと九条家の奥様だ」

澪は言葉を失った。拒む権利など自分にはないと、痛いほどわかっていたからだ。

澪は、司がいつか手を引くのを待つしかなかった。だが届いたのは、二人が付き合い始めたという知らせだった。

梨紗は一円も受け取らずに司の求愛を受け入れた。ただ一つの条件を出した――普通の恋人同士のように付き合うこと。

司は喜んで条件を受け入れ、彼女の配信に付き添って絵を描くのを見守り、展覧会に同行し、遊園地へも付き合い、屋台やジャンクフードまで連れ立って楽しんだ……

司は彼女を連れてさまざまな場に現れ、片時も離れず寄り添った。まるで普通の青年のように、SNSに恋人ぶりを投稿していた。

澪はそれを見るたび、胸が裂けるほどの痛みに襲われる。泣き叫び、何度も離婚を切り出した。

だが司は気にも留めず、ただ気だるげに言葉を投げた。

「いい子だ、澪。俺は従順な女が好きなんだ。わがままはやめろ」

澪は無理やり心を鎮め、彼の言葉を信じようとした。早く飽きて戻ってきてくれると願うしかなかった。

ところが今、梨紗は何の前触れもなく彼をブロックした。しかもその前に、澪と会ったことをわざわざ口にしていた。

澪にはそれが示威にほかならないと分かっていたが、どう言い繕っても司は信じようとしなかった。

「澪、まだ言わないのか?お前の弟の時間は残りわずかだ。十、九、八……」

司は腰を屈め、澪の耳もとに顔を寄せる。熱い吐息が頬を撫でたはずなのに、澪の全身は底知れぬ寒気に包まれた。

「言う、言うから」

我に返った澪は、裂けるような胸の痛みに喉を詰まらせ、初めて司に嘘をついた。

「彼女に言ったの。あなたから離れて、もう纏わりつくなって……」

澪は感情の糸が切れ、涙で視界がかすんだ。しがみついていた司の腕も、力を失い、少しずつ緩んでついには垂れ落ちた。

司は壊れかけた彼女の顔を眺め、冷え切った頬に手を当てて宥めた。

「澪、もう勝手なことはするな。弟のことを、もっと考えろ」

澪の表情は次第に虚ろになり、機械仕掛けのようにうなずいた。胸の奥で何かが砕け散り、その痛みは全身へと広がっていった。

身体が揺らぎ、今にも倒れそうになる。めまいが次々と押し寄せ、澪は耐えきれずに横ざまに倒れ込む。地面に身を打ちつけたその瞬間、両脚のあいだから温もりが広がるのを感じた……

そのとき、部下が慌ただしく駆け込んできた。

「社長、芹沢様を見つけました。彼女はいま、障がいを持つ子どもたちに絵を教えています」

部下は澪に視線を走らせ、ためらいがちに続けた。

「ただ……奥様が、もう社長とは会わないようにと彼女に言ったそうです。彼女は、社長にはもう探してほしくないと申しております。」

司の顔がぱっと明るむ。後段の言葉には耳を貸さなかった。その場で、梨紗の話題をトレンドに乗せる手配をした――「美しく、心優しい人だ」という賛辞とともに。

地面に倒れた澪へは、一瞥すら向けなかった。

「司、お腹が痛い……」

痛みに耐えきれず、澪は背を向けて歩み去る彼に手を伸ばす。だがその姿は遠ざかる一方で、ついに視界から消えた。

車に乗り込むと、司は執事に電話を入れ、澪を懲罰部屋に入れて反省させるよう命じた。

執事は、雪に倒れた澪の足もとに広がる鮮やかな赤を見て、慌てて声を上げる。

「奥様は流産されたようです。大量に出血が……」

司の顔はたちまち曇り、声は氷のように冷たくなる。

「妊娠していたのか?ますます言うことを聞かないな。そんな子は、現れるべきじゃなかった」

執事は深いため息をつき、命に背くことはできず、澪を懲罰部屋へ運んだ。

やがて澪は鋭い痛みに意識を引き戻される。下腹部が裂かれるような苦痛が全身を走り、体の奥で小さな命が消えていくのを、恐ろしいほど鮮明に感じ取った。

彼女は這いずって戸口に手を伸ばし、拳で扉を叩いた。声は掠れ、絶望に満ちていた。

「出して、病院へ連れていって、腹の子を助けて……

司、お願い……私たちの子を救って!

誰か、誰か来て!」

どれほど経ったのか。外から執事の声だけが返ってくる。

「奥様、この子は九条様がお望みになったものではございません。ご命令なしに病院へお連れすることは誰にもできません……どうかこれからはおとなしく、懲罰部屋でお身を慎まれてください」

力が一気に抜け落ちる。出て行く司の背の固さを思い出し、澪はその場に崩れ落ちた。

澪が望んだのは、ただ子どもだった。二人の子を持ちたかった。

けれど彼が望まないというだけで、澪には妊娠する権利さえ許されなかった。

いまや彼は愛人のために、澪の命をも顧みず、身ごもった彼女を閉じ込めてしまった……

澪は下腹部を押さえ、泣きたくても涙が出ない。痛みで息が詰まる。

波のような痛みが寄せては返し、意識が遠のいていく。沈む直前、かすかに唇が動いた。

「司……腹の子きみはもういない。だから私も、あなたなんてもういらない」

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