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第6話 報告書

last update Date de publication: 2026-07-19 18:00:00

 報告書は、紙の束ではなかった。

 それは、会社が自分の傷口を数えた記録だった。

 調査開始から二十七日目。

 株式会社ネクストリンク本社、第二会議室。

 午前九時。

 ブラインドを下ろした会議室の中央に、厚いファイルが十冊並べられていた。

 表紙には、黒い文字でこう記されている。

 株式会社ネクストリンク

 特別調査委員会

 最終報告書

 本文百八十二ページ。

 別紙資料四百六十七ページ。

 ログ一覧、経費一覧、資金移動図、ヒアリング記録、メール復元結果、契約書写し、請求書写し、成果物検証表、内部通報関連資料。

 それは、桐谷健吾と高瀬美咲が隠したつもりだったものを、数字と文字で縫い上げた棺だった。

 会議室には、特別調査委員会の十名が揃っていた。

 委員長の三枝義人。

 取締役CFOの水城莉央。

 取締役CLOの大槻沙織。

 社外取締役の黒須怜司。

 社外取締役の佐伯真琴。

 外部弁護士の矢島明彦。

 外部弁護士の桐生麻衣。

 外部公認会計士の榊原徹。

 外部公認会計士の村瀬絢。

 情報システム部長の成瀬葵。

 記録補助として、秘書室長の神谷玲奈も壁際に座っている。

 高瀬悠真は、まだいない。

 最終会合は、まず委員会だけで行われる。

 社長は報告書を受け取る側であり、調査の結論を作る側ではない。

 三枝義人は、机の上の報告書に手を置いた。

「最終確認を行います」

 声は静かだった。

 しかし、全員の背筋が伸びた。

 この一か月弱、彼らはほとんど休んでいなかった。

 経費データを洗い、契約書を読み、メールを復元し、チャットログを照合し、ヒアリングを重ね、支払いの流れを追った。

 その結果が、ここにある。

 水城莉央が最初の章を開いた。

「第一部、調査の目的と範囲。対象期間は過去三年。重点期間は直近十八か月。対象は、高瀬美咲専務取締役、桐谷健吾営業本部長、西岡大輔営業管理課長、山城直人営業第二課長、小田切修経理課長、江藤真一経理管理課係長。対象取引は、K-Bridge Consulting、Raven Works、その他関連先への外注費、接待費、出張費、研修費、販促費です」

 黒須怜司が頷く。

「調査範囲としては十分です。これ以上広げると、報告書の完成が遅れる。法的措置に必要な骨格は固まっています」

 大槻沙織が次の章を開いた。

「第二部、事実認定。まず、高瀬美咲氏と桐谷健吾氏の私的関係について。これは会社法務上の主論点ではありませんが、利益相反、承認判断の公正性、職務権限濫用の背景事情として記載しています」

 桐生麻衣が補足した。

「不倫そのものを会社処分の中心にしない。この整理は重要です。会社として問うのは、会社資産の不適切使用、架空または実態乏しい外注、キックバック疑い、内部通報妨害です」

 三枝義人は頷いた。

「家庭の問題に矮小化させないためです」

 成瀬葵が第三部の資料を開いた。

 大型モニターに、資金移動図が表示される。

 ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ。

 太い矢印。

 四千八百万円。

 K-BridgeからRaven Worksへ。

 二千二百万円。

 Raven Worksから複数の個人・小規模法人へ。

 そのうち、桐谷健吾関連先と認定可能な流れ。

 千七百万円。

 榊原徹が説明する。

「第三部、外注費不正。ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ支払われた四千八百万円について、当委員会は、相当部分について実態が乏しい外注費であると認定します」

 村瀬絢が続けた。

「根拠は五つです。一つ、成果物が金額に著しく見合わないこと。二つ、納品記録が存在しない案件が複数あること。三つ、成果物ファイルの作成者情報に桐谷健吾氏の社内アカウントが含まれること。四つ、検収記録が後付けで作成された形跡があること。五つ、K-BridgeからRaven Worksへ資金が再移転していること」

 黒須怜司が資料をめくる。

「八百万円の営業戦略コンサルティングでA4三枚。しかも作成者が桐谷氏の社内アカウント。これはかなり強い」

 矢島明彦が慎重に言った。

「文言は『架空発注』と断定しすぎず、『実態がない、または著しく乏しい取引が含まれる』にしています。刑事手続きでは捜査機関が判断しますが、会社の調査報告書としては適切です」

 大槻沙織が第四部を開いた。

「第四部、キックバックおよび資金還流の疑い」

 会議室の空気が、さらに硬くなった。

 この章が、報告書の心臓だった。

 成瀬葵が復元メールをモニターへ出す。

差出人:桐谷健吾

宛先:高瀬美咲

件名:Kの件

今月もK通しておく。

金額は少し大きいが、Rへ流せば目立たない。

利益は後で分ける。

西岡と山城にはいつも通りやらせる。

 次のメール。

差出人:高瀬美咲

宛先:桐谷健吾

件名:Re: Kの件

金額が大きいから注意して。

小田切にはこちらから言っておく。

雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

 何度見ても、会議室の温度が下がる文章だった。

 佐伯真琴が低く言った。

「この二通で、美咲氏の『知らなかった』はかなり苦しくなります」

 桐生麻衣が頷く。

「少なくとも、異常な資金移動、関係者への指示、内部通報者への圧力を認識していた可能性が高い。取締役としては極めて重大です」

 榊原徹が資料を指した。

「資金移動については、完全な最終着金先の特定まではできていません。ですが、K-BridgeからRaven Worksへ二千二百万円が流れ、そのうち千七百万円について、桐谷健吾氏の関係先へ移転した蓋然性が高い。報告書では『キックバックないし利益還流の強い疑いが認められる』としました」

 水城莉央が付け加える。

「この千七百万円は、損害額の一部としてだけでなく、故意と利益目的を示す材料になります」

 三枝義人は、ゆっくり頷いた。

「次に、内部通報妨害」

 神谷玲奈が、雨宮彩乃の提出資料を配った。

 経理管理課主任、雨宮彩乃。

 二十七歳。

 彼女の名前は、報告書では慎重に扱われていた。

 内部通報者として実名を伏せる案もあった。

 しかし、本人が調査委員会に対し、必要な範囲で氏名記載に同意した。

 ただし社外公表版では匿名化する。

 会社内部用の完全版にのみ、実名を残す。

 宮園千晴と桐生麻衣が確認したうえでの判断だった。

 大槻沙織が読み上げる。

「雨宮彩乃主任は、二年前から複数回にわたり、接待費、外注費、検収資料、経費科目について直属上司に確認を求めていた。しかし、小田切修経理課長および江藤真一係長は、専務承認を理由に確認を打ち切り、処理を進めた」

 成瀬葵がログを表示する。

桐谷健吾:

小田切に止めさせろ。

西岡大輔:

専務にも話します?

桐谷健吾:

美咲には俺から言う。

あいつは余計なことをしないようにしておけ。

 次に、高瀬美咲のメール。

雨宮さんが細かく見ているみたいだから、経理側は黙らせて。

 会議室は、また沈黙した。

 内部通報者を守れない会社は、自分の免疫を殺す会社だ。

 雨宮彩乃は、会社の熱を測った体温計だった。

 高瀬美咲と桐谷健吾は、その体温計を折ろうとした。

 三枝義人が言った。

「この章は、重く扱います。単なる人事問題ではありません。不正の発覚を妨げようとした行為です」

 桐生麻衣が頷く。

「はい。内部通報妨害、報復的圧力、証拠隠しの可能性。少なくとも懲戒判断と法的責任の評価に影響します」

 水城莉央は、損害額のページを開いた。

 そこには、整然と数字が並んでいた。

 不正支出認定額。

 四千八百万円。

 調査委員会費用。

 一千四百五十万円。

 外部弁護士・外部公認会計士費用。

 六百二十万円。

 内部対応費、追加監査対応、システム保全費。

 三百七十万円。

 合計。

 七千二百四十万円。

 水城莉央が言った。

「第六部、損害額。保守的に算定しています。信用毀損、上場準備遅延による逸失利益、金融機関対応コストの一部は、現時点では算入していません」

 七千二百四十万円。

 その数字は、報告書の中で最も冷たく光っていた。

 会社から抜かれた金だけではない。

 それを掘り起こすために、さらに会社は金を払わされた。

 腐った配管を修理するにも費用がかかる。

 大槻沙織が続けた。

「当委員会は、高瀬美咲氏、桐谷健吾氏、西岡大輔氏、山城直人氏、小田切修氏、江藤真一氏に対し、関与の程度に応じて損害賠償請求を行うことを提言します。主たる請求は、高瀬美咲氏および桐谷健吾氏に対する連帯請求。西岡氏、山城氏、小田切氏、江藤氏については、共同不法行為または債務不履行責任を含め、法的構成を検討する」

 矢島明彦が補足する。

「美咲氏は取締役ですので、会社に対する善管注意義務違反、忠実義務違反が問題になります。特別背任の可能性もあります。桐谷氏は従業員ですが、背任、詐欺的行為、場合によっては特別背任の共犯も視野に入ります」

 桐生麻衣が続けた。

「西岡大輔氏と山城直人氏は、実働面での関与が強い。小田切修氏は経理課長としての確認義務を放棄しただけでなく、部下の確認を抑え込んだ。江藤真一氏は従属的立場ではありますが、科目変更や処理実務に関わっています」

 佐伯真琴が静かに言った。

「処分提言を確認しましょう」

 大槻沙織が最終章を開く。

「第七部、法的措置および処分提言」

 紙の音が、やけに大きく聞こえた。

「一、高瀬美咲氏について。取締役解任議案を臨時株主総会に上程すること。役員退職慰労金は不支給とすること。損害賠償請求を行うこと。刑事告訴を視野に、弁護士による告訴状案の作成を開始すること」

 誰も口を挟まなかった。

「二、桐谷健吾氏について。懲戒解雇を相当とする。退職金は就業規則および退職金規程に基づき不支給とする。損害賠償請求を行う。背任等を視野に刑事告訴を検討する」

 神谷玲奈のペンが動く。

「三、西岡大輔氏、山城直人氏について。懲戒解雇を含む厳正な懲戒処分を検討する。損害賠償請求の対象とする」

「四、小田切修氏について。経理課長としての職責違反、内部通報妨害、科目変更黙認等により、懲戒解雇を含む処分を検討する」

「五、江藤真一氏について。関与の程度、上司からの圧力、本人の供述を踏まえ、懲戒処分を検討する。ただし、処分量定は他の対象者と区別して判断する」

 三枝義人は最後に言った。

「再発防止策」

 村瀬絢が資料を開く。

「外注先審査の厳格化。一定額以上の外注費について、成果物定義と検収記録の必須化。役員承認案件の二重確認。経理部の独立性強化。内部通報窓口の外部化。通報者保護規程の改定。接待費・出張費の事前承認制。ワークフロー改ざん防止ログの保存期間延長。利益相反申告制度の導入」

 黒須怜司が頷いた。

「会社を立て直すなら、ここが重要です。処分して終わりでは、また別の場所で腐ります」

 三枝義人は全員を見た。

「これを最終報告書とします。異議はありますか」

 誰も手を挙げなかった。

「では、本日午前十時三十分、高瀬社長へ正式に提出します」

 会議室の空気が、ほんのわずかに緩んだ。

 だが、安堵ではない。

 ここからが始まりだった。

 午前十時三十分。

 高瀬悠真が第二会議室に入った。

 白いシャツ。

 濃紺のスーツ。

 黒に近いグレーのネクタイ。

 表情は変わらない。

 だが、目の奥に疲労があった。

 この一か月弱、悠真は会社を止めなかった。

 七瀬蒼真に業務統括を任せ、水城莉央に財務を任せ、真壁蓮に営業を任せ、宮園千晴に人事と通報者保護を任せた。

 それでも、社長として最終判断は彼が背負っている。

 三枝義人が立ち上がった。

「高瀬社長。特別調査委員会は、本日、最終報告書を提出します」

 神谷玲奈が、厚いファイルを悠真の前へ置いた。

 重い音がした。

 紙の重さではない。

 会社を裏切った証拠の重さだった。

 三枝義人は続けた。

「当委員会は、K-Bridge Consultingおよび関連先への支払いについて、実態がない、または著しく乏しい外注取引が含まれると認定しました。不正支出額は四千八百万円。調査費用等を含む会社損害額は、現時点で七千二百四十万円と算定します」

 悠真は、黙って聞いていた。

「また、K-BridgeからRaven Worksおよび関連先へ資金が移転し、その一部、約千七百万円について桐谷健吾氏の関係先へ還流した蓋然性が高いと判断します。これにより、キックバックないし利益還流の強い疑いが認められます」

 七千二百四十万円。

 千七百万円。

 数字は無表情だ。

 だからこそ、残酷だった。

 三枝義人の声は続く。

「高瀬美咲氏については、取締役としての善管注意義務および忠実義務に違反した疑いが極めて強く、取締役解任、役員退職慰労金不支給、損害賠償請求、刑事告訴の検討を提言します」

 悠真の指が、報告書の表紙に触れた。

 妻の名前が、そこにある。

 けれど、もう妻ではなかった。

 調査対象者。

 責任認定対象者。

 法的措置対象者。

 それだけだった。

「桐谷健吾氏については、懲戒解雇、退職金不支給、損害賠償請求、刑事告訴の検討を提言します。西岡大輔氏、山城直人氏、小田切修氏、江藤真一氏についても、それぞれの関与程度に応じた懲戒処分および損害賠償請求を提言します」

 報告が終わった。

 会議室は静まり返った。

 悠真は、ゆっくりと報告書を開いた。

 最初のページ。

 調査の目的。

 次のページ。

 調査体制。

 さらに次。

 認定事実。

 そこには、会社が傷ついた順番が書かれていた。

 悠真は顔を上げた。

「ありがとうございます」

 声は低かった。

「会社のために、ここまで調べていただいたことに感謝します」

 三枝義人が言った。

「社長。これからが本番です」

「わかっています」

 悠真は報告書を閉じた。

「本日午後、臨時取締役会を開きます。議題は、報告書受領、臨時株主総会招集、取締役解任議案、損害賠償請求方針、刑事告訴準備、関係者処分手続開始です」

 大槻沙織が頷く。

「議案書は準備済みです」

「高瀬美咲への通知は」

「臨時取締役会後、内容証明で送付します。本人には報告書の関係部分を開示します。ただし、内部通報者保護と第三者情報に関わる部分は必要に応じてマスキングします」

「桐谷健吾には」

「同じく、懲戒手続および損害賠償請求予定の通知を行います」

「刑事告訴は」

 矢島明彦が答えた。

「告訴状案の作成に入ります。最終的な提出は、取締役会での正式承認後がよいでしょう」

「わかりました」

 午後二時。

 臨時取締役会が開かれた。

 出席者は十名。

 代表取締役社長、高瀬悠真。

 副社長、七瀬蒼真。

 取締役CFO、水城莉央。

 専務取締役、高瀬美咲。

 取締役CHRO、宮園千晴。

 取締役CTO、篠原航。

 取締役COO、白石琴音。

 取締役CLO、大槻沙織。

 取締役CMO、一条拓海。

 社外取締役、佐伯真琴。

 社外取締役、黒須怜司。

 ただし、高瀬美咲は議題の利害関係者である。

 出席はしているが、議決からは外される議案がある。

 監査役の三枝義人、相沢芽衣、藤堂圭介。

 顧問弁護士の矢島明彦。

 外部弁護士の桐生麻衣。

 記録補助の神谷玲奈。

 美咲は、報告書の一部を読んでいた。

 顔色は、白に近かった。

 それでも、彼女は笑おうとした。

「悠真、これは何かの間違いよ」

 悠真は、議長席から静かに言った。

「高瀬専務。この場では役職で発言してください」

 美咲の唇が震えた。

「社長。これは一方的です。私の説明が十分に反映されていない」

 大槻沙織が答えた。

「ヒアリング記録は全て添付されています。反論内容も記載済みです」

「でも、私は知らなかったことも多いわ」

 黒須怜司が資料をめくりながら言った。

「知らなかったとしても、取締役として八百万円、一千万円単位の支払いを承認しています。さらに、メールでは『小田切にはこちらから言っておく』『雨宮さんが細かく見ているから黙らせて』とあります」

 美咲の顔が歪んだ。

「あれは、そういう意味じゃ」

 佐伯真琴が静かに遮った。

「では、どういう意味ですか」

 美咲は答えられなかった。

 悠真は議案書を開いた。

「第一号議案。特別調査委員会最終報告書受領の件」

 採決。

 高瀬美咲を除く全員が賛成。

 可決。

「第二号議案。臨時株主総会招集の件」

 美咲が顔を上げた。

「株主総会……」

 悠真は淡々と読み上げる。

「議題は、高瀬美咲取締役解任の件、損害賠償請求方針承認の件、法的措置開始承認の件、株主間契約に基づく株式買い取り手続準備の件」

 美咲は立ち上がりそうになった。

「待って。株式まで?」

 水城莉央が冷静に言った。

「株式を当然に奪うわけではありません。株主間契約に基づく買い取り手続の準備です。重大な信用毀損行為、退任、解任等に関する条項の適用可能性を検討します」

「そんなの、横暴よ」

 七瀬蒼真が初めて美咲を見た。

「横暴ではなく、契約です」

 その一言で、美咲は黙った。

 悠真は採決に入った。

 第二号議案。

 賛成多数。

 可決。

 第三号議案。

 高瀬美咲取締役解任議案を臨時株主総会へ上程する件。

 美咲の顔が、完全に青ざめた。

 悠真は表情を変えなかった。

「採決します」

 賛成。

 七瀬蒼真。

 水城莉央。

 宮園千晴。

 篠原航。

 白石琴音。

 大槻沙織。

 一条拓海。

 佐伯真琴。

 黒須怜司。

 悠真。

 美咲は反対した。

 結果は変わらない。

 可決。

 第四号議案。

 損害賠償請求方針承認の件。

 大槻沙織が説明する。

「請求予定額は、現時点で七千二百四十万円。高瀬美咲氏、桐谷健吾氏を主たる請求対象とし、西岡大輔氏、山城直人氏、小田切修氏、江藤真一氏についても、関与に応じた請求を行います」

 美咲は小さく言った。

「七千二百四十万……」

 その数字を、初めて自分の人生に落ちてくる重さとして理解したようだった。

 第五号議案。

 刑事告訴準備の件。

 矢島明彦が説明する。

「現時点で告訴状案を作成し、必要資料を整理します。最終提出は、取締役会の別途承認を経る予定です。対象罪名は、特別背任、背任、詐欺的行為、私文書偽造または電磁的記録関連の可能性を含め、捜査機関と相談します」

 美咲が震える声で言った。

「刑事って……警察に出すってこと?」

 桐生麻衣が淡々と答えた。

「その可能性があります」

「そこまでするの?」

 悠真は、ようやく美咲を見た。

「会社の金を流し、社員を黙らせようとした」

「私は」

「雨宮さんを黙らせろと書いた」

 美咲の顔が崩れた。

 悠真は続けた。

「そこを越えた時点で、夫婦の話ではなくなった」

 採決。

 第五号議案、可決。

 第六号議案。

 関係者処分手続開始の件。

 桐谷健吾の懲戒解雇手続。

 西岡大輔、山城直人、小田切修、江藤真一の懲戒処分手続。

 退職金不支給の検討。

 証拠保全継続。

 可決。

 臨時取締役会は、午後四時過ぎに終わった。

 美咲は、椅子に座ったまま動けなかった。

 神谷玲奈が、内容証明郵便の文案を確認している。

 大槻沙織は、株主総会招集通知の最終版を整えていた。

 七瀬蒼真は、社内影響を最小化するためのタスク表を開いている。

 水城莉央は、銀行と監査法人への説明予定を組んでいた。

 会社は、泣いている者を待たない。

 手続きは進む。

 それが、会社という生き物の冷たさであり、強さだった。

 夕方。

 美咲のもとに、正式な通知が渡された。

 臨時株主総会招集予定。

 取締役解任議案。

 損害賠償請求予定。

 役員退職慰労金不支給方針。

 刑事告訴準備。

 美咲はそれを受け取った手を震わせた。

「悠真……」

 悠真は、もうその呼び方に答えなかった。

 午後六時。

 桐谷健吾の代理人弁護士事務所にも、通知が届いた。

 桐谷は会議室で、報告書の関係部分を読んでいた。

 最初は強気だった顔が、ページをめくるごとに白くなっていく。

 K-Bridge。

 Raven Works。

 戻し分。

 利益は後で分ける。

 西岡と山城にはいつも通りやらせる。

 復元メール。

 ログ。

 資金移動図。

 請求額七千二百四十万円。

 懲戒解雇。

 退職金不支給。

 刑事告訴準備。

 桐谷の弁護士が、報告書を閉じた。

「桐谷さん」

「何ですか」

「これは、かなり厳しいです」

「何とかなるでしょう。社内の話なんだから」

 弁護士は、首を横に振った。

「もう社内の話ではありません」

 桐谷の喉が動いた。

 ようやく理解し始めたのだ。

 営業本部長という椅子は、もうない。

 会社の金を回していたつもりが、自分の首に縄を編んでいた。

 夜。

 ネクストリンク本社。

 社長室。

 高瀬悠真は、臨時株主総会の招集通知に署名していた。

 議案。

 第1号議案。

 高瀬美咲取締役解任の件。

 第2号議案。

 損害賠償請求方針承認の件。

 第3号議案。

 法的措置開始承認の件。

 第4号議案。

 株主間契約に基づく株式買い取り手続準備の件。

 署名欄。

 代表取締役社長 高瀬悠真。

 ペン先が紙の上を滑る。

 それは、夫婦の終わりの署名ではなかった。

 会社が、裏切り者を正式に外へ出すための署名だった。

 神谷玲奈が書類を受け取った。

「発送準備に入ります」

「ああ」

 七瀬蒼真が窓際に立っていた。

「ここからですね」

 悠真は椅子にもたれた。

「ああ」

 机の端には、特別調査委員会の報告書がある。

 百八十二ページ。

 その全てが、次の戦いの弾になる。

 株主総会。

 解任。

 損害賠償。

 刑事告訴。

 桐谷健吾と高瀬美咲は、家庭の修羅場だと思っていたのかもしれない。

 だが、もう違う。

 会社は、傷つけられた。

 社員は、黙らされそうになった。

 金は、流された。

 ならば、会社は会社の言葉で返す。

 議案。

 決議。

 請求。

 告訴。

 悠真は、窓の外を見た。

 東京の夜は、相変わらず美しかった。

 無数の灯りが、無関係な顔で瞬いている。

 だが、その一つ一つの灯りの下に会社があり、人がいて、金が動いている。

 信頼がある。

 契約がある。

 誰かの生活がある。

 それを食い物にした者を、許す理由はない。

 悠真は静かに言った。

「終わらせる」

 七瀬蒼真は何も言わなかった。

 神谷玲奈も、ただ書類を抱えて一礼した。

 報告書は完成した。

 株主総会の準備は始まった。

 そして、ネクストリンクはついに、会社として反撃する日を決めた。

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Dernier chapitre

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第6話 報告書

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  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第5話 金の行き先

     不正調査は、長引かせるほど腐る。 高瀬悠真は、それを知っていた。 だから特別調査委員会の二回目の全体会合で、最初に期限を切った。「最終報告書は、一か月以内に出してください」 第二会議室の空気が、少しだけ張った。 委員長の三枝義人が、老眼鏡の奥から悠真を見た。「一か月ですか」「はい」 悠真は頷いた。「もちろん、刑事告訴や民事訴訟に向けた追加調査は続くでしょう。ですが、会社として役員解任、懲戒処分、損害賠償請求、株式買い取り、監査法人・金融機関への説明を止めたままにはできません」 水城莉央が資料を閉じた。「妥当です。上場準備企業として、調査中という状態を何か月も続けるのは危険です」 外部弁護士の桐生麻衣も頷く。「一か月以内に事実認定の骨格を作る。その後、刑事告訴用の資料を精緻化する。流れとしては自然です」 外部公認会計士の榊原徹が、腕を組んだ。「では、十営業日以内に中間報告。二十営業日以内に最終報告案。二十五日目までに役員向け説明資料。三十日以内に正式報告書。これでどうでしょう」「それでお願いします」 三枝義人が静かに言った。「承知しました。本件は、調査を長引かせて関係者に逃げ道を与える案件ではありません。金の流れを追います」 金の流れ。 それが、今日の核心だった。 不倫写真は入口にすぎなかった。 経費水増しは煙だった。 架空成果物は焦げ跡だった。 火元は、金がどこへ行ったかにある。 ネクストリンクからK-Bridge Consultingへ。 K-BridgeからRaven Worksへ。 さらに別口座へ。 そして誰の手元へ戻ったのか。 そこを押さえなければ、不正はただの疑惑で終わる。 疑惑は人を騒がせる。 証拠は人を裁く。 特別調査委員会は、三班体制から五

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第4話 見て見ぬふり

     不正は、突然生まれない。 最初は、小さな違和感だった。 金額が少し大きい。 相手先の名前が曖昧。 添付された資料が薄い。 承認が早すぎる。 誰も質問しない。 誰かが目を逸らす。 そして、ある日からそれは会社の空気になる。 ネクストリンクの特別調査委員会が設置されてから、一週間が経った。 第二会議室の窓には、朝からブラインドが下ろされていた。 テーブルの上には、紙資料、ノートパソコン、番号付きファイル、付箋、外付けストレージ、調査メモが並んでいる。 そこはもう会議室ではなかった。 帳簿とログを解剖する、無菌室のような場所だった。 委員長の三枝義人は、老眼鏡をかけ直し、手元の一覧表を見た。「対象データ、三千八百十二件。そのうち、一次抽出で異常値ありとされたものが二百十七件」 水城莉央が頷いた。「経費、出張、接待、外注費、研修費、販促費。名目は散っていますが、承認経路に偏りがあります」 大槻沙織が資料をめくる。「桐谷健吾申請、高瀬美咲承認。この組み合わせが多い。さらに、営業管理課長の西岡大輔、営業第二課長の山城直人、経理課長の小田切修、経理管理課係長の江藤真一。この四名が複数の案件に絡んでいます」 外部公認会計士の榊原徹が、低い声で言った。「典型的ですね。主犯がいて、承認者がいて、現場側で形を作る人間がいて、経理側で通す人間がいる」 若手会計士の村瀬絢が画面を拡大した。「K-Bridge Consulting関連だけでなく、接待費の水増し、出張費の目的不明、研修費への付け替えもあります。金額はまだ確定できませんが、現時点の疑義額は少なくとも六千万円台に乗ります」 会議室に、紙をめくる音だけが響いた。 六千万円。 中小企業なら、それだけで資金繰りが傾く金額だ。 ネクストリンクにとっても、軽い金ではない。 社員の給与。

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第3話 空席を埋める者

     ネクストリンクは、止まらなかった。 翌朝八時。 高瀬悠真は、いつも通り本社二十七階の社長室にいた。 昨日、臨時取締役会で専務取締役・高瀬美咲の一部職務権限停止が可決された。 営業本部長・桐谷健吾には自宅待機命令が出された。 社用端末は回収。 会社アカウントは停止。 経費精算、契約、外注先選定、出張申請、チャットログ、メールボックス、ファイル共有履歴は保全された。 普通なら、会社中が凍る。 だが、会社は生き物だ。 誰かが倒れた瞬間、血流を別の道へ逃がさなければ、全身が腐る。 悠真は、社長室のモニターに表示された全社向けメッセージを確認していた。 文面は短い。 余計な感情はない。 だが、社員が一番知りたいことだけは入れてある。⸻社員各位昨日開催された臨時取締役会において、一部役員および幹部社員に関する調査体制の設置を決議しました。調査の公平性と事業継続を確保するため、当面の間、一部業務分掌と権限を変更します。顧客対応、開発、導入支援、サポート、採用、給与支払い、取引先支払いに影響はありません。社員の皆さんには、不確かな情報に基づく憶測や個人攻撃を避け、通常業務を継続してください。内部通報者、関係社員、調査協力者への不利益取り扱いは一切認めません。会社は、事実に基づき、適正な手続きで対応します。代表取締役社長高瀬悠真⸻ 悠真は最後まで読み、神谷玲奈へ視線を向けた。「これで出してくれ」「承知しました」 秘書室長の神谷玲奈は、すぐに配信予約を入れた。 八時十五分。 全社員にメール。 社内ポータルに掲示。 管理職向けには、別途説明資料。 顧客対応部署には想定問答。 人事部には相談窓口の増設。 情報システム部に

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第2話 取締役会

    「それでは、臨時取締役会を開始します」 高瀬悠真の声が、役員会議室に落ちた。 午前十時。 株式会社ネクストリンク本社、二十七階。 普段なら新規事業や上場準備、採用計画、資金調達、主要顧客との契約更新などを話し合う場所だった。 だが、今日だけは違う。 会議室の空気が、妙に重い。 ガラス張りの壁の向こうには、いつも通り東京の街が広がっている。 車は流れ、人は歩き、ビルの窓は光を返していた。 世界は何も知らない顔で動いている。 その一方で、ネクストリンクの中枢では、会社の内臓に刃を入れる会議が始まろうとしていた。 長い楕円形のテーブル。 議長席には、高瀬悠真。 その右隣に、副社長の七瀬蒼真。 二十九歳。 悠真より六歳若い。 創業五年目に入社した天才肌のプロダクト責任者で、現在は開発・事業戦略を管掌している。 黒いジャケットに白いシャツ。 表情は柔らかいが、目は鋭い。 悠真が外部交渉と経営全体を見るなら、七瀬蒼真は会社の製品を未来へ引っ張るエンジンだった。 その隣には、取締役CFOの水城莉央。 三十一歳。 元外資系投資銀行。 上場準備、資金繰り、銀行交渉、資本政策を担う女性取締役だ。 数字に強く、余計な情緒を嫌う。 美咲が財務・人事管掌の専務として社内管理を見ていた一方、水城莉央は資本市場と金融機関に向き合う役割を担っていた。 左側には、専務取締役の高瀬美咲。 今日も美しかった。 白いブラウスに淡いベージュのジャケット。 落ち着いた髪。 役員としての笑顔。 十年近く、会社の顔の一人として振る舞ってきた女の顔だった。 悠真はその横顔を見ても、何も言わなかった。 そのさらに隣に、取締役CHROの宮園千晴。 三十三歳。 人事

  • 離婚したので会社ごと追い出しました。   第1話 証拠はそろった

     高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。 それは優しいからではない。 怒鳴る前に、数字を見るからだ。 東京都千代田区。 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。 上場準備にも入っている。 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。 三十五歳。 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。 派手な経営者ではない。 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。 役員フロアの社長室。 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。 机の上には、三つの資料が並んでいる。 一つは、月次売上報告書。 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。 差出人は、青葉総合調査事務所。 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。 先に売上報告書を開いた。 第一事業部、前年比一二八%。 第二事業部、前年比一一六%。 営業本部、新規案件獲得数は多い。 だが、利益率が落ちていた。 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。 偶然ならいい。 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。「社長、よろしいでしょうか」 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。 三十二歳。 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見

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