創業百年の老舗洋食店を守るため、一千万円の借金返済に追われた料理人・緑竹伊織に、幼馴染で大成功実業家の三成一矢が「契約結婚」を提案。条件は“俺の専用=嫁になれ”。反発しつつも、昔から彼を想い続けていた伊織は葛藤の末に承諾する。 ――でもこれは、いずれ別れる前提の偽装婚。溺愛されるたびに高鳴る恋心は止められなくて…!?
もっと見る「「あっ……」」 私と中松は、ほぼ同時に驚きの声をあげ、一斉に声の主へと顔を向ける。 「これはこれは一矢様、お帰りに気づかず、大変失礼いたしました」 珍しく中松が慌てふためいた様子で深く頭を下げた。その姿は日頃の冷静沈着な態度からは想像もつかないほど狼狽しており――ふふ、内心で思わずニヤリとしてしまった。 こんなふうに中松が動揺するところを見るのは初めて。 主人(ニセだけど)に詫びるその姿は、まさに嫁(ニセだけど)としてはちょっぴり愉快だった。「一矢様、インターフォンはお鳴らしにならなかったのでしょうか? 玄関にてお出迎えができず、私としたことが大変申し訳ございません」「いや、インターフォンは鳴らしていない。我が“妻”がどのように修行を積んでいるのか、その様子を少しばかり見てみたくなってな。セキュリティを自ら解除して、静かに入ってきた」「左様でございましたか。まさかそのようなお考えとは露知らず……。一矢様のご意向を先に確認すべきでした。改めて、深くお詫び申し上げます」 中松はすぐさま態度を改め、完璧にスマートな所作で再び頭を下げた。そして、私の方にチラリと視線を送る。無言で訴えかけているその眼差しに気づき、私は慌てて一歩前に出た。 「お、お帰りなさいませ、一矢様」 挨拶が少し遅れてしまった。普段の私なら、ゆるめのTシャツに気楽なトップス、下はゴムの入った楽なズボンというのが定番スタイル。お洒落をするのは家族で外食するときか、仲の良い友人たちと街に繰り出すときくらいだった。 そんな私が今身につけているのは、薄いピンク色の上品なワンピース。襟元と袖には繊細なレースが施されており、丈は膝下まである。全長はおよそ百二十センチほど。柔らかく広がるふんわりとしたフォルムは、まさに“お嬢様”そのものの装いだ。 もちろん、この衣装は中松が私の“ニセ嫁修行”の一環として用意してくれたもの。一矢の
あれから、いわゆる“ニセ嫁修行”なるものを懸命にこなしていたのだけれど――すでに心身ともに限界を迎えつつある。全身に疲労がまとわりついて離れず、まさに疲労困憊の極みに達していた。体力的にも精神的にも限界。もう無理。鬼のような修行に音を上げそうだった。 修行初日だというのに、この仕打ち。気力はあったはずなのに、始まってみれば予想を遥かに超える過酷さ。想像していたよりも何倍もキツすぎた。いきなり心が折れかけている自分に情けなさを覚える。 きつく締め付けられたコルセットのおかげで、辛うじて姿勢は保たれていたものの――その苦しさは想像を絶していた。息を吸うだけでも胸が締めつけられ、少しでも姿勢が乱れようものなら、すぐさま“鬼”中松の冷たい嫌味が容赦なく飛んでくる。まるで呼吸する隙さえ与えてもらえない。油断なんて、もってのほか。片時も気を抜けない、まさに戦場のような修行時間だった。 テーブルマナーに始まり、話し方や言葉遣い、日常の所作や立ち居振る舞いに至るまで――とにかく全てにおいてダメ出しの嵐。なにをしても「その程度では駄目です」「おやめください」「やり直しでございます」とピシャリ。心が何度折れかけたかわからない。それでも必死に食らいついたが、まともにひとつとして修正できぬまま、とうとう午後七時を迎えてしまった。 ようやく、“ニセ嫁修行”の一日目が強制終了の運びとなりました。 ……もう、限界。体はガチガチ、お腹はぺこぺこ。空腹で倒れそう。 そんな私の前に、またしても“あの男(オニ)”が現れる。「そろそろ一矢様がお帰りになるお時間でございます。早速、お出迎えのご準備をお願いいたします。くれぐれも、失敗は赦しませんよ」 ひいぃぃ……。まただ。出た、鬼中松。 彼はまるで鬼ヶ島から遣わされた鬼将軍。こっちは疲れて瀕死状態なのに、その無慈悲な通告はいつも通り冷たく鋭い。心の
グリーンバンブーの営業時間は、11時〜15時がランチタイム、そして17時〜20時がディナータイムだ。「中松」 扉を開けると、案の定すぐ傍で待機していた。「五時からお店なんだけど、戻ってもいい?」「婚約披露パーティーまでの期間、伊織様の夜勤は三成家での修行とさせていただきます。緑竹様からも許可を得ております。朝は七時半、午後は三時にお迎えいたします」 つまり私は、午前中の短時間だけグリーンバンブーで働き、午後からは三成家で“ニセ嫁修行”に専念するというわけだ。 付け焼刃では間に合わないと判断されたのだろう。元が元だけに。だからとにかく令嬢修行をしろ、と。「それ、先に言ってくれない? 引継ぎもあるのに」「でしたら、お店に電話なさいますか?」「ええ。今日は琥太郎に頼むわ。土曜日だし、きっと焼き場に入れるはず」「どうぞ。終わりましたらスマートフォンを返却ください。三成家にいらっしゃる間、通信機器はお預かりさせていただきます。必要な時はお申し付けください」 スマホを返してもらい、早速琥太郎に連絡を取ると、すぐに出てくれた。
自転車で五分もかからない距離をわざわざ車で送迎されて三成家に到着した。本家に比べれば小さな屋敷とはいえ、それでも十分に広くてまるで小さな城のような家。 広大な敷地に、一矢のためだけに建てられたという邸宅。中松もここに住み込んでいて、コックをはじめとする数名の使用人が出入りしている。広々としたゲストルームまで備えられ、かくれんぼでもできそうな空間。無駄な調度品は一切なく、白を基調にした上品な造りに、立派な門構え。敷地内には、一矢所有の高級車が二台、そして中松が使う送迎用リムジンが一台、計三台が並び、それでもまだ余裕があるほどの庭に、美しく手入れされた緑が広がっている。 一階が洋食店舗、狭い二階と三階が住居。大家族で暮らす我が家とは、まるで別世界のようだ。 それにしても――初恋の相手がこれほどまでに厄介な存在だったとは思わなかった。 身分差がある恋だとわかっていたけれど、まさか“ニセ嫁”としてこの家に入ることになるなんて、当時は想像すらしていなかった。 でも、これはチャンス! 一矢の本妻になれる可能性が、ほんの少しでもあるのなら――。 グリーンバンブーで働き始めてからというもの、ここを訪れる機会は少なくなっていた。久しぶりに足を踏み入れる豪邸に、思わず背筋を正して「お邪魔いたします」と丁寧に挨拶した。 磨き上げられた大理石の床。石の種類も名前も知らないけれど、高価なことは素人目にも分かる。廊下や部屋、階段に至るまで、どこを見ても隙のない美しさ。天井か
「中松。送ってもらわなくてもいいよ。自分で帰れるし」「いけません。仮にも三成家の“ご婦人”となるお方が、自転車通勤などもってのほか。ご近所様の目もございます」「……でも、その自転車で買い出しにも行くんだけど。置いて帰ると困るな」「後ほど店の方へお届けいたします。では参りましょう。午後三時、営業時間終了に合わせて再度迎えに上がります。よろしいですね」「……はあ」「姿勢が崩れております! しゃきっとなさってください!」 最後の最後まで、姿勢チェックは続く――中松、鬼ぃぃ……!! 先を歩く中松の背中に向かって――こっそり舌を出した。 鬼中松に店まで送ってもらい、到着するや否や制服に着替え、開店と同時にグリーンバンブーの厨房に立つ。「聞いたよー、いおちゃん。イチのヤツと結婚するんだって?」 声をかけてきたのは、田村銀次郎――通称ギンさん。(……“偽装”だけどね) ギンさんは私が生まれる前から店で働いているベテランの料理人。幼い頃、我が家に入り浸っていた一矢のこともよく知っていて、家族のような存在だ。 和食も洋食も器用にこなし、特にまかない飯のセンスは抜群。五十五歳、痩せ型、背丈は平均的。白髪が増えてきたけれど、身だしなみは常に整っていて、気さくで優しい雰囲気の“理想の職人おじさん”。 持ち場は特に決まっていない。焼き場でも揚場でも、どこでもこなせる万能タイプ。料理長は父だけど、実質的にはギンさんが副料理長のような立ち位置だ。 グリーンバンブーは小さな洋食屋だが、その分だけチームワークは強い。厨房中央にある揚場が要となり、その横に焼き場、デシャップ(配膳)に一人、洗い場も一人。そしてホールは、たった一人で回すのが基本スタイル。 24席の客席を限られた人数で切り盛りする、ハードな現場だけれど――そのぶん、腕の立つスタッフが揃っている。創業以来、味も価格も変えずに守ってきた。無駄を省き、そのぶん料理に全力を注ぐ。それがこの店のやり方だ。 私はそんな環境の中で育ち、父の背中を見てきた。「いつか、父を超える料理人になりたい」 それが私の夢であり、当然の未来だった。 ようやく焼き場を任されるようになって、今が大事な成長期。だからこそ、店を休むわけにはいかない。今日も気を引き締めて臨む。 とはいえ……料理修行だけでなく、“ニセ嫁修
「立ち姿がなっておりません!」――びしっ。「歩く姿はもっとエレガントに!」――びしっ。「仮にも一矢様の“妻”になられるお方が、そのようでは困ります!」――びしぃっっ。 ここは三成家、分家の屋敷の一室。 契約結婚とはいえ「結婚する」と一矢が本家に堂々宣言してしまったため、約一ヶ月後に盛大な婚約披露パーティーが開かれることが決まってしまった。 その結果、私は“ニセ嫁修行”と称して、中松からスパルタ指導を受けることになったわけで―― 現在、礼儀作法・立ち居振る舞い・笑顔の作り方まで、びしばしと鍛えられている最中である。 ちなみに“びしっ”という音は、中松のムチ……ではなく、私の心が打ちのめされている音。精神にじわじわ効いてくるタイプの攻撃。 中松は一矢のお付きでありながら、立ち居振る舞いも完璧で、黒髪短髪・鋭い目元のクールなイケメン。スーツ姿で黙っていれば、執事カフェの看板を張れそうなほど絵になる。 年齢は私たちより八歳上。私と一矢がまだ小学生だった頃、三成本家の門前で倒れていた中松を見かねて、私が「助けてあげよう」と言ったのが縁の始まりだ。 中松の過去については多くを語らないけれど、「シマを追われ、抗争に巻き込まれた」という謎のフレーズだけが記憶に残っている。たぶん……鬼ヶ島の“シマ”なんじゃないかな。冗談抜きで、彼は鬼ヶ島出身なのではと思えてくるほど、怖い。「よろしいですか、伊織様。貴女が恥をかくのは一向に構いません。しかし、一矢様に恥をかかせるようなことがあれば……私は決して赦しませんよ」――いやぁぁぁっ。 やっぱり怖いっ! 中松、鬼認定!「さあ、もう一度。線からはみ出さずに、姿勢を正して歩いてください」「……まだやるの?」「顔です! 表情がだらしない! もっと凛とした、品のある表情はできませんか!」 失礼な言い方ね!!「睨むと少しだけ締まった表情になりますね。今の顔はさっきよりマシです。さ、もう一度」 中松は笑顔――のような表情を浮かべたけれど、目がちっとも笑ってない。極寒のブリザードスマイルだった。「ねえ、中松」私はお腹に力を入れて、床に貼られたテープの上を歩きながら聞いてみた。「あなた、私のこと嫌いでしょ?」「伊織様が、もう少し品位あるご婦人であれば良かったのですが」 好きとも嫌いとも言わず、さらりと致命的
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