あなたの後悔に、私は署名しない
久我言司(くが げんじ)のために八年間、日陰の存在として、部下として、身を粉にして尽くし続けてきた。
私をそんな夢物語から現実に引き戻したのは、会社の清掃員のおばさんだった。
深夜の残業中。私は温かい海鮮粥と胃薬を、言司のデスクにそっと置いた。
「久我社長、冷めないうちに召し上がってください。また胃が痛くなりますから」
言司はモニターの財務報告書から目を離そうともせず、「ああ」という空返事すら寄越さない。
粥の器を少しでも彼の手元へ近づけようとした、そのときだった。
傍らでゴミ箱を片付けていた清掃のおばさんが、ふと作業の手を止めた。
「お嬢さん、もういいんじゃないですか。社長なら、別の子が持ってきたお弁当をもう召し上がりましたよ。あのきれいなお弁当箱は、まだうちのカートに捨ててあるんですから」
私の手が、宙で凍りついた。
言司がキーボードを叩く音も一瞬途切れ、わずかに眉間が寄せられる。
五十代の清掃員。ただ黙々と社内を清掃しているだけのおばさんにすら、とっくに見抜かれていたのだ。
――この男は、私のことなどこれっぽっちも愛していないのだと。
立ち上る海鮮粥の湯気を見つめていると、ふと、そんな思いが頭をよぎった。青春のすべてを捧げたこの八年間が、まるで滑稽な茶番劇のように思えてきたのだ。
私は静かに手を伸ばし、粥を容器ごとゴミ箱へ落とした。
「そうですね。社長のお口に合う味も、どうやら変わってしまったみたいですから」
それが、彼を人生の最優先事項にしてきた私にとって、最後の夜となった。