LOGIN似たもの同士
すでに閉園しているテーマパークは、小学生のときに家族で来たことがあった。 「どれだったかな、んー……」 俺の隣でスーツのポケットに手を突っ込み、なにかを探す桜小路さんに話しかける。 「なにしてるんですか?」 すると両手に持っている鍵の束を俺に見せて、ニッコリほほ笑む。 「このたくさんついてる鍵の中から、門扉の鍵を探していてね。どれだと思う?」 ジャラジャラ音をたてて、たくさんの鍵を見せびらかす桜小路さんに、うんとイヤな顔をしてみせた。 「そんなの、わかるわけないじゃないですか」 「だよな。だから奥の手を使おうと思ってね」 桜小路さんは持っていた鍵の束をポケットに戻すと、最初に逢ったときに見せた、吸血鬼の姿に早変わりする。 「わっ……」 淡い月明かりに光り輝くシルバーの髪と、俺を見つめるルビー色の瞳がとても綺麗に目に映る。 「今夜は満月だろ、そのせいで血が騒いでしまってね。君にはこの姿を無理して隠さないで済むから、すごく楽だな」 言いながら俺の体を軽々と横抱きにし、数歩だけ後ずさった次の瞬間、助走をつけて高い門扉を飛び越えた。 「ひいぃっ!」 勢いよく門扉の上を飛び越えたのに、着地したときの衝撃はまったくなく、気づいたらテーマパーク内の地に両足がついていた。 「SAKURAパークに、ようこそお越しくださいました!」 桜小路さんは胸に手を当てて、俺に深くお辞儀をする。 「やっ、待ってください。勝手に入って、大丈夫なんですか?」 「安心しろ、俺はここの関係者だ。そこにあるベンチに座って、待っていてくれ。すぐに戻る」 ひょいと肩を竦めて、颯爽と目の前から消えていく後ろ姿は、暗闇の中に溶けていなくなってしまった。 しんと静まり返るテーマパーク。あまりに静かすぎて、幽霊が出てきてもおかしくない。だって――。 「俺ってば、吸血鬼に連れ去られたようなものだし」 ベンチに座る余裕もなく、その場に立ち尽くしていると、バンッという大きな音と同時に、テーマパーク内の明かりがいきなり点灯した。 「うっ、眩しぃ」 暗闇に目が慣れていたせいで、アトラクションを照らす煌びやかなライトが、ものすごく目に突き刺さる。 「お待たせ。なんだ、渋い顔をしてるな」 「ライトが眩しいんです」 「だったら眩しいのを忘れるくらいに、夜遊びするがいい」 桜小路さんは俺の利き手を掴んで、どこかに引っ張って歩く。 「瑞稀は、ここに来たことはあるのか?」 「小学生のとき、何回か」 「君が小学生のときということは、そこから何度かリニューアルしているからね。楽しめると思う」 そう言って桜小路さんが連れて来たところは、コーヒカップの乗り物だった。 「これ、あまり得意じゃないんだけど」 「ワガママを言う前に乗ってごらん。俺が楽しませてあげよう」 コーヒカップの中に、無理やり体を押し込まれた。仕方なく腰かけると、桜小路さんは向かい側に座り、目の前にあるハンドルをこれでもかとぐるぐる回す。 「うわっ、まっ待って! 目が回る!!」 「遠くを見るから目が回るんだ。俺の顔を見ててごらん」 「それでもっ、実際すごく回ってっ、気持ち悪っ!」 「なるほど。栄養失調の体には、無理がかかるということか。では、ゆっくり回すとしよう」 桜小路さんのセリフどおりに、ものすご〜く静かに、コーヒカップが動きはじめた。 「ありがと、ございます。これならなんとか、大丈夫です」 「どういたしまして。ほかに苦手なアトラクションはあるのか?」 吸血鬼の姿をしている桜小路さんは、長い足を格好よく組んで俺を見据える。コーヒカップの中だというのに、カッコイイ彼がそこにいるだけで、おとぎ話の世界観が目の前に広がっていた。 (苦手なアトラクションを訊ねられたものの、なんと答えてよいのやら) 「小学生のとき以来、テーマパークに来たことがないので、今現在苦手なものがわからないです」 「だったら苦手を探す旅に出ようか。おいで」 柔らかくほほ笑んだ桜小路さんは、俺に手を差し伸べた。さっきの衝撃で足下がおぼつかない可能性があるので、遠慮なく捕まらせてもらう。 「メリーゴーランドに乗ったかわいい瑞稀を見てみたいが、年齢的にかわいそうだからやめてあげよう」 「アハハ……そうしていただけると助かります」 その後、桜小路さんの案内に伴われ、たくさんのアトラクションに挑んだ。安全面の関係で、たったひとりで乗るものが多かったけれど、絶叫系は意外と楽しかった。 激しく動き回るジェットコースターが一周終えたので、降りる気持ちでいたのに、なぜかスピードダウンせずに二週目に突入したときは「嘘だろ!」なんて、大きな声が出てしまった。 それを見た桜小路さんは、乗降口でお腹を抱えて大笑いする。それを横目で確認できたのも一瞬で、あっという間にぐるぐる回るレールの中に、勢いよく突入したんだ。 「瑞稀の顔、ものすごく驚いていたね。そんなに意外だったのかい?」 「普通は一周したら終わりなのに、あのまま二周目にいくとか、ありえないじゃないですか!」 今俺たちが乗っているのは、SAKURAパークの中で一番大きなアトラクションの観覧車だった。丸っこい桜の花びらの形をした、たくさんのゴンドラが回っている様子は、遠目に見ても綺麗だった。 「俺は久しぶりに笑わせてもらった。またあの顔を見せてほしいな」 「嫌ですよ、まったく」 「瑞稀は楽しめただろうか?」 先ほどとは違う低い声の問いかけにハッとして、自然と背筋が伸びた。 「あっ、そうですね。小学生のときとは、また違った感じで楽しめました」 家族で楽しんだときと今では、やはり楽しむ種類が違う気がする。しかもこうしてお世話になったんだから、ちゃんとお礼を言わなければならない。 「桜小路さん、ありがとうございました。貧乏学生がこんな贅沢していいのかって最初思っていたけど、それを忘れて楽しめちゃいました」 「貧乏学生の理由、聞いてもいいだろうか?」 小首を少しだけ傾げた桜小路さんのシルバーの髪が、しなやかに揺れる。 「高学年のとき、父さんが交通事故で亡くなったんです。そこから母さんは俺を育てるのに、朝から晩まで働いていました。その苦労を知ってるので、なるべく自腹で生活しなきゃって、バイトをかけ持ちしながら、大学に通ってます」 桜小路さんは暗い内容の話を、瞼を伏せて聞き入る。そして形のいい唇がゆっくり動いた。 「俺もね、家族を亡くしてる。俺が吸血鬼になったのが原因で、母親が心臓を悪くしてね」 耳に染み入るような低い声だからか、妙に心に響いてしまった。同じように大事な家族を亡くしている彼に、無条件に同情してしまう。 「一族の中から、必ず吸血鬼になる者が生まれる。ある日突然、狂おしいほどに血が欲しくなることで、自分が吸血鬼になったのを悟るんだ」 桜小路さんはゴンドラの窓から見える月を、ぼんやりと眺めた。 (どこか寂しげな横顔は、彼が吸血鬼になった身の上を不運に思ってるせいなのかな) 「じゃあほかにも、吸血鬼として生きてる人がいるんですね」 「ああ。お互い、それを隠して生きているからね。親戚同士でも、さっぱりわからない。それに実際、誰が吸血鬼なのか知ったところで興味はないな。瑞稀だって、ほかの貧乏学生のことを知りたい?」 「確かに、知りたいとは思いません」 「吸血鬼になって、いろんな人間の血を吸わないと生きてはいけない不便な体をもってしまったことは、とても不幸だとはじめは考えた。だがそれでも楽しまなければって、考えを改めたんだ」 「た、楽しむ?」 逆境を逆境と思わない考えに、ド肝を抜いた。 相変わらず桜小路さんは外の景色を眺めたままだったが、さっきよりも穏やかな雰囲気が漂っていて、嬉しそうに口角があがってるのが目に留まる。 「だってね、吸血鬼は不幸な体質と思い込むだけで、損した気分になるじゃないか。逆にプラスになることを見つけるほうが、絶対に楽しい」 「桜小路さんの立場になったら、俺はきっとすごく落ち込んでしまうと思います。誰かの血を啜って生き長らえることを、恨んでしまうかもしれません」 桜小路さんは窓に差し込む月明かりに、右手を伸ばした。当然それは掴めないハズなのに、なぜだか手中におさめたように感じたのは、ルビー色の眼差しから彼の自信が溢れているように見えたから。 「俺も君も、所詮は同じ人間。人生は一度きりだろう?」 わかりやすい問いかけに静かに頷くと、凛とした声がゴンドラ内に響く。 「つらいことばかりフォーカスしていたら、せっかくの人生が暗いことばかりになってしまう。自分が死ぬ間際に『ああ楽しかったな』と、思える人生にしたくてね」 桜小路さんの言葉を聞いて、今までのことを振り返った。楽しかったと口にできることがなさすぎて、気持ちがどんよりしてしまう。 「瑞稀、学生生活は今しかない。社会人になったら、できないことがたくさんあるんだよ」 窓の外を見ていた桜小路さんは、ゆっくり首を動かして俺の顔を見つめる。そして月明かりを掴んだ手で、俺の左手を握りしめた。 「お金がなくても、楽しめるしあわせがそこにある。小さなことからでいいんだ。それを探しながら、学生生活を送ってみるのはどうだろうか」 ルビー色の瞳が、宝石のような煌めきを放つ。桜小路さんが心を込めて告げたセリフに、綺麗な色をつけたみたいだった。 「わかりました。なんだが宝探しするみたいで、ワクワクしちゃいます」 「やっと笑ってくれたね。その笑顔が見たかっ――」 目の前でルビー色の瞳を大きく見開き、胸元を強く握りしめ、肩を上下させて荒い呼吸を何度も繰り返す。 「桜小路さん、どうしたんですか? 具合が悪くなったとか?」 傍に近寄ろうとしたら、顔の前に手を伸ばされた。 「ダメだ、今は来ちゃいけない。ただの吸血衝動だ。我慢すれば、すぐにおさまる」 「でも……」 「せっかく瑞稀の、え、笑顔が見れたの、に。なんでこんなタ、イミングでっ! くうっ!」 椅子にうつ伏せになり、両目をキツく閉じて苦しそうに体を震わせる桜小路さんの姿を目の当たりにして、迷うことはなかった。*** 寝返りをした瞬間に、引き攣るような腰痛でぱっと目が覚めた。痛みはそれだけじゃなく、二日酔いによるものと思われる頭痛までついている有様に、飲みすぎたことを心底後悔する。 橋本が目を開けると室内はすでに明るくて、カーテンの隙間から光が差し込んできていた。眉根を寄せて、眼球に飛び込んできた眩しさをやり過ごしてみる。「い、ま、何時だ?」 痛む腰に手を当てながら起き上がり、壁にかかってる時計を見やる。時刻は午前10時23分だった。 今日が仕事の宮本の姿は当然なく、主のいない部屋の中にいる橋本を、本棚に置かれた美少女フィギュア数人が微笑みながら見下ろしていた。 自分に向かって媚びる感じで笑顔を見せる彼女たちに、宮本なら喜んで笑いかけることが想像できたが、橋本の心情としてはそれすらも嫉妬の材料になった。 その何とも言えない何かが原因で、どこかいたたまれない気持ちに自然と陥った。マイナス思考に引きずられるように、昨夜のことをまざまざと思い出してしまう。(飲みすぎた勢いとはいえ、何であんなに爆弾発言を連呼してしまったんだぁあぁ俺ぇ……) 痛む頭を両手で抱えつつ、嫌々するみたいに首を振ったからこそ、その存在に気がついた。「ぁれ……?」 橋本の仕事着がハンガーにかけられ、壁に吊るされていた。綺麗に整えられている上着の中に、ワイシャツが一緒にかけられていたのだが――。 頭を抱えていた両手を使い、目をしっかり擦ってから、ふたたびハンガーにかけられた衣類を確認してみる。 けして上手とはいえない、歪な形で縫い付けられたワイシャツのボタンに、橋本の目が釘付けになった。(雅輝のヤツ、いつの間にあれを直したんだ? 行為のあとに腰が砕けた俺を背負って風呂に入れたり、シーツの交換をしたりとあれこれしていたはずだから、寝るのが遅くなっているというのに) しかしながら橋本の両腕を縛りつけたえんじ色のネクタイは、使い古した感を表すように、上着の肩の辺りに無造作にかけられていた。 くたびれたネクタイの様子で昨日の痕がどんなことになっているか、パジャマの袖をめくった。 見える位置にキスマークをつけるなと強く言いつけてから、同じミスをしなかった宮本。行為に熱が入ったり、昨夜のように頭のネジが飛んだ状態になっても、衣服から見えないような位置に痕をつけるようになった。「だから
「陽さん?」 自分を突き通して見えない何かを見つめる橋本の面持ちは、得も言われぬ儚さが漂っていて、抱きしめたい衝動に駆られた。「自分の不甲斐なさとか、ましゃきを守ってやれなかったこととか、江藤ちんと何回ヤったのかなんてさ!」「はあ?」 語尾にいくに従い、目力を強めながらきっぱりと言いきった橋本の言葉を聞いて、腑に落ちないという感じに首をかしげた。「陽さんすみません。逃げきったあとに車まで辿り着いて、現場から連れ去ると俺は豪語したのに、それができなかった無念があるので、冒頭と真ん中の意味については理解したのですが、最後のモノだけ、どうしても意味が分かりません」 疑問に感じたことを、自分なりに分かりやすいようにまとめて告げた途端に、橋本は勢いよく起き上がり、ベッドの上にあぐらをかいた。「何で分かんないんら、ましゃき」 地の底から響くような低くて挑みかかる声に、ひゅっと躰が竦んでしまった。まるで、地獄の番人に声をかけられた気分に陥った。「何で分からないんだと聞かれても……」「ノンケだったお前を江藤ちんはたぶらかし、こっちの道に引きずり込んだんだよな?」「へっ!? 俺って、たぶらかされたの?」「ましゃきのフェラがうまいのも、江藤ちんのピーを何度もしゃぶったからなんだろ!」「陽さん?」 橋本の言葉に反論したいのに、今は何を言っても無駄な気がした。泥酔状態の思考に、まともな判断力があるとは思えない。もしかして、わけの分からない今だから――。(――酔っぱらっているからこそ、陽さんは普段は言えないことを、こうして俺にぶつけているのかもしれない) 内なる腹立たしさを表すような荒っぽい口調なのに、表情はどことなく悲しげな感じに宮本の目に映った。「……ましゃきに、早く出逢いたかった」 ベッドの脇にしゃがみ、膝の上に置いてる両手を固く握りしめた橋本に近づいて、無言のまま左手を掴んで、優しく両手で包み込む。 いろんな感情がない混ぜになってるせいか、橋本の左手はとても冷たかった。それをあたためるように撫でさすり、視線を合わせた。 それが合図になったように、掠れた声で橋本が口火を切る。「江藤ちんよりも先にましゃきと出逢って、恋に落ちたかった」「はい……」(陽さん、こんなふうに思っていたなんて。江藤ちんにヤキモチ妬きすぎだって言ったら、贅沢を言うなっ
無事に帰ることができたお祝いをするために、次の日の仕事終わりに走り屋のリーダーをしている友人が経営している焼き鳥屋へ、橋本と飲みに行った。 残念ながら翌日も仕事がある宮本は、安定のソフトドリンクで乾杯。橋本はわざわざ有給をとったとのことで、中ジョッキの生ビールで乾杯した。 よく食べよく飲みよく喋り――互いの無事を確かめ合うように、楽しいひとときを過ごした。あまりに楽しかったのか、橋本の飲みっぷりがいつも以上だったこともあり、べろんべろんに酔っぱらっていた。 泥酔状態で歩けなくなった橋本を、仕方なく(いや、むしろ喜んで)宮本が背負って自宅に連れ帰ったのだった。「陽さん大丈夫ですか? 気分は悪くないですか?」 前にも似たようなことがあったのを思い出しながら、ベッドに横たえさせて話しかけると、目が覚めたらしい橋本はニッコリ微笑む。「らいじょうぶら。ましゃきが優しくしてくれたかりゃ、全然平気」 呂律が回らない橋本の様子に、嫌な予感のクラクションが宮本の脳内で鳴った。良い予感は大抵外れるのに、悪い予感というものは不思議と当たる確率が高い。「陽さんってば相当酔ってるみたいですから、お水を飲んだほうがいいかもしれませんね……」 それを踏まえて、橋本に注意を促してみた。冷たい水を飲んで、少しでもいいから酔いを覚ましてほしかったのに――。「飲むならお前の(自主規制)が飲みたい」「そっ、それは俺の躰の準備というか、この場の状況がそんな雰囲気じゃないのでごめんなさい!」(ひーっ! 酔っ払った陽さんのエロモードが全開すぎて、対処に困っちゃうよ)「なんで無理なんら。俺のことが嫌いなのか?」「嫌いじゃないです。むしろ大好きですよ」「俺もましゃきが好き、愛してりゅ」 ベッドの上に横たわる橋本が、自分の中に溢れ出る愛情を示すような笑みを浮かべて、嬉しそうに告げた。目尻に浮かぶ笑い皺が、橋本の持つ愛らしさを一層引き立てているように見えるせいで、胸が無償にドキドキする。 そこはかとなく淫靡な雰囲気になりつつあるのを、交わし合った告白でひしひしと感じ、どうにも身の置き場がなくて、宮本は視線を右往左往させるしかなかった。「雅輝、なぁまだ?」「はい?」 落ち着きのない宮本になされた疑問に、彷徨わせていた視線を橋本に注いだ。「俺の股間は、準備OKなんだぞ」「やっ
「理由なんてそんなの、わざわざヤクザとお知り合いになんて、普通はなりたくないだろ」 笹川の問いかけに宮本は傾げていた首を元に戻し、抱きしめている橋本を見つめる。「たまたま、陽さんのお父さんがヤクザだった。ご兄弟もその道の人だということですよね。俺は別にかまわないです」「雅輝、怖くないのか? 俺が笹川さんと逢うだけで、すげぇ怖がっていただろ」(顔を青くして、思いっきり怯えていたというのに――)「ハッキリ言って怖いです。でも陽さんは陽さんだから。もし何かあったら、一緒に逃げればいいかなって」 逃げると言った宮本を、笹川は眉間に深いしわを作って声をかける。「逃げるだと?」 その顔は何を言ってるんだという疑問と軽蔑が入り混じったものに、橋本の目に映った。「はい。危ないなって思ったら、陽さんを連れて車で逃げます。どんなオンボロ車でも、絶対に逃げきれる自信はありますので」「ぷぷっ、アハハハ!」 宮本としては恋人を守るために、格好よく宣言したのかもしれない。だが詳しい事情を知らない笹川の態度と、熱くなっている宮本の温度差が両極端すぎて、どうしても笑わずにはいられなかった。「雅輝、車がなかったらどうするんだよ?」「むぅ。とにかく車がある場所まで逃げる」 無茶ぶりな提案に、笑いが込みあげてきた。自分の考えを躊躇いなく言ってのけるところが宮本らしくて、愛おしさに拍車がかかる。「それって俺が単独で戦ってる間に、お前が何とかして車を確保したのちに現場に乗りつけて、一緒に逃げるとでも言いたいのか?」「そんな感じになるかもです」「橋本さん、何を寝ぼけたことを言ってるんだ」「俺が好きになった男は、言ったことを必ずやってのけるヤツなんです。だからこそ、全力で頑張らなきゃいけない」 涙が溜まるくらいに笑いすぎた橋本を見ながら、今度は笹川が首を傾げた。「ドラマや映画じゃあるまいし、都合よく段取りができるとは思えないけどなぁ」 他にも何か文句を言い続ける言葉を無視して、意を決したような面持ちの宮本と見つめ合った。「陽さんが俺を守ると言うなら、俺も陽さんを絶対に守ります」「雅輝……」「はいはい、美しい愛情を確かめ合ってるところ悪いが、この状況をどうやって引っくり返すんだぁ?」 口調に合わせて二度手拍子した笹川の声で、躰に絡んでいた両腕を互いに離し、その場
笹川に太刀打ちできないことくらい嫌というほど分かっていたが、手を出さずにはいられなかった。 顔面に向かって、ジャブの連続を浴びせる。しかし打ち込んだすべての拳を易々と受け止められた挙句に、疎かになっていた足元を掬われ、前のめりの状態で派手にすっ転んだ。「陽さんっ!」 しかも土下座に似た形で転んだため、目の前の無様な姿をどんな気持ちで宮本が見ているだろうか。そのことを考えただけで、悔しくてならなかった。(ちくしょう、俺は好きな男すら守れないのか――) 下唇を噛みしめながら起き上がろうとした瞬間に、笹川の足が横っ面を踏みつけて、橋本を動けないように固定する。「やめてください。貴方の言うことを聞きますからこれ以上、陽さんに手を出さないでくださいっ」「やれやれ。相手が追い込まれた状況ゆえに、そろって冷静な判断ができなくなっているなぁ」 笹川は踏みつける足の力を緩めることなく、見下すような冷笑を唇に湛えながら胸の前で両腕を組む。 下から見上げた偉ぶるその態度を目の当たりにして、怒りが沸々と湧き上がってきた。「クソっ、足を退けやがれ」「狂犬の龍己の血を受け継ぐだけあって、威勢よく吠えまくるのなぁ。そういう男は嫌いじゃないぜ、潰し応えがあるから」「狂犬の龍己?」 笹川が告げたセリフに反応した宮本が、疑問に思った言葉を口にした。それにより自分の身の上を、この場で明かさなければならないことを悟り、目の前が真っ暗になる。「あれ? もしかして恋人に言ってないのか? 橋本さんチのこと」「…………」 踏みつける橋本の顔を笹川はわざわざ腰を曲げて覗き込み、いたずら好きの子供がするような、意地悪な笑みを浮かべる。「その顔は言ってないというよりも、言えなかったというべきか。なるほどな」 サッカーボールを軽く蹴飛ばす感じで橋本の頭を解放し、音をたてずに後方に下がる。そんな笹川をやっという感じで、うつ伏せのまま見上げた。 これまでのやり取りで、怒った橋本を牽制するために笹川は距離を取ったのかもしれない。しかしながらいろんなことがショックすぎて反論はおろか、すぐに立ち上がることすらできなかった。「この場で恋人が俺とヤるくらいに、自分チが嫌なことのひとつらしいなぁ。俺の口から言ってもいいけど、橋本さんからゲロするか?」「自分の口から言えたら、とっくの昔に言って
頬に受けた切り傷の痛みと、頭突きからくるふらつきで顔を歪ませる橋本とは対照的な、余裕のありすぎる笹川の様子はムカつくものだった。その余裕から油断しないか、血まなこになって隙を探る。「さぁて、ふらつく足取りで橋本さんがどこまで逃げられるか、追いかけっこしようや」 笹川は握りしめていた両拳を緩めて、手のひらが見えるように開く。「何をするつもりなんだ?」 ノーガードを表す格好に、橋本の眉の間に自然と皺が刻まれた。「握力自慢をしようかと思ってなぁ。日々トレーニングするのにハンドグリッパーを使っているんだが、アメリカの製品ですげぇのがあるんだ。世界で5人しか使いこなすことのできないグリッパーを、最近閉じれるようになったんだぜ」「世界で5人……」 橋本の額から、つーっと汗が滴り落ちた。見えない恐怖で歯がガチガチ鳴りそうになり、奥歯をぐっと噛んでそれをやり過ごす。「何でも、握力が166キロないと使えないグリッパーらしい。ちなみにネット通販で売ってる。三千円もしない商品なんだけど、橋本さんも使ってみるか?」(確か成人男性の握力の平均って、45キロ前後だった記憶がある。コイツぁ化け物か――)「殴られるよりも、アンタに握られたほうが痛そうだ」「背筋と握力は、年を取っても筋力が落ちない部分だからなぁ。毎日鍛えて向上させて、落ちたところのフォローで使わないと」 笹川が瞳をすっと細めた瞬間に腰を落とし、低い体勢のまま突進してきた。まっすぐ自分に向かってくるのを想定して左に逃げたが、笹川の左手がその動きを塞ぐように伸びてくる。「チッ!」 舌打ちしながら素早く後退したのに硬いものが踵に当たる衝撃で、そこに柱があることを察知した。 動きを封じられる前にしゃがみ込み、笹川の脇を抜ける勢いで飛び出す。背後から手が伸びてくる気配を感じつつ、できるだけ距離を取ろうと駆け出した。(ああ、クソっ! 出口が反対側なんてツイてねぇ)「橋本さんってば、足元がふらつきながらも、見た目以上にすばしっこいのな。それだけ足腰を鍛えていたら、さぞかしアッチでもいい感じで使えるんだろ?」 捕まえられなかった両手を見つめて投げつけられる笹川の質問に煩わしさを感じ、眉間に皺を寄せてみせた。「そんなくだらないことを訊ねるくらいなら、さっさとそこを通してくれないか。ハイヤーに乗りっぱなしで疲れ