「彼女は以前、ある人間と契約を結んだ。その人間は、彼女に恋をした」クロウの声が病院の廊下に響く。総一の顔が青ざめる。「そして彼女も、その人間に情を抱いてしまった。それが契約違反だ」「嘘だろ……」「事実だ。彼女は感情に流されて契約を破綻させ、その人間を死なせた」「嘘よ!」リリムが叫ぶ。「わたしは彼を死なせたりしてない!」「では、彼は今どこにいる?」リリムが言葉に詰まる。「答えられないだろう? なぜなら、彼はもういないからだ」「それは……」「君の感情が、彼を破滅に導いたのだ。そして今度は、総一も同じ道を辿る」「させない!」総一が叫ぶ。「俺は絶対にリリムを信じる! 過去に何があろうと関係ない!」クロウは意外そうな顔をする。「真実を知ってもまだ彼女を信じるというのか?」「当たり前だ! 俺にとって大切なのは、今のリリムだ!」リリムの目に涙が浮かぶ。「総一……」「俺は絶対にお前を見捨てない」クロウは首を振る。「愚かな人間め。やがて後悔することになる」「後悔なんてしない!」「それでも君が彼女を信じるなら……」クロウが再び仮面を着ける。「今度は君自身に選択させよう。彼女を取るか、周りの人々を取るか」「何だって?」「やがて分かる。君の『愛』がどれほど重いものか、思い知ることになる」クロウが姿を消す。残された四人の間に、重い沈黙が流れる。リリムは涙を流しながら俯いている。「リリム……」総一がそっと肩に手を置く。「今度、ちゃんと話そう。全部」「でも……」「大丈夫だ。俺は絶対にお前を責めたりしない」リリムは小さく頷いた。「……半分は本当よ」「半分?」「わたしは確かに、以前契約者に感情を抱いたことがある。でも、彼を死なせたわけじゃない」リリムの声が震える。「彼は……自分から契約を破棄したの」「契約を破棄?」総一が眉をひそめる。「そんなことできるのか?」「通常はできない。でも彼は特別だった。人間でありながら、契約の核に直接干渉できる力を持っていた」「それで?」「彼はわたしに言ったの。『君を地獄のシステムに縛られたままにしておくのは間違いだ』って」リリムの目から涙がこぼれる。「そして、契約を破棄して、わたしを自由にしてくれた。でもその代償として……」「代償として?」「彼の記憶と存在が、世
翌朝、総一は桜井美月に電話をかけた。「もしもし、桜井さん? 昨日の件なんですが……」「はい! 何か分かったことがあるんですか?」「感情を戻す方法があるかもしれません。ただし、あなたの協力が必要になります」電話の向こうで、美月の息を呑む音が聞こえた。「私の……協力?」「はい。詳しくは直接説明したいので、放課後、真理さんのお見舞いがてら病院で会えませんか?」「分かりました! 絶対に行きます!」電話を切ると、リリムが心配そうに見ている。「本当に大丈夫なの? 感情共有術なんて、わたしもやったことないわよ」「でも、他に方法はないだろ」「そうだけど……リスクが大きすぎる」総一は制服のボタンを留めながら答える。「リスクがあっても、やらなきゃいけないことってあるんじゃないか」「……そうね」リリムも制服に着替え始める。「でも絶対に無理はしないで。何かあったら、すぐに術式を中断するから」「分かった」二人で学校に向かう道中、カイが合流してきた。「よう。今日も事件の続きか?」「ああ。お前も手伝ってくれるか?」「もちろん。俺も気になってるしな、あの仮面野郎のこと」学校では、山田真理の件がちょっとした話題になっていた。「原因不明の感情麻痺だって」「怖いよね、急にそんなことになるなんて」「ストレス社会の弊害かな」クラスメイトたちは様々な憶測を語り合っているが、誰も真実を知らない。知っているのは、総一たちだけだった。「やっぱり隠蔽されてるのね」リリムが小声で言う。「当然だろう。本当のことを知ったら、みんなパニックになる」「でも、このままじゃ被害者は増える一方よ」「だからこそ
帰り道、リリムが総一の袖を引いた。「ねえ、さっきの力……」「ああ、あの黒い炎のことか?」「あれ、普通の契約魔力じゃない。もっと深い、根源的な力よ」「根源的って?」「人間の持つ『原初の感情』から生まれる力。愛とか、怒りとか、そういう根本的な感情エネルギー」「よく分からないな」「つまり、あんたの中にある『大切な人を守りたい』っていう気持ちが、直接的に力になったのよ」総一は立ち止まる。「大切な人って……」リリムは頬を赤らめながら俯く。「わ、わたしのことじゃないわよ! きっと他に大切な人がいるんでしょ!」「いや、たぶんお前のことだと思うけど」「え?」「だって、お前が消えるって想像したら、すごく怖くなったから」リリムの顔がさらに赤くなる。「そ、そんなこと言わないでよ……恥ずかしい」「事実だから仕方ないだろ」二人のやり取りを見ていたカイが呟く。「お前ら、もう付き合えよ」「付き合うって!」「だってどう見ても恋人同士じゃん」総一とリリムは同時に赤面した。「違うわよ! わたしたちは契約関係で……」「契約関係以上の関係だろ、どう見ても」「そ、そんなことないもん!」リリムは恥ずかしそうに総一の後ろに隠れる。総一も恥ずかしそうに頬を掻く。「まあ……そういう話は後にしよう」「そうね。今は真理ちゃんのことを考えましょう」でも、二人の間には確かに特別な絆があった。それは契約を超えた、もっと深いつながり。家に帰ると、ヴェルダが待っていた。「お帰りなさい。今日の事件、聞きました」「もう知ってるのか」「天界と地獄の情報網は侮れませんからね。感情剥奪型の契約……厄介ですね」「元に戻す方法はないのか?」ヴェルダは少し考える。「理論上は可能です。でも、非常に高度な魔術が必要になります」「どんな?」「『感情復元術』。失った感情を、記憶から再構築する術式です」「それって、リリムにできるのか?」リリムは首を振る。「わたしのレベルじゃ無理。少なくともA級悪魔か、上位天使じゃないと」「上位天使……セラフィーネか?」「彼女なら可能かもしれません」ヴェルダが頷く。「でも、天界の規則上、人間の感情に直接介入するのは禁止されています」「じゃあ、どうすれば……」その時、窓の外から光が差し込んだ。セラフィーネが現れる。「呼ばれた気
放課後の薄暮が街を包み込む頃、四人は山田真理のアパートの前に立っていた。古いアパートの二階。インターホンを押すが、返事はない。「おかしいわね」リリムが魔力を展開して内部を探る。「……いる。でも、反応が弱い」「弱いって?」「生きてはいるけれど、意識がほとんどない状態」総一は迷わずドアノブを回した。鍵は開いていた。部屋の中に入ると、薄暗い中に女子高生が倒れていた。山田真理だろう。「真理ちゃん!」美月が駆け寄る。真理は意識はあるが、うつろな目をしていた。まるで魂が抜けたような状態だ。「これは……」リリムが真理の額に手を当てる。「恐怖を取り除きすぎた結果ね。感情のバランスが崩れて、すべての感情が希薄になってる」「恐怖を取り除く……まさか」総一が振り返ると、部屋の隅に影が立っていた。仮面をつけた男。いつもの黒装束姿。「よく来たな。待っていたぞ」「お前か! また契約を撒き散らして!」「撒き散らす? 違うな。私は彼女の願いを叶えただけだ」男が指を鳴らすと、真理がゆっくりと立ち上がった。その目は虚ろで、表情には一切の感情がない。「恐怖がなくなって、とても楽になりました」真理の声は抑揚がなく、機械的だった。「でも、恐怖と一緒に他の感情も消えてしまった。愛も、怒りも、悲しみも、喜びも……すべて」「そんな……」美月が呟く。「これが君たちの言う『救済』か?」男の仮面の下で、口元が歪む。「感情など、人間を苦しめるだけの無駄なもの。なくなれば楽になる」「違う!」総一が叫ぶ。「感情があるから人間なんだ! それを奪う権利はお前にはない!」「権利? 彼女自身が望んだことだ」「本当にそうなのかよ!」総一は真理に向き直る。「山田さん、本当にこれで良かったのか? 感情がなくて幸せか?」真理は無表情のまま答える。「幸せ……という感情が分からないので、答えられません」その言葉に、美月の目に涙が浮かぶ。「真理ちゃん……」リリムが前に出る。「元に戻す方法はあるの?」男は首を振る。「一度消した感情は戻らない。これが契約の結果だ」「嘘よ! 契約には必ず解除方法があるはず!」「あるかもしれんな。だが、教える義理はない」男が再び指を鳴らすと、真理の体から黒いオーラが立ち昇る。「さあ、次は君たちの番だ。恐怖を感じるがいい」突
月曜日の朝、総一は妙な胸騒ぎで目を覚ました。空が曇っており、どんよりとした灰色の雲が空を覆っている。なんとなく嫌な予感がしていた。「おはよう、総一」リリムはいつもと変わらない様子で起きてきたが、その表情はどこか緊張していた。「おはよう。どうした? 顔色悪いぞ」「ちょっと気になることがあるの」「気になること?」リリムは窓の外を見つめながら答える。「昨夜から、妙な魔力の波を感じるのよ。それもかなり強い」「契約者か?」「たぶん。でも今までとは質が違う。もっと……深い感じ」総一も窓の外を見る。確かに空気が重く感じられた。「とりあえず学校に行こう。何かあったらその時考える」「そうね」二人は準備を整えて家を出た。通学路の途中で、カイと合流する。彼も何となく浮かない顔をしていた。「よう。なんか今日、変な感じしない?」「お前も感じてるのか」「ああ。なんか空気が重いっていうか……」リリムが振り返る。「カイも魔力波を感じてるの?」「魔力波ってより、なんか『嫌な予感』って感じかな。昔からこういうのは当たるんだよ」学校に着くと、その予感は的中していることが分かった。「おい、聞いたか? 昨日の夜、駅前で変死体が見つかったらしいぞ」クラスメイトの会話が聞こえてくる。「変死体?」「ああ。二十代の男性で、外傷は全くないのに死んでたって」「怖いな……」総一とリリムは顔を見合わせる。明らかに普通の死ではない。昼休み、三人は屋上に集まった。「やっぱり契約関係の事件ね」リリムがスマホで死亡事件の詳細を調べている。「被害者は田中健太、二十四歳。フリーター。目立った
日曜日の朝、総一は爆発音で目を覚ました。「うわああああああ!!!」リビングから聞こえるリリムの悲鳴と、何かが焦げる匂い。慌てて飛び起き、キッチンに向かうと、そこには煙に包まれたリリムの姿があった。「おい! 何やってんだ!」「そ、総一! 大変なの! フライパンが燃えた!」見ると、フライパンから黒煙が立ち昇り、中の卵らしきものは完全に炭化している。総一は慌てて火を止め、窓を開けて煙を外に出した。「何作ろうとしたんだよ……」「オムライス。昨日テレビで見て、簡単そうだったから」「どこが簡単だよ! 初心者がいきなりオムライスなんて無謀すぎる」リビングのソファからヴェルダが顔を出す。「あー、やっぱり失敗しましたね」「知ってたのか?」「五時頃から台所で格闘してましたから。止めようと思ったんですが……」「なんで止めなかったんだよ」「リリム様があまりにも楽しそうだったので」確かに、煙まみれになってもリリムは諦めていない。エプロンは汚れ、髪は乱れているが、目は輝いている。「次は絶対成功させる!」「おい、待て。まずは基本から教える」総一はため息をつきながら、汚れた調理器具を片付け始めた。「基本?」「そう。料理の基本。火加減、調味料の分量、切り方……全部最初から」「うう……難しそう」「大丈夫だ。俺が教える」なぜそんなことを言ったのか、総一自身にもよく分からなかった。ただ、一生懸命な彼女を見ていると放っておけなかった。「本当? ありがとう!」リリムは嬉しそうに手を叩く。まずは簡単な卵焼きから始めることにした。といっても、昨日も失敗しているので、本当に基礎の基礎からだ。「まず、卵を割る。殻が入らないよう注意して」「はーい」リリムが卵を手に取り、ボウルに割り入れる。案の定、殻の破片がいくつか混入した。「あ……」「大丈夫、取れば問題ない」スプーンで殻を取り除き、次は溶く作業。「泡立て器で、こうやって円を描くように」総一が手を添えて教える。リリムの手は意外に小さく、柔らかかった。「できた!」「じゃあ次は火加減。これが一番大事だ」フライパンに油を引き、中火にかける。リリムは真剣な表情で見つめている。「温まったら卵を入れて……」ジューッという音とともに、卵がフライパンに広がる。「わあ、いい音!」「今度は菜