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第27話

Author: いくの夏花
使用人の柳井は遥香を引き留めようとした。「若奥様……いえ、遥香様、手はまだ完治していません。今日も医者が薬の交換に来ることになっております。

先ほど若旦那様から電話があり、遥香様に受診いただくよう、念を押されました。遥香様、若旦那様は本当にあなたのことを思っておられますよ。お二人が離婚されたなんて、本当に残念でなりません……」

「柳井さん、ありがとう。これまでお世話になりました」遥香はその言葉を遮った。

端から見れば、修矢は財力もあって優しく、まれに見る理想の男性に映っている。自分は、そんな彼を手に入れながら不満を抱いている、身勝手な女に見られていることだろう。

ただ遥香だけは知っていた。この結婚は最初から一方的な片思いだった。だから、結末もひとつだった――まるで火に飛び込む蛾のようなもの。

遥香には、川崎家と修矢の問題を処理する暇などなかった。悲しんでいる時間さえ惜しい。まもなく田中社長らのオーダー品の納品日が迫っていたが、この大事な時に手を負傷してしまったのだ。

遥香は作業台に座り、左手に材料を抱え、右手に彫刻刀を握った。力を入れるたびに手の平に激痛が走った。

傷口は開き、血が包帯を赤く染めた。それでも、彼女は止めようとしなかった。

「オーナー、もうやめましょう。このまま続けたら、手が使い物にならなくなります!

私が鴨下社長に話してきます。罰は私が受けますから!もうこれ以上やらないでください!」

のぞみは今にも泣き出しそうになりながら訴えたが、遥香は痛みに耐えながら答えた。「……大丈夫よ」この取引は完璧に仕上げなければならない。さもなければ鴨下家との関係は、決して清算できない。

結局、のぞみは遥香を説得しきれず、工房を出て江里子に連絡を取った。江里子はすぐに用事を切り上げ、急いで駆けつけた。

ブラインド越しに、一心不乱に作業を続ける遥香の姿を見て、江里子は説得が無駄だと悟った。

ハレ・アンティークと鴨下家の関係を、遥香はよく分かっている。今の唯一の解決策は、田中社長らに納期延長を承諾させることだった。

しかし、かれらは上流階級の人間。江里子では太刀打ちできない。川崎家に頼む?いや、あのろくでなしの両親が助けるわけがない。頼れるのは、修矢だけだった。

――そもそも、遥香には修矢に助けを求める権利があるのだ。江里子は歯を食いしばり、病院
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Comments (1)
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くるっぺ
柚香の前では本心を隠さないといけないのかな? それにしても、なんでこんなに養女にえこひいきするのか…
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