Masuk似たもの同士
すでに閉園しているテーマパークは、小学生のときに家族で来たことがあった。 「どれだったかな、んー……」 俺の隣でスーツのポケットに手を突っ込み、なにかを探す桜小路さんに話しかける。 「なにしてるんですか?」 すると両手に持っている鍵の束を俺に見せて、ニッコリほほ笑む。 「このたくさんついてる鍵の中から、門扉の鍵を探していてね。どれだと思う?」 ジャラジャラ音をたてて、たくさんの鍵を見せびらかす桜小路さんに、うんとイヤな顔をしてみせた。 「そんなの、わかるわけないじゃないですか」 「だよな。だから奥の手を使おうと思ってね」 桜小路さんは持っていた鍵の束をポケットに戻すと、最初に逢ったときに見せた、吸血鬼の姿に早変わりする。 「わっ……」 淡い月明かりに光り輝くシルバーの髪と、俺を見つめるルビー色の瞳がとても綺麗に目に映る。 「今夜は満月だろ、そのせいで血が騒いでしまってね。君にはこの姿を無理して隠さないで済むから、すごく楽だな」 言いながら俺の体を軽々と横抱きにし、数歩だけ後ずさった次の瞬間、助走をつけて高い門扉を飛び越えた。 「ひいぃっ!」 勢いよく門扉の上を飛び越えたのに、着地したときの衝撃はまったくなく、気づいたらテーマパーク内の地に両足がついていた。 「SAKURAパークに、ようこそお越しくださいました!」 桜小路さんは胸に手を当てて、俺に深くお辞儀をする。 「やっ、待ってください。勝手に入って、大丈夫なんですか?」 「安心しろ、俺はここの関係者だ。そこにあるベンチに座って、待っていてくれ。すぐに戻る」 ひょいと肩を竦めて、颯爽と目の前から消えていく後ろ姿は、暗闇の中に溶けていなくなってしまった。 しんと静まり返るテーマパーク。あまりに静かすぎて、幽霊が出てきてもおかしくない。だって――。 「俺ってば、吸血鬼に連れ去られたようなものだし」 ベンチに座る余裕もなく、その場に立ち尽くしていると、バンッという大きな音と同時に、テーマパーク内の明かりがいきなり点灯した。 「うっ、眩しぃ」 暗闇に目が慣れていたせいで、アトラクションを照らす煌びやかなライトが、ものすごく目に突き刺さる。 「お待たせ。なんだ、渋い顔をしてるな」 「ライトが眩しいんです」 「だったら眩しいのを忘れるくらいに、夜遊びするがいい」 桜小路さんは俺の利き手を掴んで、どこかに引っ張って歩く。 「瑞稀は、ここに来たことはあるのか?」 「小学生のとき、何回か」 「君が小学生のときということは、そこから何度かリニューアルしているからね。楽しめると思う」 そう言って桜小路さんが連れて来たところは、コーヒカップの乗り物だった。 「これ、あまり得意じゃないんだけど」 「ワガママを言う前に乗ってごらん。俺が楽しませてあげよう」 コーヒカップの中に、無理やり体を押し込まれた。仕方なく腰かけると、桜小路さんは向かい側に座り、目の前にあるハンドルをこれでもかとぐるぐる回す。 「うわっ、まっ待って! 目が回る!!」 「遠くを見るから目が回るんだ。俺の顔を見ててごらん」 「それでもっ、実際すごく回ってっ、気持ち悪っ!」 「なるほど。栄養失調の体には、無理がかかるということか。では、ゆっくり回すとしよう」 桜小路さんのセリフどおりに、ものすご〜く静かに、コーヒカップが動きはじめた。 「ありがと、ございます。これならなんとか、大丈夫です」 「どういたしまして。ほかに苦手なアトラクションはあるのか?」 吸血鬼の姿をしている桜小路さんは、長い足を格好よく組んで俺を見据える。コーヒカップの中だというのに、カッコイイ彼がそこにいるだけで、おとぎ話の世界観が目の前に広がっていた。 (苦手なアトラクションを訊ねられたものの、なんと答えてよいのやら) 「小学生のとき以来、テーマパークに来たことがないので、今現在苦手なものがわからないです」 「だったら苦手を探す旅に出ようか。おいで」 柔らかくほほ笑んだ桜小路さんは、俺に手を差し伸べた。さっきの衝撃で足下がおぼつかない可能性があるので、遠慮なく捕まらせてもらう。 「メリーゴーランドに乗ったかわいい瑞稀を見てみたいが、年齢的にかわいそうだからやめてあげよう」 「アハハ……そうしていただけると助かります」 その後、桜小路さんの案内に伴われ、たくさんのアトラクションに挑んだ。安全面の関係で、たったひとりで乗るものが多かったけれど、絶叫系は意外と楽しかった。 激しく動き回るジェットコースターが一周終えたので、降りる気持ちでいたのに、なぜかスピードダウンせずに二週目に突入したときは「嘘だろ!」なんて、大きな声が出てしまった。 それを見た桜小路さんは、乗降口でお腹を抱えて大笑いする。それを横目で確認できたのも一瞬で、あっという間にぐるぐる回るレールの中に、勢いよく突入したんだ。 「瑞稀の顔、ものすごく驚いていたね。そんなに意外だったのかい?」 「普通は一周したら終わりなのに、あのまま二周目にいくとか、ありえないじゃないですか!」 今俺たちが乗っているのは、SAKURAパークの中で一番大きなアトラクションの観覧車だった。丸っこい桜の花びらの形をした、たくさんのゴンドラが回っている様子は、遠目に見ても綺麗だった。 「俺は久しぶりに笑わせてもらった。またあの顔を見せてほしいな」 「嫌ですよ、まったく」 「瑞稀は楽しめただろうか?」 先ほどとは違う低い声の問いかけにハッとして、自然と背筋が伸びた。 「あっ、そうですね。小学生のときとは、また違った感じで楽しめました」 家族で楽しんだときと今では、やはり楽しむ種類が違う気がする。しかもこうしてお世話になったんだから、ちゃんとお礼を言わなければならない。 「桜小路さん、ありがとうございました。貧乏学生がこんな贅沢していいのかって最初思っていたけど、それを忘れて楽しめちゃいました」 「貧乏学生の理由、聞いてもいいだろうか?」 小首を少しだけ傾げた桜小路さんのシルバーの髪が、しなやかに揺れる。 「高学年のとき、父さんが交通事故で亡くなったんです。そこから母さんは俺を育てるのに、朝から晩まで働いていました。その苦労を知ってるので、なるべく自腹で生活しなきゃって、バイトをかけ持ちしながら、大学に通ってます」 桜小路さんは暗い内容の話を、瞼を伏せて聞き入る。そして形のいい唇がゆっくり動いた。 「俺もね、家族を亡くしてる。俺が吸血鬼になったのが原因で、母親が心臓を悪くしてね」 耳に染み入るような低い声だからか、妙に心に響いてしまった。同じように大事な家族を亡くしている彼に、無条件に同情してしまう。 「一族の中から、必ず吸血鬼になる者が生まれる。ある日突然、狂おしいほどに血が欲しくなることで、自分が吸血鬼になったのを悟るんだ」 桜小路さんはゴンドラの窓から見える月を、ぼんやりと眺めた。 (どこか寂しげな横顔は、彼が吸血鬼になった身の上を不運に思ってるせいなのかな) 「じゃあほかにも、吸血鬼として生きてる人がいるんですね」 「ああ。お互い、それを隠して生きているからね。親戚同士でも、さっぱりわからない。それに実際、誰が吸血鬼なのか知ったところで興味はないな。瑞稀だって、ほかの貧乏学生のことを知りたい?」 「確かに、知りたいとは思いません」 「吸血鬼になって、いろんな人間の血を吸わないと生きてはいけない不便な体をもってしまったことは、とても不幸だとはじめは考えた。だがそれでも楽しまなければって、考えを改めたんだ」 「た、楽しむ?」 逆境を逆境と思わない考えに、ド肝を抜いた。 相変わらず桜小路さんは外の景色を眺めたままだったが、さっきよりも穏やかな雰囲気が漂っていて、嬉しそうに口角があがってるのが目に留まる。 「だってね、吸血鬼は不幸な体質と思い込むだけで、損した気分になるじゃないか。逆にプラスになることを見つけるほうが、絶対に楽しい」 「桜小路さんの立場になったら、俺はきっとすごく落ち込んでしまうと思います。誰かの血を啜って生き長らえることを、恨んでしまうかもしれません」 桜小路さんは窓に差し込む月明かりに、右手を伸ばした。当然それは掴めないハズなのに、なぜだか手中におさめたように感じたのは、ルビー色の眼差しから彼の自信が溢れているように見えたから。 「俺も君も、所詮は同じ人間。人生は一度きりだろう?」 わかりやすい問いかけに静かに頷くと、凛とした声がゴンドラ内に響く。 「つらいことばかりフォーカスしていたら、せっかくの人生が暗いことばかりになってしまう。自分が死ぬ間際に『ああ楽しかったな』と、思える人生にしたくてね」 桜小路さんの言葉を聞いて、今までのことを振り返った。楽しかったと口にできることがなさすぎて、気持ちがどんよりしてしまう。 「瑞稀、学生生活は今しかない。社会人になったら、できないことがたくさんあるんだよ」 窓の外を見ていた桜小路さんは、ゆっくり首を動かして俺の顔を見つめる。そして月明かりを掴んだ手で、俺の左手を握りしめた。 「お金がなくても、楽しめるしあわせがそこにある。小さなことからでいいんだ。それを探しながら、学生生活を送ってみるのはどうだろうか」 ルビー色の瞳が、宝石のような煌めきを放つ。桜小路さんが心を込めて告げたセリフに、綺麗な色をつけたみたいだった。 「わかりました。なんだが宝探しするみたいで、ワクワクしちゃいます」 「やっと笑ってくれたね。その笑顔が見たかっ――」 目の前でルビー色の瞳を大きく見開き、胸元を強く握りしめ、肩を上下させて荒い呼吸を何度も繰り返す。 「桜小路さん、どうしたんですか? 具合が悪くなったとか?」 傍に近寄ろうとしたら、顔の前に手を伸ばされた。 「ダメだ、今は来ちゃいけない。ただの吸血衝動だ。我慢すれば、すぐにおさまる」 「でも……」 「せっかく瑞稀の、え、笑顔が見れたの、に。なんでこんなタ、イミングでっ! くうっ!」 椅子にうつ伏せになり、両目をキツく閉じて苦しそうに体を震わせる桜小路さんの姿を目の当たりにして、迷うことはなかった。氷室とうまく喋れない日が数日続いた。どうしたらこの微妙な距離が縮まるだろうかと、頭を悩ませていた昼休み、突然窓の外で雨音が響いた。 つい先ほどまで秋晴れの陽光が差しこんでいたのに、今は鉛色の雲が空を覆いつくして、大きな雨粒がグラウンドを容赦なく濡らしていく。校庭でサッカーをしていた生徒たちが、騒ぎながら校舎に駆け込んでいくのが見えた。(……予報じゃ晴れだったのに) 当然、傘なんて持ってきていない。午後の授業のあいだに止んでくれ、と心の中で祈ったけれど——その願いは届かなかった。 放課後。灰色の空からは大粒の雨がまだ降り続いていて、俺は渡り廊下の屋根の下で足止めを食らっていた。 冷たい雨の匂いと湿った風が肌にまとわりつく。秋の夕暮れはもう十分に寒くて、薄着の制服では心許ない。(まさか、またこんな形で空を見上げることになるなんて……) ガックリと肩を落とした俺の視界の端で、足音が止まった。「……葉月。やっぱり傘、持ってないんだな」 かけられた声に振り返ると、そこには氷室がいた。片手に紺色の折りたたみ傘、もう片方の手を俺の前に差し出して。「入れ」 「え……?」 呆けた俺に、氷室は眉を潜めてため息をついた。「このままだと風邪ひくぞ。早く」 その一言に背中を押されて、俺は慌てて傘の中へ滑り込む。肩と肩が触れそうで、息が詰まった。 歩幅を合わせてくれているのか、氷室の歩調はいつもよりゆっくりだった。なのに俺の胸の鼓動は速すぎて、雨音に隠れてほしいと願う。「氷室さ……なんで、こんなに優しくしてくれるんだよ」 小さく零した言葉は、雨に飲まれて消えてしまった。氷室に届いたのかもわからない。届かなかったと思うと、胸がちくりと痛んだ。 家の近くの角で、氷室が立ち止まる。「ここでいいか」 「……うん。ありがとう」 差し出された紺色の傘を受け取ると、氷室は自分のバッグからもう一本の黒い傘を取り出し、迷いなく開いた。「じゃあな。また明日」 その声は雨音に溶けて、静かに消えていった。 ひとりになった俺は、手に残された傘の持ち手を見つめる。そこに、小さな付箋が貼られていた。『風邪ひくなよ 氷室』 少し歪んだ字が、どうしようもなく優しく見えた。(……こんなところにまで気遣いを忍ばせるなんて。氷室ってば……いつからこんなものを準備してたんだよ)
文化祭の準備が本格化して、毎日が徐々に慌ただしくなってきた。窓の外では、紅葉の葉がゆっくりと色づき始めていて、秋が深まっていくのを感じさせる。 班で集まる放課後、俺と氷室は自然に作業を分担して、いつの間にか息の合った動きを見せるようになった。少なくとも、俺はそう思っていた。気づけば隣にいる時間が増えていて——それが本当に“距離が縮まった”証拠なのかどうか、自信はなかったけれど、そう信じたかった。 けれど、ある日。教室に向かう扉の前で、氷室が他のクラスの男子と肩を並べ、楽しげに笑っている姿を見かけた。 無防備に笑う氷室。俺の知っている“完璧で近寄りがたい氷室”とはまるで別人みたいで、胸の奥がぎゅっと痛んだ。「氷室って、あんな顔もするんだ……」 思わず漏れた独り言に、近くの生徒が軽い調子で答えた。「前の中学からの友達だろ? 氷室、アイツにはよく喋るんだよ」 氷室は外部受験でこの学園に来た。なので俺の知らない“過去の顔”が、確かに存在している。そう考えると、胸に冷たい風が吹き抜けた気がした。(……じゃあ、俺に見せてくれたほほ笑みは、特別なんかじゃなかったのかもしれない。勝手に舞いあがって、バカみたいじゃないか――) そんな思いが頭を掠めたせいで、放課後の作業中も言葉がうまく出てこなかった。「葉月、それ……見ている資料が上下が逆になってる」 「……あ、ごめん。すぐに直す」 氷室の冷静な指摘に、ただ素直に謝ることしかできない自分が悔しかった。 活動が終わりかけたとき、氷室がふいに俺を見た。「葉月、どうした。今日は……なんだか元気がなかったな」 短い言葉だったけれど、その声音は確かに俺の心を射抜いた。氷室に見抜かれている、うまくごまかせない。そう思った瞬間、心臓が乱れて、答えを探しても二の句を継げることができなかった。「だっ……大丈夫」 やっと絞り出したそのひと言は、自分でも頼りなく聞こえた。笑ってごまかすことしかできなかった。 けれど氷室は目を逸らさずに、じっと俺を見つめた。その視線は強すぎて、心の奥の奥まで届いてしまうみたいで。(——本当は、ちゃんと伝えたいのに) 近づきたいのに、理由すら言えない。指先なら触れられる距離にいるのに、実際は心だけが遠くに置き去りにされている。 それが、一番苦しかった。
週明けの月曜日。教室の窓際にある自分の席に座って、ぼんやりと空を見上げていた。目に映るのは、季節外れに残った入道雲と、その向こうでじんわり色づきはじめた秋空。まだ夏と秋の境目を行き来しているような空は、まるで膨らんでいく自分の気持ちみたいだった。(あれから氷室とは……) 先週の金曜日、図書室を出るときにかけられた「また明日な」のひと言。それを思い出すたびに、胸の奥が不思議とあたたかくなる。(——でもあの微笑が、誰にでも向けられるものだったら? 俺だけに向けられているって、勘違いだったとしたら……) そんな不安がふと過ると胸の奥がモヤモヤして、勝手に不安定になった。言葉にできない感情を、あの入道雲に預けて、どこか遠くに流してしまえたら、どれだけ楽になれるだろう。「葉月、プリント早く回して」 「……あ、ごめん!」 前の席の女子に呼ばれてやっと我に返り、慌ててプリントを後ろに渡す。ぼーっとしていたのを見た、隣の席の林田が意味深にニヤニヤしていた。「おいおい奏~、なにぼーっとしてんだよ。恋でもしてんのか?」 「は? してねーし!」 「なんだかなぁ。その反応が、逆に怪しいんだよな~」 からかい半分の林田の言葉に、思わずムキになってしまう自分がいた。 放課後。今日は学年行事の準備日で、文化祭の班活動がスタートした。廊下の窓の外には、赤や黄色に変わり始めた桜並木が夕日に照らされていて、校舎全体が少しだけオレンジ色に染まっていた。 班分けは2年生全員のくじ引きで決められる仕組みで、俺の班には氷室もいた。偶然といえば偶然だけど……それでも、胸がじんわり温かくなる。「葉月、ここの寸法測っておいて」 「あ、うん!」 氷室が渡してくれたメジャーを手に、俺は装飾用のパネルのサイズを測りはじめた。氷室は資料を手にして、班員にテキパキ指示を出している。その真っ直ぐな声が、なんだか心地よかった。 班のメンバーがざわざわと雑談しながら作業を進める中、俺たちは淡々と手を動かした。でも、それが不思議と落ち着く。「葉月、それ逆になってる」 「え、あ……!」 パネルの上下を間違えていた俺に、氷室がそっと近づいて正してくれる。指先が触れそうな距離に、思わず息が詰まった。「まったく。本当に、君は注意力がないよな」 「う、うるさい……自覚はあるけどさ」 氷室がふっ
氷室と一緒に掃除をした数日後の昼休み、担任に頼まれたプリントを職員室に届けに行く途中、廊下の角を曲がったそのときだった。「……氷室くん、呼び止めてごめんなさい。でも、どうしても渡したかったの」 女子の声が耳に聞こえてきて、思わず足を止める。柱の陰から覗いた先には、女子生徒が一枚の封筒を差し出し、それを前に立つ氷室がじっとそれを見つめていた。 窓の外には、銀杏の葉がひらりと落ちていく。秋の静けさの中でふたりの姿だけが、映画のワンシーンみたいに切り取られたみたいだった。「君の気持ちはありがたいけど、それは受け取れない。ごめん」 氷室の声はいつもどおり静かで、表情もまったく変わらなかった。けれど、ほんの少しだけ——優しく聞こえた気がした。まるで、自分にだけそう聞こえたかのように。 女子生徒は深く頭を下げ、駆け足で立ち去って行った。氷室は手ぶらのまま、ゆっくりと職員室の方向へ歩き出す。(……断ったんだ) ホッとしたはずなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。どうしてそんなふうに感じたのか、自分でもわからないままだった。 教室に戻ると林田が俺を見つけて、大きく手を振った。「よう奏、おせーぞ。どこ行ってた?」 「職員室。担任に頼まれたプリントを届けに」 適当に答えつつ席に着く。さっきの場面が頭から離れない。「なあ、さっきさ氷室のヤツさ、女子に告白されてたっぽくね?」 「林田……あれを見てたのか?」 「たまたまな。しかも断ってたけどさ。まあアイツは、そこら辺の女子と付き合うタイプじゃねーよ。なんつーか、女子のことに興味なさそうっていうか……選り好み激しそうじゃね?」 林田の何気ない言葉に、なぜか心がざわつく。「別にどうでもいいし。俺には関係ない」 「……ほーん?」 林田の意味深な視線に、思わず目を逸らしながらペットボトルのお茶を飲もうとしてタイミングをしくじり、激しく咳き込んだ。ドジは相変わらず健在の俺、虚しすぎる……。 放課後、少しだけ遅れて図書室に向かう。返却期限の本を返そうとしたとき、また氷室の姿を見つけた。窓際の席に座る彼の横顔は、夕日に縁取られてどこか儚げに見えた。「あ、氷室……」 声をかけると、氷室は顔を上げて小さく頷いた。「……葉月、どうした?」 「え?」 「今日は、あんまり喋らないから」 どうやら、気づかれていたらし
次の日の放課後、廊下に立てかけられた掃除用具を見て、ため息がこぼれた。「あー……今週、掃除当番だったんだっけ」 有朋学園は中高一貫な上に校舎もやたら広いから、共有スペースの掃除は各クラスからひとり出すことになってる。だから当番になると、めちゃくちゃ緊張するんだ。 教室の後ろに貼られている掲示を見直して、名前を確認する。自分と並ぶのは“氷室蓮”。よりによって、生徒会長とふたりきりの当番とかマジか……。(いや、別にいいんだけどさ。前に図書室で、一緒に課題をやったし……) けれど、あれは“たまたま”だったのかもしれない。今は普通に、クールな氷室に戻っているかもしれないし……なんてぐるぐる考えているうちに、氷室が廊下の向こうから、無言で歩いてきた。表情のないその顔を見た瞬間、心臓が一度だけ強く跳ねた。「……行くか」 そう言って、モップを手に廊下を歩き出す氷室。俺は慌ててほうきを掴んで、その後ろを追いかけた。 掃除の場所は3階の渡り廊下。窓が多くて明るいけれど、人の気配が少ない静かな場所だった。外の空はすっかり赤く染まり、窓辺には落ち葉が風に吹かれて舞い込んでくる。まるで、ふたりだけを閉じ込める小さな舞台みたいに思えた。 氷室に話しかけるタイミングを計って、何度もチラ見をしていたら、俺の足が教室から伸びていた電源コードにうっかり足を取られて、バケツを思いっきりひっくり返す。「うわっ、やばっ!」 雑巾や水が床に一気に散らばった。安定過ぎるいつもどおりのドジに、自分で自分にウンザリしそうになった。「……貸せ」 氷室が静かに言って俺の手から雑巾を取り、黙って水を拭き取ってくれた。窓の外から差し込む夕焼けの光が、氷室の横顔をやわらかく照らしている。「あ、ありがとう……ごめん」 「気にするな。慣れてる」 「慣れてるって……え、それってどういう?」 不思議に思って問いかけたが氷室はそれに答えず、黙々と床を拭き続ける。その手つきはとても丁寧だった。一方の俺はというと、ドジをやらかしたことで、かなり気まずさを感じながら、モップを使って水を拭き取る。(――氷室って無表情だけど、やっぱり優しいんだよな) そんなことを考えながら、必死こいて床を拭いていると、氷室のほうが先に作業を終えたらしく、バケツを持ち上げて立ち上がった。「葉月、そこまだ濡れてるから、
昼休み、教室の隅っこで弁当を広げていたら、隣の席の林田が唐突に声をあげた。「なあ、隣のクラスの氷室って、マジで女子から人気あるのに、誰とも付き合ったことがないらしいぜ」 「え、そうなの? でもなんかわかるかも。あの人、完璧すぎて近づきづらいもん」 「アイツ、生徒会長さまだしな! 氷室よりも俺のほうが付き合いやすいだろう?」 クラスの女子たちが、そんな噂をしているのが耳に入ってきた。(氷室……誰とも付き合ったことがないんだ) その事実になぜか心の奥に、小さな波紋が広がるような違和感が残った。別に自分に、関係があるわけじゃないのに。「なぁ林田。その噂って本当なのか?」 女子の話にまざろうとしていた林田に声をかけたら、すげぇ嫌そうな目で睨まれた。相変わらず、声をかけるタイミングが悪かったらしい。「アイツの顔見たらわかるだろ。背が高くて足だってムダに長くて顔も整ってて、成績も優秀な生徒会長さまなんだからさ」 「そうそう。見た目がいいのに、なんていうか隙がなさ過ぎて、とっつきづらいよな!」 俺も林田に合わせるように、わざと軽口を返した。「あんないっつも同じ顔つきのヤツよりも、俺みたいにいろんな表情が拝める男のほうが、絶対いいに決まってるって! ねぇねぇ、誰か俺と付き合わない?」 俺とのつまらない会話を勝手に終わらせて、女子の園に首を突っ込んだ勇気のある林田に、心の中でエールを送りながら、弁当を食べ進める。 窓の外では赤や黄色の葉っぱが、ひらひらと舞っていた。風にあおられて落ち葉がひとひら飛んできて、教室の窓に貼りついた。 氷室の横顔を思い出すと、その落ち葉までもが彼に似合っているように見えてしまう。「傘を差し出したときの氷室、絶対に笑ってたんだって……」 俺にだけ見せたその笑みの理由が、どうにもわからない。学校の勉強も理解できない俺なので、氷室の頭の中なんか、さらにわかるハズもなく――。 モヤモヤした気持ちを抱えたまま弁当を食べていたら、不意に今日までに提出しなければならない課題を思い出してしまった。(あーあ、またやっちゃった。なんでこう、大事なものを忘れちまうんだろうな、俺ってば……) 放課後、肩を落として、図書室で課題に必要な資料を探していたときだった。静かなページをめくる音だけが響く中、ふと視界の端に見覚えのある姿が目に映る。