長年の恋人に裏切られ、夢も居場所も一瞬で失った大学生の寧々。 絶望のどん底にいた彼女の前に現れたのは……幼なじみで人気モデルの神崎律だった。 「もし良かったら、一緒に住むか?」 律の突然の提案とともに、寧々は都心の超高級マンションへ。そこで始まったのは、誰にも秘密の同居生活。 完璧な優しさ、独占するような視線、触れたら戻れなくなる距離感……。 けれど、律の瞳の奥に隠されていたのは、昔から寧々にだけ向けられた、甘く危険な執着だった。 「大丈夫だ、寧々。これからは、俺がいるから」 二人の幼なじみが織りなす、甘く切ない再会の物語──。
View More彼氏がおかしいと初めて感じたのは、彼を迎えにバスケコートへ行ったときだった。
金曜の午後。私、
私と拓哉は高校時代からの同級生で、その頃からずっと付き合っている。
同じ大学に進学するのと同時に彼と始めた同棲は、この春でもう丸2年になる。
拓哉の練習が終わったら校門前のカフェで待ち合わせをして、一緒に帰るのがいつものルーティンだった。
『大学を卒業したら、結婚しよう』
拓哉とそう約束した私は、毎週金曜日のこの流れを欠かしたことは一度もなかった。
この幸せが、これからもずっと続くと思っていたのに……。
***
今日はゼミが30分早く終わったので、私はそのままバスケコートへ向かった。
肌寒さの残る春風が、私の頬をそっと撫でていく。
夕暮れに染まり始めた空の下、バスケコートの周りには練習を見守る学生たちが大勢集まり、活気に満ちていた。
私は人波の一番外側に立ち、時折、人混みの間から拓哉の姿を探した。
「拓哉、どこだろう……」
探し求めた彼の姿を見つけた途端、胸の奥がきゅっと締めつけられるような甘い痛みを感じた。
彼のしなやかな動き、真剣な眼差し。やっぱり、拓哉はどこから見てもかっこいい。
しばらく彼を見つめていると、私のすぐ前にいた二人の女子が、甲高い声で話し始めた。
「拓哉くん、今日もかっこいいねー!」
左の背の低い子が夢見心地な声で言うと、右の茶髪の子が興奮気味に頷いた。
「うんうん!さっきのスリーポイント、ジャンプしたとき胸筋見えたのやばかった!」
彼女たちは確か、いつも拓哉を追いかけている熱烈なファンだったはずだ。
すると、左の子が斜め前を指さし、さらに声を弾ませた。
「莉緒ちゃん、今日もめっちゃ可愛い~」
右の茶髪の子もすぐさま同意する。
「ほんとほんと。拓哉くんと並んでるとマジでお似合い!バスケ部のキャプテンとチア部のリーダーとか、漫画みたいだよね!」
彼女たちの視線の先にいたのは、
山下さんは透き通るような白い肌に、肩まで伸ばした黒髪がよく似合う、清楚な雰囲気の女の子だ。私や拓哉と同じ学年で、時々キャンパスでも見かける顔だった。
チア部の衣装に身を包んだ彼女は他の部員たちと一緒に、コートの端で拓哉の動きに合わせて、軽やかに手拍子を打ち、時折、小さく跳ねながら熱心に応援していた。
山下さんは瞬きもせず、コートの中でボールを追う拓哉を真っ直ぐに見つめている。
先ほどの華麗なスリーポイントシュートに興奮したのか、頬をほんのりと赤らめている。その表情は、まるで恋する乙女そのものだった。
拓哉が彼女たちの前を通り過ぎるとき、ふと足を止め、持っていたバスケットボールを投げ渡すような仕草をした。
もちろん、実際に投げたわけではないけれど……
「わーっ!」
その一連の動作に、周囲の観客たちからは興奮したような歓声が上がった。
まもなくハーフタイムになり、選手たちが休憩に入る。私は拓哉のもとへ歩み寄ろうか、一瞬迷った。
しかし、その躊躇いよりも早く、山下さんが小走りに拓哉へと駆け寄っていくのが見えた。
「拓哉くん、お疲れ様!はい、これ」
彼女は目を輝かせながら、冷たい炭酸水のペットボトルを拓哉に差し出した。
「サンキュー」
拓哉は爽やかな笑顔でそれを受け取り、ゴクゴクと一気に飲み干す。
その光景を見た瞬間、私の胸に冷たいものが広がった。
いつも拓哉が練習後に飲むのは、甘くないレモン水だったはずだ。
それなのに、炭酸水?しかも、あの嬉しそうな笑顔は何なの?私の心臓が、ざわりと波立つ。
バスケ部員たちの熱気と、観客たちの盛り上がる声が遠のいていく。
「まさか……いや、ありえないよね」
そう自分に言い聞かせようとしても、募る不安に足元がぐらついた。
私はその場に立ち尽くすこともできず、背を向けて校門前のカフェへと足を進めた。
冷たい風が頬を撫でるけれど、私の心の熱が冷めることはなかった。
「寧々、声が震えてるぞ。無理してないか?何かあったら、すぐに俺に話せ」彼の鋭い観察眼は、画面越しでも私の異変を見抜いてしまう。「ううん、大丈夫だよ」私は必死に笑顔を作る。「律こそ、ちゃんとご飯食べてる?疲れてない?」私は話題を逸らそうとしたが、律は納得していない表情だった。「俺のことはいい。寧々のことが心配なんだ」律の声に、いつも以上の優しさが込められていた。「最近、様子がおかしい。電話の声も、メッセージの文面も……寧々、俺に何か隠してないか?」私は言葉に詰まりそうになった。律に心配をかけたくない。でも、嘘をつき続けるのも辛い。「寧々」律が画面越しに、私の名前を呼ぶ。「一人で抱え込むな。俺は、いつだって君の味方だ」その言葉に、涙がこみ上げてきた。「どんなことでも、俺に話してほしい。君が苦しんでいるのを見ると、俺は何も手につかないんだ」律の優しい声に、思わず涙があふれそうになった。でも、カメラに映らないよう、必死に涙を拭った。「本当に大丈夫?」「うん……卒論の準備で、ちょっと疲れているだけ」私はかろうじて、そう答えた。「無理せず、いつでも頼ってくれよ。どんな時でも、俺がそばにいるから」「ありがとう、律」私は、精一杯の笑顔を見せた。「律の声を聞いたら、元気が出たよ。本当にありがとう」それは、嘘偽りない気持ちだった。律の声を聞いているだけで、不思議と安心できた。通話が終わったあと、私は一人でソファに崩れ込んだ。律の優しさに触れて一瞬安堵したが、同時に彼に本当のことを話せないもどかしさが襲ってきた。本当のことを話せない辛さ。一人でこの困難を乗り越えなければならない孤独感に、胸が張り裂けそうになった。でも、律に心配をかけるわけにはいかなかった。遠い異国で、夢に向かって必死に頑張っている彼に、
それから数日後、大学から突然連絡があった。「一条さん、学生課まで来てもらえますか」電話の向こうの事務員さんの声は、いつもより重々しかった。翌日、学生課を訪れると、課長が深刻な表情で私を迎えた。「一条さん、実はあなたについて告発文が届いているんです」「告発文?」私は驚いて聞き返した。「内容は……」課長が読み上げた告発文の内容に、私は愕然とした。「文学部の一条寧々氏は、A大学の品位を著しく損なう行為を行っている可能性があります。特定の著名人との親密な関係を、SNS上で不適切に示唆する行動が見受けられ……」私はSNSで、律との関係を公にしたことなど一度もない。むしろ、細心の注意を払って秘密にしてきた。「これは、事実ではありません」「そうですね……実際、調べてみましたが、あなたのSNSにそのような投稿は見当たりませんでした」課長も困惑している様子だった。「ただ、こうした告発がある以上、形式的にでも調査せざるを得ないのです」「そんな……」「卒業論文の提出も控えていることですし、今後の動向によっては単位取得に影響する可能性もあります」頭が真っ白になった。もし単位が取れなかったら、卒業できない。大学を出ると、足元がふらついた。これも、きっと沙羅さんの仕業だ。私を大学から、律から、すべてから引き離そうとしている。***嫌がらせは、日に日にエスカレートしていった。ある夜。大学からの帰り道、人通りの少ない住宅街を一人で歩いていると、後ろから車のエンジン音が近づいてきた。最初は、単なる車の走行音だと思っていた。でも、その音は私の背後にぴたりと寄り添い、決して追い越さない。嫌な予感がして、歩くペースを速めた。すると、車も同じように速度を上げた。心臓がドクンと大きく鳴る。今度、私は立ち止まってみた。すると、車もエンジンを静かに響かせながら、ぴったりと止まった。「……っ」私は息を
翌週、私がバイトをしている大学近くのカフェで、奇妙なことが起こり始めた。その日は平日の午後、比較的忙しい時間帯だった。私がレジでオーダーを取っていると、ひとりの女性客が入店してきた。地味なベージュのカーディガン、黒縁の眼鏡、深くかぶった帽子、大きなマスク。完全に変装した格好で、顔はほとんど見えない。でも、その立ち振る舞いには、なぜか気品を感じた。「いらっしゃいませ」私が笑顔で迎えると、その女性は私の前に立った。「メニューを見せて」声は低めで、意図的に声質を変えているようにも聞こえた。私がメニューを差し出すと、彼女は異常なほど時間をかけて見始めた。「このブレンドのコーヒー豆の産地は?焙煎日は?」「エスプレッソの濃さは調整できる?」「このケーキの甘さはどの程度?」「アレルギー対応は、どこまでできるの?」質問が延々と続く。他のお客様が後ろに並んでいるのに、彼女は一向に注文を決めない。「少々お待ちください。確認してまいります」私が厨房に確認に行くと、戻ってきた時にはさらに追加の質問が待っていた。「やっぱり、さっきのとは違うものにするわ」ようやく決まったと思った矢先、彼女は注文を変更した。「アイスラテをホットに。いや、アイスカフェオレに変更で。いえ、やっぱり最初のラテで」後ろに並んでいたお客様たちの視線が、だんだん厳しくなってくるのがわかった。注文をお渡しすると、今度は商品に対するクレームが始まった。「このラテアート、崩れてるじゃない」確かに泡が少し崩れていたが、通常なら気にならない程度だった。「申し訳ありません。作り直しいたします」作り直したラテをお持ちすると、今度は別のクレームだった。「注文したケーキと、違うものが来てるんだけど?」私は確認したが、注文通りのケーキだった。でも、彼女は納得しない。「プロ意識が低いわね」「こんなに時間がかかって、
梅雨入りした東京は、どんよりとした雲に覆われていた。6月に入り、律がニューヨークに発ってから既に4か月が過ぎている。私は相変わらず律のマンションで一人暮らしを続けていたが、最近になって妙な違和感を覚えることが多くなっていた。最初は気のせいだと思っていた。でも、大学からの帰り道、コンビニで買い物をしている時、カフェでバイトをしている時──いつも、誰かに見られているような感覚が拭えなかった。そんなある日。スマートフォンでSNSを見ていると、見覚えのあるアカウントが目に止まった。人気モデル・天野沙羅さんの投稿だった。『彼の隣は、私だけの場所。邪魔な存在は、容赦なく排除する。』私の心臓が激しく鼓動した。これって、私への当てつけ……?もしかして、沙羅さんが私のことを……。震える指を動かしながら、さらに遡って沙羅さんの投稿を見た。『本物の愛は、試練を乗り越えてこそ証明される。偽物は、すぐに馬脚を現す。』『運命の人は、必ず私のもとに戻ってくる。雑音に惑わされることはない。』どの投稿も、まるで私に向けられているかのような内容だった。考えすぎかもしれない。でも、律と私の関係を知っているのは、限られた人だけのはず。それなのに、まるで私の存在を知っているかのような投稿内容に寒気がして、スマートフォンを置いた。***ある日の夕方、友達の彩乃から電話がかかってきた。「寧々?ちょっと変な話なんだけど……」彩乃の声は、いつもの明るさとは違っていた。「どうしたの?」「さっき、知らない人から電話があって……寧々と律くんの関係について聞かれたの」私の心臓がどくんと跳ね上がった。「え?」「女の人で、すごく上品な話し方だったんだけど、『一条寧々さんと神崎律さんの関係について、詳しいことを教えていただけませんか?』って。私、気持ち悪くて切っちゃったんだけど……」スマホを持つ手が震えた。「美郷にも、同じような連絡があったって聞いたよ」「うそ、美郷にも!?」
週末、久しぶりに彩乃と美郷に会った。渋谷のカフェで、三人並んでソファに座る。「寧々、痩せた?」美郷が心配そうに私の顔を覗き込む。「ちょっと……食欲なくて」「ダメじゃない。体が資本なのに」彩乃がフレンチトーストを私の前に置いた。「はい、これ食べて」「ありがとう……」久しぶりに甘いものを口にすると、少し気持ちが和らいだ。「それで、就活はどんな感じなの?」美郷が穏やかに聞いてくる。「全然ダメ。面接まではいくんだけど、そこで落ちちゃう。自分の何がいけないのか分からなくて」「寧々の文章、私は好きだけどな」彩乃が真剣な表情で言った。「大学の文芸サークルで書いてた小説も、すごく良かったし。寧々の文章には、人を惹きつける力があるんだから」「そうよ」美郷も頷く。「焦らなくていいから、寧々らしく頑張ればきっと道は開けるよ。寧々なら、きっと素敵な編集者になれる」二人の温かい言葉に、胸が熱くなった。「ありがとう……二人がいてくれて良かった」「当たり前でしょ」彩乃が私の肩を抱く。「友達なんだから」「そういえば、律くんは元気?」美郷が聞いてきた。「うん、ニューヨークで頑張ってる。でも……」私は少し言葉を濁した。「寂しいでしょ?」彩乃が察してくれる。「うん、すごく。でも、律も頑張ってるから、私も頑張らないと」「偉いね、寧々」美郷が微笑む。「でも、たまには甘えてもいいのよ。一人で抱え込まないで」友達の優しさが、心に沁みた。***家に帰ってから、私は律にメッセージを送った。『今日、彩乃と美郷に会ったよ。就活のこと、相談して励まされた。友達っていいなって、改めて思った。律も、体に気をつけて頑張ってね』すると、すぐに
3月に入ると、律から送られてくる写真で、彼の新しい生活の様子が少しずつ分かってきた。ニューヨークの街並み、撮影現場の様子、現地のスタッフたちとの食事会。どの写真も、律が充実していることを物語っていた。でも同時に、律からのメッセージには時々、寂しさが滲んでいた。『ニューヨークは美しい街だけど、寧々がいないとやっぱり寂しい』『今日は撮影が大変だった。寧々の声が聞きたい』『寧々からのメッセージが、一日の楽しみになってる』律のそんな言葉を読むたび、私の胸が温かくなった。私も同じ気持ちだった。私は律に、毎日のように長いメッセージを送った。『律がいないと、こんなに寂しいんだって初めて知ったよ。でも、律の夢を応援したいから、私も頑張るね。私も律に負けないくらい、素敵な自分になりたい。私も、あなたの隣に相応しい人間になりたいから』そんな素直な気持ちを、恥ずかしがらずに言葉にした。律が遠くにいるからこそ、伝えたいことがたくさんあった。***4月。大学4年生になると同時に、就職活動が本格的に始まった。私の第1志望は、大手出版社の編集部。でも、倍率は非常に高く、狭き門だということは理解していた。最初の面接は、中堅出版社だった。スーツに身を包み、緊張しながら面接会場に向かう。「一条さんは、なぜ出版業界を志望されたのですか?」面接官に冷たく質問を浴びせられる。「文学の魅力を、より多くの人に伝えたいからです。特に、電子書籍の普及により、読書体験も多様化していて——」「ありきたりですね。もっと具体的な企画はありますか?」私は言葉に詰まった。頭が真っ白になって、準備していた答えが出てこない。「若い世代に向けた……」「それも、どこでも聞く内容ですね」面接官のため息が聞こえた気がして、私の心臓が激しく鼓動した。結果は、お祈りメールだった。『この度は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。慎重に検討させていただいた結果……』
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