描写のニュアンスが変わると、能力の受け止め方までが別物に見えることがある。原作の漫画『ジョジョの奇妙な冒険 第5部』では、
フーゴのスタンド〈パープル・ヘイズ〉はテキストとコマ割りでその危険性と不可制御性が淡々と示されていた。コマの切り替えや擬音、短い説明文が、病原性の速さや範囲の曖昧さを読み手の想像力に委ねる形になっていて、結果として“何が起きるか分からない”という恐怖が増幅される。僕はその余白が好きで、読むたびにさまざまな惨状を頭の中で再構築していた。
アニメでは、動きと音と色で同じ設定が即座に具現化される。映像は分かりやすさを与える一方で、漫画で感じた曖昧な恐怖を別の方向に変換してしまう。感染の挙動や被害の細部を映像で見せることで、能力の“実像”が固定され、観客が受け取る力の性質や危険度が多少変わる。僕はアニメ版を観て、〈パープル・ヘイズ〉が持つ暴力性はより生々しく、同時に描写の抑制や演出によって残酷さの印象はコントロールされていると感じた。
結局、原作は読者の想像力を刺激する余地を残し、アニメは視覚聴覚で直接的なパンチを与える。どちらが優れているかではなく、同じ設定がメディアの特性で別の印象に変わる好例だと思っている。