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#64:記憶都市の密約

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-08-21 12:08:38

 メモリスのどこか。

 昼の喧騒から切り離されたような、薄暗い部屋だった。

 石造りの壁には窓がなく、天井から伸びる細い管が、低く一定の駆動音を立てている。机の上には大小いくつもの機械が並び、青白いモニターが、無機質な明滅を繰り返していた。

 その冷たい光の中に、二つの影がある。

 ひとりは、女。

 艶やかな衣をまとい、年齢を隠すどころか、それさえも武器に変えるような女だった。若さでは出せない毒を、微笑みの端に乗せている。

 もうひとりは、男。

 暗い青みを帯びた髪。細い眼鏡の奥から、機械の光にも揺らがぬ視線を向けている。手元の端末には、いくつもの文字列と図形が、絶え間なく流れていた。

「はぁ。メイ殿も、なかなか無茶を仰る」

 男は画面から目を離さずに言った。

 声は穏やかだった。けれど、そこに愛想はない。研磨した刃を布で包んだような、薄い丁寧さだけがそこにある。

「でも、あなたはこれを断れない。そうでしょう?」

 メイと呼ばれた女は、柔らかく笑った。

 機械の光が、その唇に青い艶を乗せる。甘い声だった。けれど部屋の空気は少しも温まらない。むしろ、その声が落ちた場所だけ、毒の膜が張ったように静まり返った。

「いかにも。──そちらの依頼を、私……いや、このメモリスが請け負う代わりに得る報酬は、いささか魅力的に過ぎる」

「ふふ、気に入っていただけて何よりだわ」

 メイは肩をすくめ、わずかに身体の角度を変えた。

 その瞬間、艶やかな衣の薄い布地が、たわわに実った双丘の谷間を強調するように、するりと滑り落ちる。

 重く柔らかく揺れる胸元の輪郭が、青白い機械の光に浮かび上がり、深い影を刻んだ。

 意図的な仕草だった。長年磨き上げられた凶器を、鞘から半分だけ抜き、獲物を誘うように──。

 男の視線が、一度そこへ落ちる。

 ほんの一拍。

 次の瞬間には、興味を失ったように、ふいと横へ逸らされていた。

「やれやれ。欲に己を乱される凡愚共と、私を同じ秤に乗せて頂きたくはありませんね」

「ふふっ、つれないこと」

 メイは咎めず、むしろ楽しげに笑った。

 誘いを撥ねられた女の険は、どこにもない。釣り糸を一本切られたところで、彼女の手にはまだ何十本もある──そういう余裕の笑い方だった。

「でも、それこそが私が『毒蝶』と呼ばれる所以なのだけど」

 毒蝶。

 それは彼女に与えられたコードネームだった。

 『檻』のメンバーには、皆、動物に由来する名が与えられている。

 美しさで近づき、甘い言葉で油断を誘い、権力ある者の懐へ滑り込む。男であれ女であれ、欲を抱える者であれば絡め取る。気づいた時には、すでに羽の鱗粉が、肺の奥まで入り込んでいる。

 罠に落とすのではない。

 罠だと分かっていても、触れたくなる形に整える。

 それが、メイという女のやり方だった。

「|檻《ケージ》……。世界を混沌に沈めんとする組織が、よもや私の元へ足を運ぶとは」

 男は、端末の表示を眺めたまま呟いた。

 青白いモニターの光が、眼鏡の硝子に薄く反射している。映る文字列は絶えず流れ、数式と地図、名簿らしきものが、冷たい水面のように明滅していた。

「あら? 知っていたの、私たちのこと」

 メイは意外そうに眉を上げた。

 声に驚きの色は薄い。むしろ、相手がどこまで知っているのかを愉しむような響きだった。

「貴女方の存在は、裏世界では名高い。それによって積み上がった被害もな」

「そんな、被害だなんて」

 メイは口元に手を添え、喉の奥でくすくすと笑った。

 罪を咎められた女の笑いではない。飾った菓子に毒を仕込んだ者が、その色艶を褒められた時のような、ねっとりとした愉悦が、そこにはあった。

「それでも、ちゃんと双方に利益はあるでしょう? 檻は、決して相手の期待を裏切らないわ。私たちの情報網と実行能力で、欲しいものを必ず手に入れさせる──」

 メイの指先が、机の上をゆっくりとなぞる。

 爪が金属の表面を叩き、こつ、こつ、と乾いた音を立てた。その音だけが、機械の駆動音に紛れて、小さく残る。

「ふん。本来、こちら側の利益など一時のもの。貴女方が後でどう回収するつもりかは、おおよそ察しがつく。──まあ、私は使い潰されてやるほど安くはありませんがね」

 男は鼻で笑った。

 端末に置いた指は止まらない。短い操作音が続き、画面に新たな情報がいくつも展開されていく。

「ふふ、それは楽しみ。ぜひ、足掻いてちょうだい。その方が、私たちも楽しいから」

 メイは微笑んだまま言った。

 甘く、柔らかく、残酷に。

 その笑みは、獲物を急いで喰らうものではない。逃げ道をわざと残し、相手が自ら深みへ踏み込むのを、悠然と待つ者のそれだった。

(女狐め。──しかし、檻、か。組織の目的はいまだ判然としないが、何かとんでもないものを企んでいるのは間違いない。あまり深くは噛みたくないものだ……)

 男の視線が、モニターの端へ滑った。

 そこには、いくつもの項目が並んでいる。

 得られる報酬。差し出すべき技術。必要となる人員。予測される損害。発覚時の危険度。そして、檻という組織を敵に回した場合の損失。

 数字と文字が、冷たく積み上がっていく。

 危険であろうと、釣り合いは取れていた。いや、釣り合いすぎている。並みの男ならば「罠だ」と呼んで席を立つ均衡だった。

 だが、男の唇には薄い笑みが残っている。

 己を凡人と同じ秤に乗せるつもりなど、最初からなかった。利用される側に立つなど論外。毒を差し出されたなら、その成分を解析し、瓶ごと奪えばいい。

 機械の光が、男の顔を下から照らした。

 青白い光の中で、その笑みだけが、奇妙に人間らしく歪んでいた。

「さて──取引の続きと参りましょうか」

 男は端末から手を離し、ゆっくりとメイへ向き直った。

 薄暗い部屋の中で、モニターの青白い光だけが二人の輪郭を削り出している。機械の駆動音は途切れず、低く、一定に鳴り続けていた。

「我々メモリスは、記憶操作に関する特異な技術。並びに、とある記憶を探し出す術を提供する。代わりに──」

「私が、これをあなたに授ける」

 メイは懐から、小さな容器を取り出した。

 細い首を持つ、フラスコのような硝子器。中に満たされているのは、緑色の液体。部屋の光を浴びたそれは、ただ反射しているのではなかった。液体そのものが、内側から淡く発光している。

 青白い機械の光の中で、その緑だけが、妙に生々しい。

 男の視線が、硝子器に吸い寄せられる。

 彼が手を伸ばした瞬間、メイはするりと腕を引いた。

「だーめっ」

 指先でフラスコを揺らしながら、メイは唇の端を上げた。

 甘い拒絶だった。けれど、そこに媚びはない。子どもをからかう姉のような、あっさりとした距離感が、不思議と艶を増している。

「まだ、こちらの所望するものを頂いていないでしょう? こういうのは、ちゃんと手にしてからでないとね」

「もとより承知の上。──ですが、それが本当に私の望むものかどうか、確かめさせて頂きたい」

「はぁ」

 メイの吐息が、少しだけ低く落ちた。

 甘さを塗った声の下から、冷えた刃が覗く。部屋の空気が、半歩だけ温度を失ったように静まった。

「用意周到なのは結構だけれど──私たちが、あなたの意に反するものを渡すとでも?」

「ふむ……そこは訂正しましょう」

 男は眼鏡の位置を指先で直した。

 その動きに、怯えはない。媚びもない。ただ、相手の機嫌を損ねた事実だけを、計算表に一行加えるような所作だった。

「確かに、|檻《ケージ》は望むものを必ずもたらす。それが──不老不死の薬といった、伝説級の代物でなければ、の話ですが」

「もしそんなものがあるなら、ぜひお目にかかりたいわね」

 メイはフラスコを光に透かした。

 緑の液体が、硝子の内側でゆっくりと揺れる。机の上に落ちた光が、歪んだ輪を描いた。

「ふふ。伝説などというものは、たいてい後の世で背びれ尾びれが付いてゆくもの」

 男の声が、少しずつ熱を帯びる。

 それまで均一だった言葉の端が、わずかに乱れた。端末の光が、眼鏡の奥の瞳を隠している。

「──ですが、私はそれを、この手で実現させてみせる」

 口元が吊り上がる。

「ふふ……ふふふ……はは……」

 低い笑いが、機械音の隙間へ滲んでいく。

 メイはその姿を見つめ、やがて呆れたように肩をすくめた。

「はぁ。これは、楽しい取引になりそうね」

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