第四話「大切な場所」
夏休みは第三週に入った。
ベニヤ板から切り出した各パーツごとに、やすりをかけて、再度、秩父神社の細部と比較するために、大地とまた写真を撮りに行く。尊に電話したが「今日は忙しい」とのことだった。
お盆前の週末は、秩父神社を訪れる観光バスツアー客で、お祭りの日みたいだった。
授与所付近から拝殿を撮っていたが、御朱印を求める人の列の邪魔にならないように気を配った。長らく待たされている列の後方で聞こえよがしに「まだぁ?」「おっせぇよ」と騒ぎ立てはじめた。巫女が「三十分まちです」と知らせに走っていた。
「本当に三十分なの? バスの迎えの時間がきちゃうじゃない。もっと早くならないの?」
待ちきれないのか巫女に詰め寄っている。大地が苛ついた声で「なに、あれ。御朱印ブーム滅びろ」物騒なことを言い出す。
「せっかく神社に来たのに、あんな行動するって、残念」
颯太が言うと、大地が思い出すように目線を宙に向けて
「うちの親父が子供の頃、カードゲームが流行ったらしくてさ、御朱印も、レアカードをコンプリートする感覚で集めているんじゃない? だいたいその世代」
そう言って列に並んでる大人たちを見て
「心構えが何か違うよね」
と付け加えた。
「うん、嫌な気分になるね」
颯太も同意する。
「来週はお盆で、写真は上手く撮れないだろうから、前に撮った写真で出来るところから進めておこう」
颯太が提案すると、大地が「そうだね」と答え、この人ゴミを縫って歩き出す。歩きながら大地が忌々しそうに毒づいた。
「パワースポットとか言ってるやつら、死滅しろ」
颯太も、地元の神社が踏み荒らされて、憎しみに近い怒りが湧いたが、言葉には出さずに飲み込んだ。
お盆中は大地が颯太の家に来て、ひたすら二人でパーツにアクリル絵具で着色作業をしていた。無言でいても気まずくならない関係は気楽だった。
お盆も後半になり、ほぼパーツも着色し終えた頃。大地が急に大声を出した。
「あ! 奥の額殿と天神地祇社の写真を撮ってなかった!」
「あー……区切りのいいところで、お昼食べてから撮りに行くのでもいいんじゃない」
「そうだな、午後のほうが人も少ないだろうしな」
「そうめん茹でるからテーブル片付けて待て」
「えー。またそうめんかよ。毎日食ってる」
「簡単でいいだろう。文句を言うなよ」
颯太が台所に立つ。
「颯太、喉渇いた」
「冷蔵庫の麦茶、勝手に飲んでいいから」
大地にコップを手渡す。
「そう言えば、颯太の両親は? 休みじゃねぇの?」
「旅行に行ってる。ぼくは行きたくないから留守番」
「ほー。何で行きたくないの?」
「電車とか飛行機とか閉じ込められたところに行くと飛び降りたくなるから」
「えっ? ……ちょっと意味が分からない」
「自動車でも高速で渋滞になったら飛出したくなる」
「どうして?」
「どうしても。そうめんできたよ。テーブル片付けてくれた?」
「あっ」
「あ、じゃないよ。しょうがないな」
颯太はテーブルに広がる着色済のベニヤ板のパーツをプラケースに移して、テーブルの真ん中にスペースを作り、ざるに盛ったそうめんと、めんつゆを入れた茶わんを置く。テーブルを挟んで大地と向かい合い、そうめんをすすった。大地の食欲が旺盛で、颯太が食べる速度の倍のペースでそうめんを平らげた。シンクにざると茶わん、鍋を水に浸して後で洗うことにした。
少しだけ食休みをして、尊に電話してから、秩父神社へ向かう。時計は午後一時をさしていた。
第十一話「清香の未来」 川底に映る家はすっかりリフォームされて、ケイタが見慣れた自宅の面影は、ほとんど残っていなかった。それに表札も『日野原』から『月神』に変わっていた。一緒に川底を見ていた猿面が「よりによってツキガミとは……」とケイタの隣で独り言を言う。 川底のその家に、ひっきりなしにケイタの知らない人たちが出入りするようになり、人々が閑静な住宅地に列をなした。並んでいる人々に、整理券を配る白い割烹着姿の女性が現れた。もちろんケイタはこの女性が誰なのか心当たりはなかったし、知り合いにもいなかった。 車が細い道路を埋めて、近所の住人が割烹着姿の女性に「こんな細い道で渋滞したら生活に支障がでるからどうにかしてくれ」 と猛抗議していた。ケイタの自宅の付近に大きな駐車場はない。割烹着姿の女性が玄関に入っていく後ろ姿を追うように、川底の景色が動いた。女性の肩越しにみえた清香の身なりに、ケイタは目を見張った。よく手入れされたツヤツヤの黒髪は真っ直ぐに肩の下まで伸ばし、目尻にあった小さな皺も、口元も額も、アイロンでもかけたようにピンとしていて、それなのに造花のような印象と、険しい表情が、ケイタの知る清香とは別人だった。服装もヨレなどなく、洗濯物を干すときにテキトーにハンガーにかけていたズボラな清香が、自力でこんな綺麗な服装ができるわけがなかった。「清香さん、周辺の方々から苦情が……」 言いかけた女性に、冷たく「知っているわ」 清香が言い放つ。「これからは一日一組、予約が取れた方だけにしましょう。広がりすぎたわ。悪いけど、明日から断ってちょうだい。真田さん、よろしね」 真田、と呼ばれた割烹着姿の女性は、清香に、頭を静かにさ下げた。清香が自室に戻ったのを確認して、真田が家事をし始める。清香の身の周りの世話を真田がしているようだ。真田の肩越しの景色が続く。父が使っていた書斎のドアを真田が開けた。 あの部屋はケイタが覚えている
第十話「猿面の問い」「たまたま秩父神社が千社目だったと思うかどうかは、君の勝手だが、我が主様だけでなく、他の御柱様方が君の行動を目に余ると仰せでね。君と、二人のあの子供たちの力の半分を、君の母親が望む力として与える裁決をなされた。どういうことだか、わかるか?」 猿面が揺るぎのない声で淡々とケイタに告げた。「神々を甘く見ていたな?」 愕然とした。ケイタは自分の足元に手をついてへたり込んでしまう。「『ぼくが望んでしたことじゃない』とでも言い訳してみるか?」 頭の中が真っ白になる。なんとかケイタは声を絞りだした。「それはつまり、ぼくたちから力を奪ってお母さんの願いを叶える、ということ?」 猿面が沈黙で肯定する。「あの二人は関係ないだろ!」 ケイタは足元の拳を強く握りしめて震える。「我が主様のご聖断は人智の及ぶものではない」 猿面が静かにつづける。「まだ終わりではないよ。人の望みには果てがない。君の母親が望む力を得た先で、さらに何をしようとしているのか、見ておくといい」 猿面が、また川面をそっとかき回した。「君の母親の本心を映した世界をみてみよう」 猿面の持ったホウズキが川底を照らすと、ぼぅ……とケイタの母の姿が見えてくる。猿面が言う。「こことも違う川底の世界は、人の世とも違う狭間の世界。望むものを何でも得られるが、甘い言葉で欺きあう世界よ。君の母親が身を置きたいと願うのは綿菓子のように甘い世界。周囲の人間が望む言葉をくれ、何をしても褒めてくれる」 じっと猿面が川底の世界を見つめる。「君の母親はこれから、川底の世界が人の世に戻ってもつづく。本人にとっては幸せな偽りの世界が待っている」 ケイタも川底を息を詰め、そこに流れる場面を見ていた。「いつ気づくかな」 猿面はため息をつくように独り言を呟いた。 川底を流れる場面が、ケイタが住んでいる家の玄関前を映した。でも、違和感があった。そこに浮かび上がったのは、母と、身なりの上品な老夫婦だった。夫人のほうが母にお礼を言っている。テッポウユリから音声が聞こえる。母が笑顔で老夫婦に告げた。「私の言う通りにしていれば間違いありませんよ。何しろ『神様からのメッセージ』ですから。大難を小難に、小難を無難にするためのお力ですので」 ケイタが耳を疑う。『神様からのメッセージ』 母が何万回も口に
第九話「願望」 ケイタは混乱して叫びだしそうになる。記憶から抹消していたのは、写真館だけではなかった。そこから紐づいて思い出したのは、父が家を出ていったとき。母が、父が写っている写真を燃やして、父の荷物をすべて処分して、ケイタが買ってもらったトイカメラを母が取り上げ床に何度も叩きつけたあと不燃ごみとして捨ててしまった。ケイタがどんなに泣いて止めても母の怒りはおさまらない。トイカメラは戻ってこない。写真屋さんになりたかったことも、固く心の底に封じこんだ。思い出したくもなかった思い出を。頭の中が整理できない。動けなかった。「ここまで過去を見てきた君は、誰かを悪者にすれば気が済むか?」 後ろから声をかけられて、ケイタの体が跳ねる。振り返ると猿面が立っていた。「誰かは誰かの悪者で、その悪者から見た誰かも悪者になる。だが人は、自分が悪者として行動している自覚はない。意識的に悪者を演じているやつを別にして、自分が誰かの悪者になっているとはまったく考えない。なのに自分が正義をふるうときだけ自覚的だ。誰にとっても悪者にならない人間なんていないのにね」 猿面が淡々と語る。「ただ己の道理に合わない者を悪者にし、敵とみなす。善人に見える人間でさえ、誰かの道理に合わなければ、誰かの敵だ」猿面がため息をつく。どうも猿面の言うことは理屈っぽくて回りくどい。「何もしていなくても?」 ケイタの問いに「何もしていないからこそ悪者だ、敵だ、と攻撃的になるやつもいる。君の母親が言っていただろう? 君の父親に」「あ……」 舞台で女面が言っていた。『いつも何もしない癖にこんなときばっかり、父親ぶるのね』思い当たったケイタの表情を見て猿面が続ける。「君の母親が『ありがとう』と言っていた記憶が、君の中に存在しているか?」 ケイタは少し考え、記憶をたどる。「ない。言われたこと、ない」「何をしてもらっても、当然と思っているから、『ありがとう』なんて思わない。やってもらったことすらも、悪意で捉えて攻撃的になる。どんなことをしても気に入らないんだから、君の父親が何もしなくなる訳だよね。それすら君の母親は気に入らない。じゃあ、何をしてもらえば感謝するのか。何を与えられたら感謝するのか。君の母親に聞いてみたいよね? 君の母親が心から『ありがとう』って言うのは、どんな瞬間で、本当の望み
第八話「写真館」「君が、一番したかったことを教えて」 ケイタは首を横に振った。「したいことなんてない」 猿面が続けて問う。「神様の声を聞くことがやりたかったの? 本当は何になりたかったの? 何をしたかったの?」 ケイタは手で両耳をふさいだ。「わからない」「思い出して。母親が君にさせたいことではなくて、なりたいものがあったはず。このままだと自分がしたかったことすら思い出せず、『自分に向いていることは何ですか』と他人に聞いて回る大人になってしまうよ」 猿面が言うように、ケイタのもとにも同じような質問をしてくる大人がいた。「私に向いている仕事を神様に聞いてください」と聞かれたことが何度もあった。そのたびにケイタは同じ答えを返した。「思わぬ巡りあわせが待っている。タイミングが来れば神様がサインを送ってくれる」ケイタに聞かれても具体策などわからない。神様に聞いても応えてくれたことなどない。それでも食い下がってくる大人には「得意なことを活かせる環境を作るといい。努力せずに出来ることがあなたの天職だ」そう答え、どんな仕事かは口にしない。明確に自分の中に正解を持っていて、それを言い当てて欲しい人は、神様から成功を保証してもらいたいのが透けて見える。疑いの目で見ている大人は大体ここで離脱する。「私の得意なことってなんでしょうか。何もないんです」さらにこんな質問をしてくる大人も何人もいた。「あなたが子供の時の文集を見てみればいい。あなたの中に住んでいる子供は知っているはず」と告げ明言はしない。小学生のケイタから見ると、文集に書く『将来のなりたい職業』なんて、なんとなくクラスの空気を読んで、様子を見ながら流行ってそうな職業を書いているだけで、十年後二十年後の自分が見て就職や転職のヒントになんてならないだろう。猿面はケイタの思っていることを読み取ったように、「で、君も自分が何になりたいかを他人に聞くのか? 他人が君の答えを知るわけないだろ。君自身のことなんだ。他人からもらった答えを真に受けて先々『こんなはずじゃなかった』って、また誰かのせいにするの? 後悔するのは自分で決めなかったからだよね?」「ぼくの意思を曲げられて決まってしまっていることなら仕方ないじゃないか! 子供は親に気に入られなければ生きていけないんだ! 親が勝手に決めてしまうなら対抗のしようがない
第七話「異界の神楽」 女面が、よく通る声で言う。「私の『お役目』はケイタを通じて神様の言葉を、人々に伝えてゆくこと。この子は特別な才能がある選ばれた子。神様の声を聞ける子なのよ」 不安定な笛と笙の音が混じりあって、女面の泣き声のようになり、ケイタの聴覚を刺してくる。男面が姿勢を伸ばして舞台の真ん中で、ぐっと顔をあげた。「そうやってお前は何でも目に見えないものや霊のせいにしていれば、自分をかえりみなくてもいい免罪符にして、現実や問題から逃げているだけだ。自分の行いを反省しなくていいのはラクだからな」 鋭利な言葉に母は項垂れ、その記憶の光景がケイタをまた刺した。男面が明かりの届かない奥に消えていく。あの日、父は出て行ってしまった。ケイタが神様の声を聞いたから、家族が壊れてしまった。 過去をなぞり、ケイタは舞台から目を背けようとした。女面がさらに泣き崩れ、神楽囃子はどんどん激しくなっていく。床に伏せた女面が次に顔をあげたとき、その顔は鬼面に変わっていた。恨めしそうに、男面が消えていった暗がりに向かって拳を床に叩きつける。ケイタは息を止めた。「なぜあなたは信じない。あなたは神様の声に反したことをしているのよ」 舞台奥の暗がりに体を向きなおらせた鬼面は、男面を呪うような口調で続ける。「私たちは選ばれたのよ、ケイタの存在によって。あなたが間違っていることを思い知らせてやるわ」 鬼面の低い声が地を這うように、それを見ていたケイタに絡みつく。鬼面は、舞台に残された猿面を優しくうやうやしく撫でる。「私の元にはケイタがいるもの、神様の声を降ろす特別な力を持つこの子が。選ばれたのよ、私たち」 そう言うと、猿面の頭を自分の膝の上に乗せた。神楽囃子は打って変わって細い笛の音だけになり、猿面が体を丸めると、音が消えていく。神楽殿を照らしていた四隅の蠟燭も消えた。ケイタは呆然とした。いま、何を見せられていた? ケイタの記憶にない場面が再現されて
第六話「境内の紗幕」 境内の周囲の景色の色がなくなり、真昼なのに薄暗くなっていく。玉砂利の音もたてず、巫女がグラスを四つ乗せたお盆をもって近づいてきた。ケイタの母にオレンジジュースを、ケイタにはコーラを、颯太と大地には麦茶を手渡してきた。巫女はケイタに向かって低い声で言った。『お主の言葉通り歓迎しに来てやったぞ。さぁ、飲め』 巫女の雰囲気が威圧感に満ちる。すぅ、とケイタの母に目線を移した。気圧されたようにケイタの母が、グラスに口をつけ飲み干す。 ゆっくりとケイタの母の色がなくなっていき、薄暗いあたりの景色に同化した。 まだ色があるのは、ケイタ、大地、颯太と巫女だけで、その他の大人は色のない世界にはじき出されていた。大地が不安げに「これ、飲むと俺たち、どうなるんだ」 と呟く。すると巫女は『怖れることはない。こちらの境界線と知らずに触れたお主らの半分を置いていってもらうだけだ。それも人として生きるには問題ない程度よ。お主ら、戻りたければ、それを飲め。禁忌を犯した者どもは、今、蚊帳の外だ。こちらに近づき過ぎたお主らが戻るには必要なこと。外の世界では瞬きする間の出来事よ』「半分、って何を置いてくんだ」 颯太は訊ねる。『人の世に不要なものを置いていってもらうだけのこと』 表情がないまま巫女が告げた。大地と颯太はケイタと目を合わせ、どうしても飲まなければここから解放さらないと悟り、グラスの中身をグッと飲んだ。颯太の喉を麦茶が通り過ぎ体内に入った瞬間、眩暈を感じた。ぐにゃりと視界が歪み、奈落の底へ落ちていくような引力で、意識が何か引き込まれる。 暗闇の中にケイタがいた。颯太の隣には大地の存在がいるのがわかり、ほっとする。 トンネルの中だろうか……遥か先に光が見える。 ケイタがトンネルの出口に向かって歩いて行く。その後を颯太は追いかけた。大地も颯太についてくる。 トンネルを抜けると光が眩しくて目を開けていられない。 しばらくすると光の強さに慣れてきて、かたく閉じた瞼を颯太は、ゆっくり開けた。 光は強く輝きながら颯太と大地を包んでいた。 ケイタがいたのは、強い輝きの向こう側、鬱蒼とした森の手前だった。※ ※ ※ ※『人の世事は人が成すもの……』 ケイタの目の前の森から、さっきの巫女の声が聞こえてきた。『鎮守の森は異界と人の世の堺目。こち