鈴木一真(すずき かずま)と結婚して三年目、佐藤梨花(さとう りか)はようやく一真の心の中に誰がいるのかを理解した。 その人物、一真の兄の妻、小林桃子(こばやし ももこ)だった。 兄の鈴木啓介(すずき けいすけ)が亡くなった夜、一真は傍らにいる梨花の存在など少しも気にならず、容赦なく梨花に平手打ちをくらわせた。 その瞬間、梨花は全てを理解した。 一真が自分を娶ったのは彼女が「従順で言うことを聞く」からにすぎないのだ。 確かに、彼女は本当に「いい子」だった。 気を遣いすぎて、離婚さえも彼を少しも煩わせなかった。 一真はまだ気づいていなかった。 梨花はすでに離婚届を受け取っている。 彼女がもうすぐ他の人と結婚しようとしていた。 癌の特効薬を開発した日、世界中が彼女の成功を称賛した。 ただ一人、一真だけが片膝をつき、目を真っ赤にして彼女に懇願した。 「梨花、ごめん……僕が間違ってた。どうか、もう一度だけ、僕のことを見てくれないか?」 あの完璧な男が間違うはずがない。 それでも梨花は、ゆっくりと一歩後ろに下がった。 その瞬間、世間では最も高嶺の花と噂される若い男性が彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、傲然と宣言した。 「悪いけど、彼女はもうすぐ結婚するんだ。俺と」
view more彼はとても忙しかった。自分に妻がいることすら、忘れるほどに。梨花は息を整え、ふと振り返って彼を見た。「どうして分かったの?」「......勘だよ」彼女が否定しようともしないのを見て、一真は驚きもしなかった。だが、胸の奥にずっしりと詰まった石のようなものが呼吸を妨げる。その違和感が眉間にまで影を落とした。梨花はうっすらと笑った。「気づかれないと思ってたのに」「僕って、そんなにダメな夫だったか?」「いい夫だったよ」梨花は微笑みを深める。「桃子の前では、ね」夫としては失格。でも、愛人としてはきっと優秀だった。彼女は真剣に言ったつもりだったが、それが一真の耳には皮肉にしか響かなかった。彼は深く息を吐き、胸の痛みをごまかすように声を低くした。「すぐに桃子には引っ越してもらう。そしたら、あなたを迎えに行くよ」「また今度ね」梨花は唇の端を少しだけ上げた。それ以上、はっきり言葉にはしなかった。だが、その軽くて柔らかい「また今度ね」のひと言が、一真の心をかえって強く締めつけた。言いようのない焦燥感に駆られ、彼は思わず彼女の手首を掴んだ。「どういう意味?戻ってこないつもりなのか?」本当は、うなずきたかった。正直に、「うん」と答えたかった。でも、まだあの離婚届が手元にない今、軽率な言動はできない。「そんなことないよ。考えすぎ。綾香を待たせてるから。行くね」そう言って彼女は手を振り払うと、カシミアのコートの前を整え、大きく一歩を踏み出した。一真は車の中に戻り、しばらくじっと座っていた。梨花の、あの淡々とした目の奥の冷たさだけが、ずっと脳裏に焼きついて離れなかった。彼女は、以前のような彼女じゃなかった。不安が胸の奥に広がっている。かつて感じたことのない感情が静かに彼を蝕んでいく。けれど、どんなに不安になろうと、ひとつだけ確かなことがあった。自分が「首を縦に振らない限り」、梨花は永遠に「鈴木家の奥さん」なのだ。その事実が、彼を唯一安心させる材料だった。レストランは黒川グループのビルの向かいにあった。梨花は先にグループ本社の地下駐車場で車を取ってから帰宅した。玄関で指紋認証をしている時、室内から何か激しい物音が聞こえてきた。扉を開けた瞬間
一真は勢いよく彼女を見つめた。視線は一瞬たりとも逸れない。「もってどういう意味だ?他にもくちゃんって呼ばれてた人がいるのか?」くちゃんはごく普通の呼び名だ。重なることも珍しくない。だが、一真の目に宿るその焦りが、あまりにも強すぎて、梨花は警戒心を抱いた。彼女はゆっくりと目を伏せ、感情を静かに閉じ込めながら言った。「いえ。なんとなく、ありふれた名前だなと思って」彼女は今日、あらためて思い知った。一真がどれほど桃子を盲目的に庇うかということを。もし彼が、桃子がかつて梨花をいじめていたと知ったとしても、真っ先に庇うのはきっと桃子だ。もしかしたら、桃子が被害者ぶって逆襲する可能性すらある。それに、自分自身もまだすべての真相を掴み切れていない。ただ、この御守りだけは。梨花は唇を引き結び、あくまで無邪気な笑顔を見せた。「一真、この御守りのデザイン、すごく素敵だね。数日だけ貸してくれない?ジュエリーをやってる友達に頼んで、同じものをオーダーしたいなと思って」啓介の件で、彼はもともと後ろめたさがある。そして、彼は最初から梨花に借りがある自覚もある。彼女のどこか訴えるような瞳を見て、一真はしばし躊躇したものの、結局うなずいた。「......いいよ」この御守りが、桃子にとって特別な意味を持っていると信じている一真は、優しい口調で付け加えた。「大切に保管してね。傷つけたりしないように」「うん、わかってる」梨花は素直にうなずいた。この数ヶ月、一真の前でこれほど誠実に応じたのは、初めてかもしれない。一真も少し驚いたような表情を浮かべ、懐かしそうに彼女の頭をそっと撫でた。「さ、食べよう。口に合うといいけど」「うん」この日の食事は、梨花にとって久々に心から満足のいくものとなった。大切なものを取り戻したことで、自然と食欲も湧いた。レストランを出た頃には、まだ時間は早かったが、冬の潮見市はすでに宵闇が迫り、街全体がきらめく光に包まれていた。二人は並んで歩き、車の前まで来た。一真はいつも通り紳士的に、ドアを開けてくれる。「さあ、今日は久々に一緒に帰ろう」梨花は片手をコートのポケットに突っ込み、そっとその中の御守りを撫でた。そして、もう片方のポケットの中では、頭の中で必
一真は指先でグラスの縁をなぞりながら、微かに眉をひそめた。「彼女もちょっと取り乱してただけなんだ」「一時の取り乱しなのか、計画的なのか、あなたはもう知ってるでしょ?」梨花は彼の見て見ぬふりを貫く才能には感心すら覚えた。透き通るような目で一真をまっすぐに見つめると、彼はついに観念したように小さくため息をつきながら言った。「梨花......今回のことは確かに、桃子がやりすぎた。だから、僕から何か埋め合わせを」ちょうどそのとき、テーブルの上に置かれた一真のスマホが鳴った。梨花はディスプレイを見ることなく、彼の苦笑気味の表情だけで、誰からかを察した。桃子だ。「ごめん、ちょっと電話出るね」「どうぞ」梨花はうっすらと笑みを浮かべた。せっかくの謝罪の席。料理もまだ出揃っていないというのに、加害者からの電話を優先する始末。どこまでも、つまらない。「お客様、お客様?」ウェイターに声をかけられて、梨花はようやく我に返った。いつの間にか一皿料理が運ばれてきていた。「どうかされましたか?」「えっ、あ......」「先ほどご一緒の男性が、椅子の上にこちらを落とされていたようです」そう言ってウェイターは、ひとつの翡翠のペンダントを差し出した。「大切なものかもしれませんので、代わりにお預かりいただけますか?」「ありがとうございます」梨花は無意識のうちにそれを受け取り、机の上に置こうとした。だが、ちらりと視線を落とした瞬間、脳が一瞬真っ白になる。これは、私の御守り。あの孤児院で無理やり奪われた、父母がくれた大切な御守り。この数年、何度も探そうとしたが、あの孤児院で過ごした時間は短く、当時の少女の名前も思い出せなかった。一度戻ってみたときには、施設ごとなくなっていた。もう、見つかることはないと思っていた。まさかこんな形で、また戻ってくるなんて。呆然としていた梨花の手元から、突然その御守りが引き抜かれた。「返して!」まるで反射的に、梨花はそれを取り戻そうと手を伸ばす。あの頃は取り返せなかった。でも今は違う。自分はもう子どもじゃない。あれは両親が残してくれた、唯一の「愛」の証。「返して!」「返せって?」一真は彼女の必死な様子に驚いたように眉をひそめた
この言葉の意味が、菜々子にはうまく掴めなかった。だが、エレベーター内の空気が目に見えるほど気まずくなっていくのは感じ取れた。梨花は一真の顔に一瞬浮かんだ困惑を見て、思わず笑いそうになるが、ふと視線を上げたその先に、竜也のまっすぐな眼差しがぶつかった。「梨花さん、プロジェクトが忙しくないみたいだな、残業する必要もないとは?」誰も構わず飛んでくる無差別攻撃。言葉の端々から、いかにも資本家らしい気質がにじみ出ていて、社員全員を過労寸前までこき使いたいのが見え見えだった。梨花の笑顔は一気に消え、真面目な声で答えた。「残りの作業は家で進めますので」「へぇ」竜也は意味ありげに頷きながら、ぼそりと漏らした。「恋愛至上主義ってやつは、帰宅しても仕事に集中できるのかね?」「......」梨花は滅多に気まずくなるタイプではない。だが今ばかりは、エレベーターの天井から飛び降りたくなるほどには恥ずかしかった。皆が思っているのだろう。彼女があれほど一真との結婚にこだわったのは、「本気で愛していたから」に違いないと。だからこそ、一真は梨花の気まずさに気づくこともなく、どこか誇らしげに笑った。「からかうのはやめてあげてくださいよ。梨花はこう見えて繊細なんですから」その言葉が終わると同時に、エレベーターが地下1階に到着した。全員がエレベーターを出た瞬間、隣のエレベーターも開き、ある部門のディレクターが息を切らして飛び出してきた。「社長、至急サインが必要な書類があります!」竜也は表情を改め、書類を受け取ると、ポケットから万年筆を取り出して、流れるように署名した。その筆跡は梨花もよく知っている。力強く、堂々としている。竜也はかつて、梨花に文字の書き方を教えたことがあり、梨花の筆跡にも、その影響が少し残っている。梨花は視線を戻そうとしたとき、ふと、竜也の万年筆に目が止まった。「社長、そのペン、どうしてお持ちなんですか?」それは、彼女が貴大に贈った誕生日プレゼントだった。オーダーメイドの一品で、同じものは存在しないはずだった。「彼から貰ったんだよ」竜也は眉ひとつ動かさず、堂々とした様子でペンキャップを閉じ、ゆっくりポケットに戻した。「竜也に似合う気がするってね。あれ、お前が贈ったものだっ
このプロジェクトには、誰もが関わっている。涼介が全員にロビーでアフタヌーンティーを取ってくるようにと声をかけ、梨花も空気を読んで同行した。まさかと思ったが、到着してすぐに菜々子に手を取られた。「梨花、昨夜は大丈夫だった?社長、ああいう言い方することあるけど、気にしないでね」「私は大丈夫」梨花は少し驚いた。彼女の真意がつかめず、「差し入れ、ありがとうございます」と礼を言った。竜也が自分に敵意を示しているのは明らかなのに、なぜ菜々子はこうして親しく接してくるのか。「そんな、気を遣わないで」菜々子は笑って、今度は漢方チームの男性陣三人に向かって声を飛ばした。「あなたたち、梨花が女の子だからって軽く見たりしないでよ?仕事はしっかり連携してね」「菜々子さん」梨花は唇を引き結び、少し低めの声で言った。「無理に妹扱いして気を遣わなくていいです。私と社長の関係、あなたが思っているようなものではないですから」「ふふ、それじゃどういう関係なの?」菜々子は柔らかく微笑みながら尋ねた。そして続けた。「でもね、私には彼がちゃんとあなたのことを気にかけてるように見えるの。少なくとも......あの日の彼の顔、私は初めて見たもの」梨花が何か言い返す前に、菜々子はまたケーキを一切れ手渡してきた。「社長がどうあれ、私はあなたと気が合うと思ってるの」梨花はそれを受け取った。「ありがとう」菜々子が黒川グループの中でとても信頼されていることは、見ていてよくわかる。こういう人には、きちんと礼を示しておくのが大人のマナーだ。夕方が近づいてきた頃、突然受付スタッフが現れ、少し茶化した調子で声をかけてきた。「梨花さん、ご主人が迎えに来られてますよ」「ご主人?」「はい。ご自身で鈴木一真と名乗られてました」梨花は一瞬きょとんとした。一真は一体どういうつもりなのか。「少し待っててもらって。手が空いたら出るわ」手元の業務を片付け、ようやく外へ出る。そこには、グレーのスリーピーススーツを纏った一真が、ソファに腰掛け、仕事の電話をしながら落ち着いた様子で待っていた。彼女の視線に気づいたのか、男は目を上げ、穏やかに微笑んだ。電話を切ると、立ち上がって近づいてくる。「終わった?」相変わら
梨花は二人の警察官を連れて監視室へ向かった。すでに和也が先に到着して待っていた。警察がモニターの映像を確認すると、表情が何度も変わった。「奥さん、少々お待ちいただけますか......」「はい」梨花が穏やかに答えると、警察の一人が廊下に出て、どこかに電話をかけた。やがて戻ってきて、梨花に向き直る。「奥さん、事件は取り下げとなりました。監視映像のコピーも......今回は不要とのことです」誰の意向かは、言わずとも明らかだった。和也は予想外の結末に驚いていた。まさか一真がここまで理性を失うとは思ってもみなかった。これで先生の言葉がますます真実味を帯びた。あの男は、最初から最後まで梨花にはふさわしくない、と。梨花自身は、まったく驚かなかった。「わかりました。そうだ、桃子を名誉毀損で訴えることはできますか?」「奥さん......」警察は少し困った顔をしながらも、職務上の誠意で答えた。「その......立件は難しいかもしれません」何が原因で難しいのか、梨花は深く詮索しようとしなかった。笑ってうなずき、「今日はお手数おかけしました」とだけ返した。和也が警察を見送る中、梨花はしばらく監視室に残り、気持ちを整えてから診察室へ戻り、着替えて黒川グループの研究所へ向かおうとした。だがその間に、病院ではある噂が一気に爆発していた。桃子が「愛人」だったという真相があっという間に広まったのだ。診察室の前には、すでに何人ものスタッフが彼女を待っていた。先頭に立っていたのは、朝に異動を言い渡されたあの若い看護師だった。彼女は申し訳なさそうに、けれどしっかりとした声で言った。「梨花先生、ごめんなさい......桃子さんがずっと事実を捻じ曲げて、私たちを誤解させてたなんて、全然気づきませんでした......」その言葉をきっかけに、周囲の看護師たちにも怒りが広がる。ちょうどそのとき、険しい顔をした桃子が廊下を通りかかった。誰かが皮肉を込めて吐き捨てた。「いやあ、今の時代は図々しければ何でもアリなんだな。愛人でも平気な顔して正妻ぶれるんだもん。梨花先生、ほんとにごめんなさい。私たち、あなたのこと疑って......」ようやく梨花は全体の流れを把握した。どうやら、今日警察が来たことで
Mga Comments