結婚して2年、水瀬一花(みなせ いちか)が引き出しの整理をしている時、婚姻届受理証明書がうっかり破けてしまった。
それで再度発行してもらおうと役所へ行き、申請すると、職員が困惑して言った。「申し訳ございません。既婚である事実は確認できませんが」
「そんなまさか、結婚してもう2年なんですよ?」一花はそう言うと、真っ二つに破けてしまった婚姻届受理証明書を職員に渡した。
職員はしっかりと三回確認して、パソコン画面を見つめながら一花に言った。「本当に結婚手続きされた記録は確認できません。それに、この判子も役所のものとは少し違うようです……おそらく、偽物でしょう」
あまりの出来事に気が動転して役所を出てきた一花のもとに、一本の電話がかかってきた。
「水瀬様でいらっしゃいますか?こんにちは、私はお父様からご依頼を受けた弁護士です。財産相続の件でサインをいただきたいので、河野総合法律事務所までお越しいただきたく存じます。お時間ございますでしょうか?」
詐欺電話かと思い、一花が電話を切ろうとしたその瞬間、相手が突然こう言った。「水瀬様、お母様の水瀬雪乃(みなせ ゆきの)様が、20年前に水瀬様を市内のひかりの丘学園の前に置いていかれました。調査した結果、あなたは南関市のトップに君臨する財閥家出身である西園寺匠(さいおんじ たくみ)の血を引いている唯一の娘様だったのです」
それを聞いた瞬間、一花はその場でピタリと体の動きを止め、すぐに弁護士事務所へと向かった。
彼女は弁護士から今までの人生において、最も衝撃的な話を聞かされたのだった。
彼女の実の父親は西園寺匠であり、西園寺家は莫大な資産を持つ財閥家である。彼は先月亡くなり、彼名義の株、不動産、会社を全て合わせると余裕で兆を超えていた。そして一花は彼の血を引く娘だったのだ。
あまりの衝撃で頭が追いつかない中、弁護士が突然質問してきた。「水瀬様はご結婚されていますか?お子様は?」
その瞬間、夫のあの顔が脳裏に浮かび上がった。
それからカバンの中の偽造された婚姻届受理証明書のことを思い出し、彼女はペンを持つ手に力を込めた。「2時間ほど待ってもらえませんか。少し確認したいことがあるんです」
弁護士事務所を出ると、一花はまっすぐに夫の会社へと向かった。
夫である黒崎慶(くろさき けい)のオフィスのドアは少しだけ開いていて、一花が押し開けようとした時、大人の女の甘ったるい声が聞こえてきた。
「慶、私たち結婚して5年よ。一体いつになったら、みんなに公表してくれるの?」
一花は瞬時で固まってしまった。
この声には聞き覚えがある。大学時代の指導教員である柏木綾芽(かしわぎ あやめ)だ。
綾芽は慶よりも6歳年上なのだが、年上であるだけでその美貌やスタイルはまさに女優並みだった。
大学の中で綾芽は男女問わず人気があった。さらに大学で一番の指導教員だとも謳われていた。
一花が息を殺し、音を立てないようにしていたその次の瞬間、夫のあの常に優しく魅力的な声が響いてきた。
「会社はもうすぐ上場するだろう。まだまだ彼女には力になってもらわないといけないんだ。それに、じいちゃんが昔残した遺書には、君を黒崎家に入れるなとある。もし、今俺たちの関係を公表してしまえば、きっとばあちゃんから君がひどい目に遭ってしまうよ。それじゃ俺はとても耐えられないよ……」
一花はもう頭の中がパンクしてしまい、口元をしっかり手で押さえて、喉元からあがってくる嗚咽を漏らさないように必死に堪えていた。
あの破れた婚姻届受理証明書を恐る恐る繋ぎ合わせて、まるで大事な宝物のようにそっとカバンの中になおした。
初めから彼女はこの二人の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。
そして一花は急いで会社を出ると、すぐに電話をかけた。彼女は深呼吸し、さっきとはまるで別人のように冷静な声でこう言った。
「河野弁護士、財産相続の書類に今すぐサインします。
それから、私は未婚で子供もいません。すべての遺産を私一人で相続します」
その手続きを済ませると、一花は家まで車を走らせた。その途中ずっとぼうっとしていて、うっかり後ろから衝突されてしまい、額に軽い傷ができてしまった。
病院で傷の手当てをしてもらい、何かを思い立ったかのようにそのまま産婦人科へと向かった。
検査結果を受け取り、一花はようやく憂いがなくなりスッキリした。
「つまり……子宮には何も問題がない、ということですよね?」
「そうですよ。検査結果を見ると、お体はとても健康そのものです」
「妊娠できますか?」
「もちろんですよ」
「じゃあ、夫婦の夜の営みにも影響はないってことですよね?」
一花のその言葉を聞いて、五十過ぎの女性医師は少し気まずそうにしていた。「そこまで説明する必要がありますかね?」
しかし、結婚前の検査では、慶が彼女の検査結果を見て子宮に大きな問題があり、妊娠できないだけでなく、性行為をすると体は取り返しがつかなくなるほどダメージを受けると説明したのだ。
「それでも、君と結婚したいんだ」と当時、慶は一花の手を握りしめて優しい決意の眼差しで見つめてきた。「一生、君しかいないよ」
その誓いのために、二人は猛反対する黒崎家に立ち向かったのだ。
一花は直に義父が湯飲みを激しく床に叩きつけ、怒鳴り散らすのを目の当たりにした。「世継ぎを生めないような女なんかと結婚する気か」
慶の母親は家族が集まっている中、親戚に泣きながら訴えた。「うちの慶はとんでもない女に騙されてしまったわ」
しかし、毎回彼は笑顔で言っていた。「家族の言うことは聞かなくていい、俺がいるからね」
2年という結婚生活の中、義母はことあるごとに一花を責めた。「子供を生めない役立たず」だの「子供が生めないくせに、結婚して何になるっていうのよ?」という言葉がまるで呪いのように一花を苦しめ、彼女は長きに渡り不眠の夜を過ごした。
一花が交通事故にあったという知らせを受けて、慶はすぐに病院まで駆けつけてきた。
真っ白なシャツを着た、一メート八十を超えるスラリとした長身の彼が勢いよく駆けてくるのを見て、一花は6年前の彼との出会いをふいに思い出した。
二人が初めて出会ったのは、指導教員である綾芽のオフィスで、同級生の代わりに書類を持って来た時のことだ。その時、慶はちょうど綾芽と何かを話し合っていて、視線を上げると一花と目が合い、礼儀正しく会釈だけした。
それからというもの、4年に渡り彼から猛アタックされたのだ。
慶は誰もが認める大学のアイドル的存在だった。そのルックスは言うまでもなく、成績優秀で、家柄も申し分ない男だった。
それに彼は女性を口説く時は非常に積極的で、誰に対しても優しく穏やかな性格をしているものだから、そんな彼を拒否できる女の子などほとんどいなかった。
そして一花も例外ではない。
彼女は孤児として育ち、性格はクールで誰かとグループを作って群れることなく一匹狼だった。そんな彼女でも、他の女の子たちと同様に、慶からの猛アタックには負けてしまった。
病院に駆けつけてきた慶は一花に何を話しかけても反応が返ってこなかったので、彼女が事故でショックを受けていると勘違いした。そしてすぐ一花を抱き寄せた瞬間、彼女は反射的に彼を力強く押し退け、立ち上がった。
「行きましょ」
短くそう吐き捨てると、一花は慶の横をスッと通り過ぎていった。
以前とても落ち着ける場所だった彼の懐は、今ではただ不快でしかなかった。
車に戻ると、慶はやはり一花の状態を心配していた。
「何があった?今までは運転にはかなり気をつけていたのに、今日は一体どうしてしまったんだ?」
「……」
一花は慶に返事はせず、自分の手に視線を落とした。すると指にはめられた大きな輝くダイヤの指輪が目障りに映った。
一花に無視されても慶は全く意に介さず、自然に彼女の手を握った。
そしてまた、一花はその手を避けた。
「なんで怒ってるんだ?分かったよ、言いたくないなら無理に聞かないから。
今日うちに重要なお客様が来たんだよ。家政婦さんには君の好きな料理をたくさん作ってもらってるんだ。君のご機嫌がそれで直るといいんだけど」
一花にこのような態度をされても慶は非常に優しかった。しかし、彼にこう優しくされればされるほど、一花は笑いたくなってくる。
「気持ちを切り替えて、怒らないで、ね。今忙しいのが終わったら絶対君と一緒にいる時間を長くするから。最近会社は上場する準備で、とっても忙しいんだよ」
慶は一花の機嫌が少し直ったと思い、笑顔を見せた。
「そうね、怒ってないで気持ちを切り替えなくっちゃね、私って本当に彩り豊かな人生を送っているわ」
一花のその言葉に隠れた意味を、慶は理解していなかった。
黒崎家の豪邸は、南関市の一等地である峰葉ヒルズにあり、その敷地面積は150坪以上だ。
しかしそれは、一花が大学を卒業して自分の事業を諦め、彼の会社に尽力した結果得られたものだった。
家に到着してすぐ、楽しそうな笑い声が二階から聞こえてきた。
男の子に、それから優しい女の声だ。
男の子は、一花と慶が結婚してすぐに養子として迎えた子で、今年5歳、名前は黒崎颯太(くろさき そうた)と言う。
一花が視線を上げると、そこには5年間会っていなかった綾芽の姿があった。今やそれを見てもまったく驚くこともない。
綾芽はブルーのニットスカートに、ウェーブがかったロングヘア姿だ。30歳を過ぎているが、まだ20歳を少し超えたくらいの若々しい顔で、輝くオーラを放っていた。
「一花、一体誰が遊びに来たと思う?」
横から聞こえる慶の低いその声からは喜びがにじみ出ていた。
一花は初めてこの横にいる男がここまで気分を向上させているのを見た。
普段、彼がいくら一花を気遣い、優しくしてくれたとしても、今のようにここまで嬉しそうに気持ちを興奮させることはなかった。
それは無意識のうちに溢れ出す、男が愛する女性へ向ける時の情熱のエネルギーなのだろう。
「柏木先生?」一花はわざと眉を寄せて驚くふりをしておいた。
しかし、内心は嫌悪で満ち溢れている。
この時、目の前にいるこの綾芽は大らかで優雅、さきほど会社のオフィスで見せていた甘ったるい様子など微塵も見せなかった。
「水瀬さん、お久しぶりね」
綾芽はすぐに颯太の手を繋ぎ、二階から降りてきて、心を込めて一花に挨拶をした。
そして一花は颯太のほうを見た。
慶は結婚後すぐに一花に相談してきて、以前彼女が暮らしていたひかりの丘学園から男の子を養子として迎え、黒崎颯太と名付けたのだ。
この子を養子とすれば、黒崎家の年配陣の要求に応えることができ、二度と一花に子供のことで責めることはないという名目だった。
その時、一花は慶が自分のためにそう考えているのだと思い、すぐに同意したのだ。
それがまさか、颯太を養子として世話をしてきた2年、ここまで苦労するとは思ってもいなかった。
この子は気性が激しく、何か面白くないことがあると、まるで彼女に敵意があるかの如く、すぐに何か物を一花に投げつけてくるのだ。
しかもある時、彼は一花のいる目の前で、慶に本物の母親を返せと騒いだこともあった。
一花の我慢が限界に達し、慶に養子として育てるのはやめたいと訴えたことがあるが、彼はいつも彼女をどうにか説得してきた。
颯太には母親がいなくて可哀想だから、一花にはもっと寛大な心で受け止めてやってほしいと言うのだ。そして一花も小さい頃に両親に捨てられたじゃないかと、孤児であることを思い返させるのだ。
そして今、颯太がしっかりと綾芽の手を握っている光景を見て、慶が自分に対して行ってきた態度を合わせると、全てが繋がった。
慶と綾芽は結婚してもう5年、颯太は5歳だ。
黒崎家は綾芽を嫁として迎え入れる気はなかった。それで……慶は一花を騙し、うまく利用してきたということなのだろう。
食事の間、慶と颯太はひたすら綾芽におかずを取り分けてあげ、この三人で楽しい雰囲気を作り上げていた。そして傍でただ黙々と食べている一花は蚊帳の外だった。
「一花、柏木先生はね、最近育児に関する書籍を執筆中なんだ。先生は静かな環境で集中したいそうで、ちょうど会社のほうも忙しいし、君がやることも多いだろう。だからさ……」
そしてタイミングを見計らって、慶は茶碗と箸をテーブルに置くと、一花に向かってこう言った。
「それで、柏木先生には暫くの間ここで暮らしてもらおうかなって。彼女も忙しい君に代わって颯太の世話をしてくれるって、この子も先生のことがとても気に入ってるみたいだしね」
それはもう滑稽でしかない。
こそこそと裏で結婚し5年もの間好き勝手楽しむのに飽きたらず、今度は正当な理由をつけて、この女をここに住まわせようということか?
一花はまるでその言葉など聞こえなかったかのように、ゆったりと食事を続けた。
その場の空気は瞬時に凍り付いた。
慶は少し気まずそうに声を小さくして彼女に注意した。「一花、君に話しかけてるんだよ」
すると、一花が茶碗をテーブルに置く音がカチャンと響いた。
一花が口を開く前に、綾芽がすぐに声を出した。
「ごめんなさいね。私のせいだわ。あなた達を困らせちゃって。水瀬さん、慶君はただちょっと提案してくれただけなのよ。彼もあなたが仕事が忙しいうえに、家のこともしないといけないから、それを心配しているの。それに颯太君のお世話だって、とても大変だろうし、私がお手伝いを……」
「嫌だ!僕は綾芽さんにいてほしいの!」
そう言うと、綾芽の隣に座っている颯太がすぐに不満を漏らした。
綾芽が話している途中で、彼はすぐに箸を投げ捨ててテーブルを叩き始めた。
「颯太君、そんなことしちゃダメよ……」
「颯太、はしたないわよ!」
彼の様子を見てすぐに止めに入った綾芽と、普段の癖で颯太を叱責する一花の声が同時に響いた。
すると颯太は一花をギロリと睨みつけ、腹を立ててコップに入った水を一花にぶちまけた。
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