窓の外からは、雨の名残を湛えた夜の湿気がわずかに忍び込んでいた。ガラスには、いまだ乾ききらない水滴が幾筋も残り、街灯の光をぼんやりと屈折させている。午後十一時を過ぎた部屋のなかは、外の騒音が遠のいた分だけ、どこまでも静かだった。冷たいような、ぬるいような、複雑な空気。
間接照明の明かりはやさしく、ベッド脇の壁に、ふたつの影を淡く描き出していた。小阪と河内は、正面から向かい合って座っている。どちらからも、言葉が出ない。テーブルの上には飲みかけの水のグラスがあり、その表面に映る天井の灯りが、小さな揺らぎを見せていた。ふたりの間には、触れそうで触れない距離が横たわっていた。だが、もうあとには引けない。
小阪は、指先で自分のシャツの裾をつまんだ。ほんのわずかに爪が生地を引っかく音が、やけに大きく耳に残った。河内はその仕草を、じっと見ていた。いつもなら、相手を自分のペースに巻き込み、黙って抱き寄せてしまう。だが今夜だけは、何かが違っていた。この沈黙は、拒絶ではなかった。空白のなかに、やわらかな余白がある。小阪の左手が、ためらいがちに河内の右腕へと伸びる。その指先が触れた瞬間、河内の呼吸が少しだけ深くなる。ふたりとも、息を殺していたのだと、今になって気づく。「……脱がすで」
河内が低い声でそう呟くと、小阪はわずかに頷いた。声のなかに、どこか笑いを含ませようとしたが、緊張で上手く出せなかった。指先がボタンにかかる。ひとつ、ふたつ、そして三つ目――静かな音を立ててシャツの前が開かれていく。小阪の喉仏が、そっと揺れた。首筋の細い血管が、心拍にあわせて脈打つ。その白さと細さに、河内はなぜか愛しさと怖さが同時に湧き上がる。小阪は、河内のジャケットの襟に手をかけた。
指が袖口にかかったとき、ふたりの視線がふっとぶつかる。小阪はすぐに目を逸らしたが、唇だけはかすかに震えながらも、そのまま相手の肩に手を滑らせていく。無理に早めようとはしない。焦るほどに、手の動きが慎重になるベランダの空気は、まだ湿り気を含んでいた。雨上がり特有の匂いが、どこか懐かしく肺を満たす。手すりに触れた指先に、残っていた水滴がひとしずく、肌の温度に触れながら滑り落ちた。ふたりのあいだにある空白は、もはや気まずさではなく、呼吸の余白になっていた。小阪は静かに煙草を持ち上げる。フィルターの向こう側には、赤く灯った火がまだ息づいている。唇に咥え、ゆっくりと吸い込んだ煙は、深く喉の奥まで熱を連れていった。吐き出す瞬間、小阪は視線を横にずらす。河内がすぐそばにいた。肩がほんのわずかに触れ合う距離。目の前にある体温と、肌の気配。そして、煙。小阪は口の端を少しだけ上げると、軽く顎をあげて、ふうっと煙を河内のほうへ吹きかけた。朝の空気に溶けていく白い煙。その向こうに、河内の目元が、微かに細められるのが見えた。「ほら、吸う?」冗談のように、でもどこかくすぐるような口ぶりで言いながら、小阪は手にしたタバコを差し出した。フィルターの端は、さっきまで自分の唇が触れていたところ。差し出す手に迷いはなかった。けれど、その動きには確かな“意味”が込められていた。河内は一瞬、ほんのわずかに目を見開き、それから小さく笑って、何も言わずにそのタバコに口を寄せた。フィルターに唇が重なり、煙を吸い込むと、タバコの先がふたたび赤く光る。唇の湿り気が、ほんの一瞬、タバコ越しに伝わった。それはキスではなかった。けれど、直接のキスよりも、ずっと濃密なものがそこにあった。「……朝からやらしいわ」河内がぽつりと呟く。その声は笑っていたが、どこか照れ隠しのようでもあった。そのまま、小阪の髪にそっと手が伸びる。濡れた前髪を優しく払うように、指先が額の生え際をなぞった。小阪はその手を避けることもなく、されるがまま、穏やかに受け入れた。そして目を伏せてから、空へと視線を上げた。「別にええやん」その言葉は、反論でもなく、挑発
タバコの箱に触れたとき、何か特別な意味を持たせようとしたわけじゃなかった。ただ、その形が視界に入った瞬間、手が自然と動いていた。ベランダの片隅、灰皿のそばに無造作に置かれたセブンスター。角が少し潰れたその箱は、河内がいつもポケットに入れていたものだ。中指と人差し指で、一本をそっと引き抜く。指に馴染む重さと紙の手触りが、懐かしい記憶を呼び起こす。もう何年も、こうしてタバコを吸うことからは距離を置いていたのに。ライターを手に取る。マッチの代わりに河内が使っている、銀色の古いジッポ。蓋を開けると、金属の軋む音が小さく響いた。火花が弾け、青白い炎が瞬いた。タバコの先端をその火に近づける。吸い込むと、細く赤く光る。煙を口に含み、肺へと流し込む。その一瞬、頭の奥がじんわりと痺れた。胸の奥に重たい熱が広がる。吐き出した煙が、朝の冷たい空気に溶け込んでゆく。小阪は目を細めて空を仰ぐ。雲がまだ残る灰色の空。けれど、どこかで陽の光が輪郭を滲ませている。吐息のような煙がもう一度、細く長く立ちのぼる。火をつけたその瞬間から、小阪のなかで何かが変わっていた。逃げ場としてのタバコじゃない。誰かの代わりでも、誰かに見せつけるためでもない。ただ、自分の意思で、選んで火をつけた。その煙が、ようやく自分の胸の内と繋がったような気がした。「よう似合うな、俺より」背後から聞こえた声は、低く、少しだけ掠れていた。振り向かなくても、それが河内の声だとすぐにわかった。小阪はベランダの手すりに背を預けたまま、ほんのわずかだけ肩を上げる。河内はTシャツ姿のまま、寝癖もそのままの髪でベランダに立っていた。手には何も持っていない。タバコも、飲み物も。目元に少し眠気を残しながら、小阪を見ていた。「そうか?」ぽつりと返す。声に感情を乗せるのが、少しだけ恥ずかしかった。言葉よりも、煙のほうがよほど雄弁だった。小阪がもう一度、タバコを咥えてゆっくり吸い込む。肺の奥に熱が届く感覚が、河内との距
小阪が目を覚ましたとき、部屋はまだぼんやりと夜と朝の間にあった。カーテン越しに射し込む光は、真昼のような強さではなく、どこかやわらかで曖昧な色をしている。まぶたをゆっくりと開け、ぼやけた視界の中で天井をしばらく見つめていた。布団の端に腕を伸ばすと、まだ河内の体温がわずかに残っている。自分の肌の奥には、昨夜の熱がしっかりと刻まれていた。そのまま静かにベッドを抜け出す。河内を起こさないように、足音を忍ばせて洗面所へ向かう。鏡のなかに、見慣れたはずの自分の顔。昨夜より少しだけ、唇の端が上がっている。冷たい水で顔を洗い、髪を手ぐしで整える。目の下のクマが薄い。眠気と安堵が同居する、どこか現実感のない朝だった。Tシャツを引っかけて、キッチンでグラスに水を注ぐ。口の中をゆすぐように一口、もう一度ゆっくりと飲み込む。ベッドのほうを振り返れば、まだ眠っている河内の寝顔が見える。寝癖のついた髪と、静かな横顔。心臓が、ぽつりと音を立てる。窓辺へと歩み寄る。裸足の足の裏に、フローリングのひんやりとした感触が心地よい。ベランダのガラス戸を開けると、湿った朝の空気が流れ込んできた。昨夜降った雨の名残が、手すりや床にまだ残っている。空は曇りがちだが、どこか晴れ間の気配もある。一歩外に出る。湿気を含んだ空気が足の裏に絡む。グレーがかった空を仰ぎながら、深呼吸をする。雨上がりのにおいが鼻の奥に沁みる。手すりに両手を置き、静かにため息をついた。胸の奥には、まだ火照りのような熱が残っている。それは、夜の名残でもあり、たしかな幸福でもあった。無理に朝食を作ろうとも思わない。ただ、今はこのまま、少しだけ静かな朝を味わいたい。ふと横目でガラス戸の向こうを覗くと、ベッドの上の河内が見える。寝返りをうった彼の首筋が、シーツの影に白く浮かんだ。自分が河内の横顔をこんなに愛しいと思う日が来るとは、ずっと前は想像もできなかった。ずっと誰のことも信じず、何も望まないふりをしてきた。けれど今は、こうしてぼんやりと眠る相手のぬくもりさえ、惜しいほど胸に染みてくる。昨夜の記憶が、体の奥からじんわりと蘇る。ベッドの軋む音、交わした声、名を呼ばれたときの熱、
シーツの上でふたりの体温が重なり合うたび、部屋の静けさが少しずつ別の響きに塗り替えられていった。ベッドの軋む音が、ふたりの息遣いとともにリズムを刻む。小阪の肌に河内の手のひらが滑るたび、ほんのわずかに鳥肌が立つ。その肌理まで河内は丁寧に確かめ、指先で肩甲骨から腰へ、脇腹をなぞっては静かに圧をかける。肌と肌がこすれ合い、湿度を帯びた夜の空気が、その全てを抱き込んでいく。小阪の瞳は、まっすぐ河内を捉えていた。これまでのように遠くを見るでも、どこかに逃げるでもなく、まるで自分の中にあるすべてを曝け出すような、素直なまなざし。河内もまた、その瞳から目を逸らさない。どちらが先に目を閉じるか、どちらが先に声を漏らすか、それさえも今夜は重要だった。「……陸」小さく名前を呼ぶ声に、小阪の喉が震える。ふと、抑えきれずに漏れる息が部屋に響く。それは、苦しさでも、痛みでもなかった。むしろ初めて自分の体が自分の意思で反応しているのだと、小阪自身がはっきりと感じていた。河内がゆっくりと動きを深めるたび、小阪の体がわずかに反り、背中がベッドの上でしなった。シーツが小さくきしみ、その音がふたりの間を結ぶ新しい言語になる。小阪の吐息が、熱を持って唇から零れ落ちる。「……ん、あ、」時折抑えきれないほどの声が、唇の隙間からこぼれる。その音を聞くたび、河内の動きがさらにゆっくりと、しかし深く刻まれるようになる。「陸、」無意識に名前を呼ぶ声が、身体の奥底にまで響いてくる。河内の指が小阪の髪をそっと撫で、顔を近づけてキスを重ねる。その唇は、これまでのどの夜よりもやわらかく、熱を持っていた。「……見て」河内が、低く囁く。小阪は一瞬戸惑いながらも、ゆっくりとまぶたを開ける。ふたりの視線が重なり、その刹那、どちらともなく微笑みが浮かぶ。「きれいや」河内の声に、小阪の頬がまた赤く染まる。体が自然に、河内の方へと引き寄せられていく。そのまま深く繋がり合った瞬間、小阪はこれまでにないほどの快感に襲われ、押さえきれない声を上げた。「&helli
キスの余韻が残る唇をそっと離すと、小阪の睫毛がゆっくりと上がる。その目元には、見慣れた無表情のベールが半ば剥がれ、いくらかの熱が滲んでいた。息を吐くたび、唇の縁がほんの少し濡れている。その柔らかな部分を、河内はもう一度確かめるように、軽く唇を重ねた。ふたりの身体が、ベッドのシーツの上でじわじわと近づいていく。どちらも焦ることなく、けれど、どこか手探りのまま相手を受け止めていく。河内が小阪の顎を親指でそっと撫でると、小阪は少しだけ身体を硬くした。だが、拒む気配はなかった。むしろ、受け入れること自体に新鮮な戸惑いがあるような、そんなぎこちなさだった。「……顔、真っ赤やで」河内が小さく笑いかける。小阪は答えず、ただ視線を落とす。ベッドの端に散らばったシャツや下着の隙間から、雨あがりの夜風が、ほんのわずかに肌を撫でていく。小阪は、河内の手のひらに自分の手を重ねてみる。その指先は、まだかすかに震えていた。河内の身体がゆっくりと小阪の上に重なる。手のひらが、胸から腹、腰骨へとすべっていく。触れられる場所ごとに、小阪の吐息がふっと変化する。声にならない声が、喉の奥で滲んでいく。キスは、だんだん深くなっていった。舌がわずかに触れ合い、唇の端が甘く噛まれる。そのたびに、小阪の背中がシーツの上で小さく弾む。河内の掌が太ももを撫で上げる。まるで、相手の反応を確かめるかのように。「嫌やったら、言えよ」耳元で囁くと、小阪はほんのわずか、首を横に振る。「……いやちゃう」かすれた声だった。その一音一音が、はじめてのようにやわらかい。ベッドがわずかにきしむ。膝を立てて身体を受け入れながら、小阪は目を閉じた。いつもは音を殺していたはずの吐息が、今夜は少しずつ漏れ出す。河内がそっと、潤滑剤を使いながら指を入れていく。小阪の眉がほんの少しひそめられ、喉の奥で、かすかな声が零れる。「……っ、」その声は痛みにも似て、けれど嫌悪の色はなかった。河内は指の動きを止め、
窓の外からは、雨の名残を湛えた夜の湿気がわずかに忍び込んでいた。ガラスには、いまだ乾ききらない水滴が幾筋も残り、街灯の光をぼんやりと屈折させている。午後十一時を過ぎた部屋のなかは、外の騒音が遠のいた分だけ、どこまでも静かだった。冷たいような、ぬるいような、複雑な空気。間接照明の明かりはやさしく、ベッド脇の壁に、ふたつの影を淡く描き出していた。小阪と河内は、正面から向かい合って座っている。どちらからも、言葉が出ない。テーブルの上には飲みかけの水のグラスがあり、その表面に映る天井の灯りが、小さな揺らぎを見せていた。ふたりの間には、触れそうで触れない距離が横たわっていた。だが、もうあとには引けない。小阪は、指先で自分のシャツの裾をつまんだ。ほんのわずかに爪が生地を引っかく音が、やけに大きく耳に残った。河内はその仕草を、じっと見ていた。いつもなら、相手を自分のペースに巻き込み、黙って抱き寄せてしまう。だが今夜だけは、何かが違っていた。この沈黙は、拒絶ではなかった。空白のなかに、やわらかな余白がある。小阪の左手が、ためらいがちに河内の右腕へと伸びる。その指先が触れた瞬間、河内の呼吸が少しだけ深くなる。ふたりとも、息を殺していたのだと、今になって気づく。「……脱がすで」河内が低い声でそう呟くと、小阪はわずかに頷いた。声のなかに、どこか笑いを含ませようとしたが、緊張で上手く出せなかった。指先がボタンにかかる。ひとつ、ふたつ、そして三つ目――静かな音を立ててシャツの前が開かれていく。小阪の喉仏が、そっと揺れた。首筋の細い血管が、心拍にあわせて脈打つ。その白さと細さに、河内はなぜか愛しさと怖さが同時に湧き上がる。小阪は、河内のジャケットの襟に手をかけた。指が袖口にかかったとき、ふたりの視線がふっとぶつかる。小阪はすぐに目を逸らしたが、唇だけはかすかに震えながらも、そのまま相手の肩に手を滑らせていく。無理に早めようとはしない。焦るほどに、手の動きが慎重になる